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是を以ちて、伊耶那伎大神の詔らししく、「吾は、伊那志許米、志許米岐[此九字以音]穢き国に到りて在祁理(けり)[此二字以音]。故、吾は、御身之禊為む」とのらして、 竺紫日向之橘小門之阿波岐[此三字以音]原に到り坐して、禊祓しき。 故、投げ棄つる御杖に成れる神の名は、衝立船戸神 次に投げ棄つる御帯に成れる神の名は、道之長乳歯神 次に投げ棄つる御嚢に成れる神の名は、時量師神 次に投げ棄つる御衣に成れる神の名は、和豆良比能宇斯能神[此神名以音]。 次に投げ棄つる御褌に成れる神の名は、道俣神 次に投げ棄つる御冠に成れる神の名は、飽咋之宇斯能神[自宇以下三字以音]。 次に投げ棄つる左の御手の手纏に成れる神の名は、奥疎神[訓奥云於伎、下效此。訓疎云奢加留、下效此]。 次に奥津那芸佐毗古神[自那以下五字以音。下效此也]。 次に、奥津甲斐弁羅神[自甲以下四字以音、下效此]。 次に投げ棄つる右の御手の手纏に成れる神の名は、辺疎神 次に辺津那藝佐毗古神。 次に辺津甲斐弁羅神 右の件の船戸神より以下、辺津甲斐弁羅神より以前、十二神は、身に著けし物を脱くに因りて、生める神ぞ。

○伊耶那伎大神 みそぎ①②及び次の三貴子の分治の場面ではイザナキの尊称が一定していない。「大神」「命」「大御神」「大御神」「大神」という順で変化する。この尊称の変化には何か意味があるのだろうか。明確な意図があって変えているのかどうかは不明だが、以下のような理由が考えられる。はじめに「大神」とされるのは、その直前に伊耶那美が黄泉津大神・道敷大神とされるのみならず、千引石にも道反之大神・塞り坐す黄泉戸大神というように「大神」の尊称が付されているので、それらとの対応関係においてイザナキにも「大神」の尊称が与えられたということ。三貴子への分治では一度「命」に戻るが、その後「大御神」となるのは、イザナキから生まれた天照が大御神と記されることとの関係によるということ。最後に「大神」となるのは、淡海の多賀への鎮座記事との関係によるのではないかということである。『古事記』では鎮座する神の基本的尊称は「大神」であると思われる。それは『古事記』中巻に記された神がすべて「大神」であることとも関わる。
〇伊那志許米、志許米岐穢国 イナは否定的な感情を表す感動詞。シコメはシコに接尾語メの付いた形容詞「シコメシ」の語幹、「シコメキ」はその連体形となる。シコは「予母都志許売」「葦原色許男」のように、『古事記』中ではすべて一字一音で記される。一方で「醜」の字も見られる。「其姉者、因甚凶醜、見畏而返送」(木花之佐久夜毗売)「因甚凶醜、返送本主」「以姿醜被還之事」(垂仁記・丹波の四女王)。これらは「ミニクシ」と訓まれる字であり、「シコ」とは異なる。が、例えば葦原色許男は『日本書紀』では「葦原醜男」と記されるように、「シコ」と「醜」とは関係が深い。『日本書紀』神代上第五段一書六には「不須也凶目汚穢」とあって、一書七の訓注に「イナシコメキタナキ」と記す。また第九段一書一に、天忍穂耳尊が天浮橋で地上の様子を窺って発した言葉の中に「彼の地は未平げり。不須也頗傾凶目杵之国」という、ほぼ同様の表現が見られる。しかし「醜」の字は用いられない。従って、「シコ」と「醜」をイコールで結びつけるのは躊躇われるのである。『万葉集』の「シコ」についても、「鬼乃益卜雄」(2・一一七)「鬼乃志許草」(4・七二七)「志許霍公鳥」(8・一五〇七)「四去霍公鳥」(10・一九五一)「鬼之志許草」(12・三〇六二)「鬼之四忌手乎」「小屋之四忌屋爾」(13・三二七〇)「之許都於吉奈」(17・四〇一一)「之許乃美多弖等」(20・四三七三)のように、「醜」の字は見られない。但し「鬼」を「醜」の省字と見れば、「醜」の例があるということになる。
〇「禊」「禊祓」 「みそぎ」は「身(水)滌ぎ」で、身についた穢れを水によって清める意とされる。他に「身削き」説、「水注き」説などもあるが不確かである。また、単に穢れを清めるだけではなく、水の持つ霊力を加えることで新たなる生命力を付与するという説もある(吉井巌「筒男三神について」『天皇の系譜と神話』㈢ 一九九二・一〇)。一方、「ハラヘ」は、代価物を差し出すことで罪を贖うことであり、本来は禊とは区別されるべきものだが、実際の用例では混同されている場合が多いとされる【→補注八①②③】。 『古事記』のこの場面で「禊」「禊祓」と表記がなされているのは、「禊」「祓」が混同されている故であるのか、若しくは何かしらの意味があるのであろうか。 『古事記』中の「禊」「祓」の他の用例は以下の通り。
①鬚と手足の爪を切り、祓へしめて、神やらひやらひき。(スサノヲの追放)
②尒して、驚ろき懼じて、殯宮に坐せまつりて、更に国の大奴佐を取りて、生剝・逆剝・  阿離・溝埋・屎戸・上通下婚・馬婚・牛婚・鶏婚・犬婚之罪の類を種々求ぎて、国の大祓をして、(仲哀記)
③故、建内宿祢命、其の太子を率て、禊せむとして、(仲哀記)
④「今日は此間に留りて、祓禊を為て、明日参ゐ出でて、神宮を拝まむ」(履中記)
①②は「祓」、③は「禊」、④はこの場面と同じように「祓」と「禊」とが両方使われている例となる。①はスサノヲ追放の場面である故に、高天原での乱行に対する罪の購いとしての「祓」の意味があり、②は「祓」の対象となる種々の罪が記されているので、罪の「祓」であることが窺える。③の場合は、皇子応神が策略のために崩御したという偽りをなしたが故に、その穢れを清める意味があると言われる。また④の場合は、水歯別命(反正天皇)が、隼人曽婆訶理を殺害した穢れを清めるためにみそぎを行ったと考えた場合、「祓禊」二字併せて「みそぎ」と訓む傾向にあるが、西宮一民は、水歯別命の穢れのみではなく、曽婆訶理が自分の主である墨江中王を殺害した罪を祓う関係上、「祓」の字も使われていると考え、「ハラヘミソキシテ」と訓んでいる。要するに「禊」「祓」が混同されているものとして二字あっても「ミソキ」若しくは「ハラヘ」で訓むのか、それとも一字一字区別して「禊」「祓」両用の意味を読み取るのかということで解釈に違いが生ずる。この場面では、はじめ「禊」のみで、黄泉国の「イナシコメシコメキタナキ」穢れを清めることを目的として記されるが、次の箇所で「禊祓」と二字表記になるのは、この後のイザナキの行為として「投棄」が繰り返されることと、「滌」が繰り返されることに関わっているのではなかろうか。 なお、『古事記』の「禊」「祓」は、三貴子の誕生(当該条)、アマテラスの石屋からの出現①、応神天皇誕生②、応神天皇新生③、反正天皇新生④といったように、新たなる天子の出現に関わる場面で用いられるという傾向にある。 『日本書紀』のこの場面では、「吾前に不須也凶目き汚穢き處に到る。故、吾が身の濁穢を滌ひ去てむ」とのたまひて、則ち往きて筑紫の日向の小戸の橘の檍原に至りまして、祓ぎ除へたまふ。」(神代上第五段一書六)「故、其の穢惡を濯ぎ除はむと欲して、乃ち往きて粟門及び速吸名門を見す。然るに、此の二の門、潮既に太だ急し。故、橘小門に還向りたまひて、拂ひ濯ぎたまふ。」(同一書十)とあって「禊」の字は用いられないが、「祓ぎ除へたまふ」を「みそぎはらへたまふ」と訓んでいる(兼方本等)。仮にそのように訓めるのだとすれば、「みそぎ」と「はらへ」とが混同していることになる。『日本書紀』で「禊」が使われているのは、「則ち悪解除・善解除を負せて、長渚崎に出して、祓へ禊がしむ。」(履中紀五年十月)「是の春に、天神地祇を祠らむとして、天下悉に祓禊す。」(天武紀七年)の二例。「はらへ」については多く「解除」の字が使われている。 以下、参考として『万葉集』の「禊」「祓」の用例を挙げる。
1・・・久堅乃 天川原尓 出立而 禊身而麻之乎・・・(3・四二〇)
2君尓因 言之繁乎 古郷之 明日香之河尓 禊身為尓去(4・六二六)
3龍田超 三津之濱邊尓 禊身四二由久(4・六二六、一尾云)
4・・・千鳥鳴 其佐保川丹 石二生 菅根取而 之努布草 解除而益乎 往水丹 禊而益乎・・・(6・九四八)
5玉久世 清川原 身秡為 齋命 妹為(11・二四〇三)
○竺紫日向之橘小門之阿波岐原 『日本書紀』神代上第五段一書六に「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」、同一書十一に「橘小門」。キ・ミ二神の国生みで三番目に生まれたのが「筑紫嶋」であり、その中の一国が「筑紫国」であった。いま「竺紫」とあって嶋とも国とも無いのは、次の日向と併せて場所を特定しないための言い方か。後の天孫降臨に際しても、「竺紫日向高千穂之久士布流多気」とあってやはり竺紫には嶋も国も付かない。しかし、場所の特定を避けるのであれば単に「日向の」と言っても良いようなものであるから、ここは黄泉国神話で具体的に出雲国と結びつけようとするのと同様に、大まかに九州の地を示す「竺紫」を冠しているものと思われる。黄泉国から出て来たヨモツヒラサカが出雲の地であることを明記しているのと併せ考えれば、汚れた国と繋がる出雲から離れてみそぎに相応しい場所として選ばれたのがこの地であるということを示すものであろう。出雲から日向へという流れは葦原中国平定の神話から天孫降臨へと流れる展開と共通するし、いずれも日向が天神の誕生・天神御子の降臨の地として設定されているところに意味があるものと思われる。橘は常世から持ち帰ったトキジクノカクノコノミに繋がるもの(垂仁記)。オドは小さな戸で川が海に合流する河口であろう。『日本書紀』神代下第十段一書四で、鹽筒老翁が火折尊を導いた場所に「橘の小戸」とあり、そこが海宮に行く出発地となっている。良くも悪くもこの場所は異界へと通じる境界として認識されているのであろうと思われる。穢れを払うことが可能であるのも、ここが異界へと通じる境界であればこそであろう。「檍原」については、なぜこの名称であるのか、その意義は分からない。【→補注九】 衝立船戸神 「衝立」は杖からの連想か。とすれば杖を突き立てる意となる。「フナト」は「クナト」と同じで、道の曲がり角のことかという。この神以下六神を陸路の神とする説、または黄泉国からの逃走と関わらせる説がある。一方「クナト」は「来勿処」で来るなの意ととる説(記伝など)もある。『日本書紀』神代上第五段一書六に「岐神」、同一書九に「岐神と謂す、此、本の号は来名戸の祖神と曰す」と見える。 道之長乳歯神 道の長乳は長い道の意。帯の長さからの連想による。黄泉国から逃げてきた道の長さを暗示するものとされる。歯は未詳だが、「ナガチイハ」で「磐」の意かとする説(注釈・集成)や、「端」の意ととる説(思想・角川新版)などがある。『日本書紀』第五段一書六に「長道磐神」。 ○御嚢 「嚢」は兼・延佳本・記伝に「裳」とあり、こちらを採用する説があるが、「裳」は一般に女性の着用するものであり、イザナキの服装にはそぐわないという反論もなされている。ここでは底本に従って「囊」を採用する。旅に際して携行していたものであろう。
時量師神 道果本・道祥本・春瑜本は本文の左に「時置師神舊事本紀」と記し、道果本は本文も「時置師」とする。兼永本以下卜部系諸本は底本と同じく「時量師神」であるが、寛永版本・延佳本・古訓古事記は「時置師神」に改めている。宣長は前項の「囊」を「裳」と取ることと併せてこれを「解き置く」の意にとり、以後「時置師神」を採用するものも多い。「時」をそのままの意でとると確かにこの場面における意味合いが摑みづらい。ただ「置」としなくとも、「量」を「放(はか)し」と取れば、「解き放(はか)し」で意味は通る。底本と兼永本が「量」であることを重んじれば、「量」のままで良いように思うが、放つ意の「ハカシ」の確例がない点で問題が残る。身に付ける意の「佩く」の使役形「佩かす」かとする説もあるが、意味的にはしっくりこない。
和豆良比能宇斯能神 災厄・労苦・困惑の「ウシ(主)」の神。脱ぎ捨てた衣とともに祓うのであろう。『日本書紀』神代上第五段一書六に「煩神」。 道俣神 道が分かれるところ、道の分岐点に祀られる神。褌は二つに分かれているところからの連想によると説かれる。 飽咋之宇斯能神 食い飽きることの「ウシ(主)」の神。アキグイは口を大きく開けていることで、冠が口を開けていることからの連想か。がぶがぶと罪穢れを呑み込む神の意か(注釈)とするものや、ヨモツシコメが筍や山葡萄を飽きるほど食うことを暗示する(集成)という見方もある。『日本書紀』第五段一書六に「開囓神」。 〇投棄流 みそぎの場面では「投棄」という動作が繰り返されるが、左御手之手纏の場合のみ「投棄流」というように「流」の字が入っている。初出の箇所に見えるのであれば、動詞の活用語尾に該当する語の読み添えが記されているとも考えられるが、途中で一箇所だけ記されている点で疑問が残る。例えば「アラブルカミ」を表記する場合に、「荒神」と書いたり「荒夫琉神」と書いたりするなど、活用語尾が記される場合と記されない場合とがあって、これも同様の、不統一の例と見ることも出来るかも知れないが、ただ、『古事記』成立時にはじめからあった文字であるというよりも、傍書してあった活用語尾が、書写の段階で本文に紛れ込んでしまったと考えた方が良いのかも知れない。その意味では本文校訂で削るべきなのかも知れないが、諸本一致して記している故にそのままのこしておくことにする。
奥疎神・奥津那芸佐毗古神・奥津甲斐弁羅神 奥は沖で海岸から離れたところ。奥疎神は海岸から遠ざかることを意味する神名。那芸佐は「波限」で海陸の境界をいう。甲斐弁羅は、カヒは、「峡・間・貝」などの説があったが、その場合の「ヒ」は上代特殊仮名遣いでは甲類であり、それに対して「斐」は乙類であるので仮名違いとなる。そこで西宮一民は、動詞「交ふ」の上二段活用連用形の名詞化したもので、交叉した状態にあることをいうのではないかと説いた(集成)。これに拠れば甲斐国の甲斐も同じ意味ということになる。また「弁羅」も「ヘリ=縁」の意(井手至「古事記禊祓の神々」『遊文録 説話民俗篇』二〇〇四・五)だとすると、甲斐弁羅神は境界の神ということになる。
辺疎神・辺津那芸佐毗古神・辺津甲斐弁羅神 辺は海岸の義なので、本来ナギサもカヒベラも「辺」にあるもの。海辺の境界から遠ざかって行った神が辺疎神となる。 〇所成神 みそぎによって出現する神々は、イザナキの身に付けていたものから、及びイザナキの身体を漱いだ際に出現した神々であり、「成」った神である。出現させた神と出現した神との関係は、親子ではない。しかし、みそぎの前半部・後半部ともに取り纏めの一文では「生」んだ神として位置づける。これは後のうけひ神話などにも見られる記述の方法である。本来「生む―生まれる」関係ではないところを、「生む―生まれる」と表現することで、血統を保証するという記述方法である。とくにこの方式によって三貴子はイザナキの子として位置づけられ、また後に天忍穂耳命は天照大御神の子神として位置づけられることになる。

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【補注八―①②③】

【補注八―①】「禊」、「禊祓」の訓及び理解について
 「禊」、「禊祓」の両者につき、賀茂真淵は明確に区分されると論じている。
 「御身之禊」の箇所の頭注に、
「みそきハ御水滌して清むる也、はらへハ拂ひ清むるにて似て別也、さてこゝハはらひなり、みそきハ次にあり」(『古事記頭書』『賀茂真淵全集』第十七巻 十二頁)
 とし、「禊祓」については、「こゝに禊祓と云は、二つを先いひて次に祓をいひ、その次に禊をいふ、此二字その二つを先挙いへるを心得ぬ人、はらへとのみ訓は誤れり」と、自筆書入れの古事記に頭書している(『賀茂真淵全集』第二十六巻 続群書類従完成会 昭和五十六年 二六頁)。書入れ本の「禊祓」には傍訓がないが、『仮名書古事記』では、「はらひみそぎ」と読んでいる(『仮名書古事記』『賀茂真淵全集』第十七巻 続群書類従完成会 昭和五十七年 七九頁)。なお、寛永版本の右傍訓は「ハラヒ玉フ」、左傍訓は「ハラヒミソキ玉フ」である。
 また、『祝詞考』大祓の注釈において、
祓ちふ事は、古事記に、伊邪那伎命の、黄泉に到まして、穢れ給へるを、清め給はむとて、筑紫国の、橘の小門にして、大御身に着ましゝ物を、ぬぎ捨給ふをいふ、穢を拂ひやらふよし也、次に海潮に浸て、大御身を滌給ふ、是を身滌といふ、身の穢を、あらひそゝぐよし也、このふたつぞ、祓みそぎのもとなる、」(『祝詞考』『賀茂真淵全集』二五七頁)
これら、右の真淵の記述は、ややわかりにくいのだが、整理すると、まず最初の「御身之禊」は「はらひ」であり、次の「禊祓」は「みそぎ」であると理解しているようだ。そうであれば、訓として最初の「御身之禊」は「はらひ」となるはずであるが、「みそき」と訓じていて、つじつまが合わない点があるのは不審ではあるが(なお、寛永版本は「ハラヒセント」、『鼈頭古事記』は「ハラへ」と訓む)、「はらひみそぎ」の訓から考えると、伊邪那岐命ははじめ衣服を脱ぎ捨てて「はらへ」をなし、次に水で体を濯いで、「みそき」をしたというように理解しているのであり、その順で、「禊祓」に、「はらひみそぎ」という訓を付したと考えられる。なお、延佳は「禊祓」を「ミソギ」と訓じている。
 宣長は「御身之禊」の禊を「ハラヒ」と訓んでいる。理由は「そは御身之とあれば、美曾岐と云むは言重ればなり。それも御手之手纏と云が如く、苦くはあらねども、彼はなほ波良比とて有なむ。さてその波良比やがて美曾岐なればことの同じ」(『古事記伝』)とする。この訓は寛永版本以来の訓を踏襲しているが、その理由としては真淵の、伊邪那岐命が最初に「ハラヒ」、次に「ミソキ」を行った、という見解を踏襲しているとも考えられる。 〔松本久史 近世国学・神道学〕

【補注八―②】「禊・祓」
 『古事記』では、黄泉国におもむいた伊耶那伎命(大神)が禊ぎ、祓えを行うことで、八十禍津日神・大禍津日神、神直毗神・大直毗神、三柱の綿津見神、墨江の三前の大神をはじめとした神々が生まれ、最終的に三貴子が誕生する。黄泉国からの帰還=死者との接触の後の禊・祓は、『古事記』全体の流れの中で、極めて重要な意味を持つ。
死者の遺体は、やがて腐敗する。これに生物的な危険性を感じ、嫌悪感をいだくのは、人間の認知システムからは自然な対応であり、死を宗教的な「穢れ」として忌避することは、世界各地で確認できる(ボイヤー、二〇〇八)。日本列島においては、三世紀、『魏志』東夷伝、倭人条に「已に葬れば、挙家水中に詣り澡浴し、以て練沐の如くす」とあり、これは死者との接触を「穢れ」と認識し、それを水で洗い流す行為と解釈できる。『古事記』で、伊邪那伎大神が、「吾は御身の禊せむ」として、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原で行った「禊」は、『魏志』東夷伝、倭人条が記す葬送後の澡浴の延長線上にあるといってよい。死者は穢れであり、それと接触することで付く「穢れ」を、水による「禊」で取り除き清めるという一連の流れが、少なくとも三世紀以来、伝統的に受けつがれ、『古事記』の重要な文脈に組み込まれたと考えてよいだろう。
 これに対して「祓」は、『記』『紀』では一貫して罪を贖うため物品を供出することを指す。『古事記』上巻「天の石屋戸」の段では、「営田の阿を離ち、溝を埋め」などの罪を犯した速須佐之男命に「千位の置戸」を負わせている。この部分は、『日本書紀』神代上、第七段第三の一書では「千座置戸の解除(はらへ)を科せて」と書いており、祓(解除)を指すと考えられる。「祓」とは、自らが犯した罪を贖う千位(ちくら)の置戸を差し出すことと認識されている。さらに、ここでは「天児屋命をして、其の解除の太諄辞を掌りて宣らしむ」ともあり、「大祓」「大祓詞」との関係がうかがえる。また、『古事記』中巻では、仲哀天皇の崩御にあたり、『延喜式』祝詞式にのせる大祓詞の国津罪とほぼ共通する罪を列挙し大祓を行っている。そこでも、やはり罪を贖う品「国の大奴佐」を供出させている。
 記録上の大祓の初見は、『日本書紀』天武天皇五年(六七六)八月辛亥(十六日)条の次の記事である。
  詔して曰はく、「四方に大解除せむ。用ゐむ物は、國別に國造輸せ。秡柱は馬一匹・布一常。以外は郡司。各刀一口・鹿皮一張・钁一口・刀子一口・鎌一口・矢一具・稲一束。且戸毎に、麻一條」とのたまふ。
罪を贖うための祓柱(祓物)を、諸国の国造と郡司が供出している。この内容は、ほぼ『神祇令』の諸国大祓と大祓に継承されており、天武天皇五年が律令期の大祓が成立する大きな画期となっていた。併せて、この段階で後の大祓詞の中核となる部分も成立していた可能性が指摘されている(青木、一九八五)。
 また、「祓」は、禊と同様、水辺との関係は深い。『皇太神宮儀式帳』は神宮の月次祭に先立つ大祓を「度会河にて晦の大祓つかへまつる」と記し、『延喜式』祝詞式の大祓詞の末尾には「四国の卜部ども、大川道に持ち退り出でて、祓へ却れと宣ふ」とあるように、大祓は祓いの麻を水辺で流すという側面も持つ。ここに、「禊」と「祓」が対となる原因があったのだろう。
 七世紀末期の天武天皇の時代、それは『記紀』の編纂が進められた時代であった一方で、大祓に代表される「祓」の儀礼が、国家的に整備されていた時代でもあった。その過程では、儀礼そのものの整備、国家的な位置づけを行いながら、同時に『記』『紀』神話との対応関係が図られていたのではないだろうか。 〔笹生衛 考古学・日本古代史〕
 参考文献
  ・パスカル・ボイヤー(鈴木光太郎・中村潔訳)『神はなぜいるのか?』NTT出版 二〇〇八年
  ・青木紀元『祝詞古伝承の研究』国書刊行会 一九八五年


【補注八―③】祓えの史的展開
 古代の祓えについて、まずは諸史料を概観する。『日本書紀』崇神十二年三月丁亥(十一日)条には、詔のなかで、昼夜が錯誤して寒暑が不順となったことや、疫病が多く起こって百姓が災を蒙ったことに対して、「罪を解(はら)へ、過(あやまち)を改」めてあつく神祇をうやまっていることが述べられている。『日本書紀』神功摂政前紀仲哀九年二月条では、仲哀の崩後に群臣および百寮に命じて、「罪を解(はら)へ過(あやまち)を改」め、斎宮を小山田邑に造らせたとあり、それに対応する記述として『古事記』仲哀段では、崩じた仲哀を殯宮に安置し、国の大幣を取って、「生剝」をはじめとする種々の罪の類を求めて国の「大祓」をしたとある。『日本書紀』履中五年十月甲子(十一日)条には、車持君が天子の百姓を検校した罪・既に神に分(くば)り寄せた車持部を奪い取った罪をあげ、「悪(あし)解除(はらへ)・善(よし)解除(はらへ)」を負わせ、長渚崎に出して「祓禊」させたとある。『日本書紀』雄略十三年三月条には、歯田根命がひそかに采女山辺小嶋子を姧したことを知った雄略が、歯田根命を物部目大連に引き渡し、歯田根命は馬八匹・大刀八口をもって「罪過を祓除(はら)」ったが、馬など惜しくないとする歌を詠んだことを目大連が報告し、それを受けた雄略は歯田根命に資財を露わにして餌香の市の傍らの橘のもとの地に置かせ、長野邑を目大連に与えたとある。資財を置く行為も、明記されてはいないが祓えを意味するものであろう。これらの記述は伝承的性格が強く、また「大祓」は後世の潤色と思われるため、史実とはみなしがたい。
 『日本書紀』大化二年三月甲申(二十二日)条にはいわゆる薄葬令とともに、旧俗廃止令が出されている。そのなかで、未亡人や未婚の女が人に嫁いだ時にその夫婦を妬んで「祓除」をさせること、辺境の役民が故郷へ還る際に急に病気となって路頭で死ぬと、その傍らの家の者が、また百姓が溺死すると、それに遭遇した者が、死者の仲間を留めて強引に「祓除」をさせること、役民が路頭で炊飯する際に、傍らの家の者が強引に「祓除」をさせること、百姓が他人に甑を借りて炊飯した際、物に触れて覆ると、甑の持ち主が「祓除」をさせることなどが「愚俗」として禁止されている。また、乗馬で京に向かい、参河・尾張の人を雇って馬を飼わせて京に入る際に起こるトラブルの一つとして、馬が牝馬であり、預かった者の家で孕んだ場合、「祓除」をさせて馬を奪うことが記されている。
 天武期以降は大祓に関する記述がみえる。天武五年八月辛亥(十六日)条には、詔して四方に「大(おほ)解(はら)除(へ)」し、それに用いる「祓柱(はらへつもの)」として国造は馬一匹・布一常、郡司は刀一口・鹿皮一張・钁一口・刀子一口・鎌一口・矢一具・稲一束、戸毎に麻一条を準備するよう命じている。また、同じく天武十年七月丁酉(三十日)条にも「大解除(おほはらへ)」をおこない、国造等に「祓柱」として奴婢一口を出させたことがみえる。さらに朱鳥元年七月辛丑(三日)条には、諸国に詔して「大解除」したとある。大祓は制度化され、神祇令18大祓条には「大祓」を六月・十二月の晦日におこない、中臣が御祓麻(おほぬさ)を、東西の文部が祓の刀をたてまつり、祓詞(はらへごと)を読み、それがおわれば百官の男女が祓の所に集まり、中臣が祓詞をのべ、卜部が「解(はら)へ除」くことをせよとある。また、同じく神祇令19諸国条では、諸国で「大祓」する場合には、郡毎に刀一口・皮一張・鍬一口などを出し、戸別に麻一条、国造が馬一疋を出すと規定されており、天武期に実施された四方の大祓が制度化されたとみられる。ただし、天武期には大祓(大解除)が実施されるようになったが、神祇令の規定と同様に六月・十二月の晦日に実施された例は確認されず、『続日本紀』大宝二年十二月壬戌(三十日)条に、持統太上天皇が崩じたため「大祓」を廃したとみえるのが初見である。大祓に関する規定は『延喜式』にもあり、四時祭上7春日祭条や同11平岡祭条に「解除の料」や「神酒を醸(つく)る解除の料」が定められている。神酒と祓えに関しては、『万葉集』に大伴家持が詠んだ「酒を造る歌一首」(四〇三一)が収録されており、奈良時代には神酒を造る際に祓えをおこなっていたことがうかがわれる。また『延喜式』では、六月・十二月の晦日におこなわれる恒例の大祓について同29大祓条に規定があり、祓えつ物を列挙したうえで、晦日の申の時以前に親王以下の百官が朱雀門に会集し、卜部が祝詞を読めとある。さらに同30 御贖(みあがなもの)条、同31中宮御贖条には毎年六月と十二月の晦日におこなわれる天皇および中宮・東宮の祓えについて規定があり、祓えつ物と儀式の詳細が記されており、同32供奉人禄条には大祓に供奉した官人への禄についての規定がある。さらに、祝詞12大祓条には大祓の際の祝詞が掲載されており、官人たちの過ち犯したさまざまな罪を祓うことが述べられている。他方、大祓以外の祓については『類聚三代格』巻一、延暦二十年五月十四日太政官符に、祓えに必要な料物が犯の程度により区分されてあげられている。すなわち大祓二十八種・上祓二十六種・中祓二十二種・下祓二十二種であり、いずれも大嘗祭以下種々の祭祀を闕怠した場合など、神祇関係の禁忌を犯した際の祓えに要する料物である。
 古代における祓えの史的展開をめぐっては、青木紀元「ミソギ・ハラヘ」(『日本神話の基礎的研究』風間書房、一九七〇年)が、禊ぎとの関係を含めて論じている。それによれば、穢れを水によって洗い清めるミソギに対して、日本におけるハラヘは罪を犯した者に祓えつ物を出させて贖罪させる点で本来は区別されたが、天武天皇の時代に国内の罪悪を一掃することによって社会の秩序を立て直し、新生国家を現出しようとする目的で大祓が創始され、さらに毎年六月・十二月の晦日に定期的に実施する恒例の大祓が成立した。その一方でハラヘは精神的不浄・身体的不祥の除去という道徳的・宗教的意義が強調されるようになり、ミソギに接近、さらには一体化するに至ったという。また、律が制定されると、犯罪はそれによって処理されるようになったため、ハラヘは神祇関係を除いて一般にその存在意義を喪失するに至ったという。 〔溝口優樹 日本古代史〕

【補注九】ヲドノアハギハラについて

春満は、所在を筑前国のこととし、同国に橘山があるとしている。
此ツクシニ、オトヽ云トコロ、タチハナ山抔ト云テ、筑前ノ国ニ今モノコリテアル也、シマノ郡ニ檍ト云地名モ、シセントノコリタル也(東丸神社蔵、荷田信名筆『日本書紀神代巻箚記』)
これは、筑前国直方の多賀神社神職、青山敏文が門人であったことも関係しているかもしれない。また、貝原益軒の『筑前国続風土記』に既に同様の記述あり、糟屋郡の小戸という地名を比定しているが、春満は、同書を見ていたかは不明である。
宣長は『古事記伝』において「日向」に「ひむか」と「ひむかひ」の二つの訓が考えられ、前者の場合、国名の日向を指し、後者は太陽に向かう地という意味であるとして、「ひむか」の訓を採用しているが、日向国内に該当する地名は見当たらないとしている。一方で、筑前国に比定する貝原益軒説も一説として紹介している。 〔松本久史・近世国学・神道学〕

是以伊耶那伎大神詔吾者到於伊那志許米志許米岐[此九字以音]穢国而在①祁理[此二字以音]故吾者為御身之禊而 到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐[此三字以音]原而禊祓也 故於投棄御杖所成神名②衝立舩戸神 次於投棄御帯所成神名道之長乳齒神 次於投棄御嚢所成神名時量師神 次於投棄御衣所成神名和豆良比能宇斯能神[此神名以音] 次於投棄御褌所成神名道俣神 次於投棄御冠所成神名飽③咋之宇斯能神[自宇以下三字以音] 次於投棄流左御手之手纏所成神名奥疎神[訓奥云於伎下效此訓疎云奢加留下效此] 次奥津那藝佐毗古神[自那以下五④字以音下效此⑤ ] 奥津甲斐弁羅神[自甲以下四字以音下效此] 次於投棄右御手之⑥手纏所成神名邊疎神 次邊津那藝佐毗古神 次邊津甲斐弁羅神⑦  右件自舩戸神以下邊津甲斐弁羅神以前十二神者因脱著身之物所生神也 【校異】
① 真「神」。道果本以下に従う。
② 真・道果本・道祥本・春瑜本「衡」。卜部系諸本により改める。
③ 真「昨」。道果本以下に従う。
④ 真「音」。道果本以下に従う。
⑤ 真「之」。道果本「也」、道祥本「\」、春瑜本及び兼永本以下の卜部系諸本ナシ。春瑜本以下に従う。
⑥ 真、前田本ナシ。他の写本に従う。
⑦ 真、改行、字下げなし。道果本、改行せず、一字空格。道祥本・春瑜本、改行せず。前田本、改行二字下げ。兼永本以下(前田本以外)改行一字下げ。

こうして、伊耶那伎大神は「私は何とも醜い、醜い汚れた国に行っていたものだ。 だから私は、身体のけがれを洗い清めよう」と仰せられ、 筑紫の日向の橘の小門のあわき原にご到着になって、禊をなさった。 それで、投げ棄てた御杖に出現した神の名は、衝立船戸神 次に投げ棄てた御帯に出現した神の名は、道之長乳歯神 次に投げ棄てた御嚢に出現した神の名は、時量師神 次に投げ棄てた御衣に出現した神の名は、和豆良比能宇斯能神 次に投げ棄てた御褌に出現した神の名は、道俣神 次に投げ棄てた御冠に出現した神の名は、飽咋之宇斯能神 次に投げ棄てた左の御手の手纏に出現した神の名は、奥疎神 次に奥津那芸佐毗古神。 次に、奥津甲斐弁羅神 次に投げ棄つる右の御手の手纏に出現した神の名は、辺疎神 次に辺津那芸佐毗古神。 次に辺津甲斐弁羅神 右の船戸神から辺津甲斐弁羅神までの十二柱の神は、(伊耶那伎大神が)身に著けていた物を脱いだことによって生んだ神である。

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