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故是かれここを以て、其の速湏佐之男命はやすさのをのみこと、宮造作つくるべきところを出雲国に求めたまひき。 尒して、湏賀すがところいたしてらししく、 吾此あれこのところに来て、こころ湏賀湏賀斯すがすがし」とのらして、 そのところに宮を作りていましき。 故、そのところは今に湏賀と云ふ。 の大神、初め湏賀の宮作らしし時に、 そのところより雲立ちのぼりき。 尒して、御歌を作りき。 其の歌にひしく、 くも出雲いづも八重やへがき つまみに 八重やへ垣作がきつくる その八重やへがき ここに、其の鉄神づちのかみして、 りてひしく、「汝は我が宮のおびとささむ」といひき。 また名をほせて稲田いなだ宮主みやぬし湏賀すが八耳神やつみみのかみなづけき。

○湏賀の地 クシナダヒメとの結婚に際し、何故須賀の地に移動するのか。ひとつにはスサノヲの心の内を表明するために選択された地名である可能性がある(次項参照)が、具体的に須賀という地の持つ意味合いも関わっているのではなかろうか。『日本書紀』の一書一を見ると、八俣大蛇退治の神話は無く、出雲の簸の川上への降臨と稲田媛との結婚・出産のみ描かれており、特に地名は記されないが、生まれた子神の名が三通り記されており、その三通りともに「清」の字が冠されている。そしてその子神の五世孫が大国主神であるとする。一方で一書の二・三・四には大蛇退治の話はあるが、スガの地は描かれない。従ってスガの地は大蛇退治の話とはそれほど密接な関係を持つ場所ではなく、クシナダヒメとの結婚、更には子神、特に大国主神誕生の地として位置付けられているということになるのではないか。スガについては、『出雲国風土記』の意宇郡に「野代川。源は郡家の西南一十八里なる須我山より出で、北へ流れて入海に入る」、大原郡に「東北の須我の小川の湯渕の村の中に温泉あり」「須我山。郡家の東北一十九里一百八十歩。檜、枌有り」「須我の小川。源は須我山より出で、西へ流る」と見える。須我山は大原郡の中に記載されるが、意宇郡と大原郡との堺にあり、それ故に意宇郡の野代川、大原郡の須我の小川の水源の山として位置付けられている。その須我の小川は出雲の大川、即ち斐伊川に流れ込んでいる。つまり八俣大蛇退治の舞台である鳥髪山と、クシナダヒメとの結婚の舞台である須我の地とは、斐伊川を通じて繋がっているということになる。須我の地は、例えば宣長は熊野神社のある地と同じであると説いている。須我の地と出雲の熊野の地を同一と見ることは出来ないが、そう思われるほどに、須我の地は東出雲の中心であったと思しき熊野神社のある地に近接している。そして斐伊川は出雲大社のある地の方向に流れ込んでいく。或いはそのような地理関係が、鳥髪の地と須我の地とを結びつける要因になっているのかも知れないが、あくまでも推論の域をでない(以上の説明は谷口「『古事記』八岐大蛇退治神話の空間認識」『上代文学研究論集』一号、二〇一七年三月、の内容に基づく)。今、島根県雲南市大東町須賀の地に須我神社がある。須賀の地名と神社名との関係等については本書の論考編に藤本頼生氏の論文が掲載されているので、参照願いたい。 ○湏賀湏賀斯 『日本書紀』神代上八段本書に、「遂に出雲の清地に到りたまふ。清地、此には素鵝と云ふ。乃ち言して曰はく、「吾が心清清し」とのたまふ」とあるのによれば、スガは「清」。この語、清らかさを示す言葉として理解されているが、上代文献には用例があまり見られない。仁徳記の歌(64番歌)で、八田若郎女のことを「菅原」に喩えた上で、言葉では菅原と言っているが、実は「阿多良須賀志売(惜ら清し女)」のことを言っているのだ、という詞章が見える。また『播磨国風土記』揖保郡に次のような話が載っている。
菅生山。菅、山の辺に生ふ。故れ、菅生と曰ふ。一ひと云ふ、品太の天皇、巡り行しましし時に、井をこの岡に闢りたまひしに、水甚清く寒かりき。是に、勅曰りたまひしく、「水の清く寒きに由りて、吾がみ意、そがそがし(宗々我々志)」とのりたまひき。故れ、宗我富と曰ふ。
 「宗々我々志」をスガスガシと訓むテキストもあるが、「宗」は上代文献では「ソ(甲類)」の仮名として用いられている語なので、スガスガシの音の変化したものとして「そがそがし」と訓むべきものと思われる。いずれにしても意味的には清らかな心のありようを示すものと見られる。  スサノヲは心の清明を疑われてそれを〈うけひ〉による女神生みで晴らし、その後「勝ちさび」で乱行に到ったわけだが、心の清明が本当に証されるのはこの場面であると捉えることも出来る。なお、新編全集『日本書紀』は93ページ頭注で、「スガは滞りなくすくすく過ぎ行き快いさまをいう」と説明しているが、根拠は不明。もしそれが言えるとするならば、その反対語が「タギタギシ」ということになるかも知れないが、この語が心のありようを示す語として認めうるかどうかは問題がある。
○御歌を作りき 『古事記』における歌の初出。『古事記』の歌は登場人物が歌う、所謂当事者詠を基本とする。その点、多く第三者詠の形をとる『日本書紀』とは異なる。登場人物が自身の内面を吐露したり、他者に心情や事柄を伝達したりする役割を担っている。その意味では会話文と共通する機能を持っているということが言える。歌と会話文との関係性については、青木周平「古事記における会話文の性格」(『古事記研究―歌と神話の文学的表現―』おうふう、一九九四年十二月。初出は一九八九年十二月)他、一連の論考がある。【→補注一】 ○八雲立つ出雲 地名「出雲」にかかる枕詞的修飾語には「八雲立つ」の他にも「やつめさす[夜都米佐須]出雲」(『古事記』23番歌・景行記)、「やくもさす[八雲刺]出雲」(『万葉集』巻三・四三〇)があり、託宣の言葉と見られるものとして「玉菨鎮石出雲人」(『日本書紀』崇神天皇六十年)の例もある。地名にかかる枕詞には基本的に称辞としての意味がある。「八雲立つ出雲」の場合は、生命力あふれる雲の沸き立つ地である出雲という意味でかかり、「やつめさす出雲」の場合は、「藻(芽)」の生命力が発現する地という意味で「出づ藻(芽)」にかかるものと思われる。但し、どちらがより古い表現であるかは確定できない。それぞれの枕詞の発生に関与していると思われる『崇神紀』六十年の神託と、『出雲国風土記』意宇郡の国引き神話冒頭、八束水臣津野命の「八雲立つ出雲国は、初国小さく作らせり」の発話はどちらも古い口承的要素を有していると見られるからである。しかし、文字表現から考えた場合、イヅモという地名に「出雲」という文字があてられるようになってから初めて「八雲立つ」という枕詞が冠されるようになったと捉えることが出来るかも知れない。「出雲」という表記によって、「藻(芽)」の意味が忘れ去られ、「雲」のイメージが固定化した可能性はあるが、逆に「出雲」という表記から後に「藻」の意味が見出されるというのは考えにくいからである。そもそもイヅモの語義が何であったのか、ということと、枕詞の問題とが関わっているのではなかろうか。本来的にイヅモと「雲」とが意味上で関わっていたのかどうか。イヅルクモ(出づる雲)からイヅモへの音韻変化と考えるよりは、イヅルモ(出づる藻)がそもそもの地名の意であったと考える方が分かりやすいようには思われる。尤も地名の語義はなかなか明確にはし得ないので、どちらが原義であったと判定することは困難であるし、全く別の意であった可能性もあろう。【→補注二】 【→補注三】 ○出雲八重垣 幾重にも張りめぐらした垣。前項「八雲立つ」を実景と見る説(記伝)では、「出雲」も立ち上る雲の意となるが、「八雲立つ出雲」を、讃美されたひとかたまりの地名表現として見ることが出来る。「垣」は婚姻の場所。【→補注四】 ○妻籠みに 「籠み」は、『古事記』では上二段動詞「籠む」の連用形になっているが、『日本書紀』には「妻籠めに(菟磨語昧爾)」とあって、下二段動詞の連用形となっている。これについては、上二段が古く下二段の方が新しい活用であって、ともに他動詞で「籠もらせる」の意であるとされるが、それで良いかどうか。「妻」は、記伝などは夫婦共に指しているとするが、「ツマ」は配偶者を指す語なので、どちらかを指すことになる。物語に照らし合わせれば、クシナダヒメを指すことになる。 ○足名鉄神 既出(古事記注釈二十一)の「足名椎」に同じ。ここのみ「鉄」の字が使われている理由は不明。『日本書紀』の表記は「脚摩乳」であった。「神」が付くのもここのみ。 ○首 首は大人(オホヒト)の約で、古くは統率者を意味する語であったものが、カバネの一つとなり、地方の県主・稲置および部民の統率者、および屯倉の管掌者に与えられたとされる(思想大系補注)。【→補注五】 ○稲田の宮主湏賀の八耳神 『日本書紀』神代上八段正文には、「因りて勅して曰はく、「吾が児の宮の首は、脚摩乳・手摩乳なり」とのたまふ。故、号を二神に賜ひて、稲田宮主神と曰ふ」とあって、『古事記』とは異なる。その他、一書一には「稲田宮主簀狭之八箇耳」の娘の「稲田媛」が「清繋名坂軽彦八島手命」を生み、一書二では「彼処に神有り。名けて脚摩手摩と曰ふ。その妻、名けて稲田宮主簀狭之八箇耳と曰ふ」とあって稲田媛の母神が「宮主」となっている。

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歌と散文との関わり

 『古事記』『日本書紀』(以下、記紀)に記載された歌については、きわめて単純化して言えば、それぞれの物語の中において解釈する方法と、歌を物語から切り離して解釈する方法とが行われてきた。契沖・宣長・守部等の注釈では、基本的に歌は物語との関係において解釈がなされてきたが、記紀の歌を「古代歌謡」研究の対象として捉える立場からは、記紀の歌を記載された歌のレベルから「歌謡」のレベルへと変換させることでその研究を成り立たせて来たように思われる。とりわけ土橋寛が「独立歌謡」という概念を記紀歌謡研究に取り入れて以降、記紀に記載された歌が記紀に取り込まれる以前の姿を、場の問題と絡めて説くことが主流となった時期もあった。独立歌謡論的立場から見た場合、例えばスサノヲの歌は本来、首長層の跡取り息子の婚姻の際に、新婚夫婦のために新居が作られ、その棟上げの儀式等の際に歌われた歌謡であった、等ということになる。また、独立歌謡論では多くの歌が「ウタガキ」の場で歌われた歌として認定されるようになっている。
 独立歌謡論が記紀の研究に有効性を持つとすれば、本来その歌が持っていた集団的・儀礼的な意味や機能がそれぞれの物語の成立や性質にいかに寄与しているかを検討するところにあろう。記紀以前の姿を知ることで、その歌が各物語にどのような味付けをすることが可能となっているのか、読み手はその歌によってどのような感情を呼び起こされたのか、等を理解することが出来るかも知れない。但し、記紀以前の姿を説くための資料は記紀そのものでしかないこと、参考とされる資料は主として近代以降のものであること等については留意しておかなければならない。
 現状、独立歌謡論は既に行き着くところに行き着いている感があり、近年では記紀内において、それぞれの歌のもつ意義・機能について検討するのが主流であると思われるが、本来的に他の文脈(儀礼の場などを含む)において歌われていた歌が物語に取り込まれた際に、歌と物語との間で齟齬を生じていると見られる場合は少なくない。かつてはその齟齬が独立歌謡論の根拠ともなっていたが、それらは齟齬やズレとして捉えるべきものではなく、物語との関係において必然性をもって表現されたものと捉えられるようにもなってきた。その結果、強引な解釈が行われるようにもなったように思われるが、そもそも歌と散文という異なる表現の組み合わせを整合的に理解しようとする見方に問題があるのかも知れない。歌と散文、この二種類の異なる表現方法を混在させることで、物語を多義的に描こうとする手法があるのではないか。すでにそうした見方で論じられたものも見受けられる。本注釈では、この歌と散文との、異なる表現の混在という点を視野に入れつつ読みすすめたいと考えている。
〔谷口雅博 日本上代文学〕

「八雲立つ」歌の受容と展開 一

 須賀の宮を造営するに際し、須佐之男命は「八雲立つ…」という歌を詠む。『古事記』において「歌」が登場するのは、ここが最初である。『古事記』『日本書紀』は歴史書でありながら多くの「歌」を収載している。両書がそれぞれ百首を超す歌を収載しているという事実からは、奈良時代においては歴史叙述の方法として「歌」の記載が有効だと考えられていたことが窺える。歴史書が「歌」を必要としているという事態は、『万葉集』の「歌」の排列が(特にその巻一・二の編集方針が)歴史書的な構成をとるという事態と、一対の問題として捉えなければなるまい。「歌」が歴史上に定位可能だとする思考は、「歌」を反復可能な伝承歌謡としては捉えず、それを一回的な所産と捉える認識に基づいている。その認識は「歌」を個人の所産と看做す思考にも結び付くことになる。 
 『古事記』『日本書紀』に収載される「歌」は、「記紀歌謡」と呼称されるのが通例である。各国風土記所収のものや、『続日本紀』所収のものも併せて「古代歌謡」とか「上代歌謡」と呼称されることもある。この「歌謡」という概念把握の方法についても再検討が必要であろう。呼称についての歴史を辿れば、『釈日本紀』においては「和歌」という項目が立てられていた。契沖の『厚顔抄』でも「日本紀和歌」「古事記和歌」と呼ばれ、賀茂真淵もこれを踏襲している。また林諸鳥『紀記歌集』、荒木田久老『日本紀歌解槻乃落葉』は「紀記歌」「日本紀歌」と呼称する。つまり注釈史的には「歌謡」という呼称が自明のものとしてあったわけではない。その中で、内山真龍『古事記謡歌註』が「謡歌」という認識を示しており、記紀歌謡という呼称の先蹤を成す。真龍は、記紀の歌が「雅楽寮の謡物」だと考えているので、積極的に「謡歌」と呼称したのであろう。
 記紀の歌が「歌謡」と呼称される理由としては、およそ次のようなものが考えられる。
 ①『日本書紀』に「謡歌」「童謡」「謡」という呼称が見られる。
 ② 歌が作中人物による音声表現として表示されている。『日本書紀』では「口号」「口唱」「高唱」といった動詞によって、『古事記』では「歌ふ」という動詞によって、歌詞が導かれる。またそれが作中人物によって「聞」き取られるという描写も見られる。
 ③「琴」「口鼓」といった楽器伴奏を伴う表現が見られる。
 ④「舞」とともに歌われるというような芸能性や、「技を為す」「笑ふ」などの身体動作を伴う表現が見られる。
 ⑤「ええ しやごしや」「あせを」といった囃子詞が見られる。
 ⑥「本岐歌の片歌」「志都歌の歌返」「夷振の上歌」といった歌曲名が付けられている。
 ⑦ 「今、楽府に此の歌を奏ふときには」(神武即位前紀)といった注記が見られ、「楽府」で伝習されていたことがわかる。
 ⑧ 平安初期の古楽譜『琴歌譜』に、記紀歌謡との重出歌がいくつか見られる。また歌曲名が一致するものもある。
 ⑨ 歌体・音数律が不統一である。
 右のうち、①については中国史書の記述方法を模倣したことが明らかであり、それが歌唱されていたことを直接証するものではない。しかし中国史書の方法も、「謡」が伝誦流布されるものであるという認識が前提としてある。②~⑦については、すべて記述内部のことであるから、やはり直接的な証拠ではない。ただ、その記述に音声への志向が見られることと、書物の外部情報に連絡しようとする意識が見られることも慥かである。それと対応する外部情報が⑧である。⑧のみが記紀外部の傍証となるが、『琴歌譜』の存在が、記紀の歌が「歌謡」であることを実証するものであり、また記紀内部の記述の客観的信憑性を保証するものともなっている。しかし、『琴歌譜』を記紀の影響下に成った書物と位置付けるなら、その客観性も揺らぐことになる。⑨は「歌謡」であることを直接指示する根拠ではないのだが、記紀の歌の位相を端的に示す特色であり、『万葉集』との比較において言えば、「書かれた歌」よりも「声の歌」に近い形態であるとは言えるだろう。従って、「記紀歌謡」という呼称にはそれなりの論拠と必然性があり、不当な呼称とまでは言えない。
 しかし事実としては、記紀の歌は音声ではなく文字で書かれており、記紀の歴史叙述の中に位置を与えられ、記述の一部を形成している。「歌謡」としての志向と可能性を内包しつつも、同時に「作中歌」として記述の形成に寄与しているという両義的な存在が「記紀歌謡」であるということになる。「八雲立つ」歌について言えば、須佐之男は「作御歌」したと記述されている。この「作」は『万葉集』題詞の記述に近似し、「創作した」というニュアンスが強い。つまり当該箇所の記述には「歌謡」性への志向が乏しいということになる。そのことは、後で検討する歌体の問題とも相関性があると思われる。
 従って、いわゆる記紀歌謡を検討する観点としては、
 Ⅰ 記紀成立以前の「原歌謡」の推定と原義
 Ⅱ 記紀「作中歌」としての表現性と機能
 Ⅲ 記紀成立以後の受容・影響
という三つの段階が想定されることになる。問題は、この三段階の弁別が実際にはそれほど簡明ではないということにある。『琴歌譜』はⅠを実証するように見えて、実はⅡと資料的に同質な面もあり、あるいはⅢに位置付けることも可能である。Ⅰは、結局Ⅱを通しての推測でしかないというところに弱点があるが、Ⅱの内部に論理的矛盾があれば、その矛盾の解決策としてⅠを措定することも許されるのではないか。
 「八雲立つ」歌の場合、Ⅰとして「新室寿の歌」(相磯『全註解』)、「新婚を祝う祝宴の歌」(土橋『全注釈』)、「作業歌」「神事歌謡」(山路『評釈』)などと説かれているのだが、そうした推測を実証する資料があるわけではない。Ⅱから須佐之男という固有名を除去することによって、普遍性を持たせようとすれば、およそ右のような推測が成り立つということである。諸説は、この歌が伝承され反復される儀式歌謡であり、本来は「集団的」な歌謡であったという見方で一致している。
 Ⅱについて言えば、この歌が須佐之男という「個人」の発話であり、「一回的」な心情を語るものとして配置されていることに着目しなければなるまい。成人年齢に達しても泣き止まず、次々と問題を起こしていた須佐之男が、「大神」となり、「宮」を構えるまでに成長し、心の安定を得たことを示すものとしてこの歌が置かれている(土佐秀里「歌うスサノヲ」『古代文学の思想と表現』新典社・平12)。「つまごみに」は、いかにも須佐之男らしい「荒っぽい愛情」を示す語として捉えることもできよう。
 Ⅲとしては、『古今和歌集』以後の「和歌の起源」という言説があり(前掲拙稿)、また「八雲神詠」としての秘儀化(三輪正胤『歌学秘伝の研究』風間書房・平6)という問題がある。基本的に当該歌の受容は、権威化や神秘化の方向を辿ることになる。
 また、ⅠとⅢの両方に関わってくることがらとして、「八雲立つ」の類句の存在をどう理解すべきかという問題もある。「八雲立出雲」の語は『出雲国風土記』(総記および意宇郡)にも見え、崇神紀六十年条にも「八雲立つ出雲武が」(紀二〇歌)とあるが、他に「やつめさす出雲建が」(景行記・二三歌)とか、「やくもさす出雲の子等が」(万葉3―四三〇)という語も見られる。また『続日本紀』天平六年二月の朱雀門歌垣記事中には「八裳刺曲」という歌曲名があり、「やつもさす」で始まる歌が詠唱されたらしい。「やくもたつ」「やくもさす」「やつめさす」「やつもさす」の先後関係・影響関係については諸説あるものの、確定できてはいない。つまりどれが古態をとどめる原型で、どれが享受史的転訛であるのかは、容易には判断し難いということである。
 いずれにしても「八雲立つ」に異伝ないし派生語が存在するという事実は、この語の伝承性を示唆するものであろう。このことは歌の「原型」推定という議論も併せて、歌の新旧という問題に波及する。すなわち、「八雲立つ」歌は古態を有する伝承歌なのか、それとも比較的新しい創作歌なのか、ということである。古態であることを主張する根拠としては、「八重垣」という語が三回も繰り返されるという構成の単純さが挙げられるだろう。後代の歌論歌学の視点からは、いかにも拙劣な歌ということになろうし、それゆえにこそ古朴を伝えるとの評価も出てこよう。この繰り返しの多さを「歌謡」的と評すべきかどうかということになるわけだが、しかしその判断は、結局のところ論者の主観的感覚に左右されるものでしかない。
 問題は、「歌の新旧」というよりも、歌の「位相」の違いだと言い直すべきであろう。「歌謡」だから「古い」ということにはならない。「歌」にもさまざまな位相があり、記載歌・創作歌と口誦の歌謡との間には位相差がある。歌体の問題は、歌の位相の問題として捉えられる。そこで改めて重要な問題となるのが、この「八雲立つ」歌が五七五七七という形式を備えた整然たる「短歌体」だという点である。
 記紀歌謡は句数および各句の音数が多様であり、短歌体以外にもさまざまな歌体がある。句の認定の仕方によっては変動する可能性があるが、各句の音数は、短いものは二音、長いものは十音に及び、かなりのばらつきがある。四音・六音・八音の句も多く、五音・七音句が中心だとは言えない。また一首の句数も三句から四十九句まで相当の広がりがあり、短歌体のような五句体が主流だとは言えない。また、同じ五句体でも「三七五六七」「四五五六六」「四六五六七」などさまざまな歌体が存在する。当該歌のように「五七五七七」の完形を有する歌は、大系『古代歌謡集』の歌数で言えば、『古事記』百十二首中わずか十八首しかない。近似する「四七五七七」六首と「五七五七八」六首を加えてみても三十首で、全体の四分の一強を占めるに過ぎない。
 この事実からは、「八雲立つ」歌が記紀歌謡としてはあまりに形式が整い過ぎているという結論を導き出さざるを得ず、歌体だけで判断するなら、『万葉集』の歌のあり方に近いものだということになる。すでに久米常民氏が、当該歌について「あの短歌形式のものが、そのまま唱詠されたという風には絶対に思考することは出来ない」と言い、「表記の結果が、いわゆる短歌体になったのである」(『万葉歌謡論』角川書店・昭54 )と述べており、また太田善麿氏も、短歌定型は「文字記載を契機として成立した」(『古代日本文学思潮論Ⅳ』桜楓社・昭41)と論じているところである。こうした考えに従うなら、短歌体の「八雲立つ」歌は、伝承歌謡そのものの姿を伝えるものではないということになる。
 短歌体に整理される以前の「原型」を推定するという考え方があるかもしれないが、仮にもしそのようなものがあったとしても、それは類歌とか類想の歌なのであって、もはや歌としては別物だと考えなければならない。実際に記紀歌謡にさまざまな歌体が見られる以上、記紀が歌謡を「短歌体に整理しようとした」とは言えない。つまり「八雲立つ」歌は、どこまでも短歌体の歌として理解し、解釈する必要がある。整然とした短歌体であったからこそ、「八雲立つ」歌は平安朝以後の言説において「和歌」の起源とされたわけだが、そうした理解は、案外この歌の本質を正確に捉えていたのかもしれない。
〔土佐秀里 日本上代文学〕

「八雲立つ」詠の受容と展開 二

 「八雲立つ」詠は『古今集』の両序では、初めて三十一文字の歌として詠まれたもので、和歌の体がここに確立された、とされる。仮名序では「ちはやぶる神世にはうたの文字もさだまらずすなほにして事の心わきがたかりけらし。人の世となりて、すさのをのみことよりぞ三十文字あまり一文字はよみける」とあり、初めは歌の字数は様々だったが、スサノヲのために三十一字となった。一方、真名序では「然而神世七代時、質人淳情欲無分、和歌未作、逮于素戔烏尊、到出雲国、始有三十一字之詠。今反歌之作也。其後、雖天神之孫海童之女、莫不以和歌通情者。」と、やや見解が異なる。仮名序では、歌はあったが、形はスサノヲ以前では整っていなかったとするが、真名序では「和歌はない」という。ただ、この「和歌はない」というのは、形式が未確定だったとも解釈し得る。ところが、多くの歌論は和歌の起源説を『古今集』両序から引用するが、原始的な歌から確立された形式への進展は、実は『古今集』が初めて提示したのではない。藤原浜成の『歌経標式』(宝亀三年(七七二)成立)に「昔、自一橋之下男女定陰陽之義、八島之上山川分流岐之義(割注 事見日本紀也)、神明感猶寄詞於歌詠、精誡所応莫不資其謳吟。素盞烏尊之詠出編簡而不朽。」とあって、おおむね仮名序と同様の内容だといえる。しかし、『古今集』両序は『歌経標式』そのものを意識して書かれたのか、平安時代初期の当時の歌人の常識を反映しただけなのか、議論の余地があろう。しかし、『歌経標式』にしても『古今集』にしても、『日本書紀』の記述が基本となったことは確かである。
 『古今集』両序を受け、五七五七七形式の和歌は「八雲立つ」詠に始まったということが、広く歌人の常識になっていくことは、勅撰集等の序文、『古今集』の古注釈、平安時代以往の歌論書等をみて明らかだ。例えば、『新古今集』仮名序では「やまとうたは、むかし、天地ひらけはじめて、人のしわざ未ださだまらざりし時、葦原中国の言の葉として、稲田姫素鵝の里よりぞつたはれりける」とあり、スサノヲの稲田姫求婚神話から「八雲立つ」詠を想起させる。院政期では、源俊頼著『俊頼髄脳』は「八雲立つ」詠について「これなむ句をととのへ、文字の数をさだめ給へる歌のはじめなる」とする。『古今集』では、和歌は大陸由来の詩・文に劣らない国風詩歌であることを主張して、その始原をスサノヲ神話に求めた。それ以後、同様の認識が引き継がれていくこととなるが、その論の発展は、例えば永仁三年(一二九五)成立の歌論書『野守鏡』のように、礼楽思想とも結びつき、「(前略)素盞烏尊五章をかね、音律のかずをわかちて、三十一字にさだめ給へり。しかあれば、和歌よく礼楽をととのふるが故に、国をさまりて、異敵のためにもやぶられず」とされるに至る。
 表現としては、「八雲立つ」詠は三つの特徴的な語句を有する。則ち、「八雲立つ」、「八重垣」、そして「妻籠め」である。
 まず、「八雲立つ」という表現は、「やくもたついづもやへがきけふまでもむかしのあとはへだてざりけり」(『続古今集』1774)のように、スサノヲの「八雲立つ」詠を踏まえる歌が数多くある。また、「君が世は八雲の空のはじめよりよむともつきじ和かの浦浪」(『正治初度百首』1703)のように、神代より続く和歌の伝統を表現する場合にもよく用いられる。一方、「ふるさとのはなのみやこにすみわびてやくもたつてふいづもへぞゆく」(『後拾遺集』496)等、出雲国との関連で詠まれることや、ときには「八雲たついづもの国のてまのせきのてまとなづけしよしもしられず」(『古今和歌六帖』1026)同様、さらに出雲国の地名(手間の関)を導く言葉としても使われる。ちなみに、「八雲」は現在では「幾重にも重なる雲」と解釈することが多いが、平安時代(例えば前掲の『俊頼髄脳』、藤原清輔著『奥義抄』、藤原俊成著『古来風体抄』等)では「八色の雲」と解釈することが多かったようだ。
 「八重垣」も「すさのをのみことをいのるともなしにこえてぞみましなみのやへがき」(『和泉式部集』260)のように、スサノヲ詠を意識する歌が多くみられる。一方、立派な屋敷という意で用いられることもある(「霜がれのあしかる人のやどなれど八重がきにしてすまふなりけり」『堀河百首』972)が、それでも多くの場合は「八雲立つ」詠が脳裏にあるだろう。
 最後に、「妻籠め」もやはり「八雲立つ」詠を意識する場合もあった(「つまこめし神のやへがきしげくともみだのひかりのささざらめやは」『散木奇歌集』928)。しかし、必ずしもそうとは限らない。例えば、「しかまつのくずのしげみにつまこめてとがみが原にをしか鳴くなり」(『西行法師集』630)は隠れた雌鹿を牡鹿が慕う描写にも用いられる。一方、上記の両方を合わせた歌には、例えば「山里のきりのやへがきつまこめてなけどもしかのこゑはへだてず」(『雅有集』323)がある。
(右では、和歌の引用・歌番号は古典ライブラリー提供『新編国歌大観』オンライン版、その他の引用は佐佐木信綱・久曽神昇編『日本歌学大系』(風間書院)による)
〔スピアーズ・スコット 日本中世文学、和歌文学〕

出雲八重垣―「垣」と婚姻

 婚姻の場としての「垣」が関わる例としては以下のものを挙げることが出来る(引用は小学館新編全集本による)。
 A『日本書紀』武烈即位前紀
  是に由りて、太子、影媛が袖を放ち、移り廻り前に向みて立ちたまひ、直に鮪に当ひて、歌して曰はく、
   87潮瀬の 波折を見れば 泳びくる 鮪が鰭手に 妻立てり見ゆ
                     〔一本に、「潮瀬」を以ちて「水門」に易ふ。〕
  とのたまふ。鮪、答歌して曰さく、
   88臣の子の 八重や韓垣 ゆるせとや御子
  とまをす。太子、歌して曰はく、
   89大太刀を たれはき立ちて 抜かずとも 末果しても 会はむとぞ思ふ
  とのたまふ。鮪臣、答歌して曰さく、
   90大君の 八重の組垣 懸かめども 汝を編ましじみ 懸かぬ組垣
  とまをす。太子、歌して曰はく、
   91臣の子の 八節の柴垣 下動み 地震が揺り来ば 破れむ柴垣
                〔一本に、「八節の柴垣」を以ちて「八重韓垣」に易ふ。〕
 B『古事記』清寧天皇条
  故、天の下を治めむとせし間に、平群臣の祖、名は志毘臣、歌垣に立ちて、其の袁祁命の婚はむとせし美人が手を取りき。其の嬢子は、菟田首等が女、名は大魚ぞ。爾くして、袁祁命も、亦、歌垣に立ちき。是に、志毘臣が歌ひて曰はく、
   105大宮の 彼つ端手 隅傾けり
  如此歌ひて、其の歌の末を乞ひし時に、袁祁命の歌ひて曰はく、
   106大匠 劣みこそ 隅傾けれ
  爾くして、志毘臣、亦、歌ひて曰はく、
   107大君の 心を緩み 臣の子の 八重の柴垣 入り立たずあり
  是に、王子、亦、歌ひて曰はく、
   108潮瀬の 波折りを見れば 遊び来る 鮪が端手に 妻立てり見ゆ
  爾くして、志毘臣、愈よ怒りて歌ひて曰はく、
   109大君の 御子の柴垣 八節縛り 縛り廻し 切れむ柴垣 焼けむ柴垣
  爾くして、王子、亦、歌ひて曰はく、
   110大魚よし 鮪突く海人よ 其が離れば 心恋しけむ 鮪突く志毘
  如此歌ひて、闘ひ明して各退きき。明くる旦の時に、意祁命・袁祁命二柱の議りて云はく、「凡そ、朝廷の人等は、旦は朝廷に参ゐ赴き、昼は志毘が門に集へり。亦、今は志毘、必ず寝ねたらむ。亦、其の門に人無けむ。故、今に非ずは、謀るべきこと難けむ」といひて、即ち軍を興して志毘臣が家を囲みて、乃ち殺しき。
 C『古事記』雄略天皇条
  爾くして、赤猪子が泣く涙、悉く其の服たる丹揩の袖を湿しき。其の大御歌に答へて、歌ひて曰はく、
   93御諸に 築くや玉垣 つき余し 誰にかも依らむ 神の宮人
 スサノヲの歌は妻を八重垣の中に籠もらせると歌うものであるが、この発想は、古代の婚姻と垣との関係から来ているものかも知れない。具体的なことは良く分からないが、記紀の歌の中には婚姻と垣との関係を示す例がいくつか見出せる。Aは、太子(後の武烈天皇)と家臣(平群臣鮪)が一人の女性(影媛)をめぐって「海柘榴市の巷」の「歌場」(宇多我岐の訓注あり)において歌の応酬を行う場面である。88歌では鮪が「臣下の家の幾重にも囲んだ韓垣―外国風の堅固で立派な垣―の内に影媛を囲っているのだが、それをゆるめて差し出せというのか、皇子よ」と歌い、更に90の歌で「皇子の家の幾重にも囲んだ組み垣を編もうと思いますが、あなたは気に入らないでしょうから、編んでやりません」と歌う。つまり鮪は、自分には妻を囲う立派な垣があるが、太子にはそれが無いこと―影媛を得られないことを言い放っている。それに対して太子は、「臣下の編み目の多い柴垣も、地震が来たならば壊れてしまう柴垣だ」と歌って貶めるというような悪口歌の応酬となっている。太子の歌は「一本」では「韓垣」となっているが、「柴垣」の方が貶めた感じが良く出ているように思われる。悪口歌の応酬の中で使われている語ではあるが、幾重にもめぐらした「垣」の中に妻を籠もらせることが婚姻の成就を表す意味を担っているようではある。BはAとほぼ同じ状況下で歌われた歌々であるが、時代と登場人物が異なっている。王子(後の顕宗天皇)が臣下の平群臣志毘と、大魚という娘子をめぐって、やはり「歌垣」の場で歌の掛け合いをする。107番歌において志毘臣が「王子の心がだらしないので、私の家の幾重にも張りめぐらした柴垣の中に(いる大魚を奪いに)入れないでいる」と挑発し、それに対して108番歌で、お前の側に私の「妻」が立っているのが見えるという、余裕の返しをしたところ、怒った志毘は109番歌で「王子の方の柴垣は、結び目が多くしっかりと縛っているが、そのうち切れてしまう柴垣だ、焼けてしまう柴垣だ」と歌って相手を攻めている。Cについては、雄略天皇に求婚されたまま八十年忘れられていた赤猪子が歌った歌で、「御諸の社に築かれた玉垣の中で神に付き従ってきた私は、(神にお仕えし過ぎてしまって)今更誰に頼れば良いのでしょうか、神仕えである私は」と歌って嘆いている。
 以上のように女性が「垣」の中に籠もる、籠もらせるということが婚姻の成就を示すような例が見出せるところからすれば、スサノヲとクシナダヒメとの婚姻の場面におけるこの歌にも同様の意図で記載されているということが言える。
 なお、「ウタガキ」の語源は定かではないが、なぜ「垣」という字を宛てるようになったのか、その所以については、やはり婚姻と「垣」との関係からということになろうか。
〔谷口雅博 日本上代文学〕

 地域社会の首長や集団の統率者という意味で使われた用語で、転じてカバネの一種としても用いられた。地域社会の首長という意味では、『日本書紀』景行四十年七月戊戌(十六日)条に「かの東のひなは、識性暴たましひあらこはし。しのぎ犯すことを宗とす。村にひとこのかみなく、邑におびとなし」とあり、『同』成務四年二月丙寅朔条にも次の記事がみえる。
  今朕嗣ぎて宝祚あまつひつぎれり。つとに夜にわななおそる。然るに黎元、蠢爾むくめくむしのごとくにして、あらき心をあらためず。是れ国郡に君長ひとごのかみなく、県邑に首渠おびとなければなり。今より以後、国郡にをさき、県邑におびとてむ。即ち当国の幹了をさをさしき者を取りてその国郡の首長ひとごのかみけよ。是れ中区うちつくにの蕃屏とならむ。
 ここでは国郡の首長と区別して、県邑の首長名として「首」が存在したことを述べているが、『同』成務五年九月条には「諸国にのりごとして、国郡に造長みやつこをさを立て、県邑にいなつ」とあって名称が異なっており、この時期にはまだ体系化された地方行政制度は成立しておらず、景行期の蕃夷平定を受けて、次の成務期に地方組織が整備されたことを示そうとしたのであろうと考えられている(1)。ただし、『日本書紀』大化二年(六四六)正月甲子朔条や三月甲申(二十二日)条には「村首むらのおびと」の記載がみえ、また「儀制令集解」春時祭田条の一云には「村毎に私に社官を置き、名づけて社首やしろのおびとと称す」とあり、七・八世紀のころには村や社祠の長を「首」と称していた実態があったと思われる(2)。
 一方、集団の統率者という意味では、埼玉県行田市稲荷山古墳出土の鉄剣銘が著名であろう。
  辛亥の年七月中記す。をわけの臣。上祖、名は意富比垝おほひこ。その児、多加たかりの足尼すくね。その児、名は弖已加利てよかりわけ。その児、名は多加披次たかはしわけ。その児、名は多沙鬼たさきわけ。その児、名は半弖比はてひ。その児、名は加差披余かさはよ。その児、名は乎居の臣。世々、杖刀人の首となりて、奉事し来り今にいたる。加多支鹵わかたける大王の寺、斯鬼しき宮に在る時、われ、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、が奉事の根原を記すなり。
 ここでは鉄剣に銘文を刻ませた乎居が、加多支鹵大王(≒雄略)の役所が斯鬼宮(3)にあったとき、大王の周囲を警護する杖刀人(=武人集団)の統率者として天下を差配したと述べている。私見では、乎居はのちに武蔵国造となる地域首長の前身で、五世紀段階当時の首長間連合体制(4)にもとづいて近畿に上番した際、大王の側近にあって身辺警護の役割についたことはあったかもしれないが、彼ら杖刀人の統率者に就任し、あまつさえ「天下を左治」したというのは自身の経歴を誇張したものにすぎないと考える(5)。ただ、とある集団のリーダーを「首」と称した時期があったことは、この鉄剣銘が証明しているといってよい。
 首をオビトと訓ずるのは、谷川士清ことすがが『倭訓栞』で「三代實録に大人てふよしの文あり。さればおほびとの假名也(6)」として以来、大人オホビトが約されたものと解釈されてきたが(7)、中田薫はオホ(opo)がオ(o)に約まった例はなく、神代紀には首をオフシと訓じたところもあると批判しており(8)、管見の限り『日本三代実録』に首を大人ととらえた記事をみつけることもできなかった。太田亮は、カバネとなった言葉の多くは身・子・人などの言葉に尊敬の意を含む語が添って成り立っているらしく、オビトもヒト(人)にオという接頭語が添ったものとみるべきであろうとする(9)。
阿部武彦によると、首姓を称する氏族は次の三つに分けられるとする(10)。
  ⅰ.伴造氏族(海部首・山部首・忌部首など、地方の有力者が多い)
  ⅱ.渡来系氏族(西文首・馬飼首・韓鍛冶首など、職名+首が多い)
  ⅲ.屯倉管掌者や県主・稲置(大戸首・志紀首・因支首など、地名+首が多い)
 従来、おみ姓氏族とともに倭王権の政治をになう一翼であったと考えられてきたむらじ姓氏族であるが、近年では連姓そのものの成立は意外と新しく、天武九年(六八〇)から十二年(六八三)にかけておこなわれたみやつこ姓三七氏・あたひ姓一一氏・首姓五氏・ふひと姓三氏・県主姓三氏・吉士きし姓二氏・倉人姓一氏・狛姓一氏の合計六三氏族に対する一斉連姓賜与によってはじめて考案されたとする見解が提示され(11)、支持を集めつつある。これら一連の連姓賜与の最初に賜姓されたのが忌部首こびとと弟の色弗しこぶちで(12)、忌部氏は首姓から連姓を賜与された五氏族(13)のうちで唯一、のちに天武十三年のいわゆる天武八姓賜与に際して宿祢姓を賜与されている(14)。その後も首から他姓への改姓は散見しており(表参照)、八世紀代には臣・連どまりであったものが、一部に先行例は認められるものの、多くは遣唐使一行に任命されたことを契機に、承和年間から上位姓である朝臣・宿祢への賜姓がおこなわれるようになっていく(15)。

   (『古事記学』5号、57p図)

 ところで首姓については天平勝宝九歳(七五七)に、ふひと姓とともに「毘登ひと」に改称されたことがあったらしい。というのも、『続日本紀』宝亀元年(七七〇)九月壬戌(三日)条に次の記事がみえるからである。

令旨すらく、「……また去る天平勝宝九歳、首・史の姓を改めて、並びに毘登となすを以て、彼此分かち難く、氏族混雑す。事に於いて穏やかならず。宜しく本の字に従ふべし。……」と。

 現行『続日本紀』の天平勝宝九歳(=天平宝字元年)条には、該当する条文を見出すことはできない。しかし『同』天平宝字二年六月乙丑(二十五日)条によると、天平勝宝九歳五月廿六日の勅書に「内大臣(鎌足)・太政大臣(不比等)の名を称すること得ざれ」とあったとする記事がみえており、宝亀元年の令旨もおそらくこの勅書を指しているのではないかと考えられている(16)。ともあれ天平勝宝九歳という時期は、光明皇太后の権勢を背景にした藤原仲麻呂が着実に政治的地歩を固めていたときで、自身の祖父にあたる不比等の顕彰のため養老律令を施行する(17)とともに、翌年には出家のせいで諡号が贈られていなかった聖武太上天皇に対して尊号(勝宝感神聖武皇帝)を追上しており(18)、これらと同様の意図から聖武の諱である「首」と不比等の諱「史」を避ける措置がとられたのだろう。
 以上みてきたように、通常は集団のリーダーという意味で使われてきた首であったが、カバネの首は機会があれば上位姓への改姓がなされる卑姓のひとつでもあった。この首の二面性をよくあらわしているのが、『権記』長保三年(一〇〇一)五月二十四日乙未条である。

  天平大聖武皇帝の諱は、前史にけて記さず。この夜、また夢して、皇帝御日記あはせて往来書草に、諱は首の字なりと見ゆ。夢中に人ありて云はく、「首の字訓は悪なり」と。余云はく、「首の字訓は善なり」と。この外見るところ甚だ種々なり。而るに詳しく覚えず。仍りて記さず。

 この意味は、正史等に聖武天皇の諱がみえない(19)ことについて、夢に出てきた人に「首の字訓は悪だ」といわれた藤原行成が、「首の字訓は善である」と反論したというものであるが、右に述べてきた種々の変遷をふまえることで、はじめて十全に理解できる記事ではないかと思われる。

  註
(1)日本古典文学大系『日本書紀』上、三一八頁頭注六(岩波書店、一九六七年)。
(2)『日本書紀』大化二年(六四六)三月甲申(二十二日)条の「村首」には、「首は長なり」という割注が付されている。
(3)『古事記』に長谷朝倉はつせのあさくら宮、『日本書紀』に泊瀬朝倉はつせのあさくら宮とみえる雄略の宮都は、大和国城上しきのかみ郡内(現桜井市初瀬付近)に所在したようで、鉄剣銘の「斯鬼宮」も記紀の「朝倉宮」(磯城郡)を指すのではないかと考えられている。
(4)拙稿「倭王権の転成」(『日本の時代史』2所収、吉川弘文館、二〇〇二年)、同「古墳時代の大王と地域首長の服属関係」(『國學院雜誌』一〇九―一一、二〇〇八年)。
(5)拙稿「有銘刀剣の下賜・顕彰」(『文字と古代日本』1所収、吉川弘文館、二〇〇四年)。
(6)谷川士清『増補語林倭訓栞』上巻(名著刊行会、一九六八年)。
(7)本居宣長も谷川説を踏襲して、「さてこはもと尊称にて、大人の意なるべし」としている(『本居宣長全集』第九巻所収『古事記伝』一、筑摩書房、一九六八年)。
(8)中田薫「可婆根(姓)考」(『法制史論集』第三巻下所収、岩波書店、一九七一年、初出は一九〇五年)。
(9)太田亮『全訂日本上代社会組織の研究』第四編(邦光書房、一九五五年)。
(10)阿部武彦『氏姓』(至文堂、一九六〇年)。
(11)北村文治「カバネの思想と姓の制度」(『大化改新の基礎的研究』所収、吉川弘文館、一九九〇年、初出は一九七二年)、平川南「百済の都出土の『連公』木簡―韓国・扶餘双北里遺跡一九九八年出土付札―」(『国立歴史民俗博物館研究報告』一五三、二〇〇九年)。なお北村は、造姓四二氏・直姓一三氏・首姓四氏・史姓三氏・吉士姓三氏・県主姓二氏・倉人姓二氏・狛姓一氏の合計七〇氏族としているが、正確ではない。
(12)『日本書紀』天武九年(六八〇)正月甲申(八日)条。こののち、兄の首は帝紀及び上古諸事の記定に参画し、弟の色弗(色夫知)は持統の即位式で神璽の剣鏡を奉上している。
(13)忌部首のほか、天武十二年九月に栗隈首・物部首・文首の三氏、同年十月に吉野首がそれぞれ賜姓されている。
(14)『日本書紀』天武十三年十二月己卯(二日)条。
(15)佐伯有清「承和の遣唐使をめぐる賜姓と移貫」(『日本古代氏族の研究』所収、吉川弘文館、一九八五年、初出は一九八三年)。
(16)新日本古典文学大系『続日本紀』四、補注30―四八(岩波書店、一九九五年)。
(17)『続日本紀』天平勝宝九歳(七五七)五月乙卯(八日)条。
(18)『続日本紀』天平宝字二年(七五八)八月戊申(九日)条。
(19)『続日本紀』をはじめとする六国史には、聖武の諱についての記事はみられない。ただ、『本朝皇胤紹運録』の聖武天皇尻付には「諱は首。治廿五年。母は夫人藤原宮子。不比等公の女」とあり、聖武の諱が首であったことがわかる。
〔佐藤長門 日本古代史、古代王権・国家の権力構造論〕

故是以、其速湏佐之男命宮可造作之地、求出雲國。 尒、到坐湏賀[此二字以音。下效此。]地而詔之、 「吾来此地、我御心湏々賀々斯」而、 其地作宮坐。 故、其地者於今云湏賀也。 茲大神、初作湏賀宮之時、 自其地雲立騰。 尒、作御歌。 其歌曰、 夜久毛多都 伊豆毛夜弊賀岐。都麻碁微尒 夜弊賀岐都久流。曽能夜弊賀岐袁。 於是、喚其足名鉄神、 告言、「汝者任我宮之首。」 且負名号稲田宮主湏賀之八耳神。 【校異】
※すべて真福寺本による。

こうして、その速須佐之男命は、宮を作るべき土地を出雲国に求めた。 そして、須賀の地にお着きになって仰ることには、 「この地に来て、私の心はすがすがしい」とおっしゃって、 その地に宮を作っていらっしゃった。 それで、その地を今須賀という。 この大神が、初め須賀の宮をお作りになった時に、 その地から雲が立ち上った。 そこで、御歌を作った。 その歌にうたったことには、  八雲立つ、出雲の地に、雲のように幾重にも垣をめぐらし、妻を置くところとして幾重にも垣を作っている。この幾重にもめぐらした垣よ。 そうして、あの足名鉄神を呼び寄せて、 仰って言ったことには、「お前は私の宮の長に任じよう」といった。 また名前を与えて、稲田の宮主須賀の八耳神と名づけた。

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