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高向臣

読み
たかむくのおみ
ローマ字表記
Takamukunoomi
登場箇所
孝元記
他文献の登場箇所
紀   舒明天皇即位前紀・推古36年(628)9月条
    皇極2年(643)11月丙子朔条
    皇極4年(645)6月戊申(12日)条
    天武10年(681)12月癸巳(29日)条
    天武13年(684)夏4月辛未(20日)条
    天武13年11月戊申朔条
    天武14年(685)5月辛未(26日)条
続紀  大宝2年(702)5月丁亥(21日)条
    大宝3年(703)正月甲子(2日)条
    慶雲2年(705)4月辛未(22日)条
    慶雲4年(707)2月甲午(25日)条
    和銅元年(708)正月乙巳(11日)是日条
    和銅元年3月丙午(13日)条
    和銅元年閏8月丁酉(8日)条
    和銅2年(709)11月甲寅(2日)条
    和銅7年(714)正月甲子(5日)条
    霊亀2年(716)4月壬申(27日)条
    養老4年(720)正月甲子(11日)条
    養老4年10月戊子(9日)条
    神亀元年(724)2月壬子(22日)条
    天平5年(733)3月辛亥(14日)条
    天平宝字8年(764)10月庚午(7日)条
    天平神護2年(766)9月丙子(23日)条
    神護景雲2年(768)3月乙巳朔条
    宝亀元年(770)12月丙辰(28日)条
    宝亀6年(775)正月庚戌(16日)条
    宝亀6年9月甲辰(13日)条
後紀  弘仁14年(823)11月庚午(20日)条
三実  貞観元年(859)3月26日壬午条
    貞観元年8月16日己亥条
    貞観2年(860)11月27日癸卯条
    貞観8年(866)正月23日庚子是日条
    貞観9年(867)正月7日戊申条
    貞観9年正月12日癸丑条
    貞観12年(870)12月29日丙午条
    元慶元年(877)正月3日乙亥条
    元慶4年(880)10月19日己亥条
風   常陸国風土記・総記
    行方の郡
    香取の郡
    多珂の郡
    信太の郡(逸文)
姓   右亰皇別上
始祖
蘇我石河宿禰
猪子臣(姓)
後裔氏族
高向朝臣
説明
 武内宿禰後裔氏族のひとつ。河内国錦部郡高向を本拠地とする。天武13年(684)には朝臣姓を賜った。『古事記』では、蘇我石河宿禰(武内宿禰の子)の後裔氏族として、蘇我臣らとともに掲げられている。これに対して『新撰姓氏録』では、武内宿禰の六世孫である猪子臣が始祖とされている。猪子臣は他の史料にみえない人物であるが、武内宿禰の六世孫は蘇我蝦夷と同世代にあたり、高向臣が『日本書紀』に登場しはじめる時期とおよそ合致している。『日本書紀』に記載された最初の氏人は宇摩で、推古天皇が没したのち、後継大王に田村皇子(のちの舒明天皇)を推す群臣のひとりとして登場している。この出来事の直前に蘇我臣から分離した氏族として、朝廷内である程度の地位を得ていたものと考えられよう。次いで高向臣の活動がみえるのは皇極期で、蘇我入鹿が山背大兄王を滅ぼした際、入鹿は高向臣国押(国忍)にも派兵を命じたが、国押は天皇の宮を守ることを理由にそれを拒否した。また乙巳の変で入鹿が討たれると、国押は蘇我蝦夷のために抗戦しようとする漢直氏らを説得し、軍兵を解いて逃散している。これらの記述から、高向臣は同族として蘇我臣の軍事的機能の一端を担っていたが、国押は必ずしも蘇我臣に従属的な立場にはなかったことが推察される。これらの記事には国押を顕彰する意図がふくまれていると思われ、そのすべてを全面的に信用することは難しいが、国押は孝徳期に刑部尚書・大花上(正四位相当)の官位を得ており、少なくとも改新政府からその行動が評価されていたことは間違いないようである。『常陸国風土記』の伝承には、孝徳期に坂東八国を惣領した高向臣(高向大夫)なる人物がみえ、国押と同一人物である可能性が考えられる。国押の子である麻呂は、天武10年(681)に小錦下(従五位相当)に叙されると、同13年には遣新羅大使として渡航し、翌年に多くの献物を携えて帰朝した。その後しばらく麻呂の活動は史料上から確認できなくなるが、大宝2年(702)に至って参議となり、慶雲2年(705)には中納言に昇進、さらに慶雲4年(707)には従三位に叙されている。和銅元年(708)には摂津大夫に任じられたが、同年のうちに死去した。このような麻呂の活躍もあってか、奈良時代前期には色夫智・大足・人足などの叙爵者を輩出したが、天平5年(732)の諸足を最後に高向朝臣への叙爵はしばらく途絶え、天平宝字8年(764)に藤原仲麻呂の乱鎮圧の功績によって叙爵された家主まで待たねばならなかった。高向朝臣の氏族としての衰退をうかがうことができるが、それでも平安時代中期までは叙爵者を確認することができ、弘仁14年(823)には永継が、貞観元年(859)には公輔(桑田麻呂)が、延喜14年(914)には利春が従五位下に叙されている。このなかでも公輔は、若くして出家して才覚も申し分なかったが、惟仁親王の乳母と通じたことで還俗させられ、そこから官途に就いて従四位下まで達したという異色の人物であり、その逸話が『今昔物語集』に採録されている。
 なお「高向」を称する人物としてもっとも著名な、遣隋使・遣唐使となって改新政府にも参与した高向玄理は、渡来系氏族の高向漢人(のちに高向史)の出身であり、高向臣・朝臣とは別族である。
参考文献
日野昭「後裔氏族系譜の形成」(『日本古代氏族伝承の研究』永田文昌堂、1971年9月、初出1959年3月)
佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇、第2(吉川弘文館、1982年3月)

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