古事記ビューアー

古事記の最新のテキストを見ることができます。
諸分野の学知を集めた
注釈・補注解説とともに
古事記の世界へ分け入ってみましょう。

目次を開く 目次を閉じる

しかして、沼河ぬなかは日売ひめいまだ戸を開かずして、内より歌ひてはく、 八千やちほこの 神のみこと え草の にしあれば 我が心 うらの鳥ぞ 今こそば どりにあらめ のちは  どりにあらむを いのちは なせたまひそ いしたふや あまはせづかひ ことの 語りごとも をば 青山に 日がかくらば ぬばたまの は出でなむ 朝日の さかえ来て  栲綱たくづのの 白きただむき 沫雪あわゆきの 若やる胸を だたき たたまながり たま 玉手差し 股長ももながに さむを  あやに な恋ひ聞こし 八千矛の 神の命 ことの 語りごとも 是をば (3番歌) 故、其の夜は合はずして、明くる日の夜にあひき。

○内より歌ひて曰はく この沼河日売の歌は、「ことのかたりごとも此をば」という詞章が中頃と末尾に二度見られることから、二首の歌とする見方がある(記伝・言別・尾崎全講・武田全講・相磯全註解・山路評釈・倉野全註釈・全書など)。確かに前の2番歌や次の4番歌、また雄略記の天語歌三首(99~101番歌)ではそれぞれ歌の末尾にこの句が見られる。しかし、『古事記』の場合、歌が連続して記される際には、「又歌ひて曰く」などの語が必ず入ることから考えれば、二首に分けられるとは考えがたいので、一首と見る説(厚顔抄・土橋全注釈・集成・新編・新校など)に従う。 ○我鳥 ワドリでは意味が通らないと見て、本文「和」を「知」に変えて「千鳥」と取る説がある(延佳本・記伝・言別)。浦渚に居る鳥としてはその方が適しているということのようだが、その場合、次のナドリの解釈が苦しくなる。次の「汝鳥」に対応する「我鳥」で問題はないのではないか。【→補注六】 ○汝鳥 前記のワドリを「千鳥」で理解する記伝は「平鳥(ナドリ)」、 「和鳥(ナギドリ・ナゴドリ)」と解釈する。確かに「我鳥」という表現は特異ではあるが、ここは先述の通り「我」「汝」の対応と見ておく。 ○命はな殺せたまひそ 古くは「八千矛神自身を殺しなさいますなの意」で取られることが多かったが(厚顔抄・記伝・言別・武田全講・相磯全註解・尾崎全講・土橋全注釈・山路評釈など)、青木紀元が、アマハセヅカヒを物語の登場人物で結婚の媒をする人物として捉え、沼河比売がそのアマハセツカヒに向かって「鳥を殺しなさいますな」と懇願したのだとする説を唱えて以降、 「鳥を殺しなさいますな」で理解する注釈が多くなっている(全書(一九六二年五月で、刊行は青木説より若干早い)・倉野全註釈・西郷注釈・旧全集・思想・集成・新編など)(青木紀元「いしたふやあまはせつかひ」『日本神話の基礎的研究』風間書房、一九七〇年三月、初出は一九六二年十二月)。 ○朝日の笑み栄え来て 青木周平は、八千矛神の到来をこのように表現することに〈日の御子の婚〉の起源神話としての意味を読み取っている。「朝日」は、「朝日なすまぐはしも」(『万葉集』13・三二三四)のように讃辞的意味をもつが、すべて土地や宮に用いられていて、人(神)の比喩表現はここのみであり、「朝日」で八千矛神を称えているところに〈日の御子〉につながる資質が感じとれるとする(「八千矛神」『古代文学の歌と説話』若草書房、二〇〇〇年十月、初出は一九九九年十一月)。 ○股長に 厚顔抄は「股長に」。記伝も同じで、「足を伸て、ゆるらかに寐るさまなり」とする。大成・大系・全書は「百長に」で「いつまでも」の意ととるが、次の句との繋がりから現在では「股長」説を採るものが多い。【→補注七】 ○其の夜は合はずして、明くる日の夜に御合為き 古代の婚姻譚には、男性からの求婚を一旦は拒絶して逃げ隠れ、発見されて後に受け入れて結婚するという、「ナビ妻型」(ナブ=隠れる)といわれる神話・説話がある。八千矛神が訪れた日の夜には戸を開けて迎え入れることなく、翌日の夜に婚姻するというこの話も、ナビ妻型に含まれるものと見られる。ナビ妻型には以下のようなものがある。
  ① 『古事記』雄略天皇条 (雄略天皇・春日の袁杼比売) →婚姻成立
  ② 『播磨国風土記』賀古郡比礼墓説話 (景行天皇・印南別嬢) →婚姻成立
  ③ 『出雲国風土記』出雲郡宇賀郷 (大穴持命・綾門日女命) → ?  
  ④ 『日本書紀』景行天皇四年一月条 (景行天皇・弟媛) →求婚失敗
  ⑤ 『播磨国風土記』宍禾郡安師里 (伊和大神・安師比売) →求婚失敗
  ⑥ 『播磨国風土記』託賀郡都太岐 (讃伎日子神・冰上刀売) →求婚失敗
 ①②は乙女が逃げ隠れた後で発見されて結婚に至っているが、③は地名起源で話が終わっており、婚姻譚の結末は分からない。④⑤⑥は結果的に婚姻が失敗に終わっているので、①②と同様の型に含めて良いものかどうか、問題が残る。これらは「ナブ」(隠れる)話というようよりも、「イナブ」(拒絶する)話となっている。①②のように婚姻が成立する場合に、なぜ一度は逃げたり隠れたりするのか。これについては、外来の神(人)が訪れて土地の乙女と結婚する場合、乙女は本来その土地の神に仕えるものであるので、喜んで外来の神(人)と関係を持つことは許されず、一度拒否して、土地の神の許しを得なければならないという信仰・習俗がその背景にあると説かれている(折口信夫「最古日本の女性生活の根底」中央公論社旧全集二巻所収など)。しかも土地の神に仕える乙女と婚姻するということは、その土地の支配権を得るということにも繋がるので、外来者を受け入れない(外来者の支配を受け入れない)場合は、そこに外来の求婚者と土地の乙女との争い、或いは土地の神との争いが生じることとなり、土地神の方の力が勝っている場合は、外来者は拒絶され、追い出されることとなる。④⑤⑥の婚姻が失敗に終わる理由も、そのような背景を持つ故であるかも知れない。

本文に戻る

近世国学における「和杼理」の解釈

 近世前期の寛永版本では「和」である文字について、度会延佳の『鼈頭古事記』では「知」に作る。すなわち、「ワドリ」か「チドリ」かによって解釈の相違が生じてくる。
 契沖は『厚顔抄』では、ワドリにつき、「我鳥将有ナリ、我鳥トハ我身ヲ我物トスル意ナリ。」(『契沖全集』第七巻、五五七~五五八頁)、ナドリを「汝鳥将有ヲナリ。汝カ妻ト成テ随カハムノ意ナリ」(同五五八頁)とし、我と汝の対比と理解した。
 荷田春満は、國學院大學所蔵武田祐吉博士旧蔵の寛永版本の荷田春満書入においては、「和」の右傍に「ワ 我也」、「那」の左傍には「汝」と、ともに朱書されており(『新編 荷田春満全集』第一巻、おうふう、平成十五年、六六頁)、契沖と同じく「ワ」は我、「ナ」は汝であるとの理解が示されている。しかし、享保十四年成立の春満の講義筆記である『古事記箚記』(京都市東丸神社蔵)では、「知杼理邇 トハ、今コソハ大勢ノ内ニムレ居ル鳥ナレ、後ニハ汝ノトリトナラント云意也、且、ナトリト云鳥アリ、故ニ、ナトリト云鳥ニコトヨセテカク云也、汝ノ鳥トナラント云コトナリ」(『古事記箚記』一七丁オ 『荷田全集』第六巻、吉川弘文館、昭和四年、一九八頁)とあり、大勢の内に群れている鳥、との理解を示し、おそらく「内(ウチ)鳥」を「チトリ」と理解したものと考えられ、解釈に相違が見られる。
 賀茂真淵は、『鼈頭古事記』に宝暦七年の古事記会読の記録を註記した『古事記頭書』において、「今暫ハ我が身なれと、後ハ君にまかせんと云を鳥をことはとしていへり、延佳古語と哥とを不知、甚なる誤多し」(『賀茂真淵全集』十七巻、続群書類従完成会、昭和五十七年、一六頁)と、「知杼理」とした『鼈頭古事記』を批判している。また、多和文庫所蔵の寛永版本への真淵自筆書入本には、「和杼理」に「我鳥」と、「那杼理」には「汝」と傍書している(『賀茂真淵全集』二十六巻、続群書類従完成会、昭和五十六年、五八頁)。晩年の段階の『仮名書古事記』でもほぼ同様の理解であり、(『賀茂真淵全集』第十七巻、九六頁)、一貫して「我」に対する「汝」であるとする見解にブレはない。
 以上の国学者たちの所説は寛永版本の「ワドリ」を採り、我・汝を対比させた歌と理解している点は共通している。
 ところが、本居宣長は『古事記伝』において、契沖以降の解釈は誤りと主張し、延佳の「チドリ」説を採用した。浦に群れる千鳥が立ち騒ぐように、心が乱れていると理解し、それに対比される「ナドリ」もこころが「和やか」になるの意に取り、心が平静になったことを指しているのだと理解している(『本居宣長全集』第九巻、四七九~四八一頁)。宣長は万葉集における「千鳥」の語の用例から、「チドリ」説を提唱しており、それに対比する「ナドリ」の意味も自ずから変化している。

 〔松本久史 近世・近代の神道史、国学研究〕

「モモナガニ」

 諸注釈書を参照すると『古事記』三番歌謡に見える「毛々那賀爾ももながに」という語句は、「股長に」とする説と、「百長に」とする説の二つが主に採用されている。両説が抱える問題については神野志隆光・山口佳紀『古事記注解4』(笠間書院、一九九七年六月、山口佳紀氏担当)で明快な解説が施されている。すなわち「股長に」と解する場合、足を伸ばしてくつろぐ意であるというが、〈モモ(股)を長くする〉という現実にはあり得ない表現になってしまうこと、また「百長に」と解する場合、モモ(百)は通常モモエ(百枝)、モモカ(百日)のように区切って数えられるものに接続する数詞であって、ナガ(長)という連続性を帯びた語句に接続するという例外的な用例になってしまうことが指摘されている。そして山口氏は「両説いずれも弱点があるとすれば、タダムキ(腕)・ムネ(胸)・テ(手)と、肉体の部分を列挙して来た文脈から見て、『股』と解する前説の方が有利である」と「股長に」説を支持している。
 右以上に優れた考えが筆者にあるわけではないが、やや細かく諸注釈書を追ってみると、従来ほとんど検討対象になっていない説をわずかながら見いだすことができる。同説の検討を含め、以下モモナガニに対する筆者なりの調査・検討を披瀝することで補注解説に代えたい。
 まず先述した代表的な二つの説は、いつ・誰が述べたものであるかを確認しておく。諸注釈書を確認すると「股長に」説の方が古く、その先鞭は契沖『厚顔抄』(久松潜一監修『契沖全集』第七巻、岩波書店、一九七四年八月)に認めることができる。同書には「股長ニナリ、足ヲ伸ル意ナリ」とあり、本居宣長『古事記伝』(大野晋編『本居宣長全集』第九巻、筑摩書房、一九六八年七月)が同説を引いて支持を述べてから、ほぼ定説化したと言ってよい。それに対して、「百長に」説が出されたのは『古事記大成 本文篇』(平凡社、一九五七年十月、石井庄司氏注解)においてである。従来と異なる解釈が示された理由は明らかでないが、同書では「從來は股長にで、足をのべて、ゆっくり寢る意とされているが、ここは、いつまでもの意と見るべきであろう」と述べられている。この説は倉野憲司・武田祐吉『古事記 祝詞』(日本古典文学大系1、岩波書店、一九五八年六月、古事記は倉野憲司氏担当)や神田秀夫・太田善麿『古事記 上』(日本古典全書、朝日新聞社、一九六二年五月)で支持がなされたものの、それ以降の注釈書では再び「股長に」説が支持されている。日本古典全書以降、「股長に」説を採る注釈書のうち、理由を述べているものを挙げると次の通りである。
  ○ 山路平四郎『記紀歌謡評釈』(東京堂出版、一九七三年九月)…『古事記大成』本、『日本古典全書』本、『日本古典文学大系』本、いずれも「百長に」と解し、「いつまでも」の意とするが、ここは前後の関係から云っても、ゆったりと寛ぐところだから、むしろ旧説の「股長に」に従いたい。『古事記』上(須佐之男命の昇天の段)に、「堅庭者於向股、、踏那豆美」とあるのも、しこ、、を踏む形で、ここも股から下を伸す形とすれば、股長でも差支えあるまい。
  ○ 西郷信綱『古事記注釈』第二巻(平凡社、一九七六年四月、ちくま学芸文庫版による)…『大系本』はモモナガを「百長」とし、いつまでもの意に解するが、それではこの歌に固有な官能性が蒸発してしまうので、やはり「股長」の方がいい。睡眠不足ならとにかく妻問にさいし、いつまでも「さむを」というのは、筋違いでさえある。
 両説に共通するのはモモを時間的な長さで理解することへの反論であるが、前者は四股を踏む動作をもとに〈モモ(股)を伸ばす〉という不審さを解消しようとし、後者は妻問における官能性を重視して「股長に」を支持している。それぞれ重要な視点を提示していると思われるが、どちらの説に立ったとしても〈モモ(股)を伸ばす〉という表現の不審さは依然として残ったままである。
 ここでモモ(股)の用例について確認してみたい。上代においてモモという語が指し示す身体の部位は、現代のそれと同じであるとは限らないからである。もしそうだとすれば「股長に」説にまつわる不審さは解消すると思われる。ただし、その可能性は低いようである。
 『古事記』には先掲した山路氏の説で挙げられていた「堅庭かたにはは、向股むかももに蹈みなづみ、沫雪あわゆきごとちらして」(上巻・須佐之男命の昇天)という例があるが、他の身体の部位との関わりから注目されるのは、『日本書紀』に見える次の用例である。

  すなはち足をげてふみき、おぼれ苦しぶかたちまねぶ。はじしほ足にく時には足占あしうらし、ひざいたる時には足をげ、ももに至る時にははしめぐり、こしいたる時には腰をで、わきに至る時にはむねに置き、くびに至る時には手を挙げ飄掌たひろかす。 (神代下・第十段一書第四、小学館新編全集本による)

 右は海幸山幸神話の異伝の一つであり、兄・火酢芹命が弟・火折尊に「俳優わざをきたみ」として仕えることを誓う場面である。右で注目されるのは、溺れる様をかたどる際、足→膝→股→腰→腋→頸と身体の部位を列挙することで、潮の満ちてくる様を表現している点である。右に見える「股」は卜部兼方本をはじめとした諸写本に和訓が残されていないものの「陥牟加毛々尒不三ヌキ」(御巫本『日本書紀私記』、応永三十五年〈一四二八年〉書写、古典保存会、一九三三年八月)や「股毛々」(高山寺蔵『金剛頂経一字頂輪王儀軌音義』甲本、承元二年〈一二〇八年〉書写、高山寺典籍文書綜合調査団編『高山寺古辞書資料 第一』東京大学出版会、一九七七年三月)などを参照すればモモと訓むことは十分可能であろう。「膝」と「腰」とに挟まれた「もも」とは、現代でいうところのモモを指すと考えられる。この点、天治本『新撰字鏡』で「」(「脾」の異体)に対して「膝上尻下、母々」とあることも参考となるであろう。実例にあたる限り、モモはやはり現代で言うところのモモ(股)と解さざるを得ず、「股長に」説には不審な点が残ることは否めない。
 一方、「百長に」説の場合、「百○○」という例を『時代別国語大辞典 上代編』(三省堂、一九六七年十二月)に掲出された複合例を参照して掲げると、次の通りである。

  モモエ(百枝)、モモカ(百日)、モモキ(百木)、モモクサ(百種)、モモクサ(百草)、モモクマ(百隅)、モモサカ(百積)、モモシキノ(百磯城・百石城)、モモシノノ(百小竹)、モモタラズ(百不足)、モモダル(百足)、モモチ(百千)、モモチタビ(百千遍)、モモチダル(百千足)、モモチドリ(百千鳥)、モモツギ(百継)、モモツシマ(百島)、モモヅタフ(百伝)、モモトセ(百年)、モモトリ(百鳥)、モモトリ/モモトリノツクヱモノ(百取、百取の机代物)、モモナヒト(百人)、モモノツカサ(百官)、モモフナ/モモフナビト(百舟、百舟人)、モモヘ(百重)、モモヤカラ(百族)、モモヤソガミ(百八十神)、モモヨ(百夜)、モモヨ(百代)、モモヨロヅ(百万)

 右の諸例に接続する語句まで視野に入れて用例を見た場合、モモ(百)が区切って数えられるものに接続するという傾向は明らかであり、例外にあたりそうなのは、モモツギ(百継)、モモヅタフ(百伝)くらいであると思われる。このうちモモツギ(百継)は筆者の調査方法に問題があるのか成稿までに実例を見いだすことができず、詳細は不明である。一方、モモヅタフ(百伝)は宮川久美「枕詞モモヅタフ 付―ナフとナフ」(坂本信幸・寺川真知夫・丸山顯德編『論集 古代の歌と説話』和泉書院、一九九〇年十一月)において「鐸」「角鹿の蟹」「磐余の池」「八十島」など接続する語句との対応が詳細に検討されており「多くのものを次々と○―○―○のようにつなぎつつ行くという意」で冠されているという。前後の語句から数え上げる対象が想定されることを論じた同説は、従うべき指摘であると考えられる。「百長に」説にも、釈然としない点が残ることは否めないようである。
 ただ、ここで今少し検討する余地があるのは、ナガに対する解釈である。モモ(百)の接続に不審な点があるとすれば、ナガ=長という意で理解しようとすることに問題があるかも知れないからである。この点について別の解釈の可能性を述べているのが、従来ほとんど検討対象になっていない「モモナカ(百半)」説である。荷田春満『古事記箚記』(官幣大社稲荷神社編『荷田全集』第六巻、吉川弘文館、一九三一年四月)には、次のようにある。

  毛々那賀爾 とは、百の半は五十なり。五十を「イ」と云ふことなり。故に「イ」と云はん爲の冠辭に「モヽナカ」と云ふなり。然ればいと云ふ冠辭に毛々那賀とは云ひたるものなり。

 右の解釈は「毛々那賀」をモモナカ(百半)と解し、百半=「五十」という意味合いで同音の「さむを」を導いているという理解であると読み取れる。度会延佳『鼇頭古事記』(小野田光雄校注『神道大系古典註釈編一 古事記註釈』神道大系編纂会、一九九〇年三月)も「毛々那賀爾」の右傍に「百半」という書き下しを添えているが、同様の立場から施された解釈であると捉えてよいであろう。これらの解釈と類似した係り方を持つ例は「真木のつまでを モモ不足タラズ 五十日イカ太尓ダニツクリ のぼすらむ」(『万葉集』巻一・五〇)や、「モモ不足タラズ 八十ヤソ隈坂クマサカ むけせば」(『万葉集』巻三・四二七、どちらも小学館新編全集本による)などに見出すことができ、発想方法として十分あり得ると思われる。ただし、この解釈は「賀」を清音の仮名と捉えることで成り立つ解釈である。『古事記』における「賀」は濁音専用と言ってよく、例外にあたるのは次の三例のみである。
  ①美良比登母登(「みら一本ひともと」記十一番歌謡・神武記)
  ②波都勢能波能(「はつかはの」記八十九番歌謡・允恭記)
  ③夜麻能比爾(「山のかひに」記九十番歌謡、雄略記)
 右の「賀」はいずれも諸写本に異同がない。ただし①は語義解釈に問題を残しており、カ(香)=ミラ(韮)の意で香りの強い韮を指すと言われるが定かでない。また②③はともに『古事記伝』で清音の仮名が用いられて然るべき箇所であることが指摘されており、転写過程における錯誤が疑われる箇所である。いずれも「賀」に清音の用法があることを主張する根拠としては、心許ない例であると言えよう。「毛々那賀爾」はやはりモモナガニと濁音で考えるべき語句であると考えられる。ほとんど検討対象になってこなかったモモナカ(百半)説であるが、従来の問題点を克服できる説であるとは言いがたいようである。
 この他には「毛と用と通音。夜モ長ニ也。」と述べる内山真龍『古事記歌謡註』(小野田光雄校注『神道大系古典註釈編一 古事記註釈』神道大系編纂会、一九九〇年三月)の説もあるが、モとヨが通じるという説明に至っては論外と言わざるを得ない。諸注釈書でほとんど顧みられていない説には、それなりの理由があるということであろう。

 〔井上隼人 日本上代文学〕

尒、其沼河日賣、未開戸、自内歌曰、 夜知冨許能 迦微能美許等 奴延久佐能 賣迩志阿礼婆  和何許々呂 宇良湏能登 伊麻許曽婆 和杼理迩阿良米  能知波 那杼理尒阿良牟遠  伊能知波 那志勢多麻比曽 伊斯多布夜 阿麻波世豆迦比 許登能 加多理碁登母 許遠 阿遠④夜麻迩 比賀迦久良婆 奴婆多麻能 用波伊傳那牟 阿佐比能 恵美佐加延岐弖 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 阿和由岐能 和加夜流牟泥遠 曽陀多岐⑤ 多々岐麻那賀理 麻多麻傳 多麻傳佐斯麻岐 毛々那賀尒 伊波那佐牟遠 阿夜尒 那⑥斐⑦許志 夜知冨許能 迦微能美許登 許登⑧能 迦多理碁登母 許遠婆 故、其夜者不合而、明日夜為御合也。 【校異】
① 真ナシ。兼永本以下に従い「理」を補う。
② 真「釼」。道祥・春瑜・兼永本「」。神道大系ではこれを「叙」の古体とする。延佳本以下に従い「叙」に改める。
③ 真ナシ。道祥・春瑜・兼永本以下に従い「婆」を補う。
④ 真ナシ。道祥・春瑜・兼永本以下に従い「阿遠」を補う。
⑤ 真ナシ。道祥・春瑜・兼永本以下に従い「多岐」を補う。
⑥ 真「吉」。兼永本以下に従い「古」に改める。
⑦ 真「支」。兼永本以下に従い「岐」に改める。
⑧ 真ナシ。兼永本以下に従い「許登」を補う。

そうして、その沼河日売は依然として戸を開けないで、家の中から歌っていうことには、 八千矛の神の命よ  私は萎え草のような女の身ですので、 私の心は(潮が満ちればそこから飛び立たざるを得ない)海辺の州に居る鳥のようなものです。 今でこそ自分の鳥ですが、 後には貴方の鳥になるものですのに、 (鳥たちを)殺しなさいますな、 (いしたふや)アマハセヅカヒよ、 事の語り言も、この通りであるよ。 青山に、日が隠れたならば、 (ぬばたまの)夜がやってくるでしょう。 (そうすれば)朝日のように笑みをたたえてお出でになって、 栲綱のような白い腕を、 沫雪のような若々しく柔らかな胸を、 そっと叩いて、叩いて愛しがり、 玉のような手を、玉手をさし交わして枕にして、 股を長く伸ばして、共寝をしましょうものを、 むやみに、恋い申し上げなさいますな、 八千矛の神の命よ。 事の語り言も、この通りであるよ。 そうして、その夜は婚姻せずに、翌日の夜に御婚姻なさった。

先頭