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しかして、速須佐之男命はやすさのをのみこと老夫おきならししく、「の、むすめは、まつらむや」とのらしき。 答へまをししく、「かしこけれども、御名みなさとらず」とまをしき。 尒して、答へ詔らししく、「吾は天照大御神の伊呂勢いろせぞ[伊より下三字は音を以ゐる。]。 かれ、今天よりくだいましぬ」とのらしき。 尒して、足名椎あなづち手名椎神たなづちのかみが白ししく、「然坐しかいまさば恐し。まつらむ」とまをしき。 尒して、速須佐之男命、すなは湯津爪櫛ゆつつまくしに其の童女をとめを取り成して、みみづらに刺して、 其の足名椎・手名椎の神にらししく、「汝等なれ八塩折やしほをりの酒をみ、 亦、かきを作りめぐらし、其の垣に八門やかどを作り、 門毎かどごとに八さずきをひ[此三字は音を以ゐる。]、其のさずき毎に酒舩さかふねを置きて、 舩毎ふねごとに其の八塩折りの酒を盛りて待て」とのらしき。 故、告りたまへるまにまに、かくけ備へて待つ時に、 其の八俣やまたの遠呂智をろちまことことごとつ。 乃ち舩毎におのかしられ入れ其の酒を飲みき。 ここに、飲みとどまり伏しねき。 尒して、速須佐之男命其の御佩みはかせる十拳釼とつかつるぎを抜き、 其のへみを切り散らししかば、肥河ひのかは血にりて流れき。 故、其の中の尾を切りし時に、御刀みはかしの刃けき。 尒して、あやしと思ほし御刀のさき以て、刺しきて見そこなはせば、都牟羽つむは大刀たち在り。 故、此の大刀を取りあやしき物と思ほして、 天照大御神に白し上げたまひき。 是は草那芸くさなぎの大刀ぞ[那藝二字は音を以ゐる。]。

○恐し。亦、御名を覚らず。 現行のテキスト・注釈書類では概ねこのように訓じているが、この訓読文では意味が通りづらい。宣長は「カシコケレドミナヲシラズ」と逆接で繫げて訓んで、「スミヤカヲヲトマヲすべきなれども、と云意の言なり」と言い、全書は、「恐きにも亦御名を覺らず」と訓み、ニモのニは「その上さらに」の意の接続助詞、モは感動の意を添える終助詞とし、「恐れ多いことでございますが」と解するが、いずれの場合も「亦」を含む文字列の用例としては『古事記』の他の箇所に見えない点に難がある。  「御名を覚らず」という言い方は、単に「知らない」ということではないらしい。当然覚らなければならないにも関わらず、覚ることが出来ていないことに対しても、「恐し」と言っているのではないか。大穴牟遅神が根の堅州国に出向いた時、須勢理毘売の父須佐之男命は、「これは葦原色許男だ」と認識した。火遠理命が海神宮に出かけた際には、豊玉毗売の父の海神は、「この人は天津日高之御子の虚空津日高だ」と認識をしていた。同じように求婚された娘の父の立場でありながら、相手の素性を見抜けないことに対する発言であるとしたならば、「恐れ多いことにあなた様の御名を認識出来ません」という文意になるのではないか。  なお、この発言に対して植田麦が以下のように論じているので、解釈のひとつの可能性を持つものとして紹介しておく。
足名椎神の発言である「不覚御名」は、単に名称を知らないと述べるのではなく、対象の本質に対する不理解を示している。これに対して須佐之男命も、自らの名を示すのではなく、天より降った「天照大御神之伊呂勢」として、その在りようを示した。それは、ここまでの文脈でその名が高天原における暴虐神の色を濃く示しうるためでもあるだろう。その代わりに、天神の頂点たる姉の名と血縁関係を示し、また追放されたのではなく、自ら天降ったと述べるのである。この発言によって、須佐之男命の位置づけは大きく転換する(「須佐之男命の自己規定と文脈上の意味」大阪市立大学国語国文学研究室『文学史研究』五十四号、二〇一四年三月)。
○湯津爪櫛に其の童女を取り成して なぜ櫛とするのかについては、櫛が邪気を払う呪的な力を持つ霊妙なものであるという見方がある一方で、櫛名田比売の名前の表記から連想されたためとする見方もある。新編全集は、「少女をそのまま櫛に変えたということであり、小さく変えたのではない。須佐之男命の大きさを印象づけるもの」と説いている。 ○其の虵を切り散らししかば これまで八俣大蛇と呼ばれていた存在がここで「虵」と呼ばれているのは、八俣大蛇の正体が巨大な蛇神であったということを明かしているという意味合いがあろうし、また須佐之男命によって退治される場面なので、「虵」というものに貶められてるとも考えられる。 ○肥河血に変りて流れき 「八俣の大蛇退治①」でも触れたように、『古事記』の場合は八俣大蛇と肥河との関係は密接である。この描写もそれを示す一例。『日本書紀』には見えない。 ○都牟羽の大刀 名義未詳。尾を割いてみたところ、「都牟羽の大刀があった」という説明であるので、「都牟羽の大刀」は、固有名称ではなく、「十拳釼」のような形状等による名称なのではないか。 ○異しき物 この「異物」という表現には正負を判定する意味はなく、須佐之男命はこの大刀の真価を見定めることが出来ず、天照大御神によって真価が見出されるとする見方(松本直樹「「白上於天照大御神也是者草那藝之大刀也」について―草那藝大刀をめぐる古事記の表現意図―」『菅野雅雄博士喜寿記念 記紀・風土記論究』おうふう、二〇〇九年三月)と、神秘的な価値を持つ大刀として須佐之男命に見出されたとする見解(土佐秀里「奇物と異物―古事記の文字表現一例―」『上代文学研究論集』第一号、二〇一七年三月)とがある。 ○白し上げたまひき これを「白し+上ぐ」という二つの動作と見て「申し上げて献上した」と解するものが殆どであるが、松本直樹(前掲論文)は、「上ぐ」のみで献上する意を示す例が『古事記』中に見られないことから、「申し上げる」のみの意味で取るべきだとし、大刀の天上への移動は明記されていないとする。「白上」の例は『古事記』神話中にもう一例、「故、尒して、神産巣日御祖命に白し上げたまひしかば、答へ告らししく……」(少名毗古那神との国作り)がある。海の彼方から現れた神の正体を天上界の神に確認する場面である。この場合は具体的に何かを差し上げるという内容ではなく、天上界の神に対して地上界から伺いをたて、その後司令を受けるという展開となっているので、これを参照するならば、この場面も、大刀の扱いを確定し得ない須佐之男命が、天照大御神に伺いをたてたという意味で「白し上げ」たと取るべきかも知れない。勝手に判断することをしなかったということは、この大刀にある種の価値を見出していたということになろうか。 ○草那芸の大刀 クサは嫌悪・忌避の念を込めた「臭」、「ナギ」は蛇の古語で、猛烈な威力を持った蛇に対する人々の畏怖・警戒の念が「クサナギ」という名をもたらしたとする見方がある(佐竹昭広『古語雑談』岩波新書、一九八六年九月)。一般的な名称であって、複数存在した可能性を説く見解もある(岡田精司「草薙剣伝承と古代の熱田神社」『古代祭祀の史的研究』塙書房、一九九二年一〇月)。  この名称がいつからのものであるのかに解釈上の揺れがある。『日本書紀』では日本武尊の東征の際に「クサナギ」の名称由来に関わる話が記載されているので、その際に名付けられたということになるが、『古事記』にはそのような記載はない。「都牟羽の大刀」が固有名ではないとするならば、初めから「草那芸の大刀」であったと取ることも出来る。【→補注七、草薙の剣】

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草薙の剣

 草薙の剣とは、スサノヲがヤマタノヲロチを退治した際に、その尾のなかから出てきたもので、『日本書紀』本文には「草薙剣くさなぎのつるぎ」(1)とあり、『古事記』には「くさ那芸之大刀なぎのたち」(2)と記されている。草薙の剣はその後、スサノヲによって天神(アマテラス)に献上され、天孫降臨の際に尺瓊曲玉さかにのまがたまたのかがみとともにニニギに授けられたが(3)、崇神天皇のとき豊鍬入姫とよすきいりひめに託して倭の笠縫邑かさぬいむらに祭られ(4)、景行天皇のとき東征におもむくヤマトタケルが伊勢神宮を拝した際に、伯母のヤマトヒメから授けられたという。ヤマトタケルが駿河(5)に至ったとき、賊によって草原に火をかけられたが、剣で草をぎはらって脱出したとされ、帰路尾張に立ち寄った際に剣をミヤズヒメに預けたまま山神討伐に向かったため、毒気にあたって亡くなったとする。『日本書紀』景行五十一年八月壬子(四日)条によれば、ヤマトタケルが帯びていた草薙横刀は、現在尾張国年魚市あゆち郡の熱田社にあると記されている。しかし、『日本書紀』天智七年(六六八)是歳条には、沙門道行(6)が草薙の剣を盗んで新羅に逃げようとしたが、風雨に遭って帰ってきたという、前後の脈絡がよくわからない記事があり、『同』朱鳥元年(六八六)六月戊寅(十日)条には、罹病した天武天皇を占ったところ、草薙の剣の祟りと出たので即日熱田社に送り置いたとあることからすると、天武期以前には草薙の剣が宮中にあった時期が存在した可能性が指摘されている。
 “クサナギ”の語義については、上記のようにヤマトタケルが賊に火をかけられた際、剣でぎはらったことから付けられたとするのが記紀の説明である。しかしかかる伝承は、成立年代が比較的遅いと考えられている『古事記』の伝承と、『日本書紀』の一説にしか記されておらず、『日本書紀』本文では剣を使わずひうちによる向かい火によって消火していることや、古代の文献では「草を刈る・払う」の意味で「薙ぐ」を使用した例はなく、また『和名類聚抄』では「剉薙」を「クサキリヽヽ」、『類聚名義抄』では「薙」を「カル」と訓読していることから、記紀の説明は付会にすぎないと考えられている(7)。現在では、「クサ」は嫌悪・忌避の念をこめた「くさ」で、「ナギ」は蛇の方言に由来するととらえ、「猛烈な威力をもった蛇に対する人々の畏怖・警戒の念がクサナギ(臭蛇)という名をもたらした」とする見解(8)が有力とされている(9)。
 ところで草薙の剣は、天皇位の象徴・レガリアである“三種の神器”のひとつとされ、即位儀礼の際に奉上されてきた宝器である。しかし古代の文献史料をみると、天皇の即位時に奉上されたレガリアに玉・鏡・剣の三種がそろうことはなく、従来から問題とされてきた。
 すなわち『日本書紀』によれば、次表にみえるように令制以前の段階から、即位に際して群臣たちから「璽符」や「璽」「璽印」「璽綬」などと称されるレガリアが奉上されており、それは令制導入以後も「神祇令」践祚条に規定され、のちには中臣氏による天神寿詞あまつかみのよごとの奏上とともに大嘗祭の二日目に移されて、“辰日前段行事”として挙行されるようになる(10)。ただ、「璽符」や「璽」が具体的に何を指すのかとなると、少なくとも次表の諸史料から読み取れるのは、鏡と剣の二種ということになる。先行研究のなかには、「神祇令」13践祚条などにみえる「神璽」を宝玉ととらえ、玉・鏡・剣の三種は自明のことであったとする見解(11)もあるが、同条義解説に「此れ即ち鏡剣を以て璽と称す」とあるように、「璽」(「神璽」も同様)は鏡剣に付く形容句と考えられ、また令釈に「唐令云ふ所、璽とは、白玉を以て之を印となすなり」とあるように、唐では白玉製の(12)を指していたのであって、これを玉(曲玉)と理解することはできないだろう。そもそも持統紀の「神璽の剣鏡」こそ、原文では「神璽剣鏡」とあって、玉・剣・鏡と解釈できなくもないが、「神祇令」や『儀式』の「神璽の鏡剣」は「神璽鏡剣」と記されており、「神璽」を玉とみなしたのでは意味が通じなくなる。

(古事記学70P・図)

 古代日本の祭祀遺跡では、模造品もふくめれば、そのほとんどで玉・鏡・剣が三点セットとして祀られていた(13)。よって、神に捧げる宝物としての“三種の神器”という概念が、列島内で古くから形成されていたことは疑いのない事実であろう。しかしそれと、即位儀礼で新天皇に奉られるレガリアを同一視する理由は、必ずしもない。いわゆる『魏志倭人伝』には、遣使してきた倭王卑弥呼に対して、魏の明帝が金印紫綬のほかに五尺刀二口や銅鏡百枚などの「好物」を賜い、「ことごとく以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむべし」と詔したとある。なぜ刀や銅鏡が卑弥呼の「好物」で、それを「国中の人に示」さなければならなかったのだろうか。
 古墳時代以降、三角縁神獣鏡などの銅鏡が威信財として各地域の首長に再分配されたことは、よく知られた事実であり(14)、また刀身や刀背に文字が象嵌ぞうがん(15)されている有銘刀剣についても、上位者が下位者に下賜・分与することで、政治秩序の形成に使われていたと考えられている(16)。鏡や刀剣は、製作技術がともなわない時代にあっては、すべてを舶載品でまかなわなければならず、それらを所持している人物は外交交渉を通じて海外から調達することが可能な最高首長(大王)か、もしくは最高首長から下賜・分与された有力者(中央・地方を問わず)であった。だからこそ卑弥呼たち倭王や地域首長は、みずからの政治的地位を象徴する銅鏡や刀剣をこぞって求めたのであり、その所有は中国王朝や倭王から現在の地位を承認されたことにほかならないため、威信財を手にした権力者たちは自身の地位を維持し安定させるため、その所有をことさらに誇示したのである(17)。
かかる政治的身分を象徴する鏡剣の存在価値は、右の『日本書紀』にみえる鏡剣奉上が歴史的事実を反映していると考えてよければ、製作技術が伝播しそれらを自前で生産できる時代になっても、基本的に変わらなかったといえるだろう。そしてそれは、中臣氏による天神寿詞の奏上や忌部氏による神璽の鏡剣の奉上という、新たな要素を即位儀に取り入れた持統天皇の時代(18)になっても同じで、神祇令に取り入れられたことでむしろ固定化していったとも考えられる。以上のことから、即位儀礼で奉上されたレガリアとしての鏡剣と、祭祀に用いられた“三種の神器”とは、物品の種類こそ一部で重なるものの、そもそもの性格が異なっていた可能性があることを指摘しておきたい。なお、即位儀礼で鏡剣奉上儀が確立した当初から、草薙の剣がそれに用いられていたという確証はない。というより、古代には“クサナギ”と呼ばれた宝剣がいくつか存在したとの見解(19)を勘案すれば、即位時の奉上儀が固定化していくとともに、特殊な霊力を有する“クサナギ”が天皇位を象徴するレガリアと観念されていき、両者が徐々に結びついていったと考えるのが合理的ではないだろうか。

  註
(1)割注によると、本の名は天叢雲剣あまのむらくものつるぎといい、ヤマトタケルのときに草薙剣に改めたという。
(2)都牟羽之大刀つむはのたち、または都牟つむがり之大刀のたちともいう。
(3)『日本書紀』第一の一書および『古事記』。なお『日本書紀』本文には記載がなく、第二の一書には宝鏡のみをオシホミミに授けたとある。
(4)『古語拾遺』による。
(5)『古事記』や『古語拾遺』には相武(相模)とある。
(6)『扶桑略記』や『熱田太神宮縁起』には「新羅沙門道行」とある。
(7)ハーラ=イシュトウヴァン・毛利正守「『草ナギ剣』について」(『古代文学論集』所収、桜楓社、一九七四年)。
(8)佐竹昭広『古語雑談』(岩波新書、一九八六年、のち平凡社から二〇〇八年に再刊)。
(9)吉田研司「熱田社と草薙剣からみた三種の神器成立の一側面」(『律令制と古代社会』所収、東京堂出版、一九八四年)、岡田精司「草薙剣伝承と古代の熱田神社」(『古代祭祀の史的研究』所収、塙書房、一九九二年、初出は一九八八年)など。
(10)『儀式』践祚大嘗祭儀下、『延喜式』践祚大嘗祭条・辰日段。なお、加茂正典「大嘗祭“辰日前段行事”考」(『日本古代即位儀礼史の研究』所収、思文閣出版、一九九九年、初出は一九八三年)は、中臣の天神寿詞奏上と忌部の神璽鏡剣奉上が即位式から大嘗祭に移動した時期を、光仁天皇の大嘗祭以後とする。
(11)西宮一民「三種の神器について」(『皇学館大学紀要』二一、一九八三年)。
(12)古代の日本にも、「公式令」40天子神璽条に「天子神璽」の解説として「践祚の日の寿(よごと)の璽(しるし)をいふ。宝として用ゐられず」とあるように、形容句でない「神璽」が存在したが、それも実用ではない宝印という位置づけであった。
(13)笹生衛氏の教示による。
(14)小林行雄『古墳時代の研究』(青木書店、一九六一年)。
(15)金属・材木・陶磁器などの材料に模様を刻んで、金・銀などほかの材料をはめ込む技法。
(16)川口勝康「瑞刃刀と大王号の成立」(『古代史論叢』上所収、吉川弘文館、一九七八年)、拙稿「有銘刀剣の下賜・顕彰」(『文字と古代日本』一所収、吉川弘文館、二〇〇四年)。
(17)四・五世紀の倭王は直接海外から威信財を調達していたが、地域首長たちは自身の外交権を倭王に委任することで、倭王による威信財の調達を側面から助勢し、倭王から再分配されることで威信財を手にしていたと考えられる。なお、この時期の政治構造については、拙稿「古墳時代の大王と地域首長の服属関係」(『國學院雑誌』一〇九-一一、二〇〇八年)を参照されたい。
(18)岡田精司「大王就任儀礼の原形とその展開―即位と大嘗祭―」(『古代祭祀の史的研究』所収、前掲註9書、初出は一九八三年)。
(19)岡田精司「草薙剣伝承と古代の熱田神社」(前掲註9論文)。
〔佐藤長門 日本古代史、古代王権・国家の権力構造論〕

尒、速須佐之男命詔其老夫、「①、汝之女者、奉於吾哉」。 答白、「恐亦、不覺御名」。 尒、答詔、「吾者天照大御神之伊呂勢者也[自伊下三字以音]。 故今自天降坐也」。 尒、足名②・手名椎神白、「然坐者恐。立奉」。 尒、速須佐之男命、乃於湯津爪櫛取③其童女而、刺御美豆良、 告其足名椎・手名椎神、「汝等、醸八塩折之酒、 亦作廻垣、於其垣作八門、 毎門結八佐受岐[此三字以音]、 毎其佐受岐置酒舩而、 毎舩④其八塩折酒而待」 故、随告而、如此設備待之時、 其八俣遠呂智、信如言来。 乃毎舩⑤入己頭飲其⑥ 於是、飲酔留伏寝。 尒、速須佐之男命⑦其所御佩之十拳釼、 切散其虵者、肥河變血而流。 故、切其中尾⑧、御刀之刃毀。 尒、思恠以御刀之前、刺割而見者、在都牟⑨之大刀。 故、取此大刀思異物而、 上於天照大御神也。 是草那藝之大刀也[那藝二字以音]。 【校異】
① 真「足」。道果本以下に従い、「是」に改める。
② 真「稚」。道果本・道祥本「椎」、春瑜本「稚」、兼永本以下卜部系「推」、前後の例によって「椎」に改める。
③ 真ナシ。道果本以下に従い、「成」を補う。
④ 真「成」。道果本以下伊勢系、及び兼永本・前田本は「盛」の異体字、曼殊院本・猪熊本は「盛」とあるのに従って、「盛」に改める。
⑤ 真「乗」。道果本以下に従い、「垂」に改める。
⑥ 真「」。道果本以下に従い、「酒」と判断する。
⑦ 真「秡」。道果本以下に従い、「抜」に改める。
⑧ 真「将」。道果本以下に従い、「時」に改める。
⑨ 真「羽」に従う。伊勢系諸本「羽」、兼永本の字体「」を「刈」と取って、「都牟刈」とするテキストもあるが、兼永本の字体は「羽」の異体字の可能性もあるので、「羽」のままとする。
⑩ 真「自」。道果本以下に従い、「白」に改める。

そうして、速須佐之男命はその老夫に、「このお前の娘は私にくれまいか」と仰った。 (老夫は)「恐れ多いことです。(ですが)まだお名前を認識できておりません」と申し上げた。 そこで、答えて仰ったことには、「私は天照大御神の弟であるぞ。 今、天から降って来てここに居るのだ」と仰った。 それを聞いて足名椎・手名椎の神は、「そうでいらっしゃるのでしたら、恐れ多いことです。(娘を)差し上げましょう」と申し上げた。 そこで、速須佐之男命は、其の童女を神聖な爪櫛に変じさせて、髪を結ったところに刺して、 その足名椎・手名椎の神に仰ったことは、「お前たち、何度も繰り返し醸した強い酒を造り、 また垣を作り廻らし、その垣に八つの入り口を作り、 その入り口ごとに八つの仮設の棚を設け、その棚ごとに船型の大きな器を置き、 器ごとに強い酒を盛って待て」と仰った。 そうして、(須佐之男が)教えなさった通りに、あれこれ準備して待っていた時に、 その八俣大蛇が本当に(足名椎の)言葉の通りにやって来た。 そうして酒舩ごとに己の頭を垂らして入れてその酒を飲んだ。 それで、飲んで酔っ払ってその場に伏して寝てしまった。 そこで、速須佐之男命は自身が身に帯びていらっしゃった十拳釼を抜き、 其の蛇を切り散らかしたところ、肥の河が血に変じて流れた。 そして、その内側の尾を切った時に、御釼の刀身が欠けた。 それで不思議に思って御釼の前を使って刺し割いて中を御覧になると、都牟羽の大刀があった。 それで、その大刀を取り出して、 正体の分からない物だとお思いになって、天照大御神に申して差し上げた。 是は草那芸の大刀である。

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