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雀部臣

読み
さざきべのおみ
ローマ字表記
Sazakibenoomi
登場箇所
孝霊記
他文献の登場箇所
紀   天武天皇13年(684)11月戊申朔条
    持統5年(691)8月辛亥(13日)条
続紀  天平勝宝3年(751)2月己卯(26日)条
    天平宝字4年(760)正月丙寅(4日)条
    天平宝字8年(764)10月庚午(7日)条
    天平宝字8年10月辛卯(28日)条
    宝亀2年(771)9月己亥(16日)条
    宝亀7年(776)4月丙子(19日)条
    延暦4年(785)正月癸卯(7日)条
後紀  延暦16年(797)2月癸酉(17日)条
    延暦18年(799)6月丁丑(4日)条
    弘仁14年(823)正月癸亥(7日)条
文実  斉衡元年(854)12月庚辰(29日)条
三実  貞観7年(865)8月11日己未条
    元慶3年(879)正月13日癸卯条
    元慶3年6月26日乙酉条
万   20・4393
姓   左亰皇別上
    摂津国皇別
始祖
許勢小柄宿禰
武内宿禰(姓)
後裔氏族
雀部朝臣/紀朝臣
説明
 武内宿禰後裔氏族のひとつ。天武13年(684)に朝臣姓を賜った。『古事記』では、許勢小柄宿禰(武内宿禰の子)の後裔氏族として、許勢臣・軽部臣とともにあげられている。神八井耳命(神武天皇の御子)の後裔氏族にも雀部臣がおり、意富臣ら18氏族と同族関係にあったとされるが、こちらは朝臣姓を賜っていない。ほかにも宿禰・連・造・君・直姓の雀部氏が確認できるが、いずれも武内宿禰の後裔を称する雀部臣(朝臣)とは別族とみてよい。雀部朝臣は持統5年(691)に「墓記」を提出した18氏族のひとつに数えられるが、氏人の具体的な活動がみえるのは8世紀中葉以降である。天平勝宝3年(751)に雀部朝臣真人が、『日本書紀』にみえる「巨勢男人大臣」は正しくは「雀部朝臣男人」であり、それが許勢朝臣の系図に竄入してしまったと訴えた。巨勢朝臣の氏上であった奈弖麻呂は真人の訴えが正しいことを認め、「巨勢大臣」は「雀部大臣」に改められたという。このとき真人は雀部朝臣の氏上であったと推測されるが、その官位は典膳(内膳司の次官)正六位下にすぎず、ほかの叙爵者も確認できないような状況であった。しかし真人の訴え以降は、道奥(陸奥)・広持・虫麻呂、女官では東女と続けて叙爵者を輩出しており、「雀部大臣」の存在が雀部朝臣の地位に影響を与えた可能性が考えられる。しかしそれは長くは続かなかったようで、平安時代以降の叙爵者としては、弘仁14年(824)の家継、元慶3年(879)の宜子が確認できる程度である。なお経緯は不明であるが、斉衡元年(854)に氏人の春枝が林朝臣並人とともに、同じ武内宿禰後裔氏族の紀朝臣に改姓している。
 『新撰姓氏録』には、応神天皇の時代に星河建彦宿禰(雀部臣の祖)が、ときに皇太子であった大鷦鷯尊(オホサザキノミコト、のちの仁徳天皇)に代わって御膳を管掌し、そのため大雀部の名を賜ったとの伝承を載せる。この伝承からは雀部の名の由来とともに、雀部朝臣が膳部に任じられる負名氏であったことが読み取れる。実際に、先述した真人は典膳の職にあり、また貞観7年(865)に内膳司内の死穢を隠匿して罰せられた祖道も典膳であったことから、少なくとも9世紀後半までは負名氏の実態をともなっていたようである。
参考文献
佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇第2(吉川弘文館、1982年3月)

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