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是に、万の神の声は、狭蝿那湏[此の二字は音を以ゐる。] 満ち、 万の妖悉発りき。 是を以て八百万神、天安之河原に神集ひ集ひて[集を訓みて都度比と云ふ。]、 高御産巣日神の子、思金神に思は令め[金を訓みて加尼と云ふ。]て、 常世長鳴鳥を集め鳴か令めて、 天安河の河上の天堅石を取り、天金山の鉄を取りて、 鍛人天津麻羅を求めて[麻羅二字は音を以ゐる。]、 伊斯許理度売命[伊より下六字は音を以ゐる。]に科せ、鏡を作ら令め、 玉祖命に科せ、八尺勾珠之五百津之御須麻流之珠を作ら令めて、 天兒屋命・布刀玉命[布刀二字は音を以ゐる。下は此れに效ふ。]を召して、 天香山の真男鹿の肩を内抜きに抜きて、 天香山の天之波々迦[此の三字は音を以ゐる。木の名なり。]を取りて、 占合麻迦那波令めて[自麻下四字以音]、 天香山の五百津真賢木を、根許士尒許士而[許より下五字は音を以ゐる。]、 上枝に八尺勾珠之五百津之美須麻流之玉を取り著け、 中枝に八尺鏡[八尺を訓みて八阿多と云ふ。]を取り著け、 下枝に白丹寸手・青丹寸手を取り垂て[垂を訓みて志殿と云ふ。]、 此の種々の物は、布刀玉命、布刀御幣登取り持ちて、 天兒屋命、布刀詔戸言、禱き白して、 天手力男神、戸の掖に隠り立ちて、 天宇受売命、天香山の天之日影を手次に繋て、 天之真折を鬘と為て、天香山の小竹葉を手草に結ひて[小竹を訓みて佐々と云ふ。]、 天之石屋の戸に汙気を伏せて[此の二字は音を以ゐる。]、■(足+稲の右部)登杼呂許志[此の五字は音を以ゐる。]、 神懸かり為て、胸乳を掛き出で、裳緒を番登に忍し垂れき。 尒して、高天原動みて、八百万神共に咲ひき。

○八百万神 高天原の全ての神々を指すような名称であるが、天照大御神が石戸に籠もった後は、この八百万神を主語とする形で神話が展開している。そうすると、この後に具体名が挙げられる神々がこの八百万神の中に含まれるのか否かが問題となってくる。単純に見れば全ての神を含めることになるだろうが、八百万神が司令神となって他の神を動かしているとも読める。天照大御神不在の状況で、具体的な他の司令神を設定するわけには行かないという発想があるように思われる。(松本直樹「八百万神とアマテラス」『古事記神話論』新典社、二〇〇三年一〇月参照)。「神集々而[訓集云都度比]」と、訓注を施して「集」が自動詞であることを明確にしているのも、特定の神が「集めた」のではなく、自発的に「集まった」ことを示している。後の葦原中国平定の場面で、高御産巣日神・天照大御神という明確な司令神が、「神集八百万神集而」というように「八百万神」を「集める」のとは対照的である。 ○思金神 多くの思慮を兼ね備えた神。後の天孫降臨の場面では「常世思金神」とある。「常世」を冠する点については次項参照。『日本書紀』に「思兼神」とある方が神格を良く表している。『日本書紀』には「深謀遠慮」(七段本書)、「有思慮之智」(同一書一)ともある。『古事記』で「金」を用いることに意図があるかどうかは不明。天孫降臨の場面では、五伴緒、手力男神、天石門別神とともに降臨し、天照大御神から自身の御魂としての鏡を祀るように命じられている。また、続けて思金神一柱に「前の事を取り持ちて政せよ」とも命じている。これらのことから古橋信孝は、この神を「政治=祭事=奉仕事という構図において、政治を中心的に行う者を象徴した神格」として捉えている(「思兼神について―虚構意識の発生の問題―」『日本文学研究資料叢書・日本神話Ⅱ』有精堂、一九七七年九月。初出は一九七五年一〇月)。 ○常世長鳴鳥 長鳴鳥は、鳴くことで太陽の出現を促すところから、鶏を指すと言われるが、例えば八千矛神の神語には、「尒波都登理 迦祁波那久」とあって、長鳴鳥とは言わない。これは「常世」ということと関わって言われている名称かも知れない。「常世」については、後の葦原中国平定の御議の場面で思金神のことを「常世思金神」と言っていることと関わるであろうが、詳細は不明である。元来高天原は海の彼方の異郷であったが、海上他界観から天上他界観へ、すなわち水平的他界観から垂直的他界観へという移り変わりを反映して常世と高天原とが重なり合っているという見方もある(烏谷知子『上代文学の伝承と成立』おうふう、二〇一六年六月)。高天原と神仙世界とを重ね合わせたための表現とする見方もある(中村啓信、角川新版脚注)。いずれにしてもこの長鳴鳥と思金神だけにこの言葉が冠されている点、また思金神の場合は初出の場面ではなく、後の場面になってから言われている点の説明がつけられなければ、明らかにはならないであろう。 ○鍛人天津麻羅を求めて カヌチはカナ+ウチの略。マラは未詳。鍛人天津麻羅の役割が不明瞭だが、文脈上は、天堅石を取り、天金山の鉄を取り、鍛人天津麻羅を求めて、その上で伊斯許理度売命に命じて鏡を作らせるということになり、鏡を作るための準備として必要とされたもの、ということになる。倉野全註釈は、本来鍛人天津麻羅は剣を作る役割でここに登場していたのではなかったかという。天石屋神話で鏡・剣・玉が作られるという話であったが、後に八俣大蛇の尾から剣が出現するという話に移り変わり、作成者である鍛人天津麻羅の名のみが残ったのではないかというのである。神話成立の過程として可能性のある論であると思われる。 ○伊斯許理度売命 天孫降臨段に作鏡連等の祖と記す。コリは切ることで、鋳型のための石を切り出すことを言うかという。『日本書紀』一書一には「石凝姥」とあって老婆を示す「姥」の字をあてており、その役割として「彼の神(天照大神)の象を図し造りて、招禱き奉らむ」という思兼神の発意によって冶工とされ、天香山の金を採って日矛を、真名鹿の皮を全剝にして天羽韛を作っている。一書二では「鏡作部が遠祖天糠戸」という者が鏡を作っており、一書三では「天糠戸」と同じ訓の「鏡作が遠祖天抜戸」の児として石凝戸辺が記され、八咫鏡を作っている。【→補注二、天の石屋に登場する神々とその後裔氏族】 ○玉祖命 天孫降臨段に玉祖連等の祖と記す。同段において、五伴緒として邇々芸の命に随って降臨する。『日本書紀』七段一書二には玉作部の遠祖豊玉とするが、『新撰姓氏録』(忌玉作条、右京神別上)に「号玉祖連、亦号玉作連」とあって両者を同一視している。 ○天児屋命 天孫降臨段に中臣連等の祖と記す。同段において、五伴緒として邇々芸の命に随って降臨する。アメノコヤネノミコトと訓まれることが多いが、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』に「天児屋命」とあるところから、近年では「アメノコヤノミコト」と訓むテキストもある(新編全集・新校)。コヤネ説の根拠は、『藤氏家伝』や中臣寿詞に「天児屋根命」、春日祭祝詞に「天之子八根命」とあるのによるが、新校が指摘するように、『古事記』の「屋」はすべて「ヤ」としか訓めないところからすれば、「アメノコヤ」と訓む方が妥当であると思われる。
○布刀玉命 天孫降臨段に忌部首等の祖と記す。フトは美称。タマは祭祀を行う際に身につける玉を表すか。天孫降臨の場面では五伴緒の一神として降臨する。『日本書紀』七段本書には「太玉命」とし、前項の天児屋命とともに「祈禱」をしている。一書二では幣を造る役を負い、「神祝き祝きき」という言葉を唱える役は天児屋命が負っている。一書三も、「広く厚き称辞祈み啓」すのは天児屋命であり、太玉命は鏡・玉・木綿を掛けた真坂木を持つ役目を負っている。
○天之波々迦 「ははか」はカニワ桜。その皮を燃やして鹿の肩の骨を焼き、裂け目の入り具合によって占うという。 ○占合麻迦那波令めて 「占合(うらなひ)」については、本注釈(四)「二神の結婚」『古事記學』第一号参照。「麻迦那波令めて」の「まかなひ」は備え設ける意。 ○天手力男神 石屋から天照大御神の手を取って引き出す力を象徴した神名。天孫降臨の際に五伴緒、思金神、天石門別神と共に降臨する。そこには、この神は「佐那〃県に坐す」と記す。『日本書紀』七段本書には見えない。一書三に「天手力雄神」として登場し、『古事記』と共通する役割を果たす。『万葉集』巻三「河内王を豊前国の鏡山に葬りし時に、手持女王の作る歌三首」の中に、「岩戸割る 手力もがも 手弱き 女にしあれば すべの知らなく」と歌われている。 ○天宇受売命 天孫降臨段に猿女君等の祖と記す。ウズメは『古語拾遺』に「強女(オズメ)」を語源とする説を載せるが、『稜威道別』は「髻華(ウズ)」を挿した女性と説いた。天孫降臨に先立って、天の八衢に居た猿田毗古神に「いむかふ神」「面勝つ神」として対峙する。降臨の際には五伴緒として邇々芸の命に随って降臨する。この場面における天宇受売命の所作は、宮廷鎮魂祭儀の反映とされる。『貞観儀式』によれば、鎮魂祭儀は御巫の舞に始まり、御巫の伏せた宇気槽(空の桶)の上に立ち、桙で十度撞く。それが終わると再び御巫、猨女が舞うと記す。舞の中心は猿女ではなく御巫であるが、『古語拾遺』は、「鎮魂の儀は、天鈿女命の遺跡なり」とし、「然れば、御巫の職は、旧の氏(猿女君氏)を任すべし」と記している。 ○神懸かり為て 天宇受売命に他の神が憑依したということか、単に忘我の状態になったことを言うのか、見解が分かれる。神が憑依したと考えるならば、どの神が、というのが問題となる。溝口睦子氏が言うところの名付けられない神の存在を想定するならば、国生み神話の冒頭において天神が布斗麻尒に卜なった対象となる神や、天照大御神と須佐之男命の〈うけひ〉において神意を訊ねた神が存在していたように、ここも何らかの神が憑依したという解釈が成り立つのかどうか(溝口睦子「名づけられていない「神」―日本古代における究極者の観念について―」『古事記年報』三十九号、一九九七年一月参照)。それとも天照大御神を寄り付かせることで石屋から導き出そうとしたということなのか、明らかではない。『日本書紀』七段本書には、「巧に俳優を作す」「顕神明之憑談(かむがかり)す」とある。

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【補注二】天の石屋に登場する神々とその後裔氏族

天の石屋神話に登場する神は、速須佐之男命・天照大御神・思金神(高御産巣日神の子)・伊斯許理度売命・玉祖命・天児屋命・布刀玉命・天手力男神・天宇受売命の九柱である。このうち伊斯許理度売命・玉祖命・天児屋命・布刀玉命・天宇受売命の後裔は、倭王権の祭祀を分掌する伴造であり、律令制下においては主に神祇官の官人として伝統的職能を維持し続けた。ここでは神話の内容に触れながら、後裔氏族の動向に力点を置いて補注を加えていく。
物語は速須佐之男命が天照大御神に女子を得て清き明き心を証明したと宣言するところからはじまるが、速須佐之男命は出雲の祖神であり、高天原と対立する根国の主神とされる。その神格は、天上では荒ぶる破壊者として行動するが、地上に降ると一変して建設的かつ平和的な一面が表出するなど極めて複雑である。天照大御神は皇祖神で、記紀神話体系の頂点に位置づけられている太陽神格である。「日神」ともいう。また女性神としての性格については、様々な見解が提示されている。
速須佐之男命の横暴と、それにともなう天照の天の石屋への逃避により生じた災いをおさめるべく思金神に思案させたが、この神名は、『日本書紀』神代上、第七段一書第一に「思慮の智有り」と記されているように、思慮深いことに由来する。思金神は考えた末、伊斯許理度売命・玉祖命・天児屋命・布刀玉命・天宇受売命に祭具を調備させることを決定した。
まず伊斯許理度売命に鏡を、玉祖命に八尺の勾玉を作ることを命じた。
前者の神名の「コリ」は固まるの意で、「ドメ」は老女を意味する。その後裔は鏡などの製作に従事した鏡作部の伴造とされる鏡作氏で、本流は天武十二年(六八三)に造から連にカバネを改めた。『古事記』上巻、天孫降臨では、五伴緒の一つとされる伊斯許理度売命を祖とする。また、『日本書紀』神代上、第七段一書第二には「鏡作部遠祖天糠戸」とみえ、同一書第三にも「鏡作遠祖天抜戸」とある。さらに『日本書紀』神代下、第九段一書第一では、「鏡作上祖石凝姥命」としている。『倭名類聚抄』によると、大和・伊豆には鏡作郷、摂津・美濃・美作・阿波には覚美・香美・各務があり、鏡作との関連性が想定される。氏社としては、大和国に城下郡の鏡作坐天照御魂神社・鏡作伊多神社・鏡作麻気神社などがある。
後者の後裔は玉作氏で、玉作部の伴造氏族であった。玉屋にもつくる。『神社縁起』所収「和州五郡神社神名帳大略註解」では、その賜姓は神功皇后の頃まで遡るとしている。もとのカバネは連で、天武十三年(六八四)に宿祢を賜姓された。『古事記』上巻、天孫降臨や『日本書紀』神代下、第九段一書第一では、五伴緒のひとつとされる玉祖命を祖としているが、『新撰姓氏録』右京神別下・同河内国神別では大荒木命(高御牟須比乃命十三世孫)の後裔とみえる。『和名類聚抄』によると、河内国高安郡と周防国佐波郡に「玉祖」という地名が残っており、玉祖氏との関係性が想定されている。
 次いで、天児屋命には御幣のこと、布刀玉命には祝詞のことを執りおこなうよう命じた。
前者は王権の祭祀を職能とする伴造氏族である中臣氏の祖にあたる。『古事記』上巻、天孫降臨や『日本書紀』神代上、第七段本文、同第七段一書第二、同第七段一書第三、『新撰姓氏録』河内国神別には天児屋命とみえ、『日本書紀』神武天皇即位前紀甲寅年十月辛酉条では天種子命、『日本書紀』垂仁天皇二十五年二月甲子条では大鹿嶋としている。「中臣」の名義は「神と人の中を執り持つ」であり、記紀には中臣氏が卜事をおこなう伝承が収載されている。大化以前においては前事奏官・祭官を担い、律令制下においては、神祇官の伯・大副などの枢要なポストを歴任し、神宮の政務を執りおこなう祭主も務めた。その拠点については河内・大和・豊前・常陸説がある。中臣氏は、①御食子流(一門)、②国子流(二門)、③糠手子流(三門)というように三門から成り立っていたが、一門鎌足の藤原賜姓後、二門大嶋と三門意美麻呂が藤原(葛原)姓を名乗る。その後文武二年の詔により意美麻呂らに中臣姓に復すことが命じられて以降、鎌足の子孫が藤原姓、それ以外の一門および二門・三門が中臣姓を継承し、中臣氏は天武八姓では朝臣姓を賜与された。天平神護元年(七六四)十一月の称徳天皇の大嘗祭に際して、二門の清麿は名前の通り清慎勤労で、しきりに神祇官に奉仕しているとして従三位を授かり、神護景雲三年(七六九)六月には「両度神祇官に任ぜられるも、供奉に失無し」として大中臣朝臣を賜姓された。神祇伯は当初、大嶋(三門)・意美麻呂(二門)・人足(一門)・東人(二門)・広見(二門)・名代(一門)といった中臣氏諸門が継承していたが、清麻呂以降は二門から派生した大中臣氏が三代(清麻呂・子老・諸魚)にわたって世襲した。八世紀後半から九世紀にかけて、一門と二門の氏人が相次いで大中臣に改賜姓したことで系譜関係に混乱が生じたため、氏長者は除籍や系譜作成を実施し、氏人の帰属を確認したと考えられている。
 後者の「布刀」は「太」で、尊いの意である。その後裔は忌部氏で、令制以前から中臣氏とともに祭祀を掌った。『日本書紀』神代上、第七段本文、同第七段一書第二、同第七段一書第三、同神代下、第九段一書第一、『新撰姓氏録』右京神別上には、その祖である太玉命(布刀玉命)が玉・鏡・幣などの祭具を調備したとする伝承を載せている。中央の忌部氏は出雲・紀伊・阿波・讃岐などに設定された部民から祭祀に必要な物資を徴収し、律令制下においては神祇官人を世襲した。祈年祭と月次祭において、中臣氏が祝詞を奏上し、忌部氏が幣帛使を担当するという令規定が存在するように、忌部氏と中臣氏は神事を分掌することになっていた。事実、忌部氏が幣帛使として派遣された実例は散見されるが、次第にその職掌に制約が加えられるようになったようで、天平七年(七三五)七月には、忌部虫名・同鳥麻呂らが幣帛使に忌部氏を起用することを上申している。しかし天平宝字元年(七五七)、幣帛使に中臣氏以外の氏族を任用することが禁じられたため、大同元年(八〇六)八月に、奉幣祈祷は忌部の職であるとして、幣帛使に任じられる正当性を主張したものの、結局「神代の古事」にもとづいて両氏がともに祈祷に預かることとなった。また、『古語拾遺』は、大殿祭と御門祭はもとは忌部氏の所職で、後に中臣・忌部両氏が供奉することになり、宝亀年中には忌部氏が中臣氏に率いられて奉仕するという詞に改められたとしているが、かかる供奉形態の成立背景に関しては、忌部と御巫らによって執行されていた祭儀に、中臣氏が後から加入したとする説が有力である。
 最後に天宇受売命が歌舞を披露し、それに対する神々の声に驚嘆した天照大御神が天の石屋の戸を開いたところを天手力男神がその御手を取って引き出した。この神は『古事記』上巻、天孫降臨にも登場し、邇々芸命の随伴神としての役割を担っている。
天宇受売命の「宇受」は髻華(髪に挿した木の葉・玉)の意で、その後裔は猿女氏であり、鎮魂祭において歌舞奏上などを担当する猿女を貢上した。『古事記』上巻、天孫降臨では天宇受売命を祖としているが、同猿女の君によると、「猿女」というウジ名は天孫降臨の際に先導した猿田毘古を名に負ったものであるという。『日本書紀』神代下、第九段一書第一や『古語拾遺』では天鈿女命を祖としている。伊勢を本拠としていたため(一部は王権に奉仕するべく大和国添上郡稗田に移住)、伊勢の神話・儀礼と関係が深く、志摩の御贄を貢献する海人集団に比定する説もある。『類聚三代格』巻一、神宮司神主祢宜事、弘仁四年(八一三)十月二十八日付太政官符によると、小野氏と和邇氏が、猿女氏が近江国和邇村・山城国小野郷に所有する「養田」を利用し、祭祀に供奉する「猿女」を供出していたため、「氏に非ざるを用ふるを断」つことができれば、「祭祀に濫なし。家門正を得る」として両氏の「猿女」を停廃したという。また、『延喜式』神祇式、四時祭下、鎮魂祭条からは猿女の負名氏としての活動がうかがわれ、『西宮記』巻一四、裏書には延喜二十年(九二〇)に同族の高橋氏から猿女が差点されたとみえる。このように平安中期までは伝統的な職能奉仕を継続していたが、鎌倉期には廃絶したと考えられている。



【参考文献】
・上田正昭「祭官の成立」(『日本古代国家論究』所収、塙書房、一九六八年)。

     「忌部の機能」(『日本古代国家論究』所収、塙書房、一九六八年)。

・岡田荘司「大殿祭と忌部氏」(『神道宗教 』一〇〇、一九八〇年)。

・佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇(吉川弘文館、一九八二年)。

・鷺森浩幸「八・九世紀における中臣氏と神祇官」(『帝塚山大学人文学部紀要』二九、二〇一一年)。

・志田諄一「中臣連」(『古代氏族の性格と伝承』所収、雄山閣出版、一九七一年)。

・田中日佐夫「日本神話と猿女氏」(『講座日本神話』八、有精堂、一九七七年)。

・中村英重「中臣氏の出自と形成」(『古代氏族と宗教祭祀』所収、吉川弘文館、二〇〇四年、初出は一九八六年)。

・藤森馨「平安時代前期の大中臣氏と神宮祭主」(『平安時代の宮廷祭祀と神祇官人』所収、大明堂、二〇〇〇年)。

・前之園亮一「中臣の名義と中臣連」(『古代文化』二七―二、一九七五年。)
      
・黛弘道「中臣氏と藤原氏」(『歴史公論』六―九、一九八〇年)。


〔西村健太郎 日本古代史〕

是万神之聲者、①狭蝿那湏[此二②字以音]満、 万妖悉發。 是以八百万神、於天安之河原神集々而[訓集云都度比]、 高御産巣日神之子、思金神令思[訓金云加③屋]而、 常世長④鳴鳥鳴而、 天安河之河上之天堅石天金山之■(金+截)而、 鍛人天津麻羅而[麻羅二字以音]、 伊斯許理度賣命[自伊下六字以音]令鏡、 玉祖命一令八尺勾⑤■(王+公+心)之五百津之御湏麻流之珠而、 天兒屋命・布刀玉命[布刀二字以音下效此]而、 拔天香山之真男⑥鹿之肩拔而、 天香山之天之波々迦[此三字以音木名]而、 令占⑦合⑧麻迦那波而[自⑨麻下四字以音]、 天香山之五百津真賢木矣根許士尒許士而[自許下五字以音]、 上枝一取著八尺勾■(王+尓+心)五百⑩津之御湏麻流之玉 中枝一取繋八尺鏡[訓八尺云八阿多]、 下枝一取垂⑪白丹寸手青丹寸手而[訓垂云志殿]、 此種々物者、布刀玉命、布刀御獘登取持而、 天兒屋命、布刀詔戸言、禱白而、 天手力男神、隠立戸掖而、 天宇受賣命、手次繋天香山之天之日影而、 ■(糸+日+四+方)之真折而、手草結天香山之小竹葉而[訓小竹云佐々]、 天之石屋戸汙氣[此二字以音]而、■(足+稲の右部)登杼呂許志[此五字以音]、 神懸而、掛二出胸乳、裳⑫緒忍垂於番登也。 尒、高天原動而、八百万神共咲。
【校異】
  ① 真「侠」。道果本以下に従い、「狭」に改める。
  ② 真ナシ。道果本以下に従い、「字」を補う。
  ③ 真・諸本「屋」。延佳本は訓「子」とし、古訓古事記は「尼」に改める。「金」の訓注である点、日本書紀に「思兼神」とある神と同じ神であることを考えると、「尼」若しくは「泥」に改めるべきか。真福寺本の字体は「泥」の異体字である可能性もあるので、訓読文では「泥」を用いた。
  ④ 真「嶋」。道果本以下に従い、「鳴」に改める。
  ⑤ 真「照」。道果本以下伊勢系は「瓊」、兼永本以下卜部系諸本は「■(王+公+心)」。真福寺本の字体は卜部系に近いと思われるので、「■(王+公+心)」とする。
  ⑥ 真「麻」。道果本以下伊勢系は「鹿」、兼永本以下卜部系は「麻」。伊勢系の「鹿」に従う。
  ⑦ 真・諸本「令」。直前にもう一つ「令」があり、ここも「令」では文意が通らない。延佳本・古訓古事記以下の指摘に従い、「合」に改める。
  ⑧ 真「鹿」。道果本「麻」、道祥本・春瑜本「鹿」の右に「麻歟」。兼永本以下卜部系は「麻」。一字一音の部分であり、「鹿」は音仮名で使用されることはないので、「麻」に従う。
  ⑨ 真「鹿」。⑧に同じ。
  ⑩ 真・兼永本以下卜部系ナシ 道果本「津」。道祥本・春瑜本、補入記号アリ左傍書に「津歟」。他の箇所の例(うけひの場面)に従い、「津」を補う。延佳本以下「津之」と補うものが多いが、「之」を入れる必要はあまりないものと思われる。
  ⑪ 真「自」。道果本以下に従い、「白」に改める。
  ⑫ 真は「渚」と見えるが、道果本以下は「緒」。真福寺本では糸偏となるべきところが「氵」となっている例が他にもあるが、混乱しているのか、真福寺本の書き癖としての「糸」の草体であるのかは不明。

そこで、大勢の神々の騒ぐ声は、五月ごろに湧き騒ぐ蠅のように一杯になり、 あらゆるわざわいがすべて起こった。 この事態を受けて、八百万の神が天の安の河原に自ずから集まり、 高御産巣日神の子の思金神に考えさせて、 まず常世の長鳴鳥を集めて鳴かせ、 天の安の河の川上にある堅い石を取り、天の金山の鉄を取って、 鍛冶の天津麻羅を捜し出し、 伊斯許理度売命に命じて鏡を作らせ、 玉祖命に命じて八尺の勾玉を数多く長い緒に貫き通した玉飾りを作らせ、 天児屋命と布刀玉命を呼んで、 天の香山の雄鹿の肩の骨をそっくり抜き取ってきて、 天の香山のははか(カニワ桜)を取って(その皮を焼いて) 鹿の骨を焼いて占わせ、 天の香山の茂った榊を根こそぎ掘り取ってきて、 その上方の枝に八尺の勾玉を数多く長い緒に貫き通した玉飾りをつけ、 中ほどの枝に八咫の鏡をかけ、 下方の枝には白い幣と青い幣をさげて、 このさまざまな品は、布刀玉命が尊い御幣として捧げ持ち、 天児屋命が尊い祝詞を寿ぎ申し上げ、 天手力男神が戸の脇に隠れ立ち、 天宇受売命が天の香山の日影蔓を襷にかけ、 真析蔓を髪飾りにして、天の香山の笹の葉を採物に束ねて手に持ち、 天の石屋の戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、 神がかりして胸乳を露出させ、裳の紐を女陰までおし垂らした。 すると、高天原が鳴り響くほどに数多の神々がどっと笑った。

先頭