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甜白檮之前

読み
あまかしのさき
ローマ字表記
Amakashinosaki
登場箇所
垂仁記・本牟智和気の御子
住所
奈良県高市郡明日香村大字豊浦字寺内626 地図を表示
緯度/経度
北緯 34°28'47.0"
東経 135°48'55.9"
説明
 垂仁記にて、曙立王によるうけいが行われた地。垂仁天皇の御子の本牟智和気は大人になっても言葉を話すことができなかったが、天皇の夢に神が現われ、「我が宮を天皇の御舎の如く修理すれば御子は必ず言葉を話すようになる」と告げた。このように夢の中で教えられたときに太占(ふとまに)で占った結果、御子が言葉を話せないのは出雲大神の祟りであることが判明し、天皇は本牟智和気を出雲大神の宮に参拝させることとした。それにあたり誰を本牟智和気に同行させるのかを占うこととなり、曙立王がこの地に存在していた「葉広熊白檮(はびろくまかし)」を用いてうけいを行った。
 関連する地名として、允恭記に、天皇は天下の氏姓を持つ人々の氏姓が乱れていることを愁い、玖訶甕(くかへ。盟神探湯(くかたち)を行うための釜とされる。盟神探湯は熱湯に手をくぐらせ、火傷をするかどうかで正邪を判断する神判のこと)を据えて氏姓を定めさせた地として「味白檮之言八十禍津日前(あまかしのことやそまがつひのさき)」が見える。
 「甜白檮(あまかし)」は「甘い実をつけるカシの木」(ブナ科の食用の実をつける「いちいがし」)であるといい、この「いちいがし」が丘に繁茂していたことに由来すると名とされる。また、現在の比定地である甘樫丘の北東側には南南東から流れる飛鳥川があり、丘の岬で地形に沿って流れが大きく湾曲する形となっていることから、流れの湾曲すなわち「曲瀬(まがせ)」がウマガセ・アマガシと転じた名称とする、地形に着目した説もある。「前」とは丘の崎、先端のことという。垂仁記・允恭記ともにうけいや盟神探湯の舞台となっていることから、占いや誓約と深く関わる地とする説もある。
 甜白檮之前は現在の甘樫丘(奈良県高市郡明日香村)の北東の先端部に比定される(北西の先端部とする説もある)。なお、現在「甘樫丘」と呼称されている丘陵について周知されたのは飛鳥保存が叫ばれた昭和40年代頃であり、それまでは地元で「豊浦山」と呼ばれていたとされるが、後述する甘樫坐神社の存在や発掘調査の結果と史料上の記述が一致することなどから、現在の甘樫丘が記紀に見られる「甜白檮」「味白檮」「甘樫丘」と同一であるとされ、国営飛鳥歴史公園の甘樫丘地区として指定されている。
 本項で地図上に示している場所は甘樫丘展望台である。展望台からは、藤原京跡や大和三山と呼ばれる耳成山・畝傍山・天香久山、遠くには生駒山・二上山・葛城山・金剛山系を一望することができる。
 甘樫丘の近隣には甘樫坐神社があり、毎年四月第一日曜日には「盟神探湯」の神事が行われる。延喜式神名帳、大和国高市郡に「甘樫坐神社四座」とある甘樫坐神社に比定される。允恭記の盟神探湯にて用いられた釜は、『弘仁私記』序の注(『釈日本紀』所引)に、大和国高市郡にあり弘仁の頃までは存在していたと伝えられる。また、この釜が存在した地が甘樫坐神社であるとする説もある。
URL
備考
大森志郎「くかだち・まがつひ・ことだま」(『東京女子大学論集』4-1、1953年12月)
谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第四巻 大和』(白水社、1985年4月)
西宮一民「「味白檮の言八十禍津日前」考」(『高岡市万葉歴史館紀要』8、1998年3月)
池田末則『地名伝承学論』(クレス出版, 2004年6月)
西郷信綱『古事記注釈 第七巻』(ちくま学芸文庫、筑摩書房、2006年2月、初出1989年9月)
相原嘉之「甘樫丘をめぐる遺跡の動態 ―甘樫丘遺跡群の評価をめぐって―」(『明日香村文化財調査研究紀要』15、2016年3月』)
稲田智宏「盟神探湯と禍津日神 ―神格の変容について―」(『神道宗教』256・257、2020年1月)

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