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此の八千やち矛神ほこのかみ高志こしの国の沼河ぬなかは比売ひめはむとして、幸行でましし時に、 其の沼河比売の家に到りて、歌ひてひしく、 八千矛の 神の命は  島国しまくに 妻まきかねて  遠々し 高志の国に  さかを 有りと聞かして  くはし女を 有りと聞こして  さよばひに ありたし  よばひに あり通はせ  大刀が緒も 未だかずて  おすひをも いまだ解かねば  をとめの すやいたを  押そぶらひ 我が立たせれば  引こづらひ 我が立たせれば  青山に ぬえは鳴きぬ  さ野つ鳥 きぎしとよむ  にはつ鳥 かけは鳴く  うれたくも 鳴くなる鳥か  此の鳥も 打ちめこせね  いしたふや あまはせづかひ  ことの 語りごとも をば  (2番歌)

○八千矛神 既出(『古事記學』五号、本注釈二十四・補注七)。 ○高志の国 越の国、後の越前・越中・越後を指す。ここは場所としては越後国を指している。次の歌の中に「八島国 妻まきかねて 遠々し 高志の国に」とある。出雲と高志とは、八俣大蛇退治神話に「高志の八俣遠呂智」とあるのをはじめ、『出雲国風土記』意宇郡国引き神話に「高志の都都の三埼を、国の余りありやと見れば、国の余りあり」とあるのをはじめとして、同じ意宇郡の母理郷・拝志郷の二箇所に「越の八口」平定の記述があり、また神門郡古志郷にはイザナミの時に「古志の国人等、到り来て堤を為り、すなはち宿居せる所なり」とあるなど、関連を示す記事が多い。なお、『日本書紀』国生み神話には、正伝・一書一には越洲の記載があり、「大八洲國」の中に含まれることになっているが、『古事記』では先に生まれた八つの嶋、即ち「大八嶋國」の中に高志は含まれていない(佐渡嶋は含まれているにもかかわらず)。次の歌の中で、「八島国 妻まきかねて 遠々し 高志の国に」と歌うのも、こうした『古事記』独自の特殊な高志国の位置づけとかかわるものと思われる。 ○沼河比売 『和名抄』に越後国頸城郡沼川郷があり、『神名帳』に奴奈川神社が見える。『出雲国風土記』島根郡美保郷に、「天の下造らしし大神の命、高志の国に坐す神、意支都久辰為おきつくしゐの命の子、奴奈宜波比売ぬながはひめの命に娶ひて、産みましし神、御穂須々美みほすすみの命、是の神坐す。故、美保と云ふ」とみえる。 ○幸行 記伝に、「伊傳麻志々と訓べし、(中略)こは天皇に限らず、尊みては誰上にも云ることなり」というが、倉野全註釈はこれを誤りとし、「イデマスに「幸」の字が用ゐられてゐるのは、天皇の外には倭建命と尊貴な神の場合に限られてゐるのである」とする。上巻ではこの場面以外では他に一例、火遠理命に使われるが、海神の言葉の中に見えるものである。 ○八千矛の神の命 八千矛神が歌ったことになっているが、三人称で歌い出されている。「神の命」と尊称が重ねて用いられている。後の須勢理毗売命の歌に「若草の妻の命」とあり、『万葉集』にも「天皇の神の命」(1・二九)などとある。同じ尊称でも「命」は神にも人にも付く語であるから称える意識は異なるものと思われる。「命の神」という言い方はない。こうした表現は「韻律上の表現にもとづく詩的語法であって、日常の用法ではない」(西郷注釈)という。 ○賢し女を有りと聞かしてくはし女を有りと聞こして 「賢し女」は、『時代別国語大辞典上代編』(以下、『時代別』)に「賢くしっかりした女」。『肥前国風土記』佐嘉郡の郡名起源のひとつに「賢女」を由来とするものがある。土橋全注釈等は、「さかし」は『名義抄』に「俊・傑・卓・儒・賢・嶸・嵩」などの文字の訓として見えることから、「賢」の意に限定し得ないもので、次の「くはし女」と同様にすぐれた美女の意とみている。これに対して瀬間正之は、女性に対して積極的に「賢し」という評価基準を立てたところにこの歌の新しさがあるとみる。瀬間によれば、「賢女」は『毛詩』をはじめとして当時読まれていた漢籍・仏典に用いられているものであり、この歌はそうした漢籍の教養を持つものによって推敲・記載されたものであるという。他にも、「鵼」や、次の歌の「浦渚の鳥」が歌われるのはやはり漢籍に出典を持つ故と説かれており、『古事記』の「神語」の歌が古く歌われたままの形を伝えるものではなく、天武朝以降整備されて記載されたものであると論じている(瀬間正之「記載文学としての八千矛神歌謡」初出二〇〇二年三月、「古事記に於ける歌謡詞章の更新」初出二〇〇六年十一月、共に『記紀の表記と文字表現』おうふう、二〇一五年二月所収)。  「くはし」は、これも『時代別』では「こまやかにうるわしく、すぐれていること。ウラグハシ・マグハシ等、複合形容詞として用いられることが多い」とし、「くはしめ」は「容姿の美しい女」とする。「聞かし」「聞こす」は、三人称としての「八千矛神」の行為に対する表現であるならば普通に尊敬語として理解できるが、「八千矛神」が自分自身のことを言っているとすれば、自敬表現となる。【→補注一】 ○さよばひにあり発たしよばひにあり通はせ 「よばひ」は求婚。接頭語「さ」が付くところから、居駒永幸は「よばひ」に神聖性を認めている(「八千矛神の婚歌―〈あまはせづかひ〉をめぐって」『古代の歌と叙事文芸史』笠間書院、二〇〇三年三月、初出は一九八七年十二月)。「あり」は接頭語。動詞「在り」から転じて、他の「動詞の上に添えて継続的存在の意をあらわす。ひきつづいて~する。変わらずに~する」(『時代別』)。しかし土橋全注釈は、「今の場合は、はじめて沼河比売のもとへ求婚に出で立つのであるから、継続の意を認めることはできない」とし、「ここは意気揚々と出で立つ意に解したい」という。「通ふ」も、ある地点から他の地点へ行くことで、必ずしも継続的な往来を意味しないと説く。「通はせ」の「せ」は、連用形ならば下二段活用となり、使役の助動詞となるが、「立たし」との対応などから尊敬とみるべきところ。しかし、 それならば「通はし」となるところなので、問題が残る。 ○をとめの寝すや板戸を 女神の寝ている家の板の戸を、の意。「寝(ナ)す」は、下二段動詞「寝(ヌ)」に尊敬の助動詞「す」が付いた形。軽い尊敬の意を添えるこの「す」は、四段・サ変動詞に接する他、この「寝」以外にも「着る」「見る」「臥す」などに接するが、その場合、「ナス」のように「ケス」「メス」「コヤス」などと音が転じた形を取る(『時代別』)。女神の動作に敬意を込めていることについては、「恐らく歌い手または演者と歌中の人物との関係にもとづく」(西郷注釈)という。『万葉集』8・八〇四、山上憶良の「世間の住み難きことを哀しぶる歌」の中に、「娘子らが さ寝す板戸を 押し開き い辿り寄りて ま玉手の 玉手さし交へ」と、良く似た表現が見られる。【→補注二】 ○押そぶらひ我が立たせれば引こづらひ我が立たせれば「押そぶらひ」は動詞「オソブル」に反復・継続の「フ」が付いた形。「オソブル」の「ブル」については、「振る」とも、「荒ぶる」等の「ブル」とも言われるが、明確ではない。『万葉集』14・三四六〇に、「誰ぞこの屋の戸於曽夫流にふなみにわが夫をやりて斎ふこの戸を」とある。「引こづらひ」は、『万葉集』13・三三〇〇に、「そほ舟に 綱取り繋け ひこ豆良比づらひ ありなみすれど いひ豆良賓づらひ ありなみすれど …… 」とあり、『大系(万葉集)』頭注に、「あれこれと力を入れて引く。ヅラフは釣り合う意。あれこれと引っぱってみること。アゲツラフ・カカヅラフなどの例がある」とする。この句から一人称に転換する。従って「立たせ」は自敬表現となる。【→補注一】 ○うれたくも鳴くなる鳥か此の鳥も打ち止めこせね
 「うれたし」は、『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年五月の五瀬命の雄叫びに、「慨哉うれたきかや大丈夫ますらをにして 慨哉、此には宇黎多棄伽夜と云ふ。あたがを被傷ひ、報いずしてみなむこと」とあり、新編頭注に「慨」は志を得ないで憤激する意とする。『時代別』では「腹立たしい。いまいましい。ねたましい。ウレは心と同根であろう。ウラ=イタシからできた語か」とし、これに従う注釈が多い。「鳴くなる」の「なる」は伝聞・推定の助動詞。「鳴くのが聞こえてくる」意を示す。伝聞・推定の「なり」は、「里中に鳴く奈流鶏の」(『万葉集』11・二八〇三)のように、上代では単に「音(声)が聞こえる」の意で用いられることが多いという(簡注)。土橋全注釈は詠嘆の助動詞とするが、根拠は不明。武田全講・相磯全註解・山路評釈は指定の助動詞とする。「こせ」は動詞の連用形に接続して「~してくれ」と相手に希望する意をあらわす助動詞「こす」の未然形、「ね」は願望の助詞。
○いしたふや  諸説あって定説を見ない。次のアマハセヅカヒの枕詞的詞章と取ることは一致しているので、アマハセヅカヒの解釈と関わってくる。以下諸説を見ると、厚顔抄は「石飛ぶや」、記伝は「急ぎ飛ぶや」説で、「遙かに隔たれる道の間をも言通はす使を、虚空飛ぶ鳥に譬へていへるにや」という。相磯全註解は「い慕ふ」説をとり、「使を見て恋ふ上代人の気持ちからくる」「後世の飛脚のごとく走り回る使をする部曲」とする。武田全講は「イは接頭語、シタフは下フで、下にある意か」とし、「シタフ(慕フ)も、もと下フで、上位の者を思慕する意になるのだろう。そこで、この句は、下風にあるアマハセヅカヒの意に、次の句を修飾するのであろうか」とする。その他、土橋全注釈は「い下経や」で「水の下を泳ぎ回る海人の意」ととり、新編頭注は「イは強意の接頭辞。シタフ(慕)は後を追うの意。ヤは詠嘆を表す間投助詞。八千矛神の後を追い、それに随従しているの意で「天馳使」を修飾する」と説いている。【→補注三】 ○あまはせづかひ 「あまはせづかひ」については、「海人馳使」(神祇官配下の馳使丁など)と「天馳使」(天から従い来た馳使の従者など)説とに分かれ、前者の場合はこれを歌の伝承者として捉え、後者の場合は物語人物として捉える傾向にある。近年ではこれを八千矛神と沼河比売との双方から懇願される立場のもの(青木紀元は「鷹」を擬人化したものとみる。「いしたふやあまはせつかひ」『日本神話の基礎的研究』風間書房、一九七〇年三月、初出は一九六二年十二月)、八千矛神に随従してきたもので、結婚の媒をつとめる役割を担うもの(前掲居駒永幸論)等、物語人物として捉える傾向にある。 ○ことの語りごとも是をば 新編頭注に、「「此をば」の「此」は妻問いのことを指し、「事を伝える語り言でも、このことを歌と同じように伝えています」の意。歌ってきた内容について、古い伝承を踏まえていることをいい、その真実性を保障する言葉」とある。「こと」「語りごと」のそれぞれの「こと」の意義、「是」が指す内容・範囲などが問題となる。この句、次の沼河比売の歌の中、及び歌末、その次の八千矛神の歌の末に見え、その他雄略天皇条の「天語歌」三首にも見えているが、「イシタフヤアマハセヅカヒ―」(3番歌)「ヤチホコノカミノミコト―」(3番歌)「ワカクサノツマノミコト―」(4番歌)「タカヒカルヒノミコ―」(99番歌)「タカヒカル ヒノミコニ トヨミキタテマツラセ―」(100番歌)「タカヒカルヒノミヤヒト―」(101番歌)といったように、基本的にはそれぞれ人物を表す言葉に続いて記されているところからすれば、「アマハセヅカヒ」も物語上の人物として認識されていた可能性が高い。【→補注四】 【→補注五】

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八千矛歌謡にみえる自敬表現について

 八千矛歌謡は、「八千矛の神の命は」と三人称視点で始まるが、「我が立たせれば」と一人称視点に転換するいわゆる「人称転換」の代表的な例である。三人称視点の箇所には「聞かして」「聞こして」「あり発たし」「あり通はせ」と尊敬の「す」を用いた表現を用いているが、一人称視点の箇所においても「我が立たせれば」という自敬表現が現れるところが問題とされている。
 土橋寛(一九六〇)は、「物語述作者が初めは自らの立場で作中人物を三人称で述べ、途中からはその人物の立場に立って一人称で述べながら、同時に述作者の立場からする敬語を添えるという、「物語歌」の特殊現象としてそれは存在しているのであって、作中人物そのものが自らに対して敬語を用いるわけではない」(三三六頁)と述べ、述作者の立場からの敬語であるとして自敬表現であることを否定している。
 この一人称視点の敬語の問題については、山口佳紀(二〇一三)が整理と検討を行っている。
 山口は、記紀歌謡の人称転換の例(記八五・九七、紀七五)に対して、宣命のような伝言者(取次役)を介在した叙述様式と考えられること、人称転換後の一人称に対して敬語が使われない例もあること(記九七)、使われた場合は伝言者の立場からの敬語(疑似自敬表現)か実際に自己に敬語が使われた敬語(真正自敬表現)なのか直ちには決めがたいことを指摘したうえで、中古の自敬表現が伝言者の有無によって質が異なるところから、当該歌謡の人称転換後の敬語は「疑似自敬表現」に当たるものとしている。
 また、記紀歌謡には、人称転換のない歌謡の「真正自敬表現」の例(「我が坐せばや」〈記四二〉、「神の御手もち」〈記九五〉、「我入り坐し」〈紀九六〉、「我が見せば」〈紀九七〉、「我が着(け)せる」〈記二八〉、「三重の子が捧がせる」〈記九九〉)があることを示したうえで、「美夜受比売」(記二八)、「三重の子」(記九九)が主体の例もあることから、神や天皇・皇族に限定した表現ではないことを指摘している。
 さらに、山口は「真正自敬表現」の例が「非関係敬語」(動作主体と動作客体の上下関係を規定する「関係敬語」ではない敬語)であることから、「平安時代には受け継がれなかった敬語表現ではないかと思われる」と述べている。この指摘は重要で、山口が指摘した記紀歌謡における「真正自敬表現」の例は、「御手」(記九五)の名詞の例を除き、用言の敬語の例は、上代特有の「す」を伴う敬語に限られている。山口が「疑似自敬表現」とした例も含め、従来、記紀歌謡の自敬表現とされる用言の例(西田直敏(一九九五))は、「す」を伴う例に限られている。つまり、中古以降に引き継がれた敬語の自敬表現の例は見られないのである。
 自敬表現を考えるにあたっては、山口が検討した、自らに使用したものか伝言者や作者(語り手)などの敬意が反映したものかという観点と、敬語が関係敬語か非関係敬語かという観点の他に、中古に引き継がれた敬語か否かという観点が必要であり、特に「す」の働きについては詳細な分析が必要である。

 参考文献
 ・土橋寛(一九六〇)『古代歌謡論』三一書房
 ・西田直敏(一九九五)『「自敬表現」の歴史的研究』和泉書院、第四章
 ・山口佳紀(二〇一三)「『古事記』『日本書紀』歌謡における人称転換と自敬表現」『古事記年報』55号

 〔吉田永弘 日本語学〕

近世国学における「ナスヤイタトヲ」の注釈史

 契沖は『厚顔抄』(元禄四年成立)で「那と佐と同韻ニテ通スレハ、閉哉板戸ヲ也」(『契沖全集』第七巻、岩波書店、昭和四十九年、五五六頁)と戸を閉じる意味としている。
 荷田春満の解釈としては、國學院大學所蔵本と同様の春満訓が付されながらも、特に歌謡の注記が多い大西親盛本書入の寛永版本(京都市東丸神社蔵)では、「那須夜」の右傍に「ナスヤ」さらに右に「閉」と朱書されて、「ナスヤ」を戸を閉じることと理解していたことが窺われる。
 真淵の『仮名書古事記』では、「なすやいたどを」の注として、「ナスヤハサスヤ也、オソブラヒハオシヒラカントシワヅラフ也」(『賀茂真淵全集』第十七巻、続群書類従完成会、昭和五十七年、九六頁)とあり、閉じている戸を押し開こうとしている、と理解する。
 なお、荷田派の訓読を継承したと思われる林諸鳥の『紀記歌集』でも、「なすや」の右傍に「閉」と記される(『紀記歌集』下、天明八年刊、一丁ウ)。
 しかし、宣長は「ナスヤイタド」を「鳴す板戸」であると理解している。『古事記伝』で、「那須は令鳴にて、即チ戸をすことを然言シカイヘりと聞ゆ、其は古ヘの戸は、多く開き戸にて、開閉サシアケするに音ある故なるべし」(『本居宣長全集』第九巻、筑摩書房、昭和四十三年、四七五頁)と、意味としては戸を閉じていることで、先行説と同様であるが、開閉するのに戸の音が鳴ることから、「ナスヤ」といったと説明している。

 〔松本久史 近世・近代の神道史、国学研究〕

八千矛歌謡にみえる自敬表現について

 八千矛歌謡は、「八千矛の神の命は」と三人称視点で始まるが、「我が立たせれば」と一人称視点に転換するいわゆる「人称転換」の代表的な例である。三人称視点の箇所には「聞かして」「聞こして」「あり発たし」「あり通はせ」と尊敬の「す」を用いた表現を用いているが、一人称視点の箇所においても「我が立たせれば」という自敬表現が現れるところが問題とされている。
 土橋寛(一九六〇)は、「物語述作者が初めは自らの立場で作中人物を三人称で述べ、途中からはその人物の立場に立って一人称で述べながら、同時に述作者の立場からする敬語を添えるという、「物語歌」の特殊現象としてそれは存在しているのであって、作中人物そのものが自らに対して敬語を用いるわけではない」(三三六頁)と述べ、述作者の立場からの敬語であるとして自敬表現であることを否定している。
 この一人称視点の敬語の問題については、山口佳紀(二〇一三)が整理と検討を行っている。
 山口は、記紀歌謡の人称転換の例(記八五・九七、紀七五)に対して、宣命のような伝言者(取次役)を介在した叙述様式と考えられること、人称転換後の一人称に対して敬語が使われない例もあること(記九七)、使われた場合は伝言者の立場からの敬語(疑似自敬表現)か実際に自己に敬語が使われた敬語(真正自敬表現)なのか直ちには決めがたいことを指摘したうえで、中古の自敬表現が伝言者の有無によって質が異なるところから、当該歌謡の人称転換後の敬語は「疑似自敬表現」に当たるものとしている。
 また、記紀歌謡には、人称転換のない歌謡の「真正自敬表現」の例(「我が坐せばや」〈記四二〉、「神の御手もち」〈記九五〉、「我入り坐し」〈紀九六〉、「我が見せば」〈紀九七〉、「我が着(け)せる」〈記二八〉、「三重の子が捧がせる」〈記九九〉)があることを示したうえで、「美夜受比売」(記二八)、「三重の子」(記九九)が主体の例もあることから、神や天皇・皇族に限定した表現ではないことを指摘している。
 さらに、山口は「真正自敬表現」の例が「非関係敬語」(動作主体と動作客体の上下関係を規定する「関係敬語」ではない敬語)であることから、「平安時代には受け継がれなかった敬語表現ではないかと思われる」と述べている。この指摘は重要で、山口が指摘した記紀歌謡における「真正自敬表現」の例は、「御手」(記九五)の名詞の例を除き、用言の敬語の例は、上代特有の「す」を伴う敬語に限られている。山口が「疑似自敬表現」とした例も含め、従来、記紀歌謡の自敬表現とされる用言の例(西田直敏(一九九五))は、「す」を伴う例に限られている。つまり、中古以降に引き継がれた敬語の自敬表現の例は見られないのである。
 自敬表現を考えるにあたっては、山口が検討した、自らに使用したものか伝言者や作者(語り手)などの敬意が反映したものかという観点と、敬語が関係敬語か非関係敬語かという観点の他に、中古に引き継がれた敬語か否かという観点が必要であり、特に「す」の働きについては詳細な分析が必要である。

 参考文献
 ・土橋寛(一九六〇)『古代歌謡論』三一書房
 ・西田直敏(一九九五)『「自敬表現」の歴史的研究』和泉書院、第四章
 ・山口佳紀(二〇一三)「『古事記』『日本書紀』歌謡における人称転換と自敬表現」『古事記年報』55号

 〔吉田永弘 日本語学〕

「いしたふや あまはせづかひ」の解釈

 八千矛神と沼河比賣の贈答歌(記二・三)と、八千矛神と須勢理毗賣の贈答歌(記四・五)においては、「ことのかたりごともこをば」という語句が合計四回も用いられている。特に記二・三歌においては、「いしたふやあまはせづかひ ことのかたりごともこをば」という形が二回繰り返される。この語句が、歌の叙述を構成する要素であるのか、それとも歌の叙述の外部にある「地の文」に相当する説明であるのかが議論の対象になってきた。特にこの語句が伝誦者の立場を闡明する語りの様式だと見る後者の立場からは、「あまはせづかい」がまさしく伝誦者の正体であると考えられてきた。従って「いしたふやあまはせづかひ」と「ことのかたりごともこをば」とが一括して論じられることも多いが、本注釈補注では切り離して扱い、それぞれに項目を立てて解説を加えることにする。
 まず「いしたふや」については、「あまはせづかひ」にかかる枕詞と見る点では諸注一致しているが、その語構成については、「いし+たふ」と解する説と、「い+したふ」と解する説とに分かれる。契沖『厚顔抄』は「石飛哉」と解し、飛礫のことかと注した。賀茂真淵『古事記和歌略註』も「石飛ヨ」と解し、石が天まで飛ぶという考えがあったとする。内山眞龍『古事記謡歌註』も飛礫と解し、飛礫が「天馳使」だと説く。なお上代語では飛礫を「たぶて」と言い、万葉にも用例がある。『霊異記』や『名義抄』の訓には「たびいし」という語もある。仮名「布」字の清濁を理由に今日では顧みられない説だが、「石飛ぶや」説は棄ててしまうには惜しいところがある。
 また、本居宣長『古事記伝』は、「いしたふや」を意味のない囃子詞だとしながらも、別案として「いそぎ飛ぶや」の意という説も示す。橘守部『稜威言別』も「急飛也」と解する。あるいは、臼田甚五郎『日本藝能叙説』(新人物往来社・昭46)や吉田金彦「枕詞の研究の重要性」(『国文目白』25号、昭61・2)は「磯伝ふや」と解する。これらも基本的に「いし+たふ」という語構成で捉える説と言ってよいだろう。
 このように古くは「いし+たふ」という把握が主流であったが、次第に「い」を「い隠る」「い立たす」などと同じ接頭語と見る説が主流になってくる。武田祐吉『記紀歌謡集全講』は「い下ふや」と解し、下位にある意と見る。また土橋寛『古代歌謡全注釈』は「い下経や」と解し、水の下を泳ぎ回る海人の意とする。これに対し、相磯貞三『記紀歌謡新解』や倉野憲司『古事記全註釈』は、延佳本の書入れに基づき「い慕ふや」と解する。その後『古典集成』や『新編全集』など多くの古事記注釈書が「い慕ふや」説に従っており、今日ではほぼ通説化した如くである。
 ただし万葉の用法を見る限りでは、「慕ふ」は自立できない弱者が上位者を頼り、全面的に依存する意で用いられており、「慕わしく思う」という意味ではない。使者を形容するにしても、使者との関係を表すにしても、「慕ふ」はいささかそぐわない感じを受ける。あるいは、倉野氏は「い慕ふや吾母」という修飾関係を想定するが、「慕ふ」のは母ではなく子であって、「慕わしい」意に解することはできない。また、接頭語「い」は神聖性を表し、権威者や使命を帯びた者の力強い行動に冠せられることが多い。その点で「い+慕ふ」という結合が適切なのかどうかも問われなくてはならないだろう。こう考えると「い慕ふ」説は必ずしも鉄案とは言い切れず、旧説も含めた再検討が必要だと思われる。
 なお、「~や」型の枕詞は「~の」型などに比べてごく少数に留まり、万葉の「あまとぶや」「あまてるや」「おしてるや」「さひづるや」、記紀の「あめなるや」「たかゆくや」くらいしかないが、「天」に関わるものが比較的多く見られるという傾向がある。この「や」は間投助詞で、「八千矛の神のみことや」のように感嘆を表す。そのため「さひづるや」を除いては、讃美的な枕詞が多い。また、語原不明のものが多い枕詞にあって「~や」型のものは、「いしたふや」を別にすれば、いずれも語意が明瞭なものばかりであることも指摘できる。それは「~や」型が、枕詞の中でも比較的成立が新しい枕詞であることを示すものであろう。はたして「いしたふや」は「~や」型の枕詞なのだろうか。「や」が間投助詞ではなく、「この蟹や」「ますらをや」のような疑問の係助詞であるならば、「いしたふや」は枕詞ではなく、「あまはせづかひ」に対する問いかけの言葉と解することもできる。とは言えそう解したとしても、「いしたふ」の語義が不明であることに変わりはない。
 さて、「あまはせづかひ」については、契沖が「天馳使」と解き、飛礫のように空を飛ぶ使者の意とした。真淵は「走使」と解し、飛礫を使者に譬えたと見た。宣長も「天馳使」と解いたが、使者を空飛ぶ鳥に譬えたとしたところが、契沖とは異なる。守部も「天馳使」と解いたが、一案としては「恋しき心に使はれて空しく還」る自身のさまを使者に譬えたと見たが、もう一案では、天鳥船やヤタガラスなどが「天馳使」だったのではないかとも説いている。
 このように解釈の細部は異なっても、「あま」を「天」と解することはほぼ一致した見解であり、それが疑われることはなかった。その解釈を更新したのが、折口信夫『古代研究』の説である。折口は「あまはせづかひ」を「海部駈使丁」と解し、海部出身の語部が当該歌群を伝誦したと説いた。つまり「いしたふや」以下は、伝誦者の名乗りだと考えたわけである。この折口説は後続の研究に圧倒的な影響を与えることとなり、一時期は主流の説を成したが、その一方で、山路平四郎「『あまはせづかひ』私考」(『国文学研究』43集、昭46・1)や、益田勝実『古典を読む 古事記』によって、当該の歌謡と記事に「海部」の伝承らしい要素が見られないという疑問も突き付けられた。記紀全体には海部の伝承と見るべきものが少なからず含まれており、その点では折口説に根拠がないわけではないが、「神語」および「天語歌」に海部に結びつく要素が見られないというのは、無視できない弱点である。
 また、神堀忍「語部とその遺制」(関西大学『国文学』34号、昭38・6)は、折口の「海部語り」説には拠らず、地方の「語部」の伝承としてこの歌を捉えた。神堀氏は「あまはせづかひ」を地方に派遣された天皇の使者と解し、地方人の使者に対する畏敬が讃詞を形成したと論じた。当該歌群を語部の「かたりごと」と見る点は折口説と共通するが、「あまはせづかひ」に対する理解は大きく異なっている。
 研究史に大きな転換を齎すことになったのが、青木紀元「いしたふや あまはせづかひ」(『日本神話の基礎的研究』風間書房・昭45)の説であった。青木氏は「いしたふやあまはせづかひ」が最初の二回しか用いられず、その他は「八千矛の神のみこと」「若草のつまのみこと」といった登場人物に対する呼称が「ことのかたりごともこをば」に続いているという事実を指摘する。さらに雄略記の「天語歌」を見ても、「ことの…」の直前にある語句は「高光る日の皇子」「高光る日の宮人」という人物呼称であることに気づく。つまり「あまはせづかひ」は物語外部の伝誦者ではなく、「八千矛の神のみこと」等と同じ物語内部の登場人物であり、呼びかける相手を意味していると考えられる。青木氏は、「いしたふやあまはせづかひ」は「地の文」ではなく、歌の「本文」だと考えたのである。歌の前後にある散文中に「あまはせづかい」の存在を示唆する表現が見られないことは疑問として残るが、しかし歌詞の構造からこれを作中人物に措定した青木説には説得力がある。
 青木説に従うなら伝誦者説は否定され、「海部はせづかひ」と解釈しなければならない必然性も失われることになった。それでも梶川信行「『神語り』の形成(上・下)」(日本大学『語文』60・61輯、昭59・6~昭60・2)のように、「いしたふや…」が二回しか使われないことを、それぞれの歌の伝誦者の違いを示していると考える論もあるが、大方は青木説に従い、「あまはせづかひ」を作中人物として捉え直す方向に動いていった。再び「あま」を「天」と解した時、改めて注目されることになったのが、もともと宣長が唱えていた「鳥」説である。当該歌群は全体にわたって「鳥」が登場し、また「鳥」を示唆するような表現が見られる。そのことは、一方では「神語」の実体を仮装歌舞劇に結びつける想像(西郷信綱『古事記の世界』、益田勝実『記紀歌謡』)をも広げてゆくことになるが、場面の問題としては、使者が鳥に(あるいは鳥が使者に)見立てられているという解釈を生むことになった。青木紀元氏は、「あまはせづかひ」を「擬人化された鷹」と捉えた。武井睦雄「ふたつの『あまはせづかひ』」(『上代文学論叢』論集上代文学第八冊・昭52)は、記二の「あまはせづかひ」は鳥そのものを表し、記三のは八千矛神を鳥に譬えたものと解く。鳥が使者になるという発想が広く存在したことについては、畠山篤「アマ馳せ使ひ考」(『古事記年報』28号、昭61・1)や小野諒巳「『あまはせづかひ』考」(國學院大學上代歌謡研究会『上代歌謡研究Ⅰ』平25)がさまざまな実例を挙げて論じている。
 その正体が鳥であるかどうかは措いて、この場面に「使者」が登場する必然性については、居駒永幸『古代の歌と叙事文芸史』(笠間書院・平15)が、求婚説話の話型に必須の役割である「よばひの使者」が「あまはせづかひ」だと説いている。また鉄野昌弘「『神語』をめぐって」(『万葉集研究 第二十六集』平16)は、対峙し交渉する男女の「緩衝のために仮構された存在」が「あまはせづかひ」だと説いている。七夕歌における「月人壮士」のような第三者的存在ということであろうか。散文部分に登場しないことは疑問として残るが、「玉梓の使」のような使者が介在することは当時の習慣や通念としては不自然ではない。
 ところで、「アマ」の解釈が「天」と「海部」に分かれても、「ハセ」を「馳せ」と解する点については異論が見られなかったが、そこに問題はないと言えるだろうか。動詞「馳す」は、自動詞「はしる」と対になる語であり、また同根の語でもあろうから、古くから存在していてもおかしくないのだが、上代文献における実例となると極度に乏しく、確例が得難い。万葉では「駒をはさせて」(14―三五四二)「駒をはささげ」(14―三五三八)という東歌の二例があるが、この二例だけでは東国方言である可能性を排除できず、また「はす」ではなく「はさす」という語形であることは無視できない。書紀の古訓や訓点資料・古辞書の訓に「ハス」は存在するのだが、ただしそれらの用例においては、「馳す」は「走らせる」意の他動詞であり、専ら「馬」に対して用いられるというかなり顕著な使用傾向が認められる。なお神堀氏は「はす」は「馬の疾行」を意味し、「はせづかひ」が駅馬制以前の連絡輸送機関であったのではないかと推論する。
 従って「アマハセ」を「天馳せ」と解しても、「馳せ」が他動詞である以上、そのままでは「天を駆け回る」という意味にはならない。そこで『新編全集』は、「アマハセ(天馳)+ツカヒ(使)という構成の語で、天空を走らせて遣わす使者の意」と解し、他動詞性に配慮を見せている。しかし、平安時代語の「心ばせ」がもし「心を走らせる」意(『岩波古語辞典』)だとしたならば、「あま・はせ・づかひ」という語構成から『新編全集』のような解釈が導けるのかどうか、なお検討の余地があろう。なお、「天を駆け回る」という意を表したいのならば、万葉集や神賀詞に「あまがける」というまさしくその意味の自動詞がすでに存在するので、わざわざ他動詞の「ハス」を用いる必然性がうまく説明し難い。
 「アマハセ」る使者という語構成ではなく、「天」の「はせづかひ」という語構成だとするなら、上代語(特に神人名)としては「あまつはせづかひ」とか「あめのはせづかひ」になるのが自然ではないかと思われる。ひとまずそれは措くとして、「はせづかひ」は「馳使」「駈使」と解されて疑われることがない。その根拠とされてきたのは、「職員令」や『続日本紀』に見える「駈使丁(駆使丁)」という語の存在である。しかし、「駆使丁」は本当に「はせづかひ」と訓めるのだろうか。またそれを「走り回る使者」と解釈してよいのだろうか。
 『続日本紀』和銅二年十月条を見ると、浮浪者や逃亡農民を私的に「駈使(駆使)」した者に対し、朝廷が咎めたという記事があるが、この「駆使」は、「走らせ使った」ではなく「強引に駆り立てて使った」という意に解するのが自然であり、「はせつかふ」ではなく「かりつかふ」と訓じられてきている。そうなると「駈使丁」も「かりつかひのよほろ」と訓じられていた可能性が排除できず、「はせづかひ」が「駆使丁」であるとする根拠を失うことになる。そもそも「駈使丁」とは、「仕丁」の中でも特に土木業など野外での重労役を担当させられた下級の者を言うので、「走り回る」というよりは「駆り立てられた」という意味がやはりふさわしい。そうした下級労役者のイメージが、八千矛神話における「あまはせづかひ」のイメージに本当に適合するのかどうか、なお一考の余地があろう。
 また、「はせづかひ」を「丈部(はせつかべ)」と関連づける説も根強い。「はせつかべ」は本来「はせつかひべ」だったとする意見もあるが、しかし資料的な裏付けは全くない。なお丈部の職掌は軍事に関わるものであり、また丈部氏は東国に偏って分布しているので、「あま」をどう解するにしても、「あまはせづかひ」との接点は見出しにくいだろう。あるいはまた、「丈部」を「使部(つかひべ)」と関わらようとする見方もあるのだが、軍防令の規定では、能力の高い者は「式部」、身体頑健な者は「兵部」、そして「身材劣弱、不識文算」の者が「使部」に任用されるとあるので、丈夫な「丈部」とはかなり性格が異なるように思われる。要するに「使部」とは、「駈使丁」と同じく末端の雑役夫であり、それがはたして「あまはせづかひ」の役割に適合していると言えるのか、更なる検討の必要があろう。
 「つかひ」が使者の意であることはほぼ動かない。「あま」が「天」であるとすれば、「あまはせづかひ」とはただの使者ではなく、「神の使い」というような特別な意味がありそうである。景行記には、倭建命が白猪を「神之使者」と誤認するという記事があるが、皇極紀四年正月条にも、猿の声を時人が「伊勢大神之使」と言ったという記事がある。『琴歌譜』伊勢神歌には「大日孁のさきつかひ」という言葉が見られ、「神の使い」という考え方があったことがわかる。後代の諸資料には「つかはしめ」「つかひひめ」「神のみさき」など神の使いを意味する語が見られるが、それらはみな動物のことである。そう考えると、「あまはせづかひ」が「神の使い」であるのなら、その正体が鳥であってもおかしくないだろう。ただし「はせ」の意味については改めて検討し直さなければならない。
 これまでさまざまな試論が積み重ねられてきたが、しかし依然として「いしたふやあまはせづかひ」という句の語義は不明である。残念ながら本補注も新たな解釈を提言することはできなかったが、「い慕ふや」説や「天駈使」説には再検討が必要であるということだけは改めて指摘しておきたい。更なる考察と検討を今後の課題としたい。

 〔土佐秀里 日本上代文学〕

「ことのかたりごともこをば」の解釈

 記二~五歌においては「ことのかたりごともこをば」という語句が四回も用いられている。しかも雄略記の「天語歌」(記一〇〇~一〇二)においても全く同じ「ことのかたりごともこをば」が三回も用いられている。その類似からは必然的に「天語歌」と「神語」との紐帯が強調されることになり、そこからさらに連想が広げられると、姓氏録に見える「天語」氏と「あまはせづかひ」とを関連づける説も出されることになる。
 全く同じフレーズが歌い手のキャラクターとは関係なく何度も繰り返し用いられていることと、しかもそれが歌の末尾に配されることからすれば、これを定まった語りの様式だと見るのは自然な考えであろう。しかしながら、この語句の使用が当該歌群と「天語歌」だけに限定されており、それ以外の記紀風土記の歌謡や万葉歌には用いられることがないという点を斟酌するならば、その「語りの様式」は、決して汎用性がある様式ではないということになる。そうなると、この語句の使用が「神語」と「天語歌」に限定されることと、「かたりごと」という語との間には、「かたり」という共通項に規定される何らかの特殊な関係性があるとの推論がなされることになるだろう。ただし、「神語」「天語歌」の「語」が、「かたり」と訓まれることが確定したわけではない。
 「神語」という語については、その指す範囲について意見がさまざまに分かれるが、しかしそれをどのような範囲にとったとしても、そこから「歌」が排除されることだけはない。八千矛神の歌がイコール「神語」ではないとしても、それが「神語」に含まれる構成要素であることは動かないのである。また「天語歌」が三首の「歌」を指していることは確実だが、その呼称からは「かたり」でもあり「うた」でもあるという両義的な意味が読み取れる。とすれば「神語」と「天語歌」の共通性は、「うた」でありながら「かたりごと」でもあるという特異な形態にあり、そこが他の記紀の「うた」とは異なるところだと考えることができる。「かたり」に特質があるのだとすれば、「神語」と「天語歌」には「かたりごと」を伝誦する「語部」が関与しているのではないかという推論が導きだされることになる。
 折口信夫『古代研究』は、「神語」と「天語歌」が「海部語り」であり、海部出身の語部が当該歌を伝誦したと考えた。また津田左右吉『日本古典の研究』は、宮廷において「神語」「天語歌」を演奏するために「語部」が設けられたのだと考えた。そして神堀忍「語部とその遺制」(関西大学『国文学』34号、昭38・6)は、「天=中央」から地方に派遣された使者が「天はせづかひ」であり、地方においては天皇の権威を代行する者として畏怖されたと考える。そして出雲地方で伝承歌謡を披露するに際し、「天はせづかひ」に阿るべく「いしたふや…こをば」という讃詞が歌い込まれた。それを出雲の「語部」が語り伝えたと解する。また折口説を継受する土橋寛『古代歌謡全注釈』は、繰り返される「ことのかたりごとを…」の句が、伝誦者の「署名のようなもの」だと解している。
 このように旧来の説では、「ことのかたりごと」は古伝承の意とされ、「語部の古詞」と結びつけて考えられてきた。つまり「ことのかたりごとを…」の句は歌の一部というより、言わば「地の文」として理解されてきたのである。そこに「あまはせづかひ」を結びつけることで、歌の伝誦者が名乗りを上げているという理解がなされていった。そのような動向に対し、青木紀元『日本神話の基礎的研究』は、「あまはせづかひ」を伝誦者ではなく作中人物と考え、「いしたふや…」を呼びかけのセリフと解することで、研究史上に画期を齎した。だが青木氏は、「ことのかたりごともこをば」については、ただの「囃し詞」として処理してしまい、その文脈的意味を問題にしなかった。青木説の出現によって「いしたふや…」については歌詞の一部として解釈されるようになったのだが、しかし「ことの…」以下については、旧来通り「地の文」として解すべきか、それとも「いしたふや…」と同じく歌の一部として解すべきか、十全な検討がなされぬまま放置されてきたところがある。
 改めて「ことのかたりごともこをば」の意味を検討しておこう。契沖『厚顔抄』は、「ことのかたりごと」を「事の語り言」と解しており、この理解が今日でもスタンダードとなっている。異説としては、山上伊豆母「『ことのかたりごと』の系譜」(『古代祭祀伝承の研究』雄山閣・昭48)が「琴の語り言」と解しているのが注目されるが、これを継承発展させる論はその後現れていない。古事記の記述からは「琴」が登場する必然性が読み取れないからである。もし山上説に可能性があるとすれば、神功皇后が託宣をする場面で、古事記では仲哀天皇が、日本書紀では武内宿祢が琴を弾いていることを考え併せることができるかもしれない。
 なお書紀では、この神功皇后の託宣のことを「神語」と呼んでいることは注意されてよい。書紀では他にも欽明紀(十六年二月)や皇極紀(三年七月)で、託宣を「神語」と称している。これらは「かむがたり」ではなく「かむこと」と訓じられてきているが、その訓読については、古事記の「神語」と併せて再検討の必要がある。また八千矛神の「神語」も、巫覡の神託という意味で用いられているという可能性を、人称転換の問題とも併せて検討しなければなるまい。異端の説である山上説の当否も、その検討に委ねられることになろう。
 「かたりごと」が「語り言」であることはまず動かない。仁徳記に、倉人女が児島の仕丁の「語言」を聞くという場面がある。「語言」は「かたること」とも「かたりごと」とも訓めるが、どちらにしても「語り言」という語構成を推定する根拠にはなる。万葉歌には「事毛語」(11―二五四三)「こともかたらひ」(18―四一二五)とか、「かたらむこと」(20―四四五八)という措辞が見られるので、「こと」を「かたる」という言い方があったことがわかる。というより、「語る」という動作は、ただ発話する意ではなく、出来事の経緯や事情を事細かに説明し伝達するというような意味があるのだろう。そう考えると、「事の語り言」というやや諄く説明的な語構成をとる意味が了解される。
 「こをば」は、指示語「こ(此・是)」に複合助詞「をば」がついたものと解されている。ただし「をば」は「を」の働きを強調したもので、以下に述語を受けるべき語であり、当該例の他には文末用法が見られないことが注意される。つまり当該例は、省略表現と見るべきであり、平安時代語「かくなむ」の文末用法に似たものだと考えられる。従って「こをば」の下には「言ふ」「申す」「語る」といった発話行為を表す述語動詞が省略されているということになる。
 「ことの…」がいわば「地の文」に相当するものと考え、八千矛神の歌および物語の享受者(聞き手)に対する説明と見るならば、「事の次第は以上でございます」というような意味になるだろう。『新編全集』の「古い伝承を踏まえていることをいい、その真実性を保障する言葉」という解釈は、この句を歌の外部にいる「聞き手」を意識した表現と見ており、「かたりごと」を古伝承と見る伝統的な解釈を継受したものである。その場合、「こをば」は歌が語ってきた内容そのものを指しているということになろう。
 青木周平「『事の語り言』の文脈からみた八千矛神像」(『國學院雜誌』100巻11号、平11・11)は、「こをば」が散文部における「是也」と同じ機能を有すると見て、これが直接的な文脈指示ではなく、「事」全体の「内容をまとめて強調する」機能を持つものだとする。従って当該の「こをば」一首ごとに異なることがらを指示しているものではなく、歌群全体のまとまった内容を「事の語り言」として指示していると解釈した。しかしこの解釈は結果的に旧来の「かたりごと」の範囲を変更するものではなく、なおかつその指示が何度も繰り返される意味が明らかにされていないところに問題が残る。
 中西進『古事記をよむ』は、これを「あまはせづかひ」に対する要求のセリフと考え、「こをば」の後に「伝えよ」という語が省略されていると見た。つまり中西氏は、「こをば」は対読者用の説明ではなく、作中人物の発話だと考えているわけである。また、鉄野昌弘「『神語』をめぐって」(『万葉集研究 第二十六集』平16)は、「ことのかたりごともこをば」が「八千矛神や沼河比売が、自分の事情や感情を、歌にして投げかける際の言葉」だと論じているのは、中西説をさらに一歩進めたものであり、青木周平説とは対照的に、一首ごとに個別の文脈を考えようとするものとして注目される。鉄野説を補強しうるのは、神宮咲希「『事の語り言も此をば』考」(國學院大學上代歌謡研究会『上代歌謡研究Ⅰ』平25)の説で、神楽歌や中国少数民族の歌謡を例に、「歌の末尾の決まり文句」には対詠性があり、「次の歌い手」の歌を促す機能があることを指摘している。この指摘は集団的な歌謡の生態を考える上でも示唆的であり、当該歌群が対話形式で進んでゆくことにもうまく適合する。
 このように、「いしたふやあまはせづかひ」のみならず「ことのかたりごともこをば」を歌の本文に含めて考え、登場人物間の呼びかけ表現と見る説は、新たな読みの方向を切り開くものとして評価できる。しかし、このフレーズが相手への呼びかけとか、次の歌を呼び出すものであるなら、「神語」と「天語歌」以外の対詠的・唱和的な記紀歌謡群に使用されていてもおかしくないはずである。なぜ他の唱和歌・問答歌にはこのフレーズが全く使用されることがなく、「神語」と「天語歌」だけに用いられているのかという古典的な問題は、まだ解決されないままである。さらにまた、この語句を有する「神語」と「天語歌」がどちらも古事記のみに掲出され、日本書紀には全く採用されなかった理由も説明されなくてはならない。八千矛神の「神語」が日本書紀に掲載されない理由については、書紀が大国主神話・出雲神話を国家の歴史から除去しようとする方針を有ているからだと説明できる。またその代わりに記二・三の類歌を継体天皇条に掲載したとも考えられる。しかし「天語歌」については、景行天皇条に記載されてもおかしくない歌でもあり、書紀が掲載しない理由をどう考えればよいのだろうか。編纂資料の出自の違いが編纂方針に影響を与えているとすれば、議論は再び古典的な伝承者の問題に回帰することにもなろう。やはりこの語句をめぐっては、未解決の問題がまだまだ多く残されていると言わざるをえない。

 〔土佐秀里 日本上代文学〕

八千矛神の歌と類歌との関係

 継体紀七年九月、勾大兄皇子が春日皇女を妻問いして詠んだ歌(紀九六)には、八千矛神と沼河比賣の贈答歌(記二・三)との語句の類似が多く見られる。
  
八島国 妻枕きかねて はるひの 春日の国に くはし女を ありと聞きて よろし女を ありと聞きて 真木さく 檜の板戸を 押し開き われ入りまし あと取り つま取りして 枕取り つま取りして 妹が手を われに枕かしめ わが手をば 妹に枕かしめ まさきづら 手抱きあざはり ししくしろ うま寝ねしとに 庭つ鳥 鷄は鳴くなり 野つ鳥 雉は響む 愛しけくも いまだ言はずて 明けにけり我妹 (紀九六)

 特に傍線部は、記二歌および三歌に類似する表現である。山路平四郎『記紀歌謡評釈』は、この紀九六が記二の「意識的な改作」だとする。土橋寛『古代歌謡全注釈 日本書紀篇』は、記二・三の「歌詞の繫ぎ合せ」に過ぎず、「ちぐはぐ」で「欠陥」「大きな疵」があると酷評する。大久保正『日本書紀歌謡全訳注』も、記二・三を「継ぎ合わせて組み立てられた歌」とし、その評価は「しっくり行っていない」「種々の欠陥が露呈」「現実感の乏しい歌」とさんざんである。こうした否定的な評価に対しては、飯泉健司「勾大兄皇子口唱歌謡の独自性」(『日本歌謡研究』27号、昭63・7)が、紀九六には記二・三にはない独自の「恋歌的表現」があると言い、八千矛神の歌を模倣しつつも、それとは「別の抒情的な世界を創作しようとした」と、改作を認めた上でその価値を擁護しようとしている。
 それに対して、榎本福寿「八千矛神の未遂の恋をめぐる歌と神話」(『古事記年報』50号、平20・1)は、「勾大兄の歌から八千矛神の歌への展開を考えるほうが自然である」と通説とは正反対の順序で成立を考えようとする。しかし土橋『全注釈』も指摘するように、「八島国」と「越の国」という対比に較べて、「八島国」と「春日の国」という不自然な対比が本来のものであったというのはいささか考えにくい。
 それにしても、これらの類歌関係において「八島国」という語が共通することには重要な意味があると考えられる。それは、これらの歌が庶衆の妻問いの歌(の転用)ということはありえないということを意味している。つまりその類歌性は、歌謡の流伝による自然発生的なものとは考えにくく、どちらかがどちらかを参照して作り出された蓋然性が高いということである。
 なお継体紀の記事では、この歌に続いて春日皇女の和唱歌(紀九七)が記載されるが、それは「こもりくの泊瀬の川の…」と歌い出され、途中で「つのさはふ磐余の池の」が出てきたりして、地理的に出鱈目であり、勾大兄皇子歌の「春日の国」ともまるで繋がらない。つまり二首は唱和の体を成していないのであり、それぞれの歌が違う出自を有していると考えられる。その点では、歌が連続するストーリーを構成し、「ことのかたりごともこをば」という共通の語句が一貫して用いられる記二~五の方に正統性があると考える諸注釈書の見解にはやはり相応の根拠があると認められる。
 だが、むしろここで問題とすべきは、八千矛神の歌が日本書紀にはなく、勾大兄皇子の歌が古事記には見られないということなのではないのだろうか。たとえば日本書紀が想定する「読者」は、紀九六だけを読むことになるのであって、それが記二・三の模倣だとか改作だという可能性には、記紀両書を見較べるという研究者的な読み方をしない限り、気づけないはずである。つまり、それぞれの書物の内部においては、この類似は何ら矛盾を生じさせるようなものではないということである。従って、記二・三と紀九六の「類歌」関係というのは、どちらかをプレテクストとして読むことを要求するような意図的な類似(たとえば本歌取りとかパロディとかオマージュ)ではない。これはどちらかというと、「出雲建がはける太刀」の歌が、古事記では景行天皇条に引かれ、日本書紀では崇神天皇条に引かれ、全く異なる所伝を伴って掲載されている例に近い事態として捉えた方がよかろう。その類似と齟齬は、伝承歌謡の流伝に伴う変質でもなく、また歌そのものの表現意図の差異でもなく、まずは古事記と日本書紀という二種の書物における編述方法の違いによって生じたものとして考えなければなるまい。
 机上の論理だけで言うなら、日本書紀の編述者が、八年早く完成していた古事記を参照することは可能であったはずである。古事記と日本書紀との間には少なからぬ「重出歌」と言われるものが存在するが、その一方で、同じ時代を叙述し、類似の記事を掲載しながら、その範囲においても「非重出歌」が相当量存在するという事実をどう考えたらよいのだろうか。あるいは逆に古事記が編纂途上の日本書紀を意識し、対抗意識をもって書かれたと考えたとしても、相違ばかりでなく、「重出歌」と記事の類似があることをどう説明したらよいのだろうか。古事記と日本書紀とは、なぜ重複とずれとを同時に放置して並び立っているのだろうか。
 「重出歌」と言われるものについても、その歌詞の異同や、掲出位置の齟齬や不統一を、記紀両書の編者はなぜ調整しようとは考えなかったのだろうか。その不統一ぶりには記紀それぞれの編述者の自己主張がなされていると考えねばなるまいが、だとすれば、歌と歴史叙述の組み合わせは、そのような表現者の自己主張を許容しうるほどの可塑性と選択可能性とを有していたと見なくてはならないだろう。つまり、歌と所伝との紐帯はさほど鞏固に定まっていたわけではなく、必ずしも絶対的・固定的な関係ではなかったということになる。従って、記二・三と紀九六の「類歌」関係とは、そのような歌と所伝の隙間に生じたものだと言えるだろう。
 古事記は、八千矛神の神話とそれを語る歌が歴史叙述として必要だと考えたが、日本書紀は、八千矛神話自体が王朝の歴史叙述には全く必要ないと考えた。しかし書紀は、その「歌」だけは違う文脈で活かすことを考えたのではないか。そこまでして歌を掬い上げ、載せようとしたことは、国家の正史たる日本書紀が、なぜ百三十首近くもの「歌」を必要としたのかという問題に関わるはずである。歌を組み込むことが、歴史叙述に説得力を与えるという思考様式が存在していたということなのだろうが、しかし歌と所伝の組み合わせの自由度が高かったのなら、「歌」自体の歴史資料性が問われたわけではないことになる。歌は証拠として提示されているわけではなく、発話を叙述することが、現実感や実在感(すなわちそれが歴史の「信憑性」だと考えられていたということになる)を高めると考えられていたということなのだろう。
 紀九六は、実際の形成過程においては記二・三の改作というプロセスを経ているのだろうが、しかし改作者自身に「改作した」という意識は稀薄なのではないだろうか。というのは、記紀編述者には、「オリジナルの歌詞」を護らなければならないという意識はなかったと思われるからである。そもそも「オリジナルの歌詞」などどこにも存在しないというのが伝承歌謡の実態であったはずである。先に言及した「出雲建がはける太刀」の歌にしても、古事記では「やつめさす出雲建」、日本書紀では「やくもたつ出雲建」となっており、歌詞が違うが、その相違に特段の意図はあるまい。類歌と言われるものの多くは、そのように無意識に派生するものであり、そこが本歌取りのような意識的な類似性とは異なる。そもそも類歌性の判定には明確な基準が立てられない。どこまで似ていれば類歌なのか、また類歌と重出歌はどう違うのかなど、さまざまな問題がある。類歌という漠然とした呼称の問題とその細分化については、伊藤博「類歌の論」(『万葉集の構造と成立 下』塙書房・昭49)の整理が有益である。
 記紀は、多数の歌を収載するが、歴史書であって歌集ではない。そこでは歴史叙述が主であり、歌は従の位置にとどまる。万葉集は歴史書的構成をとりながらも、やはり歌が主であり、歌の「作者」名の記載に拘りを見せる。万葉集においては、歌詞の大部分が似通っている小異歌と、発想を同じくするという意味での類想歌と、本歌取りの先蹤と言うべき先行歌の意識的「引用」とが混在している。巻十三問答には次のような歌があり、傍線部には記二に類似する表現が見られるが、この類似を発想基盤の共通性で説明するのか、それとも意識的な「引用」として説明するのかで大きく見方が分かれることになり、それによってこの歌の文学史的位置づけも大きく変わることになる。

  こもりくの 泊瀬の国に さ結婚に わが来たれば たな雲り 雪は零り来 さ雲り 雨は落り来 野つ鳥 雉は動む 家つ鳥 鷄も鳴く さ夜は明け この夜は昶けぬ 入りてかつ寝む この戸開かせ (13―三三一〇)

 山路『評釈』は、この歌が記二と「もと同根から出ながら、民間に流れて、一地方の民謡に頽れた姿」と見る。中西進『古事記をよむ』は、「巻十三の歌も八千矛の歌と同じような伝承のされ方をしていた」と言い、どちらも「宮廷の楽府」に集められた儀式歌謡と考える。また伊藤博『万葉集釈注』は、紀九六も含めて、これら類歌がすべて「歌劇の詞章」であったとする。これらの論は、八千矛神の歌と巻十三歌が同種のものだと考えている。それは万葉集巻十三の作者未詳長歌が、記紀歌謡と同質の古層の歌であり、伝承歌であると見る『万葉考』以来の通説的理解に導かれたものであると言える。
 しかしその一方で、遠藤宏『古代和歌の基層』や曾倉岑『万葉集全注 巻第十三』によって詳細に表現の分析がなされ、巻十三歌の創作性と後期万葉的性格とが明らかにされてきている。上野誠「万葉史における巻第十三」(『万葉史を問う』新典社・平11)は、巻十三歌を「擬古の文芸」として位置づける。古体とか古風という巻十三の印象は装われたものとしてあり、意識的な古歌の模倣や引用によって成り立っていると考えられる。真淵以来の通説には修正が必要であり、右の三三一〇歌についても、万葉後期すなわち古事記成立以後に作られた蓋然性が高い。とすれば、この歌は意識的に記二を踏まえて創作したものと見るべきことになる。すでに和田嘉寿男『泊瀬小国』(桜楓社・平3)が、三三一〇歌は泊瀬地方の民謡ではなく、「八千矛神の妻問いの歌をもとに作りあげた歌」だと指摘している。
 三三一〇歌は問答歌の「問い」に当たり、組になっている「答え」の歌(三三一二)は、誘われて出ていったら父母に気づかれてしまうので、行きたくても行けない、というもので、記二~五とは似ていない。しかし男女の問答になっていることと、女の答えが結果的に拒否になっているという構成は、記二・三の問答を意識したものだとも考えられよう。三三一〇は、「類歌」というより本歌取り的な創作歌であり、三三一二も含めた問答の全体が、古事記を典拠とする表現を試みている可能性がある。
 万葉集巻十二の作者未詳の短歌「他国に結婚ひに行きて太刀が緒も未だ解かねばさ夜そ明けにける」(12―二九〇六)も、記二に類似する表現が見られる歌であるが、やはり三三一〇歌同様、古事記を典拠として意識的に創作された歌と見るべきである。巻十二についても、森脇一夫「万葉集巻十一・十二作歌年代考」(『語文』20輯、昭40・3)および中川幸広「万葉集巻十一十二試論」(『語文』22輯、昭40・10)によって、創作性と後期万葉的性格が指摘されており、民謡や伝承歌である蓋然性は低い。和田嘉寿男氏前掲書は、二九〇六歌について「自分の体験というより八千矛神の伝承歌を短歌に改作した遊戯的なもの」だと指摘しているが、慥かにそれと知られた古歌をアレンジするような創作活動は、「遊戯的」な精神に基づくものと見るべきだろう。
 万葉集中には他にも八千矛神歌を典拠とするものがあると思われ、その一つ「蒸被なごやが下に臥せれども妹とし宿ねば肌し寒しも」(4―五二四、藤原宇合)が記五を踏まえていることについては、土佐秀里「藤原宇合贈歌三首の趣向」(『国文学研究』145集、平17・3)に指摘した。また、山上憶良が、神亀五年の「哀世間難住歌」(5―八〇四)と、天平元年の七夕歌(8―一五二〇)の両方で「ま玉手の 玉手さし交へ」と歌っているのも、記三・五の「ま玉手 玉手さしまき」を典拠としている可能性が高い。なぜなら万葉における「玉手」の用例は憶良のこの二つだけに限られるので、歌語としては一般的ではないことがわかり、特定の典拠に基づく表現だと考えられるからである。これらもみな後期万葉歌であるので、古事記を参照し、それを典拠としていると推測することに無理はない。
 このように万葉集に見られる記二~五の「類歌」は、単なる発想の類似と見るには語句の一致度が高く、かといって流伝による変形とも考えられないので、古事記からの意識的な「引用」なのだと考えられる。万葉集巻二に古事記の書名が見えるので、その存在が知られていたことは疑いない。右に列挙した実例から推測するなら、聖武朝前後の万葉歌人たちは古事記を目にしていた蓋然性が高いことになる。この「類歌」関係は後期万葉歌の創作意識を窺う上でも興味深い題材を提供してくれるが、古事記の享受史という観点からも注目すべき面があると言える。

 〔土佐秀里 日本上代文学〕

此八千矛神、将婚高志國之沼河比賣、幸行之時、 到其沼河比賣之家、歌曰、 夜知冨許能 迦微能許登波  夜斯麻久尒 都麻〃岐迦泥弖  登〃冨〃斯 故志能久迩〃  佐加志賣袁 阿理登①加志弖  久波志賣遠 ②理登③許志弖  佐用婆比迩 阿理多〃斯  用婆比迩 阿理迦用婆勢  多知賀遠母 伊麻陁登加受弖  淤湏比遠母 伊麻陁登加泥④  遠登賣能 那湏夜伊多斗遠  淤曽夫良比 和何多〃勢礼婆  比許豆良比 和何多〃勢礼婆  阿遠夜麻迩 奴延波那伎奴  佐怒都登理 ⑤藝斯波登与牟  尒波都登理 加⑥波那久  宇礼多久母 那久那 ⑦留登理加  許能登理母 宇知夜米許世泥  伊斯多布夜 阿麻波勢豆加比  許登能 加多理其登母 許遠婆 【校異】
① 真「波」。道祥本・兼永本に従い、「岐」に改める。
② 真「河」。兼永本に従い、「阿」に改める。
③ 真「伏」。「伎」に改める。
④ 真ナシ。道果本・兼永本に従い、「婆」を補う。全書・武田全講・相磯全註解・尾崎全講・山路評釈等は「婆」を補わず、真のままとする。武田全講に、「婆の無いものによる語法は、後に理解されなくなって婆を補うに至ったものであろう」と言う。「泥(ネ)」は打消の助動詞の已然形。「婆(バ)」がなくとも「~ノデ」「~ノニ」という条件法となる。しかし「神語」全般に条件法を示す「バ」が見られるので、補うこととする。
⑤ 真「波」。兼永本に従い、「岐」に改める。
⑥ 真「都」。延佳本の指摘により、「祁」に改める。
⑦ 真「冨」。道果本・兼永本に従い、削除する。

この八千矛神は、高志の国の沼河比売と結婚しようとして、お出ましなさった時に、 その沼河比売の家に到着して、歌って仰ることには、 八千矛の神の命は、 八島国の中には妻とするに相応しい女神を得ることが出来なくて、 八島国の果てにある遠い遠い高志の国に、 聡明で美しい女神が居るとお聞きになって、 繊細で麗しい女神が居るとお聞きになって、 求婚に出発なさり、 求婚のためにお着きになって、 腰に帯びる大刀の緒も、まだほどかないうちに、 上着もまだ脱がないけれども、 女神の寝ている家の板の戸を、 押しながら私が立っていらっしゃると、 引こうとして、私が立っていらっしゃると、 (戸が開かないうちに)青々とした山の方で、鵼が鳴いた、 山の麓の野原で、雉の声が響き渡った、 家の庭の鳥も鳴き始めた、 憎たらしくも、声を出して鳴く鳥だ、 この鳥は、撃ち殺してしまえ、 いしたふや アマハセヅカイよ  事の語り言も、この通りであるよ。

先頭