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県主あがたぬし

令制以前の地方支配制度である県(アガタ)の首長が任ぜられた官職であり、それがのちにカバネとなった。大王が必要とする人・物を提供し、特殊な歴史的伝統からその祭祀にも関与したとされる。

景行記には諸王を県主に分封したとあるが、これをそのまま史実と捉えることはできない。県主が支配した県(アガタ)の性格をめぐっては、井上光貞と上田正昭による「国県制論争」が著名である。井上が7世紀初頭までに国―県という地方支配制度が成立したと想定するのに対して、上田は史料から「国県制」のような整然とした支配制度を認めることは不可能であると批判、県制を国制に先行する支配体制として、3世紀後半から5世紀にかけて展開し、6・7世紀には畿内とその周辺に遺制を残したにすぎなかったものと論じた。県制の成立を5世紀以前とする点には批判もあるが、県制を国制に先行する制度とする上田の主張は、現在ではおおむね承認されているといってよい。しかし、これまで「アガタ」と読まれてきた「某県」の史料は「コホリ」と読むべきで、県主とは無関係なものであったとする説や、倭王権の支配が県内の民衆にまで及んでおらず、地方支配制度といえる段階に達していなかったとする説もあり、県制に残された課題は少なくない。

【参考文献】
井上光貞「国造制の成立」(土田直鎮ほか編『大化前代の国家と社会』井上光貞著作集第4巻、岩波書店、1985年7月、初出1951年11月)
上田正昭「国県制の実態とその本質」(『古代国家論』上田正昭著作集1、角川書店、1998年7月、初出1959年6月)
上田正昭「県主と祭祀団」(『日本古代国家成立史の研究』青木書店、1959年12月)
井上光貞「国県制の存否について」(土田直鎮ほか編『日本古代国家の研究』井上光貞著作集第1巻、岩波書店、1985年11月、初出1960年10月)
山尾幸久「大化改新論序説」上・下(『思想』529・531、1968年7月・9月)
石母田正『日本の古代国家』(岩波書店、1971年1月)
小林敏男「県・県主制の再検討」(『古代王権と県・県主制の研究』吉川弘文館、1994年7月、初出1975年6月・8月・76年10月・12月)
山尾幸久「県の史料について」(日本史論叢会編『論究日本古代史』学生社、1979年6月)
篠川賢「国造制研究の現状と課題」(『日本古代国造制の研究』吉川弘文館、1996年5月、初出1986年9月)
堀川徹「県・県主小考―三嶋竹村屯倉設置説話の事例から」(加藤謙吉編『日本古代の氏族と政治・宗教』上、雄山閣、2018年3月)

あたい

費・費直とも。国造の多くが有するカバネであり、とくに倭王権の影響が強く及んだ畿内やその周辺地域に分布することから、他姓の国造より王権への隷属度が高かったとされる。

直姓氏族をめぐっては、瀬戸内地域に「地名+凡直」と称する氏族が分布することから、これら「凡直国造」が広範な地域を支配したとする「凡直国造制」が八木充によって提唱されている。しかし、この説には批判も少なからずあり、「凡直国造」は「凡人(部)」を統轄した地方伴造にすぎないとの見解もある。また、国造制の施行とカバネの賜与を別個のものと捉える篠川賢は、国造の性格に基づいて直・臣・君などの異なるカバネが賜与されたわけではなく、直姓はカバネをもたない首長が国造に任ぜられた際に賜与されたカバネであったとしている。

【参考文献】
阿部武彦「国造の姓の系譜」(『日本古代の氏族と祭祀』吉川弘文館、1984年5月、初出1950年11月)
井上光貞「国造制の成立」(土田直鎮ほか編『大化前代の国家と社会』井上光貞著作集第4巻、岩波書店、1985年7月、初出1951年11月)
八木充「国造制の構造」(『日本古代政治組織の研究』塙書房、1986年11月、初出1975年10月)
吉田晶「凡河内直氏と国造制」(『日本古代国家成立史論―国造制を中心として』東京大学出版会、1973年11月)
篠川賢「国造制の成立過程」(『日本古代国造制の研究』吉川弘文館、1996年5月)
鈴木正信「国造の氏姓と「クニの名」」(『日本古代の氏族と系譜伝承』吉川弘文館、2017年5月)
鈴木正信「凡直氏と国造制―「凡直国造制」の再検討」(加藤謙吉編『日本古代の氏族と政治・宗教』上、雄山閣、2018年3月)

阿比古あびこ

阿毘古・阿弭古・我孫・吾孫・吾彦とも。古くから倭王権に仕奉した地方豪族の官職であり、それがのちにカバネとなった。

主として畿内とその周辺に分布しており、初期古墳の分布区域をほとんど出ていないことから、官職としての成立は5世紀、あるいは4世紀代に遡りうると想定されている。

【参考文献】
直木孝次郎「阿比古考」(『日本古代国家の構造』青木書店、1958年11月、初出1956年9月)

稲置いなき

語義は「稲」と密接に関わるものであり、倭王権の領有地である屯倉に関係して成立した官職が、のちにカバネとなったものと考えられる。

景行記には諸王を稲置に分封したとあり、『日本書紀』成務天皇5年9月条にも稲置を置いたことがみえるが、これは後代における潤色の可能性が高い。そのため稲置に関する史料としては、『隋書』東夷伝倭国条(以下「隋書倭国伝」)の「軍尼一百二十人あり。なほ中国の牧宰のごとし。八十戸に伊那翼(冀)を置く。今の里長のごときなり」という記述と、大化元年(645)8月庚子(5日)条(以下「東国国司詔」)の「国造・伴造・県稲置」という記述が重視される傾向にあり、この二つの史料の解釈によって、稲置に対する見解が大きく異なっている。井上光貞は「隋書倭国伝」の記述から7世紀前半に国―県という地方支配制度が存在したとみており、このうち県の長官が県主であり、そのカバネが稲置であると論じた。しかし、のちに上田正昭の批判により自説の一部を訂正し、中田薫の説に従って、県主の管轄する県(アガタ)と稲置の管轄する県(コホリ)を別個のものと捉えなおしている。山尾幸久は井上の説を発展させ、6世紀中葉以降には国造のもと農民の徭役労働によって経営される新しいタイプの屯倉が登場するが、稲置はその管理者として置かれたもので、屯倉が国家行政の地域的区分としての意義をもつコホリへと発展するに従い、稲置もコホリの管理者へと変化したとする。石母田正も井上・山尾に近い見解を示しており、大国造制の成立にともない首長制が再編され、大国造のもとで編成された小国造的首長が、官職的側面を強化した形態が稲置であったとした。稲置を国造の下級組織に位置づけるこれらの説に対して、吉田晶は稲置の分布が畿内とその周辺に限定されることに着目し、「隋書倭国伝」の記述は王権側が理想を実態のごとく語ったもので、少なくとも7世紀段階に全国的な制度としての稲置は存在しなかったとみる。平野邦雄も稲置の全国的設置には懐疑的であり、「東国国司詔」にみえる「県稲置」についても、東国ではなく畿内(「倭国六県」)に設置された稲置であった可能性を示している。しかし、篠川賢は20にも満たない実例から稲置を畿内とその周辺に限定することに疑問を呈し、「隋書倭国伝」にある程度の文飾はあるにせよ、稲置の全国的設置は認めてよいとしている。以上のように、稲置の諸問題については定説を形成しているとは言いがたく、今後の研究を待つ必要があろう。

【参考文献】
中田薫「我古典の「部」及び「縣」に就て」(『法制史論集』第3巻、岩波書店、1943年6月、初出1933年9月・10月)
井上光貞「国造制の成立」(土田直鎮ほか編『大化前代の国家と社会』井上光貞著作集第4巻、岩波書店、1985年7月、初出1951年11月)
上田正昭「国県制の実態とその本質」(『古代国家論』上田正昭著作集1、角川書店、1998年7月、初出1959年6月)
上田正昭「県主と祭祀団」(『日本古代国家成立史の研究』青木書店、1959年12月)
井上光貞「国県制の存否について」(土田直鎮ほか編『日本古代国家の研究』井上光貞著作集第1巻、岩波書店、1985年11月、初出1960年10月)
山尾幸久「大化改新論序説」上・下(『思想』529・531、1968年7月・9月)
石母田正『日本の古代国家』(岩波書店、1971年1月)
平野邦雄「国県制論と族長の支配形態」(岡崎敬・平野邦雄編『研究資料』古代の日本第9巻、角川書店、1971年10月)
吉田晶「県および県主―摂・河・泉を中心として―」(『日本古代国家成立史論―国造制を中心として』東京大学出版会、1973年11月)
篠川賢「記紀の国造関係記事の検討」(『日本古代国造制の研究』吉川弘文館、1996年5月、初出1985年5月)

おびと

「ヒト(人)」に接頭語「オ(大・御)」がついたもので、もとは勢力のある人物をさす尊称であったが、のちに地方伴造や県主・稲置(この場合はカバネではなく官職名)、屯倉の管理者などの中小豪族に賜与されるカバネとなった。

天平宝字元年(757)に聖武天皇の諱を避けるため「毗登(ヒト)」と改められたが、宝亀元年(770)には旧に復された。

【参考文献】
太田亮『全訂 日本上代社会組織の研究』(邦光書房、1955年11月、初出1929年10月)

おみ

「ミ(身)」に接頭語「オ(大・御)」がついたもので、もとは尊敬の意味をあらわす言葉であったが、のちに大王に臣事する人々のカバネとなった。

稲荷山古墳出土鉄剣銘には「乎獲居臣」とみえるが、この「臣」はカバネではなく臣下のことを示す称号とするのが今日の一般的な解釈であり、カバネの成立以前から称号として「臣」は賜与されていたと考えられる。記紀によればその多くは「皇別」であり、そこから神武~孝元に連なる系譜伝承をもつ王族に賜与されたカバネとする見解もあるが、臣姓氏族はウヂ名に地名を冠する例が多いことから、倭王権に参与した地域豪族に賜与されたカバネとする見解が有力である。しかし、婇臣・膳臣などの例外もあることから、ワカタケル大王の時代には等しく「臣」が称号として与えられており、そこから継体天皇の時代に連姓氏族が分離していったとする説も提唱されている。また、「臣」と関連するものに「大臣(オホオミ)」があるが、これは従来「臣(マヘツキミ、倭王権の合議に参与した有力豪族)」の代表として「オホマヘツキミ」と読むべきとされ、臣姓氏族とは直接の関係を有さないものと考えられる。

【参考文献】
太田亮『全訂 日本上代社会組織の研究』(邦光書房、1955年11月、初出1929年10月)
阿部武彦『氏姓』(至文堂、1960年8月)
黒田達也「日本古代の「大臣」」(『朝鮮・中国と日本古代大臣制―「大臣・大連制」についての再検討』京都大学学術出版会、2007年2月、初出1983年10月)
倉本一宏「氏族合議制の成立―「オホマヘツキミ―マヘツキミ」制」(『日本古代国家成立期の政権構造』吉川弘文館、1997年1月、初出1991年6月)
山尾幸久「庚午年籍以前の称号の検討」(『カバネの成立と天皇』吉川弘文館、1998年4月)
篠川賢「物部氏の成立とその性格」(『物部氏の研究』第2版、雄山閣、2015年9月、初出2009年8月)

きみ

公とも。「キミ」は古くから尊称として用いられており、「オホキミ」や「マヘツキミ」の呼称もここに由来する。記紀は君姓氏族の多くを開化天皇以降の「皇別」としているが、実際に賜与された豪族の性格は多岐にわたっている。

天武天皇13年(684)に八色の姓が制定されると、君姓氏族のなかには最高位の真人姓を賜わったものもおり、継体天皇以降の例に限れば、記紀の伝承はある程度の事実を伝えていたらしい。このような皇別氏族のほか、そこに系譜を連ねた地方豪族、王権と密接な関わりをもつ畿内とその周辺の中小豪族、地祇の後裔としてそれらを奉斎する氏族、王族の後裔を称する渡来系氏族、帰属した隼人・蝦夷の首長などに君姓が賜与されている。

【参考文献】
阿部武彦「国造の姓と系譜」(原島礼二編『大和王権』論集日本歴史1、有精堂、1973年1月、初出1950年11月)
太田亮『全訂 日本上代社会組織の研究』(邦光書房、1955年11月、初出1929年10月)
本位田菊士「令制以前における皇親勢力―君系氏族の性格と動向」(『日本古代国家形成過程の研究』名著出版、1978年11月、初出1970年10月)
山尾幸久「庚午年籍以前の称号の検討」(『カバネの成立と天皇』吉川弘文館、1998年4月)

国造くにのみやつこ

倭王権より特定の地域における支配権を認められた地方豪族の官職であり、それがのちにカバネとなった。景行記に諸王を国造に分封したとあり、成務記にはその支配領域を画定したことがみえるが、一般的に史実としては受け入れられておらず、近年では磐井の乱や笠原直使主と小杵の争い(「武蔵国造の乱」)が終結する6世紀前半が成立の契機として注目されている。

6世紀前半には継体天皇の即位によって国土拡大の機運が高まり、それにともなって各地域の首長的秩序が動揺していく。磐井の乱もそのひとつであり、『日本書紀』には「筑紫国造磐井」との記述があるが、国造制の成立と乱を関連づける理解に従えば、『古事記』の「竺紫君石井」という表記が実態に近いのであろう。また、乱後には筑紫君葛子(磐井の子)が糟屋屯倉を献上して贖罪を求めており、国造と屯倉の関係を表すものとして注目される。屯倉の機能をめぐっては様々な見解があるが、倭王権に人・物を貢納するための拠点として、その経営に国造が関与していたことは間違いないであろう。以上のような大化前代の国造(「旧国造」「氏姓国造」)に対して、律令制下においても国造は存続していたことが確認される(「新国造」「律令国造」)。出雲国造・紀伊国造などの例から、これまで「新国造」は儀礼的な存在とみなされてきたが、近年では評司・郡領などを兼任することで地方支配に影響を及ぼしていたとの説も提示されている。しかし、平安初期には地方支配の転換や旧地方豪族の弱体化などもあり、ほとんどの国造は消滅していくことになる。

【参考文献】
森公章「評制下の国造に関する一考察―律令制成立以前の国造の存続と律令制地方支配への移行」(『古代郡司制度の研究』吉川弘文館、2000年2月、初出1986年9月)
森公章「律令制下の国造に関する初歩的考察―律令国家の国造対策を中心として」(『古代郡司制度の研究』吉川弘文館、2000年2月、初出1987年3月)
篠川賢『日本古代国造制の研究』(吉川弘文館、1996年5月)
大川原竜一「国造制の成立とその歴史的背景」(『駿台史学』137、2009年9月)
寺西貞弘「奈良時代の国造」(『日本歴史』757、2011年6月)
大川原竜一「国造制研究の課題と方法」(篠川賢・大河原竜一・鈴木正信編『国造制の研究』史料編・論考編、八木書店、2013年5月)
篠川賢「「国造」と国造制」(篠川賢・大河原竜一・鈴木正信編『国造制の研究』史料編・論考編、八木書店、2013年5月)
森公章「国造制と屯倉制」(大津透ほか編『岩波講座日本歴史』第2巻古代2、岩波書店、2014年3月)

百済の内官制の影響のもと、5世紀末から6世紀中頃に成立した、倭王権によって組織化された人間集団をさす。これら部によって構成される支配体制のことを「部民制」とよぶ。

特定の職掌をもって王権に奉仕する職業部、大王・后妃・王族の宮に隷属する名代・子代などが知られ、それらは品部と総称される。なお、部曲については豪族所有の部とする理解が一般的であったが、今日では部に編成されなかった豪族の私有民とする説も有力視されている。成立の前提としては、稲荷山古墳出土鉄剣銘の「杖刀人」、江田船山古墳出土大刀銘の「典曹人」に代表されるような、5世紀に展開した人制が想定される。部集団は内部構造として「トモ」と「べ」に分かれ、「トモ」は王権に上番勤務することで部集団を人格的に体現・代表し、「べ」は「トモ」の上番勤務の資養を負担する集団であり、狩野久は両者の統一的把握の必要性を強調している。ただし、5世紀には「トモ」のみが上番奉仕の義務を負う部集団の原型が想定されており、溝口優樹はこれを「プレ部制」と称している。中央に出仕した「トモ」は伴造によって統率され、さらに「トモ」が「べ」を統率することによって、倭王権は民衆層を支配の末端に組み込んだといえる。「大化改新」によって部は廃止されていくことになるが、律令制の成立後もその一部が遺制として残存した。

【参考文献】
平野邦雄「「部」の本質とその諸類型」(『大化前代社会組織の研究』吉川弘文館、1969年5月、初出1955年3月)
狩野久「部民制―名代・子代を中心として」(『日本古代の国家と都城』東京大学出版会、1990年9月、初出1970年4月)
武光誠『研究史 部民制』(吉川弘文館、1981年12月)
鎌田元一「「部」についての基本的考察」(『律令公民制の研究』塙書房、2001年3月、初出1984年5月)
篠川賢「部民制」(『日本古代国造制の研究』吉川弘文館、1996年5月、初出1990年12月)
森公章「国造制と屯倉制」(大津透ほか編『岩波講座日本歴史』第2巻古代2、岩波書店、2014年3月)
溝口優樹「人制・部制と地域社会」(『日本古代の地域と社会統合』吉川弘文館、2015年2月)
堀川徹「人制から部民制へ」(篠川賢・大河原竜一・鈴木正信編『国造制・部民制の研究』八木書店、2017年10月)

みやつこ

倭王権と隷属関係を構築した人々に賜与されたカバネであり、語源として「御奴」「御家ツ子」「宮ツ子」などの説がある。その出自(系譜)に共通性は確認できず、主として伴造豪族に賜与された。

同じく伴造豪族が中心である連姓と比較すると、その多くが中小豪族であることが特色といえる。ほかに「造」の字をもつカバネとして「国造」があるが、「国造」は「国」を人格的に体現して王権に仕える人々と解することができる。また、「伴造」は「部」を人格的に体現して王権に仕える人々のことであった。天武天皇13年(684)に八色の姓が制定されると、その多くは連姓を賜った。

【参考文献】
太田亮『全訂 日本上代社会組織の研究』(邦光書房、1955年11月、初出1929年10月)
大河原竜一「国造と伴造についての基礎的考察―「造」の本質から」(篠川賢・大河原竜一・鈴木正信編『国造制・部民制の研究』八木書店、2017年10月)

むらじ

「群主(ムレアルジ)」が語義と考えられ、一般的には有力伴造に賜与されたカバネと解されている。また、出自(系譜)によって「皇別(天皇より分かれた氏族))」の臣姓氏族と区別された、「神別(天神地祇より分かれた氏族)」とする説も古くより主張されるところである。

ただし、前者であれば茨田連・尾張連など、後者であれば日下部連・小子部連など、いずれの説にも例外が存在している。そのため「臣」を称する支配組織の構成員や、そこに組み込まれていなかった諸豪族のうち、継体天皇の即位を支持した人々が「連」を称したとの説が篠川賢によって提示されている。また近年では、1998年に韓国忠清南道双北里遺跡から出土した「那尓波(ナニハ)連公」木簡にみえる「連公」は7世紀半ば以前のカバネ表記で、天武天皇9年(680)以降に「連」の一字表記に統一されたとする見解も平川南によって提示されている。なお「連」と関連するものとして、大伴氏や物部氏が任命されたとする「大連」があるが、「大臣」と並び称されるような執政官としての「大連」の存在は、記紀編纂段階の作為とする説が近年では有力視されている。

【参考文献】
太田亮『全訂 日本上代社会組織の研究』(邦光書房、1955年11月、初出1929年10月)
阿部武彦『氏姓』(至文堂、1960年8月)
黒田達也「日本古代の「大臣」」(『朝鮮・中国と日本古代大臣制―「大臣・大連制」についての再検討』京都大学学術出版会、2007年2月、初出1983年10月)
倉本一宏「氏族合議制の成立―「オホマヘツキミ―マヘツキミ」制」(『日本古代国家成立期の政権構造』吉川弘文館、1997年1月、初出1991年6月)
佐藤長門「倭王権における合議制の史的展開」(『日本古代王権の構造と展開』吉川弘文館、2009年2月、初出1996年7月)
山尾幸久「庚午年籍以前の称号の検討」(『カバネの成立と天皇』吉川弘文館、1998年4月)
篠川賢「物部氏の成立とその性格」(『物部氏の研究』第2版、雄山閣、2015年9月、初出2009年8月)
平川南「百済の都出土の『連公』木簡ー韓国・扶餘双北里遺跡一九九八年出土付札ー」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第153集、2009年12月)
佐藤長門『蘇我大臣家』(山川出版社、2016年5月)

わけ

和気・獲居とも。「血」や「統治権」を「わかちあう」ことに由来すると考えられる。もとは倭王権に服属した首長に賜与された称号であり、それがのちにカバネとなった。

景行記に諸王を和気(別)に分封したとあり、『日本書紀』景行天皇4年2月甲子(11日)条にも「今時に当りて、諸国の別と謂へるは、其の別王の苗裔なり」とあるように、記紀において別姓氏族は皇族の末裔に位置づけられている。そこから「別」を大王家の本姓とする説、大王家と関係を有する分家とする説などがあるが、倭王権の勢力圏における諸首長の称号として、5世紀中葉以前には大王をはじめ王族から地方豪族まで等しく称していたとする佐伯有清の説に妥当性がある。ほかのカバネにみられない特殊性として、「品陀和気命(応神天皇)」「伊耶本和気命(履中天皇)」など王権内部で名として用いられ、やがてそれが地方豪族にまで及ぶことが挙げられるが、これも従来はカバネとは異なる枠組みで「別」が賜与されていたことを物語っていよう。5世紀中葉にカバネ的身分秩序が形成され始めると、「別」はカバネとして地方豪族に賜与されるようになるが、6世紀後半から7世紀初頭にはその役割を君(公)姓に譲り、別姓はカバネとしての実態を失うことになる。別姓豪族は畿内とその周辺、および西国に広く分布しており、倭王権の進出が遅れる東国にほとんどみられないことも、このことを示唆している。別姓氏族の多くは君(公)姓に改姓する、「別」を氏族名に組み込むなどして、7世紀以降にはほとんどみられなくなる(ただし、カバネとしての「別」を否定する見解も存在する)。なお、『延喜式』巻9・10(「延喜式神名帳」)には「別」を冠した神社が45例あり、その多くは東国に分布しているが、これらは先述した記紀の皇族分封伝承が影響して成立したものと想定される。

【参考文献】
太田亮『全訂 日本上代社会組織の研究』(邦光書房、1955年11月、初出1929年10月)
上田正昭「倭国の政治形態」(『日本古代国家論究』塙書房、1968年11月、初出1962年6月)
佐伯有清「日本古代の別(和気)とその実態」(『日本古代の政治と社会』吉川弘文館、1970年5月、初出1962年1~3月)
山尾幸久「日本古代国家の成立過程について」(『立命館文學』296~8、1970年2~4月)
井上光貞「カバネ・位階・官職」(土田直鎮編『 古代の日本と東アジア』井上光貞著作集第5巻、1986年3月、初出1982年9月)
松原弘宣「古代の別(和気)氏について」(『愛媛大学法文学部論集』人文学科編12、2002年2月)

その他

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