古事記ビューアー

古事記の最新のテキストを見ることができます。
諸分野の学知を集めた
注釈・補注解説とともに
古事記の世界へ分け入ってみましょう。

目次を開く 目次を閉じる

又、其の神の適后おほきさき須勢理毗すせりびめのみこと、甚だ嫉妬ねたみ為き。 故、其の日子遅ひこぢの神わびて、 出雲より倭国やまとのくにに上り坐さむとして、束装よそひ立ちし時に、 片つ御手は御馬の鞍にけ、 片つ御足は其のあぶみに踏み入れて、歌ひて曰はく、 ぬばたまの 黒きけしを  つぶさに 取り装ひ  沖つ鳥 むな見る時  はたたぎも これふさはず  つ波 そに脱きて  鴗鳥そにどりの 青き御衣を  ま具さに 取り装ひ  沖つ鳥 胸見る時  はたたぎも も適はず  辺つ波 そに脱き棄て  山方に蒔きし あたたね舂き  染め木が汁に ころもを  ま具さに 取り装ひ  沖つ鳥 胸見る時  はたたぎも し宜し  いとやの 妹の命  群鳥むらとりの 我が群れ去なば  引け鳥の 我が引け去なば  泣かじとは は言ふとも  やまとの 一本ひともとすすき  項傾うなかぶし 汝が泣かさまく  朝天あさあめの 霧に立たむぞ  若草の 妻の命  事の 語り事も 是をば (4番歌)

○適后 前には「適妻」とあったが、八千矛神の神話に入って以降、「幸行」の語が使われるなど、この神を天皇の先駆け的な存在として位置づけようとする意図が窺える。『古事記』で「適后」の語が使われるのは、この須勢理毗売と、初代神武天皇の后である伊須気余理比売のみである。神武天皇の適后伊須気余理比売が一夜婚の後に三人の皇子を生み、その一人が次の天皇として即位すると描くのに対し、八千矛神(大国主神)の「適后」には聖婚も御子出生も記されず、鎮座する。この対比は意図的になされたものであると思われる。八千矛神(大国主神)は〈日の御子〉の性質を負い、天皇の先駆け的な存在として描かれるものの、その正当な後継者は存在しないということを強調していると見られるのである(谷口「『古事記』上巻・出雲系系譜記載の意義」『日本神話をひらく―「古事記」編纂一三〇〇年に寄せて』フェリス女学院大学、二〇一三年三月参照)。
○嫉妬 ネタム(兼永本)、モノネタミヲ為(延佳本)、ウハナリネタミ(記伝・言別・倉野全註釈・西郷注釈・尾崎全講・西宮修訂・新編・新版)、シットシタマフ(全書)、ネタミマシキ(思想)、ネタミシタマヒキ(新校)などと訓まれている。「名義抄」(観智院本)に「妬」子タム ソ子ム アラソフ ウハナリ 子タミ ウラヤム「嫉」尓タム ソ子ム ニクムとある。『日本霊異記』の訓釈には「妬忌〈ウラヤミ〉」(上巻十二縁・興福寺本)、「嫉妬〈二合ウラヤミ〉」(中巻一縁・群書類従本)とあるが、ここはウラヤミでは文意が通らない。記紀歌謡関連の注釈書も含めると相当数のものが「ウハナリネタミ」と訓んでいるが、明確な根拠がわからないので、「嫉妬」を連文とみて「ネタム」で訓む。ここに嫉妬物語が記されるのは、次の倭国には行かないという展開を導くためもあると思われるが、下巻・仁徳天皇条の石之日売命の嫉妬物語も含めて嫉妬を鎮めることが王としてのあるべき姿であるとする見方もある(折口信夫「日本文學の發生」中央公論社旧全集七巻所収など・吉井巌「石之日売皇后の物語」『天皇の系譜と神話二』塙書房、一九七六年六月、初出は一九七五年九月)。ここは嫉妬を鎮めることが国作りの一段階として必要であったという意図があったのかも知れない。嫉妬物語における仁徳天皇との重なりや、妻が「后」と記されること、高志行きが「幸行」と記されることなどを併せて見ると、先の「朝日」のところで述べたような〈日の御子像〉が八千矛神に与えられている可能性が感じ取れる。
○日子遅 ヒコ・ヂともに男性を指す称。記伝に「夫婦のうへの事を云時に、其夫を指て云称」という。『古事記』神話の中ではこの後、火遠理命がその妻の豊玉毗売と対応する場面において、「日子」「比子遅」と見えている。この「日子」が「日の御子の意」(新編)であるとするならば、ここの「日子遅」にもそれが読み取れるのか否か、明確には分からない。
○出雲より倭国に上り坐さむとして 八千矛神は「遠々し高志の国」に妻問いをすると記すことで、葦原中国を領有する神であることが示されるが(「磯の崎落ちず」妻を持つという表現も同様)、倭国のみはその範囲に含まれないということを示す意図がこの一文には伺える。後の国作り神話において、倭国に神を祭れば国作りが完成すると描かれるのも、倭国のみは大国主神の領有する範囲に含まれないことを強調する意味合いがあるものと思われる(松本直樹「トヨタマビメとスセリビメ―異界王の女―」『古事記神話論』二〇〇三年十月、初出は一九九八年六月)。
○アタタネ アタネのまま茜と同韻とする説(厚顔抄・新編)、阿加尼の誤写説(記伝・言別)、茜草は、宿根草で、「蒔キシ」とあるのに適さないので、アタネで、植物の名かとする説(武田全講)、「茜」は赤根草で、その根を臼に舂いて赤の染料を採る植物であると見る説(相磯全註解・山路評釈)、「藍蓼アヰタデ」のヰの脱落形、タデ科の植物で今のアイ(タデアイ)と呼ばれているものととる説(土橋全注釈)、「蒔きし」ではなく「ぎし」と訓み、茜と見る説(西郷注釈・言別も「覔ぎし」と解する)など、本文校訂の問題とも関わって様々な説があるが、定説を見ない。新校は、「アタタネ」の「ネ」の部分、真福寺本は「弖」、兼永本は「尼」であり、「尼」は歌謡に用いられた例がないところから「弖」を採用し、「アタタテ」と読み、「蓼の一種で、秋に紅色の穂をつけるので、赤色の染料として用いたものか」とする。西宮修訂も真福寺本に従えば「アタタデ(異国の蓼)」になると述べるが(但し修訂は色合いの関係から積極的には蓼説を唱えていない)、一応、道祥本と兼永本に「尼」とあり、訓注に一例「訓金云加尼」(天の石屋条)があるのにより、「アタタネ」とし、何らかの植物を指すが、未詳としておく。【→補注八】 ○ヤマト このヤマトは、普通名詞で山処、山本の意とするものと、地名大和を指すとするものとに二分される。異質なところでは、言別が「山多乎之なり」として、「山凹の、片おろしなる処の薄のさまおもひやるべし」と記している。殆どのテキスト・注釈書は、山処・山本説をとるが、それはこの神話の舞台が出雲であって、出雲に一人留まる須勢理毗売の姿を歌うに際して大和が詠まれる理由が説明できないことによる。西郷注釈は、歌の中の「ヤマト(山処・山本)」があることによって、歌の前の地の文の「倭国」云々の描写が導かれたと説いている。厚顔抄・西宮修訂・新校は「大和」とするが、 厚顔抄・新校には特に説明がない。西宮修訂のみ、「「倭国」にあるので、「大和」と解せられる。独立歌謡としてなら「山処」でよいが、本文歌として解釈をすべきであるから「大和」と解する必要がある」という説明を付すが、「「倭国」にあるので」との説明の意味が良く分からない。『古事記』の歌に詠まれたヤマトは、その示す範囲が一定ではない可能性はあるものの、全て地名ヤマトを指している。文字もすべて「夜麻登」で統一されている(15・30・55・56・58・71・72・96・100番歌)。そこから考えればこの歌のヤマトも「大和」である可能性が高いのではないかと思われるのだが、確かに舞台との関連がつかみづらい。例えば、八千矛神が倭国に行こうとしたものの、結果的には須勢理毗売の元に留まって共に鎮まるということになるのであるから、この歌の中にも倭国に行くことを断念する内容が盛り込まれており、倭国の女神が一人寂しく泣く様を、須勢理毗売の嘆きと重ねる形で表現していると見るというのは深読みが過ぎようか。なお、新編は、「「倭」の意とすると、出雲にとどまる須勢理毘売を「倭の一本薄」にたとえることになり、不審。「夫を失った女性」をヤモメ・ヤムメ・ヤマメというが、ヤマトを「配偶者を失った人」の意とみるのが一案。それだと「一本薄」にかかる理由が分りやすい。」との案を示すが、他に例がなく、判断がしづらいところではある。

本文に戻る

「阿多々尼(阿多尼)」の解釈について

 真福寺本『古事記』にみえる「阿多々尼」は未詳の語である。他の写本類は共通して「阿多尼」としており、そもそも「阿多々尼」なのか「阿多尼」なのか不明で、「阿多々尼」であっても「阿多尼」であっても、その正体は判然としていないのが現状である。
 この未詳の語に何らかの正体を見出そうとした嚆矢は、契沖『厚顔抄』の「蒔茜搗欤」という提言である。この説は本居宣長『古事記伝』に継承され、「アカ阿多泥アタネと云むことは、聊心ゆかず、若は草書に加と書るを、多と誤れるにや」という誤字説の提示に至りつつ、この未詳の語が「茜」である、という理解を押し広げていくことになった。他方、染色を専門とする研究者・上村六郎によって「藍説」が提示される(「古事記を通じて見たる我國上古の彩色料について」(『奈良文化』十号、一九二七年四月)、「茜染考―其他の赤染について―」(『奈良文化』十二号、一九二七年十月)、『東方染色文化の研究』一九三三年、他多数の論考がある)。一連の論考のなかで上村は一貫して藍説を提唱し、『萬葉染色考』(上村六郎・辰巳利文著、古今書院、一九三〇年)ではアイヌ語の「せたあたね」なる語が「エゾ大青」であるとし、アタネ=藍であると論じていた(ただし、後にアイヌ語の「あたね」が日本内地の菜種菜に該当するとし、アイヌ語援用は撤回している)。染色の面から問題とされたのは、「染め木が汁に 染め衣」とあるのに対して、茜は灰汁媒染の染料であり、舂いても染料となるべき汁が出ないことであった。さらに武田祐吉『記紀歌謡集全講』は茜草が宿根草であり「蒔キシとあるに適しない」点を問題視し、実際の植物は不明だが、赤色の染料をとる「ア種」であろうとした。
 契沖以来多くの支持を受ける「茜」説には、茜の草や根を舂いたところで「染め木が汁」は得られない点や、茜は宿根草であるため、「夜麻賀多爾麻岐斯」を仁徳記に見える類似句の「山県に蒔ける(夜麻賀多迩麻祁流)青菜」(記56)と同様に「山県に蒔きし」と訓むことはできない点などに問題がある。この問題点を解消しようとして提示されたのが、「黒き御衣」「青き御衣」との対比として赤色を是とする説であり、また「麻岐斯」を「覓ぎし」と訓む説であった。
 管見の限り、前者の早い例は前田千寸の「日本古代の染色技術と阿多泥染」(『日本歴史』三三、一九五一年二月)である。前田は「青き御衣」が藍染であるとし、次のように述べた。

 若し阿多泥が藍であるなら、靑き御衣との間にどんな特色、差別が認められるか。强ひて差別を求めるなら、一は浸染であり、一は摺染であると見るか、或は靑き御衣は山藍染であり、次のは質的に山藍より優良な蓼藍染であるとするか。それだけの相違で大国主命が斯くも鮮明に選擇を決定したであらうか。(中略)たとへ古事記には阿多泥と書いてあつても、事実上には阿加泥でなければならぬと考へる。

 『古事記』本文の表記を度外視する点は看過できないが、黒や青の衣との対比に赤を求める説は根強く、西宮一民『古事記 修訂版』や西郷信綱『古事記注釈』、山口佳紀「子音交替〈上〉調音法の共通による場合―」(『古代日本語文法の成立の研究』一九八五年。初出一九八〇年十月)が黒や青との対比を重視して茜(赤)説を支持し、植物の想定こそ保留するものの山路平四郎『記紀歌謡評釈』も赤色の染料をとるものと考える。また想定する植物等はそれぞれ異なるものの、西宮一民『新潮日本古典集成 古事記』(赤色の染料をとる外国産の蓼藍)、室屋幸恵「鳥の衣―上代における『衣』の色について―」(紅花染ないし、紅花染のような鮮やかな赤色)(『上代歌謡研究』Ⅰ、二〇一三年二月)や辰巳正明監修『古事記歌謡注釈』(韓藍(鶏頭)か)(新典社、二〇一四年)などにも赤色重視は踏襲されている(なお、茜説を採用する注釈・論文類には、橘守部『稜威言別』、敷田年治『古事記標注』、中島悦次『古事記評釈』、次田潤『古事記新講』、相磯貞三『記紀歌謡全註解』、神田秀夫『新注古事記』、新編日本古典文学全集『古事記』、神野志隆光・山口佳紀『古事記注解』4、青木周平「八千矛神」(『青木周平著作集 中巻 古代の歌と散文の研究』おうふう、二〇一五年。初出一九九九年一一月)などがある)。
 ここで国語学の観点から注目したいのが、先掲山口佳紀の論考である。山口は破裂音のkとtとが子音転換する例として「カキハ―カチハ(堅磐)」「サキ―サチ(幸)」などを挙げ、次のように述べている。

  土橋寛『古代歌謡全注釈・古事記編』では、「尼」を「弖」の誤写とし、アタテの語を考えた上で、これをアヰタテ(藍蓼)の転としている。しかし、ヰの脱落は考えにくく(注略)、また蓼はタデであるから(観本名義抄)、アタデとなるはずであって、「弖」よりも「伝」で表記される方が自然である。(中略)もし、子音交替であれば、kは歯茎音nを後に控えているために、tに転じたと見ることができる(一三六頁)。

 真福寺本の表記「阿多々尼」とは合致しないものの、他写本の本文そのままで理解できる点で、妥当性の高い「茜」説のひとつと言えるだろう。
 一方、「蒔く」ことや「舂くことで染汁を得られる」点などから藍染説を是とする論も根強い。たとえば伊原昭は『日本文学色彩用語集成―上代一―』(笠間書院、一九八〇年三月)において次のように述べる。

  元来藍は、古代からの著名の解毒剤であり(神農本草経その他)、また藍染は、毒蛇がこれを嫌ふと云ふので、山に入つたり、旅をしたりする場合に、これを護身のために呪的な意味で用ひるのは、我が国はじめ、いたるところに行はれてゐる民俗である。(中略)大国主神が出雲から倭国に上らんとして、旅立ちの装をすることを歌つた場合の「あたね」染の衣は、民俗的に考へても、藍染であることが最もふさはしい様に思はれる(七三九頁)。

 倭への出立を想定した伊原の言説は、染色のみならず民俗学的観点から見ても興味深い。また土橋寛『古代歌謡集』は倭名類聚抄に「蓼藍 多天阿井」とあることを指摘し(ただし、西宮一民『古事記 修訂版』は類聚名義抄において「蓼」が濁音である点を指摘している)、加えて「『弖』→『』→『尼』」という誤字の過程を推測して「阿多弖」と校訂し、上村六郎の藍染説を支持する。さらに同氏は『古代歌謡全注釈 古事記編』で以下のように述べた。

  藍染めは山野に自生する山藍の摺染め(大嘗祭の小忌衣に用いる)、蓼藍の舂き汁で染める浸染法、藍を水の中で醱酵させてその液に衣を浸して染める真の浸染法などがあり(中略)「山県に蒔きし藍蓼舂き 染木が汁に染衣を」という表現からすれば、この歌の藍染めは第二の原始的な浸染法と見られるが、それでも黒土摺りの「黒き御衣」や青草摺りの「青き御衣」に比べれば、はるかにあざやかな色だったのではないかと思われる(四七頁)。

 荻原浅男『古事記・上代歌謡』は本文を「阿多々弖」とし、「アタは他・異の意。タデは染草の蓼藍、中国などから種を輸入して栽培された。」という。また、中村啓信『新版古事記』も同様の見解を示す。
 旅において有益である虫・蛇避けの効果があるという点や、舂き汁をもって染色に用いる点、また山県(畑)に種を蒔いて栽培する点などによって考えれば、藍染め説にも充分な説得性はあるとみてよいだろう。
 茜等の染料による赤色か、あるいは蓼藍の浸染めの青色かという二説に大きく分かたれる「阿多々営(阿多尼)」の「染め衣」であるが、視野を広げてみれば、黒・青・赤色の優劣については、『日本書紀』の官位関係記事も参考となる。例えば推古紀十一年十二月の冠位十二階は五行思想によってその色を仁(青)・礼(赤)・信(黄)・義(白)・智(黒)としたと考えられており(新編全集本五四一頁頭注)、そこでは黒→赤→青、と優劣が示される。しかしその一方で、孝徳紀大化三年是歳条の新官位制施行記事では、全十三階の第六が黒冠(服色は緑)、第五が青冠(服色は紺)、第四が錦冠とされその服色を真緋と定められているため、黒→青→緋(赤色)という優劣を想定できる。つまり黒を下等とするのは推古紀・孝徳紀に共通と言えるが、必ずしも赤が青より優位と解されるわけではない。そして、黒冠の服色(緑)が山藍の摺染め(青緑色といわれる)と同様のものと仮定できるのであれば、蓼藍の浸染め(紺)はそれと比して上位に位置づけられる。
 ともあれ、これまで紹介してきたように「阿多々尼(阿多尼)」については表記や語構成、植物に対する理解など多岐に渡って論じられてきた。そしてそれぞれの言説には長短があり、現時点で「阿多々尼(阿多尼)」の実体を特定するのは困難と言わざるを得ない。青木周平「八千矛神」(先掲)のように、実体を「茜」と解したうえで「日の御子」との関わりから論じる挑戦的な言説もあるが、当該歌における「阿多々尼(阿多尼)」そのものの記載意義を明らかにするのは容易ではなかろう。

〔小野諒巳 日本上代文学〕

又、其神之適①湏勢理毗賣命、甚為嫉妬。 故、其日子遅神和備弖[三字以音] 自出雲将上坐倭國而、②装立時、 片御手者繋御馬之(※1) 片御足蹈入其御鐙而、歌曰、 奴婆多麻能 久路岐美祁斯遠 麻都夫佐尒 登理与曽比 淤岐都登理 牟那美流登岐 波多々藝母 許礼婆布佐波受  弊都那美 曽迩奴岐宇弖  蘇迩杼理能 阿遠岐美祁斯遠  麻都夫佐迩 登理与曽比  淤岐都登理 牟那美流登岐  波多々藝母 許母布佐波受  弊都那美 曽迩奴棄宇弖  夜麻賀多尒 麻岐斯阿(※2)(※3)③都岐  曽米紀賀斯流迹 斯米許呂母遠  麻都夫佐迩 登理与曽比  淤岐都登理 牟那美流登岐  波多々藝母 ④斯与呂志  伊刀古夜能 伊毛能美許等  牟良登理能 和賀牟礼伊那婆  比氣登理能 和賀比氣伊那婆  那迦士登波 那波伊布登母  夜麻登能 比登母登湏々岐  宇那加夫斯 那賀那加佐麻久  阿佐阿米能 疑理迩多々牟⑤  和加久佐能 都麻能美許登  許登能 加多理碁⑥母 許遠婆 【校異】
① 真「舌」。 兼永本「舌」寛永版本「告」。「舌」は「后」の異体「」の譌とする神道大系に従い、 「后」に改める。
② 真「来」。兼永本・寛永版本・延佳本「来」。道祥本「未」。古事記伝師説により「束」に改める。
③ 真「」。道祥本・兼永本に従い、「尼」とするが、西宮修訂・新校は真の字体を「弖」と判断している。
④ 真「弥」。道祥本以下に従い、「許」に改める。
⑤ 真「釼」。延佳本以下諸注釈に従い、「叙」に改める。
⑥ 真ナシ。道祥本・兼永本に従い、「登」を補う。
(※1)「」 「鞍」の国字。古くは木製のクラであったから木偏にした(西宮修訂)。
(※2)「多」 「加」の誤りか(記伝)。
(※3)「々」 底本にのみあり。

また、その神の正妻である須勢理毗売命は、(八千矛神が他の女神に求婚することに対して)非常に嫉妬をした。 それで、夫の立派な神は、困ってしまって、 出雲から(今度は倭国の女神に求婚しようと思って)倭国に上京しようとなさって、身支度を整えて出発しようとなさった時に、 (今にも出発しようとする恰好で)片方の御手は御馬の鞍に掛けた状態で、 片方の御足は御馬の御鐙に踏み入れた状態で、歌っていうことには、 ぬばたまのような黒いお召し物を 細かに正しく身につけて、 沖の鳥と同じような仕草で胸の辺りを見る時に、 羽をぱたぱたさせてみるけれど、これは似合わない。 それで浜辺の波が寄せるようにそっと脱ぎ捨てて、 今度は鴗鳥のような青いお召し物を 細かに正しく身につけて、 沖の鳥と同じような仕草で胸の辺りを見る時に、 羽をぱたぱたさせてみるけれど、これも似合わない。 それで浜辺の波が寄せるようにそっと脱ぎ捨てて、 次は山の方に蒔いたあたたねを舂いて染めた 染め草の汁で染めた衣を、 細かに正しく身につけて、 沖の鳥と同じような仕草で胸の辺りを見る時に、 羽をぱたぱたさせてみると、これは大変宜しい。 愛しい妹の命よ、 群れて飛ぶ鳥のように私が皆といっしょに行ってしまったら、 引かれる鳥のように私が引かれて行ってしまったら、 泣くまいとは貴女は言ったとしても、 山の麓の一本の薄のように、 項垂れて、貴女がお泣きになった その涙は、朝の空に霧となってかかることでしょう、 若草のような妻の命よ。 出来事の語り伝えでも同じように伝えています。

先頭