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波多臣

読み
はたのおみ
ローマ字表記
Hatanoomi
登場箇所
孝元記
他文献の登場箇所
紀   応神3年是歳条
    履中天皇即位前紀・大鷦鷯87年春正月条
    推古31年(623)是歳条
    大化2年(646)3月辛巳(19日)条
    天武天皇13年(684)11月戊申朔条
    持統3年(689)6月癸未(2日)条
    持統5年(691)8月辛亥(13日)条
続紀  文武4年(700)10月己未(15日)条
    大宝元年(701)6月壬子(11日)条
    大宝元年7月壬辰(21日)是日条
    大宝3年(703)9月庚戌(22日)条
    大宝3年10月癸未(25日)条
    慶雲元年(704)8月丙辰(3日)条
    慶雲2年(705)12月癸酉(27日)条
    神亀元年(724)2月壬子(22日)条
    天平6年(734)正月己卯(17日)条
    天平8年(736)正月辛丑(21日)条
    天平9年(737)9月己亥(28日)条
    天平18年(746)4月癸卯(22日)条
    天平18年9月己巳(20日)条
    天平勝宝6年(754)正月壬子(16日)条
    天平勝宝6年7月丙午(13日)条
    天平宝字元年(757)5月丁卯(20日)条
    天平宝字7年(763)正月壬子(7日)条
    天平宝字8年(764)10月庚午(7日)条(八田朝臣)
    宝亀8年(777)正月庚申(7日)条
後紀  弘仁3年(812)正月丙寅(7日)条
    弘仁6年(815)正月壬午(10日)条
    弘仁6年正月乙酉(13日)条
    天長9年(832)7月戊午条
続後紀 承和15年(848)正月戊辰(7日)条
    嘉祥2年(849)8月辛丑(20日)条
文実  嘉祥3年(850)5月己卯(2日)条
三実  貞観6年(864)8月8日壬戌条
    貞観11年(869)12月8日辛卯条
    元慶8年(884)2月23日甲寅条
    元慶8年3月9日庚午条
    元慶8年11月25日壬午条
    仁和元年(885)12月23日癸酉条
    仁和2年(886)正月8日戊子条
    仁和2年正月16日丙申
万   3・0314
姓   右京皇別上
始祖
波多八代宿禰
武内宿禰命(姓)
後裔氏族
波多朝臣
説明
 武内宿禰後裔氏族のひとつ。大和国高市郡波多郷を本拠地とする。波多は羽田・八多・八太とも書く。天武13年(684)に朝臣姓を賜った。『古事記』では、波多八代宿禰(武内宿禰の子)の後裔氏族として、その筆頭に掲げられている。羽田矢代宿禰(波多八代宿禰)の活躍は『日本書紀』に記され、応神天皇の時代に紀角宿禰・石川宿禰・木菟宿禰(いずれも武内宿禰の子)とともに百済へと派遣され、無礼を働いた辰斯王を叱責する役割を演じている。また娘の黒媛は仲皇子(仁徳天皇の皇子)が反乱を起こす原因となり、仲皇子は皇太子であった去来穂別尊(のちの履中天皇)に滅ぼされている。氏族としての初出は推古31年(623)是歳条で、新羅に派遣された副将軍のなかに、小徳(冠位十二階の第2位)波多臣広庭の名がみえる。また大化改新に際しては、氏人が東国国司として登用され、大化2年(646)には過失がなかった国司のひとりとして羽田臣(名は不明)があげられている。壬申の乱前後の波多臣の動向は不明だが、持統3年(689)には羽田朝臣斉(牟後閉)が撰善言司(教訓集を編纂する官司)に任じられている。このとき斉の位階は示されていないが、文武4年(700)には直広参(正五位相当)の位にあった。大宝律令が制定されると正五位上に叙され、周防総領・造薬師寺司という要職を歴任している。氏人の広足も大宝元年(701)に従五位下とあり、のちに遣新羅大使に任じられ、最終的に従五位上まで昇った。慶雲2年(705)に広麻呂が従五位下に叙されたのち、しばらく波多朝臣の叙爵者が途絶えるが、神亀元年(724)には僧麻呂が従五位下に叙されている。天平年間には安麻呂・古麻呂・孫足が外従五位下に叙されており、この時期には外階コースに移されていたらしい。その後、天平18年(746)に足人が叙爵されてからは内位コースに戻され、9世紀前半までに男足・百嶋・桑田麻呂・安嗣が従五位下に叙されている。なお貞観6年(864)・同11年(869)には八太屋代宿禰の後裔を称する岡屋公に八多朝臣が賜姓されており、そのため元慶8年(884)に叙爵された常永・清直、女官では仁和元年(885)に叙爵された清子は、この岡屋公の系統の波多朝臣である可能性が考えられる。
 波多臣は波多八代宿禰の後裔氏族のなかでは筆頭の地位にあり、持統5年(691)に『日本書紀』編纂に資すための墓記を進上した18氏族にも数えられているが、位階は斉の正五位上を最高位と、概して奈良時代以降の活動は低調であった。ただし天平5年(733)の「右京計帳」から、平城京内に多数の氏人が居住していたことが確認でき、かれらが下級官人として活動していたと考えられる。
参考文献
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