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ここに、八上やがみ比売ひめ八十神やそがみに答へて言ひしく、 汝等いましたちの言は聞かじ。大穴牟遅神おほあなむぢのかみはむ」といひき。 故尒しかして、八十神忿いかりて、大穴牟遅神を殺さむとし、 共にはかりて、伯岐国の手間てまの山本に至りて云ひしく、 あか此の山にり。 故、われ共に追ひくださば、なれ待ち取れ。 若し待ち取らずは、必ず汝を殺さむ」 と云ひて、火以ちて猪に似たる大石を焼きてまろばし落としき。 尒して、追ひ下すを取る時に、即ち其の石に焼きかえて死にき。 尒して、其の御祖命みおやのみことうれへてあめのぼり、神産巣日かむむすひ之命みことはしし時に、 乃ちきさがひ比売ひめ蛤貝うむがひ比売ひめとを遣はして、作りけしめき。 尒して、貝比売きさげ集めて、 蛤貝比売待ち承けて、 おもしるを塗りしかば、 麗はしき壮夫をとこになりて出で遊び行きき。 是に八十神見、また欺きて山に率入ゐいりて、 大樹おほきを切り伏せ、矢をめて其の木を打ち立て、 其の中に入らしむる即ち、其の氷目矢ひめやを打ち離ちてち殺しき。 尒して、また其の御祖みおやきつつ求むれば、見得る即ち、 其の木をきて取り出でけ、其の子に告げて言はく、 いまし此間ここに有らば、つひに八十神の為にほろぼさえむ」といひて、 乃ち木国きのくに大屋毗古おほやびこのかみ御所みもとに違へ遣りき。 尒して、八十神もぎ追ひいたりて、矢刺し乞ふ時に、 木の俣よりのがして云ひしく、 湏佐之すさのをのみことの坐す堅州かたすくにかふべし。 必ず其の大神はからむ」といひき。

○嫁 記伝「アハナ」、注釈・新編全集・新版・新校「アハム」、全書・全註釈・修訂・思想は「トツガム」と訓んでおり、「アフ」「トツグ」系に分かれる。『古事記』中「嫁」字は三例。他の二例は、垂仁記系譜中の「次阿耶美都比売命者[嫁稲瀬毗古王]」、雄略記赤猪子条の「汝不嫁夫」である。思想・類義字一覧では、「結婚について、女性の方を主として述べる。「処(陰部)継ぐ」の原義がある」と説明する。新編全集は、「トツグは古くは、性交する意(主格は男女を問わない)で、ふさわしくない」とし、注解において山口佳紀は平安初期の訓点資料から、「平安初期にはトツグに結婚の意が生じていたと考えられるが、古事記成立の頃に結婚の意が生じていたかどうか、不安である」とし、『古事記』の「嫁」は「アフ」で訓むのが無難であるとする。「アフ」と訓んだ場合、「婚」などとの差別化が図られなくなく可能性もあるが、特に女性を主体とする場合の用字として「嫁」字が用いられたと考え、「アフ」で訓むこととする。 ○伯岐国の手間の山本 「手間」は「伯耆國會見郡天萬郷」(和名抄)とみえる。鳥取県西伯郡南部町天万にあたる。出雲国との堺にあたる地。『出雲国風土記』意宇郡の「通道」に「国の東の堺なる手間の剗に通ふは、卅一里一百八十歩なり」と記す「手間の剗」は、島根県安来市伯太町安田関関山の地という。その近く、鳥取県西伯郡南部町にはこの神話の遺称地といわれる赤猪岩神社がある。 ○われ 記伝は下の「共」とあわせて「われども」と取るが、注解で神野志隆光は上代語としての「われども」の存在を否定し、「和礼」の仮名書きは、「吾」や「我」では表し得ない複数を表す表記であった可能性について述べている。「吾」「我」ではワレワレたるところを十分に示しえないと言うが、「吾(あれ)」「我(われ)」という区別が成り立ちうるならば、「和礼」と仮名表記する必然性はなくなる。 ○御祖命 この御祖命は、大穴牟遅神の母神にあたる刺国若比売を指すと理解されている。『古事記』中巻の「御祖」の用例を見ると、すべて女性であり、御子に対して母を示す場合に使われている。上巻の例では性別が明確ではない例(神産巣日御祖命・土之御祖神)があるが、明確に父神を指す例がないことからすれば、母神と見るのが妥当か。その場合、何故具体的神名ではなく「御祖」なのかが問題となるが、その点については以下の論を参照のこと。毛利正守「『古事記』における「御祖」と「祖」について」(『藝林』19―1、一九六八年二月)、尾恵美「『古事記』における「御祖」の語義」(『古事記年報』41、一九九九年一月)、谷口雅博「『出雲国風土記』の「御祖命」―仁多郡三津郷を中心に―」(『かぎろひ』二〇〇八年九月)、谷口雅博「『古事記』「祖」字の用法」(『國學院雜誌』112―11、二〇一一年一一月)、毛利正守「古事記における「御祖」の把握に向けて」(『古事記年報』55、二〇一三年一月)。
○神産巣日之命 この「命」は通常、神に対する尊称とみられているが、問題がある。神産巣日が登場する場合は、「神産巣日神」「神産巣日御祖命」とあって、他に尊称を記さない例はない。それゆえここの「命」も尊称とみられるわけだが、尊称の「神」や「命」の前に「之」が付く例は他には見えない。逆に、「~の言葉」を示す場合は「之」が付くゆえ、それに従えば「言葉」の意でとることになる。この場面は、大穴牟遅神の御祖命が神産巣日に懇願し、どうすれば良いのかその方法を聞くために昇天しており、「請」という行為を行っている。「請」は申し上げる意もあるので、その場合は神産巣日に対して申し上げる意になるので、「命」は言葉とはとれないが、「求める」意でとるならば、神産巣日の「言葉」を求めると理解することが出来る。同様の問題を持つ例に、「伊奢沙和気大神之命」(仲哀記)の例があるが、阪下圭八は「之命」の用法から「言葉」の意味であると説いている(阪下圭八「伊奢沙和気大神之命」『古事記の語り口―起源・命名・神話』笠間書院、二〇〇二年四月)。
貝比売 校異④⑦で触れたように、諸本には「 」「」などとあるが、それらは辞書類にみえない。記伝は、本文は「」のままとするが、この「」は、「蚶」(赤貝)を「カケるを誤れるものなり」とし、『和名抄』(元和古活字本等)に「蚶」の和名「木佐」とあることや、『延喜式』の出羽国の地名きさかたに「蚶方」の字があてられていること(巻二十八兵部省)などを挙げて、キサガヒと訓む。以後諸注釈では兼永本の字体そのままに「」とするものもあるが、西宮修訂の「」は「刮」に「虫」を加えて作字したものとする説を受けて、新編全集・新版・新校などは「」を採用している。ただ新版は「 」は「黒」の誤字かとして、黒貝=貽貝の可能性も説く。「刮」は『新撰字鏡』に「削也祢夫留又介豆旒又木佐久」(天治本)とあって削る意とキサグの読みがある。この貝の役割は、大穴牟遅神の復活の際、「石」に張り付いた体をキサグことであったようである。『出雲国風土記』島根郡加賀神埼条には神魂命の御子神として枳佐加比売命(支佐加比売命)の名が見える。佐太大神を生む女神である。
○蛤貝比売 ハマグリの古称はウムキ。従ってウムキカヒヒメという訓みもあり得るが、諸注釈は『出雲国風土記』島根郡法吉郷に、やはり神魂命の御子として宇武賀比売命が見えるところから、「ウムカヒヒメ」と訓むものが多い。しかし風土記の話は、この比売が法吉鳥と化して飛び渡り、この地に静まったと記すもので、「蛤貝」の意味は殆ど見られない。「貝」がそのものの属性を示すために付された文字であるとするならば、「ウムキヒメ」という訓みも考えられる。実際、新校はこれを「ウムキヒメ」と訓じ、あわせるように「貝比売」の方も「キサヒメ」と訓じている。注解・神野志は、ウムキを表す「蛤」字は「合」字を含み、大穴牟遅神のばらばらになった体を一つに合せるという役割にふさわしいゆえに「蛤」が選ばれたとし、ハマグリであることに特に意味はないとしている。
○きさげ集めて キサグは、こそげ取る意の動詞。従来、意味が通りづらいということで、諸々の解釈がなされていたが、注解・新編全集が、「石」に付着していた大穴牟遅神をこそげ取ると解するのが妥当か。 ○母の乳汁 従来、蛤の汁を母乳に見立ててそれを塗るものと理解され、古代における火傷の治療法として説明されてきたが、注解・神野志が益田勝実説(『古典を読む10古事記』岩波書店、一九八四年一月)の「蛤が母神の乳を塗って癒着させる」と説いたのを受け、「母」は文字通り母神である刺国若比売を指し、蛤貝比売がばらばらになった大穴牟遅神の体に母神の乳汁を塗って癒着させるのであると説いた。従うべきか。なお乳のもつ呪力については、三浦佑之『万葉人の「家族」誌』(講談社、一九九六年九月)、多田一臣「母の甜き乳をめぐって」『上代文学』109号(二〇一二年十一月)参照。【→補注八】 ○矢を茹めて 後文の「氷目矢」とあわせて、「茹矢」も「ヒメヤ」と訓むものが多いが、直後の仮名表記を前文に反映させる意図が不明であるので、ここは記伝などと同じく「矢を茹めて」と訓む。
○其の木を打ち立て 「其の木に打ち立て」と訓むテキストが多いが、「茹める」と「打ち立てる」が重複すること、大穴牟遅神を欺すためには木を倒したままでは意味をなさないことを指摘する注釈に従う。新校も「木を打ち立て」とする。
○氷目矢 木を割る時に割れ目にはさむ、くさびのような道具。「其の氷目矢」とあるので、「茹矢」と同じものを指していると見られることから、「茹矢」が「ヒメヤ」と訓まれることにもなるが、注解が説くように、「矢を茹」めた状態のものが「ヒメヤ」と呼ばれるものであるということであろう。【→補注九】 【→補注十】 ○木国 木国から根の堅州国へ行き、後に出雲国に通じるヨモツヒラサカを通って戻るという展開となる。木国から出雲へという繋がりは、垂仁記のホムチワケの出雲行きの際にも見られる。【→補注十一】  ここで木国が舞台となることについて、注釈は以下のように述べる。
 「ここになぜ突如「木国」が出てくるかといえば、それは「大樹を切り伏せ」「其の木を打ち立て」「其の木を拆きて」等、もっぱら「木」というのがこの話の種になっているからである。(中略)だが「木(紀)国」はたんに木の国であっただけでなく、その「キ」はオクツキ(墓)、アラキ(殯)の「キ」(乙類)とも重なっていたらしいのである。(中略)少くともオホナムヂが「木国の大屋毘古神」のもとに逃れたのは、そこが地下の根の国にゆく入り口の一つにあたると見なされていたことを暗示する。」
○大屋毗古神 伊耶那岐と伊耶那美の神生みにおいて六番目に誕生する神にこの名が見えるが、木国との関連を示す記述はなく、同神説と別神説とがある。「屋」は家屋を意味すると考えられており、これを木国の神とするのは、家屋を木で造ることによる連想かとする(集成「神名の釈義など」)が、同じく神生みでは木の神として久々能智神が生まれているので、木神ではなく家屋の神をここに登場させたことに意図があるのかどうか、問題となる。『日本書紀』神代上八段一書五には素戔嗚尊の子、五十猛命が記され、その妹として大屋津姫命の名が挙げられている。『先代旧事本紀』(巻四)ではこの五十猛命は、亦大屋彦神であるとの注記を付している。紀八段一書の記事では素戔嗚尊とその子神は樹木生産の神として位置付けられ、また素戔嗚尊はその子神を紀伊国に渡したと伝えているところからすると、木国と大屋毗古神とが繋がることになる。しかし『古事記』には特に説明がないので、やはり木国との関係は不明といわざるを得ない(谷口雅博「木国の大屋毗古神」『古代文学』48 号、二〇〇九年三月参照)。
○漏け逃して云ひしく 校異で記した通り、「云」を「去」とする写本がある。宣長は「去」を採り、「木の俣より漏き逃れて去りたまひき」と訓み、主語を大穴牟遅神とする。しかしこれでは次の会話文と繋がらない。それゆえ宣長は「去」の後に「御祖命告子云」の六字を補って会話主を明示する形をとっている。この六字は『先代旧事本紀』によって補ったものであり、採用は認めがたい。校異でも述べたように、ここは真福寺本に従って「云」と採るべきであろう。本文や解釈に揺れが生じるのは、発話者が明記されていない点と、直後の文にこの発話をさして「詔命」と表現している点とによる。文脈上、発話者は大屋毗古神とみるのが自然だが、その場合「詔命」の発話者としては相応しくないという問題がおこる。しかし例え「御祖命」を発話者としたとしてもやはり「詔命」の発話者には適さない。大穴牟遅神の復活は神産巣日命の援助によるという展開、及び神産巣日命自体が「御祖」と呼ばれる神である点などから考えて、この発話には神産巣日命の意志を表明する意識が込められていると見るべきか(谷口雅博「大穴牟遅神への「詔命」」『古事記の表現と文脈』おうふう、二〇〇八年一一月参照)。 ○湏佐之男命の坐せる根の堅州国 「根の堅州国」については、古事記注釈(二十七)根之堅州国①を参照のこと。

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貝と蛤貝および母の乳汁について―薬としての性格を中心に―

 大穴牟遅神が素兎を助けた際に用いた「蒲黄」が本草書にみえる生薬の名であることは縷々指摘されてきた通りである。そして、大穴牟遅神の蘇生神話においても同様に薬・医療との関わりが言及されてきた。
 同神話は長らく本居宣長の解釈にしたがって、赤貝の女神が貝殻を削り取って蛤の女神が蛤の汁でそれを溶き、母乳状のものにして大穴牟遅神に塗り、かの神を復活させたと理解され、それらの行為は近年に至るまで「火傷に対する古代の民間療法」と説かれてきた(1)。
 火傷に対する古代の民間療法と長く説かれてきた当該条の蘇生行為は、注釈において実例が挙がることはほぼなく、無批判に継承されてきた。この説において治癒の料とされる「赤貝(貝)」は、瓦壟子・魁蛤の名で『本草綱目』(十六世紀末頃成立・伝来)に、瓦楞子の名で『本草備要』(十七世紀末頃成立)に掲載される。しかし『古事記』撰録以前の現存する本草書は、管見の限りそれと思しき記述を持たない。また貝の粉を火傷の治療に用いる例についても、大鳥壽子の調査によれば十六世紀(明代)まで降るという(2)。
 一方の蛤貝は、西郷信綱が「『和漢三才図会』に海蛤ウムキノカヒは欬通、喘息、水腫、消渇、五痔を治むとあり、典薬式の諸国進年料の雑薬にも海蛤の名が見える」と指摘するように(『古事記注釈』三、ちくま学芸文庫版、二〇〇五年八月)、「海蛤」(『和名類聚抄』に「宇無木乃加比」の和訓あり)の名で早くから生薬として知られたものである。後漢頃の成立といわれ、梁の陶弘景の手によって整えられた『神農本草経』には「海蛤。一名魁蛤。味苦平。生池澤。治欬逆上氣。喘息煩滿。蹴痛寒熱。」と記されており、蛤貝(海蛤)が薬用のものと解されていた点は指摘できよう(3)。ただしその薬効に火傷や外傷との関わりはなく、『神農本草経』に「止血消瘀血。久服輕身。氣力。延年神仙。」とある「蒲黄」と較べ合わせれば、本草書に基づく薬効を期待して当該条に「蛤貝」が求められたとは考え難い。
 以上のことから、「貝」や「蛤貝」がその薬効によって当該条に求められた蓋然性は高くないと言えよう。『出雲国風土記』嶋根郡条で神魂命の御子神として記述される「支佐加比売」と「宇牟賀比売」にその所縁を求めるのが穏当であり、『古事記』にあっては、貝比売が大穴牟遅神の遺骸を大石からこそげ取り(キサグ)、蛤貝比売がそれを受け取って、母の乳汁を塗って元通りにしたという、出雲路修らの見解が当面支持される。
 貝や蛤貝の女神について医療的側面からその登場が求められたと考えることは、本草書類の記載状況と『古事記』の時代性とを勘案して蓋然性が高くない。また、貝殻を用いての火傷治療も文献的には十六世紀頃までしか遡ることができず、従来説かれてきた「民間療法」説も従うべき根拠は薄いものと考える。
 それでは、「母の乳汁」はどうか。「乳汁」については、及川智早に詳論がある(4)。及川は『日本霊異記』中巻第二縁で死に瀕した子供の「飲母乳者、応延我命」という発話を取り上げ、「『母の乳汁』が生命力を強めるもの、生命力の溢れているものと観じられていたことが窺える」と述べる。その他にも『今昔物語集』巻十二(本朝部)の第三十三話を挙げて、夢の中での出来事とは断りながらも、哺乳によって四歳の子供が三十歳ばかりの僧の姿に急成長したという説話に「乳」の力能を見ているが、これらは薬効というよりは乳汁のもつ生命力に焦点があてられた話と見るべきだろう。ここで注目したいのは『今昔物語集』巻四(天竺部)に収載される、「乳」を薬とする話である。
 「天竺国王、服乳成瞋擬殺耆婆語 第三十一」と題する説話では、眠ってばかりいる王の病を治癒するために、医師が「速ニ乳ヲ令服ぶくせし可給たまふべキ也」と言い、乳を服すことによって王の病は癒えたとされる。天竺を舞台とし、かつ『古事記』よりもはるかに成立が降る『今昔物語集』の説話ではあるが、同説話の原経成立時期を踏まえれば、乳を薬とする考え方自体は本草書の成立とは別に、かなり早い段階から存在していたことが知られる(5)。
 「乳汁」は『神農本草経』に確認できないが、早い段階のものとしては『新修本草』巻十五・獣禽部に次の記述をもつ。
  人乳汁 補五藏、令人肥白悦澤。
 〈 張倉服人乳、故年百餘歳、肥白如瓠。  謹案、別錄云、人首生男乳、療目赤痛・涙、解獨肝牛肉。合豉濃汁服之、神效。□□和雀尿、去目赤怒肉。〉
 『新修本草』は唐の顕慶四(六五九)年成立とされる勅撰本草書で、成立自体は『古事記』に先行する。真柳誠によれば、「杏雨書屋所蔵の旧仁和寺本『新修』巻一五に、『天平三年(七三一)歳次辛未七月十七日書生田辺史』の奥書がある」といい、伝来時期はこれを下限とするが、はっきりしていない(6)。医疾令に「医生は、甲乙、脈経、本草習へ」とある本草は、『続日本紀』によれば延暦六(七八七)年五月に典薬寮の用いる本草書が『新修本草』に替えられ、その際に「新修本草は、陶隠居が集注の本草と相検ぶるに、一百餘条を増せり」と奏上されていることから、『神農本草経(神農本草経集注)』と考えるのが穏当だろう。
 『古事記』成立以前に『新修本草』が伝来していた保証はなく、『古事記』の当該説話に「乳汁」の薬効を無批判に反映することはできない。しかし、曇無讖訳および慧嚴訳の『大般涅槃経』に、涅槃経が最上の経典であることをあらわした譬として「譬如從牛出乳 從乳出酪 從酪出生蘇 從生蘇出熟蘇 從熟蘇出醍醐 醍醐最上 若有服者 衆病皆除 所有諸藥」とあることによれば、乳(涅槃経の場合は牛の乳であるが)を薬とする考え自体は、『新修本草』伝来以前の我が国においても想定してよいかもしれない(7)。
 『新修本草』の記述に話を戻すと、乳汁は五臓を活性化させ、人を白くふくよかにさせるものだという。その例として挙がる張倉は『史記』にみえる張丞相(張蒼)のことであり、『史記』張丞相列伝第三十六の冒頭には確かに「身長大肥白如瓠」と、張蒼が身体長大にして肥えて色白であり、瓢箪のようであったと記される。しかし、『史記』によれば張蒼が乳を飲むようになったのは老年に歯が無くなってからであり(「蒼之免相後、老口中無齒、食乳。女子爲乳母。」)、これによれば「故年百餘歳」はともかく、「故……肥白如瓠」という接続は適当でない。張蒼にことよせた説明の是非は措くとしても、「補五藏、令人肥白悦澤」と信ぜられたその効能については、そのまま受け取ってもよいだろう。すなわち、乳汁の薬効は五臓の働きを活性化し、人を白くふくよかにするものと考えられるのである(8)。
 以上、貝と蛤貝および乳汁について、特に薬という観点から述べてきたが、こと「乳汁(乳)」に関しては、古くから説かれてきた生命力への信仰とは別に、その薬効を踏まえて考えてみてもよいのかもしれない。考察の行き届かない点や調査不足も多々あるが、一案として提示したい。

  註
(1)出雲路修(「「よみがへり」考―日本霊異記説話の世界―」『国語国文』49―12、一九八〇年十二月)や益田勝実(『古事記 古典を読む』岩波書店、一九八四年一月)、神野志隆光(「キサカヒヒメとウムカヒヒメ」『日本文学』34―5、一九八五年五月)などにより、現在では当該条のよみが、貝の女神が大石にこびりついた大穴牟遅神の肉体をこそげ落し、それを蛤の女神が待ち受けて母神(刺国若比売)の乳汁を塗り蘇生させた、と更新されている。
(2)大鳥論文では『大同類聚方』(八〇八年編纂)に火傷の治療法として「支差加比 一味於毛練合返之神方也」という記述があり、これが出雲国造家に伝わるものだという(大鳥壽子「『古事記』の大穴牟遅蘇生譚をめぐって―貝を使った火傷の治療―」『帝塚山学院大学日本文学研究』三四、二〇〇三年二月)。大鳥は現存の『大同類聚方』が偽書であるという先行説に触れつつも、同書のすべてが偽書ではないとし、右の記事が八〇八年の成立段階に書かれていた部分であった可能性を示唆する。ただし、偽書でなくとも『大同類聚方』の成立自体が『古事記』よりも遅いこと、この例を除くと貝粉を火傷治療に用いる例は明代・江戸中期まで降り、『大同類聚方』の例が突出して早すぎること、またそれ以降江戸期までの本草書類に同様の例が見えないことなどを勘案すると、『大同類聚方』の記述が『古事記』を基にした可能性が高いのではないかと考えられる。
(3)『神農本草経』(大塚敬節・矢数道明編『近世漢方医学書集成53 森立之』名著出版、一九八一年四月)。なお、本解説で引用した『神農本草経』は森立之による校訂本であり、また本草書の性質上、必ずしも成立当時のものと同一ではないことを付言しておく。
(4)及川智早「古事記上巻に載る大穴牟遅神蘇生譚について―「乳」の力能―」(『国文学研究』九七、一九八九年三月)。
(5)同説話の原経とされる『奈女耆婆経』(後漢・安世高訳)では「醍醐治毒」とされており、元来は人の乳汁ではなく、牛乳の加工物であった。新日本古典文学大系本はそれを踏まえてか、本文の「乳」を牛乳とする。なお、新日本古典文学大系本は原経と本説話との間に、仲介となった国書の存在を想定する。
(6)真柳誠「目でみる漢方史料館(95)国宝、『新修本草』仁和寺本」(『漢方の臨床』四三巻四号、一九九六年四月。http://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper04/shiryoukan/me095.html、二〇一八年一月五日参照)。
(7)なお、『古事記』と『大般涅槃経』との関係性については、大脇由紀子に論がある(「「凶醜」の女神―『古事記』と涅槃経との関わりを考える―」『中京国文学』三〇、二〇一一年三月)。
(8)「身長大肥白如瓠」であるという張蒼を、「時王陵見而怪其美士」と『史記』は記す。大きく肥えて色白であることが、美男子(美士)と評されたのだ。これを即座に大穴牟遅神を「麗しき壮夫」と表現した『古事記』の記述に結びつけることはできないが、参考までに紹介しておく。
〔小野諒巳 日本上代文学〕

氷目矢についての国学者の解釈

 寛永版本では「水自矢」に作るが、度会延佳の『鼈頭古事記』では、おそらくは真福寺本に拠り、「氷目矢」に改めている。荷田春満の古事記講読の記録である、享保十四年成立の荷田信章筆『古事記箚記』においては、「水自二字モ一本作氷目二字コレニ随フトキハ打離テ其氷目矢ヒメヤヲトヨムヘシヒメヤト云ハ矢別ニアリトミユル也然レトモコノ所難一決トナリ」と、別の矢(秘めた矢という意味か)という解釈が示されている。別本の古事記講読の記録である、春満の弟、信名の筆写による『古事記抜粋』(東丸神社蔵、成立年不詳)では、「氷目矢ハ大矢ニ対テ云語カ小矢ト見エタリ万葉集十六巻乞食ノ歌ニ比米加夫良八多婆左弥トアルモ小矢ノ義ト見エタリ高垣ヒメカキノ語モアリ但シ鏑矢ノコトカ延喜式大神宮式ニ姫靭箭四百八十双トアリ」と、大矢に対する小矢であると、『古事記箚記』と異なる説が、典拠を引きながら詳細に論じられている。
 しかし、いずれに解釈を採るにせよ、この前後の箇所の全体的な文意をくみとることは困難である。賀茂真淵は版本・延佳本いずれとも異なり、さらには春満の古事記講読説をも採用せずに、正しくは「木自矢」であったと独自の理解を示し(多和文庫蔵、賀茂真淵書入本古事記)、「その木を矢より打ち離して」と訓じたため「ヒメヤ」についての解釈は見られない。なお、國學院大學図書館所蔵武田祐吉博士旧蔵の春満訓書入れ古事記においては、寛永版本の「水自矢」の箇所の頭注に「水当作木/水自一本作氷目二字」とあり、真淵の解釈は春満の訓読を引き継いでいたことが判明する。
 宣長は『古事記伝』において、「氷目矢」を採用して、「木にうち立て割りかけて挟み置く矢の名」であり、「氷目」はひび割れを意味する「樋目ひめ」の意とする。また別に、「氷」は「羽」の誤写で「羽目はめ矢」、すなわち木にうち嵌めた、矢もしくは「かすがい」の意かともした。
〔松本久史 近世・近代の神道史、国学研究〕

死と再生の神話―八十神による大穴牟遅神の殺害と、その甦り

 大国主神の神話に「死と再生」の観念は繰り返し現れる。二度にわたる大穴牟遅神の被殺と復活に加え、根之堅州国における須佐之男命の試練の物語も、単に蛇・蜈蚣・蜂の室に籠もることや火攻めで脅かされることだけでなく、他界(冥界)への往還を物語る点において、全体が一時的な死とそこからの再生という構図を有する。本項では、まずは八十神による同神の二度にわたる殺害と復活、「死と再生」の背景について、先行説でどのように論じられてきたか見ておきたい。
 夙に高木敏雄は、大国主神の殺害・蘇生譚と類似の伝承が世界各地に見られると述べて、特に『カレワラ』と対照しているが、類似点の指摘に留まっていた〔高木一九〇四〕。「死と再生」の背景にまで踏み込んだ考察としては、まず、大国主神を国土神であると同時に穀物神・植物神でもあると捉え、殺害と復活の理由をその神格に求める中島悦次の説が注目されよう〔中島一九三〇〕。穀物神崇拝にしばしば殺害と復活の神話・儀礼が伴うことは、既にフレイザーが『金枝篇』において、古代ギリシア、エジプト、西アジアにおけるアドニス、アッティス、タンムズ等の穀物神の殺害と再生にまつわる伝説・儀礼について多数の事例を引いて論じている。中島もまた、エジプト・ギリシアの神話から、オシリスやアドニスのような穀物神の被殺(あるいはペルセフォネーのような冥界への拉致)と、そこからの再生(帰還)の例を引きつつ、大宜津比売、保食神神話、そして大国主神神話との共通性を指摘する〔中島一九四二〕。さらに後年、吉田敦彦は、ユーラシア西端部の神話の日本への伝播・影響を議論する中で、大国主神神話についてアドニス神話およびその影響下にある西アジアの諸神話と多くの類似点を有することを指摘し、これを「究極的には西アジアのアドニス神話に淵源する猪に殺害される豊穣神の神話の、歴史伝説に変形された一異伝」と見なした〔吉田一九七九、一四四頁〕。これも、大国主神の穀物神としての神格に「死と再生」の反復の淵源を求める見方に含めることができよう。
 一方、当該神話を成年式儀礼や巫祝団体の加入礼の説話化とする理解のもと「死と再生」モチーフの頻出を説明する立場もあり、今日有力となっている。中山太郎『日本若者史』は、海外諸民族の成年式と通底する思想・習俗が日本にも存在したことを、島根県八嶋郡美保神社の一年神主の就任儀礼や、託宣時の湯立の儀式、若者連における年長者への徹底した絶対服従の風習、愛知県北設楽郡豊根村の「花祭り」等様々な事例を挙げて指摘し、大国主神神話における被殺および試練も「若者に忍行と苦行とを強ひ、一面には長幼の道を覚らしめ、一面には志操の健固ならしめるやう教へた、若者に対する訓練の土俗が、かく神話に反映したのではあるまいか」と説く〔中山一九三〇、一二六―一二七頁〕。ここでは、若者に「忍行と苦行」を強いる行為はあくまで「若者に対する訓練の土俗」とされ、大国主神話における殺害・試練もその文脈で把握されている。しかし、成年式・加入式の儀礼における苦行や試練は単なる心身の鍛練ではなく、苦痛を伴う儀式の実修を経て従前の自身の在りように終止符を打ち、新たな存在へ生まれ変わる点にその核心的意義を有する。たとえばV.ヘネップはこの分野の古典的著作『通過儀礼』において、出生、幼年期、社会的成熟期、婚約、結婚、妊娠、出産、父親になること、宗教集団への加入礼および葬儀などの儀式において「分離」「過渡期」「統合」の三段階が共通型として観察されることを論じている。所属集団からの分離は言わば擬似的な死の経験であり、過渡期における様々な試練、苦行、時には身体的毀損を伴う儀式の実修等を経て、新たな集団や階級の一員として統合されることは復活・再生に相当すると言える。また、レヴィ・ブリュルも『未開社会の思惟』で成人式や巫祝集団の加入式を取り上げ、入信者がほとんど拷問に等しい苦行を経て心神喪失など擬似的な死を経験し、「新たな魂」を得て復活するパターンが見られることを論じている。
 通過儀礼とそこに見られる「死と再生」の観念に関しては、民族学・人類学・宗教学における研究成果が多数蓄積されているが、それらを援用しつつ、我が国においても大国主神神話を成年式・加入礼の説話化とみる視点から分析する試みがなされている。特に松村武雄と松前健は、海外神話との比較も多く交えつつ、八十神の殺害行為の背景に具体的な習俗の存在や、儀礼の実修をも想定する議論を展開している。
 松村武雄は成年式儀礼の構成要素として、(Ⅰ)入信すべき者の幽冥の別世界入り、(Ⅱ)入信すべき者の試錬的・浄化的な苦行、(Ⅲ)入信すべき者の儀礼的な死、(Ⅳ)入信すべき者の儀礼的な復活、(Ⅴ)入信者の新しい人格的内容の獲得の一表示としての新しい名の獲得、を挙げるが〔松村一九五五、三二八頁〕、八十神による二度の大穴牟遅神殺害も「単なる説話的想案・文藝上の詩的抑揚技巧ではなくて、成年式儀礼に於ける実修の一としての、若者の死と復活とに係はつてゐる」とする。焼石を抱かせて殺害する神話については、兄弟を転石で殺害したり、巨人を欺いて焼け石を呑ませて殺害したりする類似の伝承が台湾にあることを紹介し、それらが「死人の霊が石に憑りついて、やがてまた生き還るといふ信仰から、死人を大きな石に結びつけて葬る習俗」を母胎としており、古代日本にも類似した民俗的背景があったのではないかと示唆する。また、木の俣に挟んで殺害する神話についても、古代ギリシアのフリギヤ、イストモス地方において実修されていた、屍体を松の樹の俣に懸ける呪術宗教的儀礼を紹介し、これを「死霊のために、その還り憑くべきところを与へて、それによつて死人を活き還らせるためであつた」として、類似の儀礼に根ざすのではないかとしている〔同、三一九―三二四頁〕。
 松前健は、大国主神が、医療・禁厭の呪法を広め、兎を癒し、蘇生の呪具生大刀・生弓矢や託宣の具天詔琴を所持するなど「呪医的・巫祝的性格」を有するとして「彼はそうした巫祝団体のいわば神話的創設者なのであろう」、「八十神は、そうした団体の入団候補者に、試煉と苦行とを課する年長者ないし長老達の神話的投影である」〔松前一九七〇、二五四頁〕と論じた。加えて「母神とその御子神を奉ずる、祭司団体ないし巫医団体があったが、大昔に猪のために殺され、のち復活したと伝えられる、若き御子神の原古の行為を再現して、これに入門する若者達は、「死と蘇生の儀」を演じたのであろう。実際には赤熱した猪形の石などで焼印を入れるとか、割れ木の間をくぐらせて、象徴的に俗界からの離脱を図るとかのような儀礼が行われたのであろうが、これが説話的に誇大化されて、八十神の迫害譚となったのではあるまいか」〔同二五八頁〕と、その形成過程を推定してもいる。
 ただし、これらの説話の背景に実在の民俗的実修を想定できるかどうかについては懐疑的な論者もある。廣畑輔雄は、中国神話において元来自然神・土地神としての基本的性質を有し、後代君主・文化英雄の性格をも持つに到った「社稷の神」の観念が大国主神神話の形成に影響を与えたと説き、その立場から、八十神や須佐之男命による試練譚は必ずしも「実修として日本において行なわれていたものだけでなくても、よいことになるはずである」と論じた〔廣畑一九七七、四四四―四四五頁〕。成年式・加入礼の観念と儀礼自体は世界各地に普遍的に見られるものであり、当該神話の成立する素地にこれらを想定すること自体は必ずしも不当なことではなかろうが、そこに直ちに具体的な特定の習俗や成年式儀礼の反映を考えることについては、確かに慎重であるべきだろう。
 以上、八十神による殺害とそこからの復活に範囲を絞り、これに関する所説として主要なものを通覧した。根之堅州国における試練譚について検討される後段において、この二度にわたる受難の意味は改めて想起されることとなろうが、最後にその点に関して若干の指摘を行っておきたい。
 当初、袋担ぎの従者として最後尾をついて行く大穴牟遅神は、八十神に対して明確に劣位におかれた存在として登場する(より強く言えば八十神の数に入れられない存在としての描かれ方であり、本来八上比売に求婚する資格すら認められていないと捉えることができる)。その大穴牟遅神が、巫医的資質を発揮したことを契機として素菟(菟神)に予祝され、その言葉通り八上比売に選ばれる。八十神からすれば容認し難いその「番狂わせ」が、彼等の憎悪と暴力を引き出すという流れで『古事記』のストーリーは展開されている。その限りでは、この受難と甦りを必ずしも「試練」と解する必然性はないようにも見える。とはいえ、殺された大穴牟遅神が母神と女神達の援助を得て「麗壮夫」として甦ったと語られるところに、この神の存在様態の変容が読み取れ、そこに成年式儀礼の痕跡あるいは余韻を聞き取ることは可能であろう。この「壮夫」という言葉は、この直後に赴いた根之堅州国で出会った須勢理毘売が父神に告げた言葉「甚神来」と響き合う。二度にわたる「死と再生」は、従僕としてものの数に入れられなかった大穴牟遅神が、女神に認められ、婚姻の対象として選ばれる資格をもった「をとこ」へと変容する成長をもたらした出来事であると同時に、その後に待ち受ける、葦原中国の担い手(大国主神・顕国玉神)として承認を得るための新たな試練を準備する出来事としても位置づけられていることが見て取れる。また、蘇生の過程では、高天原の神産巣日神が、援助者たる貝の女神を遣わすことで、大穴牟遅神を背後から支援する神として示現する。同神は後に大国主神がともに国作りを進める少名毘古那神の御祖神として再登場することになるが、その伏線としての意義も担っていよう。
 八十神による殺害と蘇生とは、素材的には、確かに成年式儀礼における擬死再生の観念を説話的に反映していよう。その一方で『古事記』は、この説話を自らのストーリーの中に位置づけるに際して、単なる一エピソードとして挿入するだけでなく、大穴牟遅神から大国主神へと向かうこの神の成長過程全体の中で、ある段階を担い、また後の段階を準備する一つの階梯としての役割を担わせることを忘れていない。

 参考文献
・高木敏雄『比較神話学』博文館、一九〇四年
・松前健『日本神話の形成』塙書房、一九七〇年
・松村武雄『日本神話の研究』第三巻、培風館、一九五五年
・中島悦次『古事記評釈』山海堂、一九三〇年
・中島悦次『神話と神話学』大東出版社、一九四二年
・中山太郎『日本若者史』春陽堂、一九三〇年
・廣畑輔雄『記紀神話の研究―その成立における中国思想の役割―』風間書房、一九七七年
・吉田敦彦『ヤマトタケルと大国主』みすず書房、一九七九年
・J・G・フレイザー著、永橋卓介訳『金枝篇』第三巻、岩波文庫、一九五一年
・V・ヘネップ著、綾部恒雄・綾部裕子訳『通過儀礼』弘文堂、一九七七年
・レヴィ・ブリュル著、山田吉彦訳『未開社会の思惟』下巻、岩波文庫、一九五三年
〔小濱歩 神道古典・日本古代思想〕

出雲と紀伊との関係

 出雲と紀伊との繋がりについては、近年進展した玉作りに関する考古学研究から一つの可能性を指摘できる。
 出雲では古墳時代の前期後半(四世紀後半頃)、花仙山の山麓で碧玉・水晶・瑪瑙の石材を使用して古墳時代中期(五世紀)につながる玉生産が本格化し、島根県東部周辺でも玉生産遺跡が確認されている。この時期の玉生産には、新たな技術導入が指摘されており、その一つに和歌山・徳島県で産出する結晶片岩の砥石の導入が挙げられている。続く、五世紀には、ヤマト地域の中枢部、曽我遺跡に出雲から石材(花仙山産の碧玉)と石材の加工技術が持ち込まれ、大規模で集中的な玉生産が行われるようになる。曽我遺跡は、奈良県橿原市、古代の忌部氏の本拠地に所在し、古墳時代の玉生産が同氏と密接な関係にあったことをうかがわせる(古代文化協会編、二〇一八)。
 忌部氏は、中臣氏とともに、古代祭祀を司る氏族として活動するが、特に神への捧げ物「幣帛」の調達・準備を主たる役割としている。大同二年(八〇七)、同氏の氏族伝承をまとめた『古語拾遺』は、太玉命(忌部氏の祖)の子孫の天富命が、天皇の宮殿の造営と、神宝(鏡・玉・矛・盾・木綿・麻など)の製作を統括したとする。その中で、山の木を伐り宮殿を造る忌部(手置帆負神・彦狭知神の子孫)は紀伊国名草郡の御木・麁香郷に居て、玉造り(櫛明玉命の子孫)は出雲国に、木綿・麻の織布造り(天日鷲命の子孫)は阿波国にありとする。ここにある紀伊国と阿波国は、古墳時代中期、出雲に玉生産の砥石として持ち込まれた結晶片岩の産地と一致しており、それは単なる偶然ではないだろう。
 玉は、『古事記』天石屋戸で、忌部氏の祖、太玉命が「幣」として捧げた五百枝真賢木に付けられており、神への捧げ物「幣帛」の重要な品目の一つとして認識されていた。その玉を含む幣帛の準備、調達を統括した忌部氏の本拠地として、紀伊、出雲、阿波が認識されていた。玉造り(玉生産)は、古墳時代中期(五世紀)、出雲が原石供給と加工技術の点で中心的な役割を担っていたことが、先に述べたように考古学的には明らかになっており、『古語拾遺』が語る出雲の玉造りの系譜・伝統と一致する。
 古墳時代中期(五世紀代)の生産技術と忌部氏の活動との関連は、『延喜式』四時祭の祈年祭、月次祭の幣帛に含まれる「布を巻く刀形」でも指摘できる。『古語拾遺』は、その起源を、長谷朝倉朝(雄略天皇の時代)、渡来系氏族の秦氏による布生産の技術革新と絡めて語っている。考古学的には、これと符合するように、五世紀中頃、朝鮮半島からの技術導入により紡織技術の革新があったことが指摘されており(東村、二〇一一)、祭祀用の木製刀形の形態は、五世紀代から八世紀代まで系譜的には連続する。律令期の国家祭祀、祈年・月次祭の幣帛の背景には、技術的な五世紀の画期と、それ以来の系譜が存在していたのである(笹生、二〇一五)。
 『古事記』にみられる出雲と紀伊との関係は、宮殿の造営や幣帛の調達を統括した忌部氏の活動が背景にあり、その歴史は、玉造りの考古学的な研究により四世紀後半から五世紀代まで遡ると考えてよいのではないだろうか。

 参考文献
 ・古代歴史文化協議会編『玉―古代を彩る至宝―』ハーベスト出版、二〇一八。
 ・東村純子『考古学からみた古代日本の紡織』六一書房、二〇一一。
 ・ 笹生衛「祭祀の意味と管掌者―五世紀の祭祀遺跡と『古語拾遺』「秦氏・大蔵」伝承―」『季刊考古学・別冊二十二 中期古墳とその時代―5世紀の倭王権を考える―』雄山閣、二〇一五。
〔笹生 衛 日本考古学・日本宗教史〕

於是、八上比賣、答八十神言 「吾者不聞汝等之言。将嫁大穴牟遅神」。 故尒、八十神忿欲殺大穴牟遅神、 共議而至伯岐國之手間山本云、 「赤猪在此山。 故、和礼[此二字以音]。共追下者、汝①取。 若不待取者、必将殺汝」 云而、以火焼似猪大石而轉落。 尒、追下取時、即於其石所焼著而死。 尒、其御祖命哭患而参上于天、②神産巣③之命時、 乃遣⑤比賣与蛤貝比賣、令作⑥。 尒、⑦貝⑧賣岐佐冝[此三字以音]。集而、 蛤貝比賣待承而、 ⑨母乳汁者、 成麗壮夫[訓壮夫云袁等古]。而出遊行。 於是八十神見、且欺率入山而、 切伏大樹、茹矢打立其木、 令入其中即、打離其氷目矢而殺也。 尒、亦其御祖哭乍求者、得見⑩即、 折其木而取出⑪、告其子言、 「汝者有此間者、遂為八十神所滅」、 乃違遣於木國之大屋毗古神之御所。 尒、八十神覔追臻而、矢刺乞時、 自木俣漏逃而云、 「可参向湏佐能男命所坐之根堅州國。 必其大神議也」。 【校異】
① 真「侍」。道祥本以下に従う。
② 真「詣」。道祥本以下に従う。
③ 真「目」。道祥本以下に従う。
④ 真「」。道祥・春瑜「蟹」右傍書「黒貝姫旧事本紀云」あり。
兼永本以下卜部系は「」。田中校訂は「蚶」に改める。こそげる意の「刮」に「虫」を加えて「」字を作字したとする西宮説(修訂頭注)に従う。
⑤ 真「具」。道祥以下諸本も「具」。延佳本以下諸テキスト・注釈書類「貝」後文により「貝」とする。
⑥ 真「沽」。道祥・春瑜「治」。兼永本以下卜部系に従って「活」に改める。
⑦ 真「」。諸本は④に同じ。
⑧ 真「◦」、上欄に「比賣」その右傍書に「但本兩書歟」と注する。他の諸本になし。
⑨ 真「」。道祥本以下に従う。
⑩ 真・道祥・春瑜「即見」。兼永本以下に従い、「見得て則ち」と解する。
⑪ 真「沽」。道祥・春瑜「治」。兼永本以下卜部系に従って「活」に改める。

それで、八上比売は、大勢の神々に答えて言ったことには、 「私はあなた方のいうことはききません。大穴牟遅神と結婚します」といった。 それで、大勢の神々は怒って、大穴牟遅神を殺そうとし、 互いに相談して、伯耆国の手間の山のふもとに着いたところで(大穴牟遅神に)言ったことには、 赤い猪がこの山にいる。 そこで、われわれが一緒に(猪を)追って下ろすから、お前が待ち受けて取れ。 もし待ち受けて取らなければ、必ずお前を殺すだろう」といって、 火を使って猪に似た大きな石を焼いて転がし落とした。 そうして、(大勢の神々が猪を)追いかけて山から下らせ、(大穴牟遅神がそれを)受け取った時に、たちまちその石に焼き付けられて死んでしまった。 すると、その御母の命が泣き悲しんで天に参上し、神産巣日のお言葉を請うたところ、 すぐにきさがい比売とうむがい比売とを遣わして、作り生かすようにさせた。 それで、きさがい比売が(石に張り付いた大穴牟遅神の身体を)こそげ集め、 うむがい比売が(それを)待っていて受け取って、 母神の乳を塗ったところ、 (生き返って)立派な男になって出歩いたのであった。 これを大勢の神々が見て、また(大穴牟遅神を)だまして山に連れて入り、 大きな樹を切り倒し、(その木を割って)くさびとなる矢をその隙間に嵌めて(再び)その樹を立て、 (大穴牟遅神を)その隙間の中に入らせるやいなや、そのくさびを打ち放ってうち殺した。 すると、またその御母の命が泣きながら探し求めたところ、見つけることができてすぐに、 その樹を割いて取り出して生き返らせ、その子に告げて言うことには、 「お前はここにいれば、しまいには大勢の神々のために滅ぼされてしまうでしょう」といって、 すぐに木国の大屋毗古神のもとへ(人目を避けて)方角を変えて行かせた。 すると、大勢の神々も探し求めて皆で追いつき、弓に矢をつがえて(大穴牟遅神を渡すように)求めた時、 (大屋毗古神は大穴牟遅神を)木のまたからくぐり抜けさせ逃がして言ったことには、 「須佐之男命のいらっしゃる根の堅州国に参り向かいなさい。 きっとその大神がとりはからってくれるでしょう」といった。

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