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坂本臣

読み
さかもとのおみ
ローマ字表記
Sakamotonoomi
登場箇所
孝元記 安康記・大日下王の殺害
他文献の登場箇所
紀   安康元年春2月戊辰朔条
    雄略14年夏四月甲午朔条
    欽明23年秋7月是月条
    崇峻天皇即位前紀・用明2年(587)秋7月条
    推古9年(601)3月戊子(5日)条
    推古10年(602)6月己酉(3日)条
    推古天皇18年(610)10月丁酉(9日)条
    皇極元年(642)2月戊申(22)日条
    天武元年(672)秋7月壬子(23日)条
    天武2年(673)夏5月癸丑(29日)条
    天武天皇13年(684)11月戊申朔条
続紀  文武元年(697)11月癸卯(11日)条
    慶雲2年(705)12月癸酉(27日)条
    霊亀元年(715)4月丙子(25日)条
    霊亀2年(716)4月壬申(27日)条
    神亀2年(725)閏正月丁未(22日)条(坂下朝臣)
    神亀5年(728)5月丙辰(21日)条
    天平元年(729)3月甲午(4日)条
    天平5年(733)3月辛亥(14日)条
    天平9年(737)正月丙申(22日)条
    天平9年4月戊午(14日)条
    天平勝宝5年(753)7月戊午(19日)条(毛野坂本君)
    天平宝字8年(764)正月乙巳(7日)条
    天平宝字8年10月壬申(9日)条
    神護景雲2年(768)2月癸卯(28日)条
    宝亀6年(775)正月庚戌(16日)条
    天応元年(781)6月戊子朔条
    延暦3年(784)正月己卯(7日)条
    延暦4年(785)7月壬戌(29日)条
後紀  延暦23年(804)10月丙午(5日)条
    延暦23年10月辛亥(10日)条
    大同元年(806)正月癸巳(28日)条
    弘仁5年(814)7月辛未(26日)条
    弘仁13年(822)正月己亥(7日)条
    弘仁14年(823)2月癸丑(28日)是日条
続後紀 承和3年(836)3月丙午(7日)条
    承和3年3月庚戌(11日)是日条
    承和7年(840)4月戊辰(23日)条
    承和8年(841)正月甲申(13日)条
三実  貞観2年(860)11月26日壬寅条
    貞観18年(876)11月25日戊戌条
    元慶5年(881)4月28日乙巳条
万   20・4327
姓   左亰皇別上
    摂津国皇別
    和泉国皇別
始祖
木角宿禰
後裔氏族
坂本朝臣
説明
 和泉国和泉郡坂本郷を本拠地とした氏族。天武13年(684)には朝臣姓を賜った。『古事記』では、木角宿禰(武内宿禰の子)の後裔氏族として、木臣・都怒臣とともに名があげられている。また安康天皇の時代には、「坂本臣らの祖」である根臣が登場する。安康天皇は大長谷王子(のちの雄略天皇)のために大日下王の妹を迎えようとし、大日下王のもとに根臣を派遣した。しかし根臣は礼物の玉縵欲しさに大日下王を讒言したので、王を怨んだ安康天皇によって殺されてしまう。この後日談は『日本書紀』にのみ描かれており、雄略14年に根使主(根臣)が呉人の饗応を任された際、装飾の玉縵を皇后(大日下王の妹)に見られたことで罪が発覚する。根使主は日根に逃げ込み稲城を築いて応戦するが、ついに官軍によって殺される。雄略天皇は根使主の子孫を二つに分け、一方を大草香部として皇后に与え、もう一方を茅渟県主の負嚢者(袋かつぎ)としたという。また小根使主(根使主の子)は天皇の城を誹謗して父の城を讃えたため、それを伝え聞いた天皇に殺されている。ただし奈良末~平安初期に成立したとされる『紀氏家牒』では、三韓(新羅・百済・任那)の王にならんとして「神聖」と称した紀大磐の子の建日宿禰が、清寧天皇の時代に坂本臣を賜ったと伝える。坂本臣を建日臣(建日宿禰)の後裔氏族とする伝承は『新撰姓氏録』にもみえるが、根臣と建日宿禰の関係性は不明である。
 同族関係とされる紀臣と同様に、令制以前の坂本臣は主として軍事・外交面で活躍した氏族であった。河辺瓊缶の妻だった甘美媛は、欽明23年に瓊缶が新羅征討軍の副将に任じられると、ともに朝鮮半島に渡っている。しかし瓊缶ともども新羅の捕虜となり、瓊缶が甘美媛を見捨てて命乞いをしたため、解放後の甘美媛は瓊缶を拒絶したという。また糠手は物部守屋の討伐軍に加わり、推古10年(602)には任那再興のため百済に派遣されている。推古18年(610)には「四大夫」のひとりとして任那使人を饗応しているが、ともに饗応役を務めた大伴咋・蘇我蝦夷・阿倍鳥子がいずれも有力豪族出身であることから、推古期における坂本臣や糠手の地位も推測されよう。ただし推古没後に発生した田村皇子(のちの舒明天皇)と山背大兄王との後継者争いのときや、改新政府下における坂本臣の動向は確認できない。壬申の乱では坂本臣財が大海人皇子(のちの天武天皇)側として従軍し、大伴吹負麾下の部隊を率いて高安城を占領したが、衛我河の西で壱伎韓国に敗れて紀大音の宿営まで退却している。財は天武2年(673)に大錦上で没し、「壬申年の労」によって小紫位を贈られた。
 天武13年に朝臣姓を賜って以降、坂本朝臣からの叙爵者としては宇頭麻佐・男足・縄麻呂・大足・佐太氣麻呂(佐多気麻呂)・宮継、女官では氏子などが確認できるが、いずれも五位を極位とした。文武元年(697)に迎新羅使として鹿田が筑紫に派遣されたことや、天平9年(737)に大野東人が陸奥国から出羽柵(のちの秋田城)までの直路の開削を上奏した際、副使として宇頭麻佐が派遣されて玉造柵を防衛していることは、坂本臣の令制以前の氏族的性格を引き継いだものだろう。また天武13年以降も、引き続き臣姓を称した氏人も多く、『新撰姓氏録』には「坂本臣」として立項されるほか、元慶5年(881)には下級官人として坂本臣押勝の名がみえる。天応元年(781)には和泉国和泉郡の坂本臣糸麻呂ら64人が朝臣姓を、承和3年(836)には讃岐国の籍帳に記載されていた左大史の坂本臣鷹野が和泉国の籍帳に移され、鷹野ら13人が朝臣姓を賜っている。のちに鷹野は従五位下に叙された。なお神護景雲2年(768)には讃岐国寒川郡の韓鉄師毘登毛人・韓鉄師部牛養ら127人が坂本臣を賜っており、讃岐国を本貫とした鷹野もこの集団と関係があるかもしれない。
参考文献
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