古事記ビューアー

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是に、伊耶那岐命、御佩しせる十拳釼を抜きて其の子迦具土神の頸を斬りき。 尒して、其の御刀の前に着きし血、湯津石村に走り就きて成れる神の名は、石析神。 次に根析神。 次に石箇之男神[三神]。 次に御刀の本に着ける血も、湯津石村に走り就きて成れる神の名は、甕速日神。 次に樋速日神。 次に建御雷之男神。亦の名は建布都神[布都二字以レ音。下效レ此]。亦の名は豊布都神[三神]。 次に御刀の手上に集りし血、俣手より漏き出でて成れる神の名は[訓漏云久伎]、闇淤加美神[淤以下三字以音。下效此]。 次に闇御津羽神。 上 の件の石析神より以下、闇御津羽神より以前、并せて八はしらの神は、刀御に因りて生まるる神ぞ。 殺さえし迦具土神の頭に成れる神の名は、正鹿山津見神。 次に胸に成れる神の名は、淤縢山津見神[淤縢二字以音]。 次に腹に成れる神の名は、奥山津見神。 次に陰に成れる神の名は、闇山津見神。 次に左の手に成れる神の名は、志藝山津見神[志藝二字以音]。 次に右の手に成れる神の名は、羽山津見神。 次に左の足に成れる神の名は、原山津見神。 次に右の足に成れる神の名は、戸山津見神[自正鹿山津見神戸山津見神并八神]。 故、斬りたまへる刀の名は天之尾羽張と謂ひ、亦の名は伊都之尾羽張と謂ふ[伊都二字以音]。

○御佩しせる 当該箇所は訓の付し方に問題があり、敬意を示す接頭語「御」が動詞につくか否かを論じる際に取り上げられてきた例である。本注釈では「御」は動詞には付かないとする立場をとり、「ミハカシセル」と訓む。【→補注一】 ○迦具土神 火神。伊耶那美命はこの神を生んだことによって女陰を焼かれて病み臥せってしまい、やがて神避ることとなった(「注釈」(六)(七))参照。なお、火の起源神話については、【補注二】 参照のこと。
○十拳釼 伊耶那岐命が身に帯びていた剣。他の神々の持つ剣の名称としてもしばしば見られ「十掬剣」とも記される。【→補注三】 ツカは記伝以来、四指を並べた長さとされる。助数詞としての「拳」は『古事記』に九例あるが、そのうち五例が「十拳釼」であり、他は「八(や)拳須(つかひげ)(鬚)」(上巻・三貴子の分治、垂仁記)、「天(あめ)の新(にひ)巣(す)の凝(す)烟(す)の、八(や)拳垂(つかた)るまで」(上巻・大国主神の国譲り)、「七拳月+圣」(景行記)である。「七拳月+圣」は倭建命に仕えた膳夫の名であり、他の例と同じく扱うことは避けるべきであろう。ただし、助数詞としての「拳」は上巻に偏っていること、また中下巻の例は須佐之男命との近似性を思わせる本牟智和気の御子や、荒ぶる神々を言向ける倭建命の従者に用いられていることを考慮すると、神話的文脈のなかで使われる助数詞であると意味づけられるかも知れない。
○御刀 「御刀」は記伝が「御刀は、書紀景行ノ御巻に、御刀此ヲ云フ彌(ミ)波(ハ)迦(カ)志(シト)、とあるに依て訓べし」と、景行紀十三年五月の訓注の例を指摘して以来、ミハカシと訓まれている。全書は「御刀」をミタチと訓んでいるが、その理由は明記されていない。景行紀の訓注は襲国の「御刀媛」という人名に対して付されたものである点を意識したのであろうか。『和名抄』によれば刀は「似剣一刃曰刀」とあり、片刃の刀剣を指す名称であるようである。なお、刀以外に「御」を冠する器物の例は全註釈に指摘がある。
○湯津石村 『日本書紀』には「五百箇磐石」(神代上・第五段一書六、一書七)とある。記伝が「師ノ説に、五百(イホ)を約メて由(ユ)と云り」と述べたことを受け、「湯」=「五百」(多数の意)と解されてきた。しかし、延約説を下敷きにしたこの見方には問題があり、松岡静雄や全書が神聖・清浄を表すユ(斎)の意と指摘してから両者は別語と見ることが定説となっている。全註釈は類似した詞章を持つ記57番歌と紀53番歌の「斎つ真椿」(仁徳記)と「百足らず 八十葉の木」(仁徳紀・三十年九月)の対応、また「湯津杜樹」(『日本書紀』神代下・第十段本書)が「枝葉扶疏」(枝葉が繁茂する意)と記されている例を挙げて「湯」=「五百」説を支持しているが、やはり両者は別語と見るのが穏当であろう。ただし、『古事記』の「湯津石村」と一書七の「五百箇磐石」はどちらも剣から滴った血が神へと成る際の媒介としての働きを有しており(一書六は血が磐石となる。ただしこの例も「即此経津主神祖矣」と記されている)、両者の相違は文脈からはあまり積極的に読み取れない。なお、『古事記』には他にユを冠する例として「湯津津間(爪)櫛」「湯津楓(香木)」がある。
○石析神・根析神・石箇之男神 これらの神のうち、石析神・根析神は記伝が「さて此(ノ)神(ノ)名は、石(イハ)根(ネ)拆(サク)と云言を二ツに分(ワカチ)て、二柱に名(ナヅ)けたる物なれば、根(ネ)も石根(イハネ)の意なり」と述べ、でこぼこした岩の上を行く意であると解釈してから、両神の神名は岩石の意で理解することが広く行われている。ただし、記伝の理解を支持する立場でも神格の解釈は異なっており、刀剣神とするか雷神とするかで解釈が割れている。また根析神には神名を木の根の意とする説も提示されており、わずかな分量ながら、これらの神の理解には神名解釈に頼らざるを得ない難しさが現れている。  記伝が示した「石根」(祈年祭祝詞、『万葉集』2・二一〇、2・二一三、20・四四六五など)をもとにした理解は、接尾語「根」だけで「石」の意を表し得る例が見当たらないこと、また真本・兼永本ともに「三神」という注記を添えていることを参照すると、石析神・根析神だけをまとめて見ることは難しいと言わざるを得ないが、そのような姿勢は一理あるように思われる。なぜなら『日本書紀』対応箇所と比較した場合、石析神・根析神に比べて石箇之男神の位置にはやや不安定な様が見て取れるからである。『日本書紀』対応箇所を挙げる。
①復剣の鋒より垂る血、激越きて神と為る。号けて磐裂神と曰す。次に根裂神。次に磐筒男命。一に云はく、磐筒男命及び磐筒女命といふ。(神代上・第五段一書六)
②又曰く、軻遇突智を斬る時に、其の血激越きて、天八十河中に所在る五百箇磐石を染む。因りて化成る神を、号けて磐裂神と曰す。次に根裂神、その児磐筒男神。次に磐筒女神、その児経津主神。(神代上・第五段一書七)
①では『古事記』に類似した所伝を載せながら、磐筒男命と磐筒女命という対偶神と解釈できるような別伝も載せられている。また②では磐筒男神が根裂神の子とされており、『古事記』に見るような「三神」というまとまりは見て取れない。石箇之男神は、石析神・根析神のまとまりに比べて不安定な立場にあると言ってよいであろう。裏を返せば、石箇之男神までまとめて「三神」とする点に『古事記』の主張を読み取るべきであると思われる。迦具土神を斬ることで生まれる八神のうち闇淤加美神・闇御津羽神が「三神」でない理由は、これらの神が「湯津石村」を介して成った神でない点に求められるのではないか。
○甕速日神・樋速日神・建御雷之男神 甕速日神はミ(御)+イカ(厳)+ハヤ(勢いが強い)+ヒ(霊)であろう。同様の神名構成を持つ樋速日神の「樋」は記伝に「乾の意」ととる説がある。建御雷之男神はタケ(建)+ミ(御)+イカ(厳)+ヅ(連体助詞)+チ(霊)で、雷神であろう。これらの神々を考えるにあたって、『日本書紀』に次のようにある点に注目したい。 復劒の鐔より垂る血、激越きて神と為る。号けて甕速日神と曰 す。次に熯速日神。其の甕速日神は、是武甕槌神の祖なり。亦 曰はく、甕速日命。次に熯速日命。次に武甕槌神。  (神代上・第五段一書六)
前の三神も含め、当該段で「三神」と括られる神々は『日本書紀』で伊耶那岐神の子とされない場合がある点が注目される。これらの流動的な在りようを参照すると、「三神」の注記は当該段に現れる神々の関係を確定する意図を読み取ってよいかも知れない。「湯津石村」との関わりで、なお考察の余地がある。
○闇淤加美神・闇御津羽神 クラは峡谷。ヲカミは水を掌る神。『日本書紀』第五段一書六に「号けて闇龗と曰す。次に闇山祇。次に闇罔象。」とある。 ○正鹿山津見神・淤縢山津見神・奧山津見神・闇山津見神・志藝山津見神・羽山津見神・原山津見神・戸山津見神 殺された迦具土神の体から化生した神々。火の神から山の神が化生するのは火山と関わるか。各神名の名義は定かではないが、化生した体の部位と関わりがありそうである。頭に正鹿、胸に淤縢、腹に奧、陰に闇、左手に志藝、右手に羽、左足に原、右足に戸の山の神が出現する。中西進は、これは巨人が横たわった姿を山に擬えているものであり、胸・腹・陰が山の奥まった部分を指し、両手両足は山裾の部分を表しているという(『古事記をよむ1天つ神の世界』一九八五年)。例えばシギは鳥の名で嘴の長いところから山裾を表し、後は「羽」は端、「戸」は山の出入り口という具合である。『古事記』では体の八箇所であり、これは次の黄泉国神話における伊耶那美命の姿や、同じ死体化生型のオホゲツヒメ被殺神話と共通性を持っている。一方、『日本書紀』第五段一書八に「一は首、大山祇に化為る。二は身中、中山祇に化為る。三は手、麓山祇に化為る。四は腰、正勝山祇に化為る。五は足、䨄山祇に化為る。」とあって、八ではなく五つとなっている。この死体化生の神話は、中国の『述異記』に見える盤古神話の中で盤古の死体が「頭為東岳、腹為中岳、左臀為南岳、右臀為北岳、足為西岳、云々」となる話と部分的には似ている。これを直接的に影響関係があるとする見方と、共通の発想に基づくものであって直接的な影響関係を考える必要はないと取る見方とで分かれている。比較をしてみると『日本書紀』の方が盤古神話に近いと思われる。しかしこうした比較は神話の全体像からなされる必要があるので、部分的に似ているかどうかを考えてもあまり有効ではないかも知れない。文献資料として参照し、引用したのかどうかについてを考えるのであれば、文章・言葉のレベルで厳密に比較が為されなければならない。その意味では『述異記』の記述が直接的に影響を与えているのかどうか、判断は難しいところであろう。 ○天之尾羽張、亦の名は伊都之尾羽張 伊耶那岐命が迦具土神を斬るのに使用した剣。先には十拳剣とあった。この点からも十拳剣は固有名詞ではなく、長い剣を指す一般名詞であることがわかる。「天之」は『古事記』の場合、高天原世界の存在であることを示すことが多いが、この神も後には高天原に存在している。「伊都之」は勢威の盛んなこと。『日本書紀』では「稜威」で記されるが、「伊都之男建」(須佐之男の昇天)「伊都能知和岐知和岐弖」(天孫降臨)など『古事記』では一貫して一字一音仮名で書かれ、その都度音注が付される点で、特異さがある。なお、後の葦原中国平定の神話では、建御雷神の親としてこの神が登場する。刀によって成った神ということで親子として位置づけられているのであろうが、これも特異な親子関係である。

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「所御佩(御佩しせる)」の訓

諸写本を確認すると、当該箇所は兼永本以下近世の版本に到るまでミハカセルと「御」を動詞ハクに冠して訓んでいる。記伝は「用(ノ)言にも御(ミ)と云こと、古(ヘ)は記中に御(ミ)寝(ネ)坐(マス)、萬葉に御(ミ) 立(タタ)すなど猶多し」と述べて諸写本傍訓と同じく「御」に動詞はつくという立場を取っている。長らく取られてきたこの訓み方に異を唱えたのが三矢重松『古事記に於ける特殊なる訓法の研究』(文学社、一九二五・二)である。三矢氏は「動詞の頭に『ミ』を添へたる例、いづくにかある」と述べ、「御」は尊敬の助動詞スにあててハカセ(・)ルと訓むことを主張した。以降、諸注釈書の当該箇所の訓み方を整理すると、
 ①記伝の説を支持し、ミハカセルと訓むもの(新講・全註釈・神道・角文・集成・修訂・新版)。
②「御」を敬語補助動詞のマスにあたると見てハキマセルと訓むもの(評釈)。
③三矢氏の説を支持し、ハカセルと訓むことで「御」を訓読に反映させるもの(大成・大系・全書・旧全集・注釈・思想)。※思想の訓読補注では「御」が敬意を表すものの特定訓のない表意無訓字と指摘されている。
④「御」は動詞につかないと見て、ミハカシと名詞で訓むもの(全講・全注)。
⑤「御」は体言相当句に続くことを論じ、ミハカシセルと訓むもの(注解・新全集)。
という五つの立場が示されており、三矢氏の説が後の訓みに大きな影響を与えていることが分かる。
 このような訓みの相違は、「御」が動詞に接続しているらしき表記をどう解釈するかによって起きているものであるが、『古事記』以外の上代文献にも類似した表記を取る例は散見する。それらの例は毛利正守「動詞につく『御』について」(『皇学館大学紀要』第8輯、一九七〇・三)に整理があるが、同氏が挙げる三十三例中、二十例が『古事記』の用例である。『古事記』の訓みを考える場合、「御」が動詞につくか否かを考えることは避けて通れない問題であると言えよう。
 毛利氏は『日本書紀』古訓の検討をもとに「御」が動詞に接続することを説いているが、上代文献の訓読を考える場合、注目すべきはむしろ毛利氏が挙げた次の例ではないかと思われる。
  足(たらし)日女(ひめ) 神(かみ)の尊(みこと)の 魚(な)釣らすと 美多々志世利斯 石(いし)を誰(たれ)見(み)き〈一に云ふ、「鮎(あゆ)釣ると」〉(『万葉集』5・八六九)
 右の『万葉集』の例の語構成を示すなら〈御+立た+し(尊敬の助動詞ス・連用形、以上体言相当句)+せ(サ変動詞・未然形)+り+し〉であろう。訓字表記が主体である〈御+動詞字〉の訓読を考えるうえで、右の音仮名表記の例は「御」が体言相当句に接続することを示した例として注目してよいと思われる。
 さらに山口佳紀「古事記における敬語の表記と訓読―為手尊敬の場合―」(『神田秀夫先 生喜寿記念古事記・日本書紀論集』続群書類従完成会、一九八九・一二、のち『古事記の表記と訓読』有精堂、一九九五・九所収)は同様の語構成を持つ例として、
  美麻旨須留(御座する) 岡に陰なし この梨を 植ゑて生(おほ)して 陰に好(よ)けむも
(『歌経標式』査体)
を挙げるとともに、〈ミ+動詞連用形(体言相当句)+マス〉の形式が存在することを、宣命・祝詞の例を挙げて説いている(門前真一「上代における御の一用法―御立座而と御阿加良毗坐の訓―」『山邊道』創刊号、一九五五・五に同形式を否定する説がある。門前氏には「御」が動詞につかないという立場から論じた一連の論考がある)。確例に基づいて訓む限り、『古事記』の〈御+動詞字〉は山口氏が指摘するように、〈ミ(御)+動詞連用形+ス(為)〉という形式、もしくは〈ミ(御)+動詞未然形+尊敬の助動詞スの連用形+ス(為)〉という形式を当てはめて、「御」を体言相当句に続けて訓むのがよいと考えられる。「御」は動詞に接続しないという立場を支持したい。 〔井上隼人 日本上代文学〕

火の起源神話

火は人類の文明にとってかかすことのできないものだった。多くの研究者が、人類が火を利用して調理をするようになったのは一五〇万年前ほどであろうと推測している。この火の獲得によって、人類が得た恩恵は数限りない。
 火の獲得と言語の獲得は、同じくらいの時期ではないかといわれている。というのも、人類は火を得たことにより、食べられるものの種類が格段に増えた。肉や魚などの動物性タンパク質や米など火を通すことによって食べられるようになったものは多い。このことは、他の動物よりも人類がより大きな脳を持つようになったことに影響していると考えられるのだ。そのことは言語の獲得と深く関わるだろう。食生活の変化は、寿命がのびることにもつながっていく。
 さらに火で暖を取ったり、暗いなかでも活動できるようになったりしたことは、生活空間としての洞窟の利用なども可能にした。
 もちろん、最初から火は自由自在に扱えるものではなかった。はじめは自分で火を起こすこともできなかったため、火山の噴火や森のなかで起こる自然発火などの機を利用する状況だったと考えられる。そうして得た貴重な火を維持するという発想も出てきただろう。そのためには燃料も必要である。
 火は貴重なものであった。だからこそ、火の起源をめぐる神話は、多くの地域で語られている。
  『古事記』では、火は、イザナキとイザナミの間の子として、イザナミが体内から生み出したと伝える。そのことにより、イザナミは大やけどを負い、亡くなってしまう。国土を生み出した偉大な女神が、命と引き替えにもたらしたものが火であったとされる。この場面は死というものがはじめて描かれる場面でもある。
 こののちイザナキは黄泉の国へとイザナミを迎えに行くが、連れ戻すことに失敗し、黄泉の国と生者の世界は分断され、さらに二人の別れの場面では人間の死も定められる。火の誕生の話は、神話を大きく展開させる役割を果たしているといえるだろう。
 ところで、火の起源神話としては、いわゆる「火盗み型」といわれるタイプの神話がよく知られている。もっとも有名な神話は、ギリシャ神話のプロメテウスを主人公とするものであろう。
 ヘシオドスの『仕事と日々』によると、あるときゼウスは、人間たちから火を隠してしまった。そこでプロメテウスが人間たちのために、茎が中空になっている大茴香のなかに火を盗んで隠し、人間たちに与えた。ゼウスはそのことを怒り、火盗みの罰として、人間に一つの災厄を与えることとした。その災厄とは、土を水でこねて人間の声を与えられ、女神に似せて作られた「女」であった。その女は、女神アテナから機織りの術を、女神アフロディテからは色気や恋の苦しみを与えられ、またヘルメスからは不実の心を与えられた。そして神々によって美しく飾り立てられた。神々からあらゆる贈り物を受け取ったその女は「パンドラ(すべての贈り物)」と名付けられ、エピメテウスのもとに送られる。そして人間たちの苦労や病など、あらゆる苦難が詰まった甕のふたを開け、それらをまき散らし、人間たちにさまざまな苦しみを与えることとなった。ただ一つ、希望だけが甕のふちに取り残され、外に出なかったとされる。
 火の獲得は、人間たちにさまざまな恵をもたらしたが、それによって被る必要のなかった災難も得ることとなったと神話は伝えているとみることができる。
 このように火を盗むというタイプの神話は、他の地域にも伝えられる。南米のガラニ族では、火はハゲタカが占有していたとされる。そこで神の子ニアンデルは、死んだふりをして自分の体を腐らせた。腐肉のにおいにつられたハゲタカがよってきて、火で焼いて食べようとすると、突然生き返って暴れ出した。驚いたハゲタカは、火をそのままにして逃げ、ニアンデルはその火を木の中に隠して、誰でもが火を木から取り出して使えるようにしたとする。
 アンダマン諸島で火を持っていたのは創造主ベルガであった。あるとき一羽のカワセミが火のそばにやってきて、火のついた木をくわえて盗んでいった。怒ったベルガは木を投げつけて火傷を負わせたが、カワセミは、無事に人間たちに与えることができたという。
 シベリヤのブリヤート族では、ツバメが火を盗んで人間のもとに運んだとする。そのとき神がツバメに向かって矢を投げたため、ツバメの尾は裂けてしまった。このようにツバメは人間たちに恵をもたらしてくれたため、いまでもツバメが家に巣を作ったら、大事にするものだとされている。
 こうしてみてみると火を盗むタイプの神話は、広い地域にわたって見いだすことができる。特定の地域に特徴的というわけでもない。それは、火が人類にとって通常得がたいものであるということからくる普遍的なイメージか、英雄的な存在が危険を冒して得ていたという時代の神話的な記憶とも考えられるかもしれない。
 イザナミの神話のように、体内から火を取り出すという神話も少なくない。メラネシアのトロブリアンド諸島の神話では、原初のとき、姉妹がイモを食べて暮らしていた。姉はイモを調理して食べていたので、健康だったが、妹は生で食べていたので、いつも体調が悪かった。そこで妹は、出かけるふりをし、姉をのぞいてみた。すると足の間から火を取り出して、イモを調理していた。見られていたことを知った姉は、このことを二人だけの秘密にしようというが、妹は他の人々にも分け与えることを主張し、多くの木に火を付けたという。
 パプアニューギニアの神話によると、かつて人々はヤムイモやタロイモを日干しにして食べていた。あるところに一人の老女と十人の若者がおり、いつも若者たちが出かけている間、老女は体から火を取り出して、自分の分だけ調理して食べていた。あるとき調理したイモが若者の食事に混じってしまう。今まで食べたことのない味に不審を抱いた若者たちは、秘密を探ろうと出かけるふりをして隠れ、老女が足の間から火を出して調理するところをのぞき見た。若者たちはその火を奪うことにし、翌日老女が火を出したときに背後から忍び寄って火を奪って逃げた。
 女性が体内から火を出す話は、パプアニューギニア、メラネシアのほかにもニューギニア、ポリネシア、南米などにもある。環太平洋地域に集中していることがわかるだろう。このことは、火をめぐる普遍的なイメージというよりも、この地域文化の固有のものとして理解されるのが自然だ。イザナミの火の出産の神話は、日本文化の成り立ちの問題からも取り組まれるべき課題だろう。  〔平藤喜久子 比較神話学〕

神剣のイメージと系譜

『古事記』では、多くの場面で神剣が重要な機能をはたしており、『古事記』編者は「神剣」について、何らかの具体的なイメージを持っていたと考えられる。では、それはいかなるものだったのか。手かがりは、奈良県天理市に鎮座する石上神宮の鉄刀にある。
  『古事記』中巻では、神武天皇の大和平定を助けた神剣「佐士布都神(さじふつのかみ)・甕布都神(みかふつのかみ)・布都御魂(ふつのみたま)」は石上神宮に坐すとし、 『古語拾遺』はスサノオノミコトが八岐(俣)大蛇を斬った神剣「天十握剣・天羽切」も石上神宮にありと明記する。つまり、八・九世紀の人々は、石上神宮は神剣を祀り保管する場所であるとの認識をもっていたことになる。
 この石上神宮で最も神聖な禁足地から、明治七年に古代の鉄刀が出土した。その経緯と鉄刀については、大場磐雄が『石上神宮寶物誌』で詳しく紹介している。鉄刀の図面は、教部省へ進達した一件届書添付図面と、覚書『古器彙纂』のものとがあり、この他に木製と鉄製の模造品が残る。それぞれ長さ等は、僅かに異なるものの、全長二尺九寸前後(約八七センチ)、刃は平造りで内反り、茎と共作りの環頭がつく鉄刀であることは間違いない。考古学では「素環頭内反大刀」と呼ばれるもので、禁足地からの出土という点をあわせて考えると、古代、石上神宮に祀られ伝えられた神剣の具体的な姿を示すとみてよい。
 石上神宮の素環頭内反大刀と類似する鉄刀は、福岡県糸島市の平原一号墓、奈良県天理市の東大寺山古墳などで出土している。平原一号墳の年代は弥生時代終末期、東大寺山古墳は古墳時代前期(四世紀)で、さらに、東大寺山古墳から出土した内反りの鉄刀には後漢の年号「中平」(一八四~一八九)を象嵌するものが含まれる。これらの点から、素環頭内反大刀の年代は、弥生時代終末期(二世紀後半)まで遡り、その淵源は大陸に求めることができる。石上神宮に祀られ保管された神剣は、大陸の先進技術で作られ、弥生時代終末期から古墳時代初期に日本列島へともたらされた優れた鉄剣を含み、それが古く切れ味が鋭い神剣の具体的なイメージとなっていた可能性は高い。
 その鉄刀には、どのような外装が施されていたのか。四世紀代の古墳から出土する素環頭大刀では、環頭に重なる形で柄木の木質を残す例が一〇点以上は存在する。石上神宮の鉄刀と類似する東大寺山古墳出土の鉄刀にも同じ痕跡が確認できる。このような柄は、環頭を共作りとした刀身の茎を、柄木の溝に落とし込んで作られており、倭系大刀の外装の特徴である。この外装の特徴、柄の先端(柄頭)から環頭の一部が露出する形は、深谷淳氏などが既に指摘するように、五世紀末期から六世紀代、「捩り環頭」と、三輪玉を付けた「勾金・勾革」を伴う倭系飾り大刀へと系譜をつなげていた。
 捩り環頭の大刀は、列島内各地の主要な古墳に副葬されるだけでなく、その形は古墳に並べられた大刀形埴輪に表現されている。さらに、宗像沖ノ島祭祀遺跡の七号遺跡(六世紀後半)には、鉄芯銀張りの捩り環頭と水晶製三輪玉を伴う倭系の外装を施した刀剣が納められていた。六世紀後半段階の典型例は、奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の石棺内にあった金銅装倭系大刀である。柄の先端に鉄芯金張りの捩り環頭を、柄の側面には金銅製三輪玉を並べた勾金・勾革を付けており、金銅製の双魚佩が伴う。この金銅装倭系大刀は、白石太一郎氏が指摘したとおり、玉纏大刀など九世紀初頭の『皇太神宮儀式帳』が記す神宮御神宝の刀剣類へとつながっていく。
 『古事記』の神剣に対して、『古事記』編者が持っていたイメージには、古墳時代の初期までに日本列島に伝来していた大陸由来の優れた刀剣があった。そして、その刀は四世紀には確立する倭系の刀装具を伴って、『記紀』が編纂された八世紀まで伝来していた可能性が高い。刀剣そのものは中国(後漢)に由来しながらも、刀装具は四世紀までに列島特有の形が成立、それらが一体となり伝統的に受けつがれ、八世紀には神聖な刀剣のイメージとして定着していたと考えてよいだろう。石上神宮で保管され祀られた神剣も、神宮神宝と系統を同じくする倭系大刀の形をとって伝来していたのではないだろうか。  〔笹生衛 考古学・日本古代史〕
 
参考文献
 ・石上神宮編『石上神宮寶物誌』石上神宮 一九二九年
・会下和広「弥生時代の鉄剣・鉄刀について」『日本考古学』第二三号 日本考古学協会 二〇〇七年
 ・深谷淳「金銀装倭系大刀の変遷」『日本考古学』第二六号 日本考古学協会 二〇〇八年
 ・東大寺山古墳研究会編『東大寺山古墳の研究』天理大学付属天理参考館 二〇一〇年
 ・白石太一郎「玉纏大刀考」『国立歴史民俗博物館研究報告』第五〇集 国立歴史民俗博物館 一九九三年

於是伊耶那岐命拔所御佩之十拳釼斬其子迦具土神之頸 尒着其御刀前之血走就湯津石村所成神①名石析神 次根析神 次石箇之男神②三神 次着御刀本血亦走就湯津石村所成神名甕速日神 次樋速日神 次建御雷之男神亦名建布都神[布都二字以音下效此]亦名豊布都神三神 次集御刀之手上血自手俣漏出所成神名[訓漏云久伎]闇淤加美神[淤以下三字以音下效此] 次闇御津羽神 上件自石析神以下闇御津羽神以前并八神者因御刀所生之神者也 所殺迦具土神之於頭所成神名正鹿山津見神 次於胸所成神名淤縢山津見神[淤縢二字以音] 次於腹所成神名奥山津見神 次於陰所成神名闇山津見神 次於左手所成神名志藝山津見神[志藝二字以音] 次於右手所成神名羽山津見神 次於左足所成神名原山津見神 次於右足所成神名戸山津見神[自正鹿山津見神至戸山津見神并八神] 故所斬之刀名謂天之尾羽張亦名謂伊都之尾羽張[伊都二字以音] 【校異】
  ① 真「者」。道果本以下諸本による。
  ② 真 小書。道果本以下諸本、小書双行。後文により改める。

そこで伊耶那岐命は、身に帯びなさっていた十拳剣を抜いて、その子迦具土神の頚を斬りなさった。 そうして、その御刀の前に着いた血が、神聖な石の群にほとばしり着いて、そこから出現した神の名は、石析神。 次に根析神。 次に石箇之男神[三神]である 次に御刀の手本に着いた血もまた、神聖な石の群にほとばしり着いて、そこから出現した神の名は、甕速日神。 次に樋速日神。 次に建御雷之男神、亦の名は建布都神。亦の名は豊布都神[三神]である。 次に御刀の柄に集まった血が、手の指の間から漏れ出て、そこから出現した神の名は、闇淤加美神。 次に闇御津羽神である。 上の件の石析神から後、闇御津羽神まで、あわせて八神は、御刀に因って生れた神である。 殺された迦具土神の頭から出現した神の名は、正鹿山津見神。 次に胸から出現した神の名は、淤縢山津見神。 次に腹から出現した神の名は、奧山津見神。 次に陰から出現した神の名は、闇山津見神。 次に左の手から出現した神の名は、志藝山津見神。 次に右の手から出現した神の名は、羽山津見神。 次に左の足から出現した神の名は、原山津見神。 次に右の足から出現した神の名は、戸山津見神[正鹿山津見神から戸山津見神まで、あわせて八神]。 そして、斬りなさった刀の名は、天之尾羽張と謂い、亦の名は伊都之尾羽張と謂う。

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