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かれの大国主神、胸形むなかたおきみやいます神、多紀理毗たきりびめのみことめとりてみしは、阿遅あぢ[二字は音を以ゐる]鉏高すきたか日子ひこ根神ねのかみ 次に、妹高比売命いもたかひめのみことまたは、下光比売命したでるひめのみこと 此の阿遅鉏高日子神は、今迦毛大御神いまかものおほみかみふぞ。 大国主神、亦、神屋楯比売命かむやたてひめのみことを娶りて生みし子は、事代主神ことしろぬしのかみ 亦、八嶋牟遅能やしまむぢのかみ[牟自り下三字は音を以ゐる]のむすめ鳥取神ととりのかみを娶りて生みし子は、鳥鳴海神とりなるみのかみ[鳴を訓みて那留と云ふ]。 此の神、日名ひなてるぬか毗道男伊許知びちをいこち迩神にのかみ[田の下の毗、又伊自り下迩に至る、皆音を以ゐる]を娶りて生みし子は、国忍富神くにおしとみのかみ 此の神、葦那陀迦神あしなだかのかみ[那自り下三字は音を以ゐる]、亦の名、がは江比売えひめを娶りて生みし子は、速甕はやみか之多気佐波夜遅奴のたけさはやぢぬ美神みのかみ[多自り下八字は音を以ゐる]。 此の神、天之甕主神あめのみかぬしのかみの女、前玉さきたま比売ひめを娶りて生みし子は、甕主日子神みかぬしひこのかみ 此の神、淤加美神おかみのかみの女、比那良志毗売ひならしびめ[此の神名は音を以ゐる]を娶りて生みし子は、多比理岐志麻流たひりきしまる美神みのかみ[此の神名は音を以ゐる]。 此の神、比〃羅木之ひひらぎの其花そのはな麻豆まづ美神みのかみ[木の上三字、花の下三字は音を以ゐる]の女、活玉前玉比売いくたまさきたまひめのかみを娶りて生みし子は、美呂浪神みろなみのかみ[美呂二字は音を以ゐる]。 此の神、敷山主神しきやまぬしのかみの女、青沼馬沼あをぬうまぬおし比売ひめを娶りて生みし子は、布忍富鳥鳴海神ぬのおしとみとりなるみのかみ 此の神、若尽女神わかつくしめのかみを娶りて生みし子は、天日腹大科度美神あめのひはらおほしなどみのかみ[度美二字は音を以ゐる]。 此の神、天狭霧神あめのさぎりのかみの女、遠津待根神とほつまちねのかみを娶りて生みし子は、遠津山岬多良斯神とほつやまさきたらしのかみ   みぎくだり八嶋士奴美神やしまじぬみのかみより以下しも、遠津山岬帯神より以前さきは、十七世とをあまりななよの神とふ。

○此の大国主神 前段は八千矛神の名による神語であった。これを受けて「此の」と記しているとすれば、八千矛神と大国主神とが同一の神であることが自明のこととして話が展開していることとなる。しかし、神語の前段である根の堅州国訪問段を直接「此の」で受けている可能性もある。根の堅州国訪問段の後半で須佐之男命から大国主神で呼ばれているからである。
○胸形の奥津宮に坐す神、多紀理毗売命 天照大御神と須佐之男命のうけひの段で、天照大御神が須佐之男命の剣を噛んで吐き出した息吹の中から出現した最初の神。うけひの段にも、「胸形の奥津宮に坐す」と記す。「胸形の奥津宮」は、福岡県宗像市の沖ノ島にある宗像大社の奥津宮。
○阿遅鉏高日子根神 後段、葦原中国平定神話においては、「阿遅(治)志貴高日子根神」の名で記される。『日本書紀』神代下九段に「味耜高彦根神」、同歌中に「阿泥素企多伽避顧禰」、『出雲国風土記』に「阿遅須枳高日子命」、『播磨国風土記』に「阿遅須伎高日古尼命神」、「出雲国造神賀詞」に「阿遅須伎高孫根乃命」とあるなど、他は全て「スキ」となっているが、『古事記』後段にのみ「シキ」となっているのは、単なる音韻変化ではなく、神名に込められた意義が異なるためと思われる。アヂは美称、スキは農耕具の鋤を表すとみられるが、スキのキは上代特殊仮名遣いでは甲類であるのに対し、シキのキは乙類であるため、意味も異なるものと見られるためである。シキは大和の地名「磯城」と関わる可能性がある(この点については後段で説明予定)。「タカヒコ」は、次の妹「タカヒメ」と対になる名で、「タカ」は美称と見られる。後の神話では天若日子の葬儀の場面で登場し、天若日子と瓜二つであったところから死者と間違われ、怒って喪屋を切り倒し蹴飛ばして後、飛び去るという話となっている。天若日子との関係については、農耕神の死と再生を語る神話であると説かれ、蹴られた喪屋が美濃国の「喪山」であると記すところから、美濃国に関わる神話であるとも見られるが、これらが葦原中国平定神話の中に位置づけられている意味を考える必要がある(この点も後の神話の場面で後述)。『古事記』や『出雲国風土記』で描かれた姿から、雷神としての性質があると説かれる。
○妹高比売命、亦の名は、下光比売命 「高比売」は阿遅鉏「高日子」根神と対となる神名。「下光比売」は、『万葉集』18・四〇五九に「橘の之多泥流庭に」などにより、「シタデル」と訓み、同19・四一三九に「桃の花下照道に」とあるように、輝きによって下方を明るくする意を示すとみられる(集成など)。シタは「光」を表し、照り映える意の動詞シタフと同源で、輝くばかりの美しさを名とすると説くものもある(新全集)。後の神話では、天若日子の妻としては「下照比売」の名で登場し、兄神の名を表す際には、「高比売」の名で登場する。 ○今迦毛大御神と謂ふぞ 「迦毛」は奈良県御所市鴨神の地名。『延喜式』神名帳大和国葛下郡に「高鴨阿治須岐託彦根命神社」がある。『出雲国風土記』には所造天下大神大穴持命の御子神として登場する(楯縫郡神名樋山・神門郡高岸郷・仁多郡三沢郷)。同意宇郡賀茂の神戸の条には、「天下所造らしし大神の御子、阿遅須枳高日子命、葛城の賀茂の社に坐す。この神の神戸なり」と記す。「出雲国造神賀詞」では、皇孫の命の近き守り神として、「阿遅須伎高孫根乃命」の御魂を「葛木の鴨の神名備」に鎮座させたことが伺える。【→補注一】 神屋楯比売命 「神屋」は神殿、「楯」はその堅固さを表すか。集成は「楯」を「立てられたもの」の意と取り、「神殿を守るために立てられた垣をさすか」と捉え、その神殿に託宣の神である事代主神が籠るという関係性を説いている。その他、記伝は「彌高照イヤタカテリ」の省略か、又は応神記の歌「後ろでは小楯ろかも」を参考に「姿を美稱ホメたる名にもや」とし、西郷注釈もこの説を取り上げている。但し西郷注釈はそれに加えて「屋」を「綾」の意として「綾楯」と理解する可能性についても言及する。倉野全註釈は「屋楯は或いは矢楯で矢と楯に関係のある名ではあるまいか」とする。
○事代主神 「出雲国造神賀詞」では、阿遅鉏高日子根神と同じく皇孫の命の近き守り神として、「宇奈提」(奈良県橿原市雲梯町の河俣神社に比定される)に鎮座させるとある。『延喜式』神名帳大和国葛上郡に「鴨都味波八重事代主命神社」がある。『日本書紀』神功皇后摂政前紀(仲哀天皇九年三月)に、「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神」、同摂政元年二月に「事代主尊」、天武天皇元年七月に高市県主許梅に神掛かりする神として「高市社に居る、名は事代主神」の記述があり、いずれも託宣神として登場している。『古事記』の場合、一箇所、大国主神がこの神に、葦原中国を譲るか否かについての返答を委ねるに際して、「八重言代主神」という表記が用いられているのは、この場面が特に言葉(発言)が重要視される場面であったからと考えられるが、それ以外は基本的に「事」で記されているところからすれば、単に託宣の神というのみではない神格がこの神の性格として考えられるのかも知れない。『古事記』は基本的に「事」と「言」とを使い分けているとみられている。
○八嶋牟遅能神 「八嶋」は天皇の支配領域としての「大八洲国」が意識される語とみられる。「牟遅」は「大穴牟遅神」の「牟遅」と同じく貴人の意であろう。須佐之男と櫛名田比売との間に生まれた子は八嶋士奴美神であったが、その神と関係するか。
鳥取神 鳥取部と関係する神か。垂仁記に口の利けない皇子ホムチワケのために鳥を捕らえる話があり、鳥取部などを定めた記事があるが、皇子の口が利けない理由は、出雲大神=神話で言えば大国主神の祟りであった。なお、「取」は卜部系諸本に「耳」とあるため、延佳本・記伝なども「鳥耳神」とするが、ここでは真福寺本に従う。記伝は、「鳥取」ならば地名か、とするが、鳥取という語は人代に鳥を捕ることからおこる名なので、神名には相応しくないとしている。しかし事代主神の「鳥の遊」などもあるので、特に問題はないものと思われる。
鳥鳴海神 鳥取神との関連で「鳥」を冠する名を持つ。「鳴」は訓注に「那留」とあるところからすれば、「鳴く」意味では取れないので、下の海に掛かって「鳴る海」となる。鳴り響く海を渡る鳥の意か。なお、「出雲国造神賀詞」の大穴持命の国譲りの際の言葉に見える「皇室の近き守り神」四神として「倭大物主櫛玉命」「阿遅須伎高孫根命」「事代主命」に続いて「賀夜奈流美命」の名が見えることから、この二神を同神と取る見方がなされることがある。宣長は、記伝で「鳥」が大和の地名に由来する可能性について述べ、「賀夜も大和の地名などにて、此神の亦名か」と説き、後に『出雲国造神壽後釋』において「古事記にも書紀にも見えず、古事記に鳥鳴海の神といふあり、大名持命の御子也、これと同神なるべし」と述べている(和泉書院影印叢刊による)。その他二神の関係性について触れるものはあまり見受けられないが、西郷注釈はこの二神が「同一であることはほぼ疑えない」としている。確かに名前の類似性と、阿遅鉏高日子根神・事代主神からの流れということで見れば、同一神と捉える見方があるのも肯われるところではあるが、両者の神話は全く異なる内容を有しており、これを同一視することにはあまり意味がないと思われる。次田潤『祝詞新講』には「賀夜奈流美命」を「下照比売」と同神とする説が紹介されている。その真偽の程は定かではないが、『古事記』の場合は男神としか考えられないので、仮に「賀夜奈流美命」が女神であったとすれば、やはりそれぞれの神話に登場する別個の神ということにはなろう。
○日名照額田毗道男伊許知迩神 日名照・額田・毗道男・伊許知迩という語構成か。鳥鳴海神が「娶」る神故に女神である筈だが、神名の中に「男」が含まれる点が問題とされる。記伝は「日名照額田毗道男」までが親神の名で、その下に「神之女」の三字が脱落したか、神名の下に「之女某神」が脱落した可能性を説く。但し訓注に「田下毗又自伊下至迩皆以音」とあり、一柱の神名として扱っているところから、その脱落は『古事記』成立当初からのものであると指摘した上で、この神名の後に「之女某神」とあったものが脱落した可能性も述べている。倉野全註釈もこの神名の長さを問題として記伝の前者の説を支持しているが、集成のように、親神の名を神名の一部として持っていたものと解する見方もある。「日名照」は、「比奈久母理(日な曇り)」(『万葉集』20・四四〇七)に対応する語で、「日な(の)照る」の意(全註釈・集成)、「額田」は地名(記伝・全註釈)、若しくは「額のような四角い田=良田」(集成)、「毗道」「伊許知迩」は未詳だが、集成は「毗」を「辺」、「伊許」を「厳」の意で取っている。
国忍富神 「忍」は、天之忍許呂別や天忍穂耳命など、他にも神名に用いられる例がある。押さえつける意で、威力あるものの美称(集成)とも、「おほし(大)」の転で大きい意の形容詞オシを表す借字(記伝・新全集)とも言う。「富」は美称。『出雲国風土記』嶋根郡方結郷に須佐袁命の御子として「国忍別命」の名が見える。
葦那陀迦神、亦の名、八河江比売 「葦那陀迦」は集成に「葦な(の)高」の意で、邪気を払う葦が高々と茂ることに生命力・国力の繁栄を表象していると説く。「八河江」は、『延喜式』祝詞(平野祭・春日祭)にみられる「ヤグハエ」や仁徳記の歌にみられる「ヤガハエ」と関連させる説(西郷注釈)や、「多くの川の入江を司る女神」とする説(新全集)などがある。「葦」と「河」とで関連させた名か。応神記に、丸邇の比布礼能意富美の娘、宮主「矢河枝比売」(紀では「宅媛」)が応神天皇との間に宇遅能和紀郎子を生む話がある。
○速甕之多気佐波夜遅奴美神 「速」は勢いのある様を表す(速須佐之男など)。「甕」は「御厳」で、建御雷神(紀に武甕槌神)の「ミカ」と同じか。「多気佐波夜遅奴美」は未詳。「遅奴美」は「八嶋士奴美」と共通する。
○天之甕主神の女、前玉比売 「甕」は前述。「天之」神の娘との婚姻を記すのは、出雲系の系譜に高天原系の系統を取り込むためか。後に「天狭霧神」の娘も登場する。先の須佐之男の系譜にも、「天」を冠する神名が見られた。「前玉」は「幸魂」であろうと言われる。
○甕主日子神 「天之甕主神」の孫にあたる。祖父の「天之甕」と父の「速甕」を受け継いだ子。三代にわたって「甕」を名に負う神を登場させるのは、それだけ「甕」に重要性があるためと見られるが、その理由は不明。なお、「甕」を名に持つ神については、【→補注二】参照。
○淤加美神の女、比那良志毗売 「淤加美神」は水を司る神。伊耶那岐命の火神被殺条に「闇淤加美神」の出現が記されていた。また、須佐之男の系譜にも、淤迦美神の娘日河比売の名が記載されていた。「比那良志」は未詳。「比=霊」「那良志=平らし」で、親神が水神なので、水の性質を平らす意か(集成)とも言われる。『常陸国風土記』新治郡の国造の祖(若しくは国造)の名に、「毗奈良珠命」(総記)「比奈良珠命」(新治郡)が見える。
多比理岐志麻流美神 名義未詳。記伝は延喜式神名帳備後国品治郡に「多理比理神社」とあるのを指摘しているが、関係は不明。同じく記伝では『出雲国風土記』飯石郡来嶋郷に「伎自麻都美命」の名が見える神との関係について説いているが、これも明らかではない。
○比〃羅木之其花麻豆美神の女、活玉前玉比売 「比〃羅木」は「柊」とみられるが、後は名義未詳。「活玉前玉比売神」は、前述の「前玉比売」に「活玉」(生き生きとした魂)が冠せられ、「神」が付された名となっている。
美呂浪神 名義未詳。記伝は、「美呂」については、和名類聚抄の「上野国佐位郡美侶郷」を挙げ、「浪」については「那も美も、例の稱名なるべし」と述べる。西郷注釈は、鳥鳴海以下、「ミ」の語を含み持つ神名が多いことについて、「霊を意味するミという音に興がって神々の名が次々と並べられている風情である。そのミがすべて甲類のミである点からも、そういえる」と注している。
敷山主神の女、青沼馬沼押比売 「敷」は草木が茂る意の動詞シクの連用形(新全集)。草木の繁茂した山を領有する神。「押」は前述の「忍」と共通するか。「馬」が「ウマシ」の借訓であるとすれば、「青」「美」でともに沼を誉め称えた意となる。
○布忍富鳥鳴海神 名義未詳。「布」は須佐之男の系譜中、三柱の神名にみられた。しかしそれらはすべて「フ」の音を表す例であった(布の意を持たないとは言い切れないが)。「忍富」「鳥鳴海」ともに既出の神名にあったところをみると、これまでに登場した神名を組み合わせたような名になっている。
若尽女神 名義未詳。倉野全註釈は、「盡」は「筑紫」ではないかとするが、ここに筑紫が登場する必然性には乏しい。記伝は延佳本に従って「若昼女」を採用しているが、「若盡女」も棄てがたいとしている。
天日腹大科度美神 名義未詳。「日腹」は「日原」か。記伝は『出雲国風土記』大原郡に「日原社」があるのを指摘する。「科度美」は「処霊どみ」で、風の神か。伊耶那岐と伊耶那美の生んだ子神の中に「風神、名は志那都比古神」がいた。『日本書紀』神代上五段一書六にも伊奘諾・伊奘冉が生んだ子に「級長戸辺命と曰す。亦は級長津彦命と曰す」と見え、「是風神なり」と記されている。
○天狭霧神の女、遠津待根神 「天狭霧神」は、伊耶那岐・伊耶那美が生んだ大山津見神野椎神が山野を分け持って生んだ神八柱のうちの一柱。「遠津待根」は名義未詳。記伝に「遠津」は地名であるとし、「待根」のチネについては、「天之都度閇知泥神」(須佐之男命の系譜)、「物部連が遠祖十千根」(『日本書紀』垂仁天皇二十五年二月)などを例にあげて、称名であるとしている。
遠津山岬多良斯神 山岬は山の先端を表すか。「多良斯」は充足の意。遠い山の端々まで充足していることを(統治が及んでいることを)示す意か。
○右の件、八嶋士奴美神より以下 「八嶋士奴美神」は、須佐之男命と櫛名田比売との間に生まれた神。この神から数えることで、この須佐之男命の系譜とこの系譜とが連続した系譜であることを示している。
○十七世の神と称ふ 前項の八嶋士奴美神から数えると十五世となるため、問題となる箇所である。諸本一致しているため、単純に書き誤ったとも考えにくい。阿遅志貴高日子根神と事代主神とをそれぞれ一世と数えて十七世とした、とする見方があるが、「世」が親子間等の世代を表すとした場合にそれは考えにくい。しかし、『古事記』の「世」の用例から見た場合、「世」をどういう意識で用いているのか、必ずしも明らかではない。中・下巻では基本的に天皇の「御世」を表す用例のみである。上巻では今回の箇所以外には二例しかない。一例は天孫降臨神話の中に見られる「御世」の例(「島の速贄」の条)で、これは中・下巻の用法と共通するもので、代々の天皇の「御世」を指す例である。もう一例は「神世七代」の例。この「神世七代」は、『古事記』冒頭に出現する五柱に続いて出現した「独神」二柱と、対で出現した五組十柱の神を指すものであり、特に親子間等の世代を表すものではない。この「代」が「世」と同じような意味合いとして見られるかどうかは検討を要するが、「代」が一般的な世代を示すのではないとしたならば、ここでいう「世」も、縦の系譜の数え方で数えるものとは限らないことになる。従って、阿遅志貴高日子根神と事代主神とを含めて十七世神とした可能性は充分に考えられる。【→補注三】

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【補注一】 迦毛大御神とカモ氏

 大国主神の系譜記事には、「此の阿遅鉏高日子(根)神は、今は迦毛大御神と謂ふなり」という異称注記がある。アヂスキタカヒコネの神名は『出雲国風土記』など諸書に見えるが、「迦毛大御神」と同一神であるというのは、他書には見られない『古事記』独自の伝えである。「大御神」という鄭重な尊称は『万葉集』や祝詞にも見られるが、『古事記』において「大御神」と呼称される神は、伊耶那岐命(スサノヲが「泣きいさちる」場面では、「伊耶那岐大御神」と呼称される)と天照大御神と、「迦毛大御神」の三神だけである。従って、出雲系国つ神の中で唯一「大御神」と呼称されるのが、この「迦毛大御神」ということになる。しかし、後段の天若日子葬儀の場面に登場する「阿遅志貴高日子根神」に対する記述を見ても、特別な敬意が払われているようには見えない。天つ神の中でもとりわけ中心的な立場にあるイザナキやアマテラスに対し「大御神」という敬称を附して呼ぶ意図と、系譜記事の注記に「迦毛大御神」という異称を示す意図とは、方向性を異にしていると見るのがよいだろう。
 『万葉集』における「大御神」の例のひとつは、作主未詳の遣唐使に贈る歌(天平五年、19―四二四五)で、住吉三神を「住吉のわが大御神」と呼んでいる。もうひとつが憶良の「好去好来歌」(天平五年、5―八九四)で、「大御神」が三回も繰り返して用いられているが、これも遣唐使に贈った歌である。どちらの遣唐使送別歌においても、「大御神」は航海の安全祈願という文脈中で用いられており、かつ祈願の対象である神に向かって直接呼びかける二人称的な用法であることが、特徴として指摘できる。つまり、神に向かって祈願するという対面的な文脈に規定されて、「大御神」という最高度の敬意を表す呼称が選択されたと考えられる。祈願の文脈における使用という傾向は、祝詞の「大御神」の場合も同様である。
 これを参考にするなら、「迦毛大御神」という敬称は、奉祭者の視点を反映したローカルな呼称として捉えることができる。大年神の系譜中には、「奥津比賣命、亦の名は、大戸比賣神。此は諸人の以ち拝く竈の神なり」とか、「大山咋神、亦の名は、山末之大主神。此の神は、近淡海国の日枝山に坐し、亦、葛野の松尾に坐す鳴鏑を用つ神なり」といった記事が見られるが、これらは現実社会における信仰の側面に焦点を当てた注記であり、奉祭者の視点から補足された記述であろう。当該の「今は迦毛大御神と謂ふなり」も、これと性格を同じくする注記と見られる。
 こうした祭祀方面からの注記は、諸氏族の祖先神注記と同じく、神名を現実社会に繋げる意図に基づいている。神代の記事は遠い過去の出来事として記述されているが、『古事記』編纂時の「現在」の諸事象と結びつけることで、そこに現実的な効力が附与される。当該の「今は迦毛大御神と謂ふなり」という注記も、神話を「今」に結びつけることに力点が置かれている。神話の現実的効力とは、具体的には氏族勢力をめぐる政治的な効力であり、また神祇祭祀をめぐる宗教的な効力である。そして氏族社会的な論理においては、宗教的な力と政治的な力とが完全に一致していた。
 すなわち「迦毛大御神」という敬称は、その神を奉祭する氏族集団の意識を反映した呼称ということになる。そうした個別の氏族の視点を、系譜の注記という形であっても可能な限り叙述に取り込むということが、諸氏族の祭祀と伝承に配慮した『古事記』の編纂方針であったと見てよい。そこで改めて考えなければならないのは、「迦毛大御神」を奉祭する氏族集団の性格である。大国主系譜の記述によれば、アヂスキタカヒコネは出雲系の国つ神である。実際、アヂスキタカヒコネが最も多く登場する文献は『出雲国風土記』である。従って、その奉祭氏族も出雲系氏族であると考えられるが、それが「カモ」の名とどのように関わるのかを考えなければならない。
 先述の通り、アヂスキタカヒコネを「迦毛大御神」とする伝えは他書には見られない。しかしこの神と「カモ」とを結びつける記事は、諸国の風土記などに見出すことができる。まず『出雲国風土記』意宇郡賀茂神戸条には、「天の下造らしし大神の命の御子、阿遅須枳高日子命葛城の賀茂社に坐す」という記事が見られる。また『釈日本紀』所引の『土左国風土記』土左郡土左賀茂大社条逸文には、「郡家の西、去ること四里、土左賀茂大社あり。其の神の名を、一言主尊と為す。其の祖、未だ詳らかならず。一説に曰く、大穴六道尊の子、味鉏高彦根尊なりと」という記事もある。さらに『延喜式』所収の「出雲国造神賀詞」を見ると、「己命の御子、阿遅須伎高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ」ともある。賀茂大社は土左国にもあったことが知られるが、本貫地は大和国の葛城と見てよい。
 そこで『延喜式』神名帳の大和国葛上郡の項を見ると、「高鴨阿治須岐詫(託)彦根神社 四座」という神社があり、葛城の「鴨」にアヂスキタカヒコネが奉祭されていたことが確かめられる。『出雲国風土記』の「葛城の賀茂社」、神賀詞の「葛木の鴨の神奈備」とは、この高鴨神社のことであろう。「迦毛大御神」とは、この高鴨神社の祭神であることを意味する呼称と考えられる。なお式神名帳の葛上郡には、高鴨神社の他にも「鴨都(味)波八重事代主命神社」や「鴨山口神社」という「カモ」を冠した神社名が挙がっている。また同じ葛上郡に「大穴持神社」があることも注意されてよい。アヂスキタカヒコネのみならず、オホナムチやコトシロヌシを祀る神社があることからすれば、葛城山祭祀圏は基本的に出雲系の信仰圏に属していたと見てよいだろう。
 なお『土左国風土記』逸文に見えた「一言主尊」は、同じ葛上郡にある「葛木坐一言主神社」に祀られている。同じ葛城の神という理由で、賀茂神社と一言主神社が混同されているようにも見えるが、『続日本紀』天平宝字八年十一月七日条を見ると、この逸文の記述に呼応するような記事がある。この日、土左国に流されていた「高鴨神」を、本拠地の葛城に復帰させることが認可された。「高鴨神」が土左に配流されたのは、雄略天皇と狩猟で競ったので、それが怒りに触れたからだとも記されている。この「高鴨神」は『土左国風土記』逸文の「一言主尊」と同一神であるようだが、そのため「一説」に見られるような、一言主神とアヂスキタカヒコネとを同一視する言説も形成されたのであろう。
 なお、『日本書紀』雄略四年二月条を見ると、雄略と一言主神が共に狩猟を楽しんだという記事はあるが、最後まで和やかに行われており、競い合ってはいない。『古事記』では、雄略が一言主に武具や衣服を奉献したとあり、相当の敬意が払われている。こうした記紀の記述と、『続紀』の記述とを見較べると、「葛城の神」全体の神威が下落していっている様相が読み取れる。後代の『日本霊異記』や『三宝絵詞』『今昔物語集』に至っては、役行者説話において一言主はひどく貶められ、零落した存在となっている。『源氏物語』や『枕草子』に採り上げられる「葛城の神」も、姿を隠してこそこそと行動することの喩えに用いられており、いささか卑小な印象を与える。
 宝字八年の高鴨神祭祀の復興に際して、中心となって動いたのが、僧円興と賀茂朝臣田守という賀茂氏出身の兄弟である。この年は九月に恵美押勝の乱が起こり、十月には淳仁天皇が廃され、称徳が重祚した。田守は、押勝の乱鎮圧の功臣であった。また円興は、後に弓削道鏡の有力な補佐役となる人物である。僧籍にあるとはいえ、もともと賀茂一族の出身であるため、弟とともに乱鎮圧の褒賞という好機に乗じて称徳に取り入り、カモ神祭祀の復興を目論んだということなのであろう。
 では、カモ神祭祀を担う賀茂氏とは、どのような氏族なのだろうか。『古事記』崇神天皇条を見ると、疫病鎮祭に功あった意富多多泥古に注して、「みわ君、鴨君の祖なり」とある。また『日本書紀』神代第八段一書第六を見ると、オホナムチの幸魂・奇魂が三諸山に鎮座して「大三輪の神」となったことを述べ、「此の神の子、即ち、甘茂かも等、大三輪君等、又、姫蹈鞴五十鈴姫命なり」とある。さらに『新撰姓氏録』大和国神別には「賀茂朝臣」氏が見え、「大神朝臣と祖を同じくす。大国主神の後なり。子は大田田禰古命、孫は大賀茂都美命。賀茂神社を斎ひ奉る」とある。鴨脚本『姓氏録』残簡を見ると、これに続けて「仍りて賀茂の姓を負ふ」とあり、またオホタタネコやオホカモツミの子孫が、伊賀・伊予・阿波・讃岐・土左・遠江の賀茂氏や鴨部らの祖となったことが記されている。
 これらの資料によれば、カモ氏は、三輪山祭祀を担う三輪氏と同族で、大物主神の子孫ということになるが、大国主神の子孫であるとも認識されていたことがわかる。このことは、飛鳥の西側の葛城山祭祀圏と、東側の三輪山祭祀圏との間に一種の提携関係があったことを窺わせるが、それが出雲系の勢力とも繋がりがあったらしいことも推測できる。また葛城カモ一族の勢力が、特に四国方面で強かったらしいことも窺える。このことは「土左賀茂大社」の成立事情とも関連しよう。なお、「役の行者」役小角が葛城カモ氏を出自とするという伝えもあり、かつ小角は一言主神を貶める役割を担ってもいるので、これも興味深い論点を提示するが、話が広がりすぎるのでこれ以上の言及は控える。
 アヂスキタカヒコネを「迦毛大御神」として奉祭していたカモ氏は、出雲系氏族であり、大和の葛城山周辺を本拠地としていた。だが古代畿内には、葛城カモ氏とは系統を異にする別のカモ氏も存在した。後代の鴨長明にも繋がるカモ氏は、山背の賀茂神社の社家であり、山背国愛宕郡賀茂郷を本拠地とする。山背の賀茂神社は平安遷都を機に皇室との繋がりを強めていった有力な神社であるが、平安遷都以前からすでに山背の地で崇敬を集めていた古社である。『続日本紀』を見ても、文武朝ごろまでにはかなり大きな勢力を有しており、賀茂祭も多くの参詣者を集めていたことが窺える。『万葉集』にも、賀茂祭が行われる四月に賀茂神社を参拝し、その帰途に詠んだ歌(天平九年、6―一〇一七)がある。葛城カモ氏と同じく祭祀氏族的色彩が強いこの山背のカモ氏についても、その出自と系統を確認しておく。
 『新撰姓氏録』山城国神別には、「賀茂県主」氏と、同族の「鴨県主」氏が並べて記載される。この両者を表記も変えて区別して掲載しているのは、それぞれを上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社(賀茂御祖神社)に対応させる意図があるのだろう。しかしその名からすると、もともと「カモ県主」というひとつの氏族であったことは明らかである。「賀茂県主」の項には「神魂命の孫、武津之身命の後なり」としかないが、「鴨県主」の項には始祖伝承の記事があり、神武東遷の時、「建津之身命」が大烏と化して天皇を先導したとある。なお『日本書紀』神武二年二月条にはヤタガラスに対する褒賞の記事があり、ヤタガラスの子孫が「葛野主殿県主部」であると記されているが、カモの名やタケツノミの名は見られない。いずれにしても『姓氏録』に拠れば山背のカモ県主氏と大和葛城のカモ氏とは祖先が全く異なっているので、別系統の氏族と見るべきことになる。
 ところが、『釈日本紀』所引の『山城国風土記』可茂社条逸文を見ると、この二つのカモ氏が無関係だとも言い切れなくなる。この条は賀茂神社の縁起譚を記したものだが、そこには「日向の曾の峰に天降り坐しし神、賀茂建角身命、神倭石余比古の御前に立ち坐して、大倭の葛木山の峰に宿り坐す。彼れより漸に遷りて、山代国の岡田の賀茂に至り、山代河の随に下り坐し、葛野河と賀茂河との会ふ所に至り坐す。(中略)彼の川より上り坐し、久我国の北山の基に定り坐しき。爾時より名づけて賀茂と曰ふ」とあって、山背の賀茂神社およびカモ県主氏と、葛城の高鴨神社およびカモ氏との間に繋がりがあることが示唆されている。この伝承記事にはカモタケツノミが神武を先導したことも記されていて、『姓氏録』の氏族伝承と一致しており、またタケツノミに対して「坐」という敬語を一貫して用いていることからしても、この記事がカモ県主という氏族の視点に即して記述されていることが明らかである。
 またこの記事によれば、タケツノミは大和葛城からいきなり京都北山の賀茂神社の地に遷座したわけではなく、一旦は大和と山背の境にある「岡田の賀茂」に落ち着いたとされる。この「岡田の賀茂」は木津川流域で、後に恭仁京が置かれた地でもあり、「加茂」の地名も現存している。式神名帳の山城国綴喜郡には「岡田鴨神社」があり、祭神はタケツノミである。このようにタケツノミの遷座伝承には相応の信憑性もあるので、この逸文の記事を信じるならば、葛城カモ氏と山背のカモ県主氏とはもともと同族ということになり、大和から山背へとその勢力を拡大したということになる。しかし、祖先の違いだけではなく、葛城のカモ神社と山背のカモ神社とでは祭神が全く異なっているので、そう簡単に同一氏族だと認めるわけにもいかない。
 カモ県主氏には、アヂスキタカヒコネとの関連を見出すことはできない。従って「迦毛大御神」を奉祭したのは葛城カモ氏であって、カモ県主氏ではない。ただし山背の賀茂神社にも、出雲との接点を見出すことはできる。山背国愛宕郡には、賀茂郷に隣接して「出雲郷」がある。この出雲郷の神亀三年計帳が正倉院に残っているが、それを見ると、出雲臣氏が多数この地に居住していたことが知られる。今も下鴨神社近くの賀茂川畔には、「出雲路」を冠する町名がいくつか現存しており、「出雲」を冠する寺社もある。また式神名帳の愛宕郡の項を見ると、賀茂別雷神社と賀茂御祖神社に並んで「出雲井於神社」と「出雲高野神社」という神社名が記載されている。出雲井於神社は、現在も下鴨神社の摂社として境内に鎮座する。そもそもカモ県主氏の祖先神である神魂命にしても、神統譜上は天つ神とされているが、『出雲国風土記』に多く登場するなど、出雲との関わりが深い神である。その大元は出雲系の神であった可能性も考えられる。カモ県主氏が出雲系であるとまでは言えないとしても、その活動範囲に出雲系氏族とその信仰圏との接点があったことは認められる。
 祖先の系統のみならず祭神が異なる以上、葛城のカモ氏と山背のカモ県主氏がもともと同一氏族であったとは言い難い。また、葛城には山岳地形の印象が強いのに対して、山背の賀茂神社の位置およびタケツノミの移動ルートは、完全に平野部の河川流路によって決定づけられており、氏族および祭祀の性格が異なることを予想させる。しかし両氏族にはともに出雲祭祀圏との接点があり、また三輪氏所縁の大物主神話と、『山城国風土記』の賀茂神社縁起には、丹塗矢伝説という共通点があるので、交流や影響関係があったとしてもおかしくはない。少なくともカモ県主氏は葛城カモ氏の存在を意識しており、両氏族を接合することで、より正統性の強化された門閥を作り出そうと考えていたことが、『山城国風土記』の記述からは推測できる。
 古代の郡郷名には「賀茂」や「鴨部」が多く見られ、その分布は北陸・山陰・山陽・四国および東国の広い範囲に及ぶ。こうしたカモの地名が、どちらのカモ氏に由来するものであるかは俄かに即断できないが、それだけカモ一族の影響力が各地に及んでいたことの証ではあるだろう。葛城カモ氏の影響力が低下してゆくのを補うように、山背のカモ県主氏が擡頭してくる。奈良時代の段階では、二つのカモ氏が一つのグループとして、隠然たる勢力を維持していたと見てよさそうである。元明朝の『古事記』が、「今」の世の信仰対象として「迦毛大御神」の名を記載したのも、それだけカモ一族が世俗に与える宗教的な影響力が大きかったことを示す記述として捉えておくべきであろう。
〔土佐秀里 日本上代文学〕

【補注二】「甕」を名に持つ神々について

 大国主神の系譜に見られる「甕」の字を持つ神々の名前の意義や神格を考察する。『古事記』で「みか」と付く神名は、登場順で、①甕速日神みかはやひのかみ・②速甕はやみか之多気佐波夜遅奴のたけさはやぢぬ美神みのかみ・③あめ甕主みかぬしのかみ・④甕主みかぬし子神このかみ・⑤みか都神つのかみの五柱が見出される。大国主神の系譜に登場するのは、②速甕之多気佐波夜遅奴美神・③天之甕主神・④甕主日子神の三柱であるが、その「みか」は文字通りかめの意と解されることが多い。一方、①甕速日神・⑤甕布都神は、これを借字とみて、いかの意もしくはいかの約などと解されている。
 それぞれの登場箇所を見ると、大国主神系譜の②③④は、三柱とも親類で、速甕之多気佐波夜遅奴美神が、天之甕主神の娘の前玉さきたま比売ひめを娶って甕主日子神が生まれたとされている。①甕速日神は、伊耶那岐神が迦具土神を斬った際、その刀の本についた血が湯津石村に走りついて生まれた三柱の第一で、第二の速日神はやひのかみ、第三の建御雷たけみかづち男神をのかみと共に生まれ、その神名は樋速日神と対応している。⑤甕布都神は、佐士布都神の別名で(布都御魂とも。石上神宮の祭神)、神武天皇を助けるために、建御雷之男神が自身の代わりに地上に降した霊刀である。
 かように、『記』で「甕」が付く神名は、建御雷之男神に縁を持つ群と、大国主神系譜の群とで分けることができるが、両群の「甕」は同義と見なせるであろうか。以下、各群ごとに、それぞれのミカの語義を考えてみたい。
 まず、建御雷之男神の群は、刀剣にまつわる神々であることに注意される。『記』の建御雷之男神は、表記上、他の「甕」の字を持つ神々とは異なる神格のような印象を受けるが、『日本書紀』では「武甕槌神」「武甕雷神」と書き、「甕」の字に「甕速日神」との共通性が見出される。また、第五段一書第六では、この三柱を兄弟とする伝と、甕速日神を武甕槌神の祖とする伝とが併記されている。関係する神々に、甕速日神や甕布都神など、ミカを含む名が集中している点から見て、タケミカヅチのミカもそれと無関係の語とは見なしがたい。共通の要素として解すべきである。ミカヅチの本義を「御雷」すなわちミ・イカヅチと捉えると、そうした同系統の神々のミカとの対応が考えられなくなる。『紀』神武天皇前紀・戊午年六月条では「武甕雷神」と書いているが、この場合、「雷」の字はツチにのみ対応して、ミカはなお「甕」の字を保持している。『記』の表記は、飽くまでミカヅチという語形に基づく再解釈によるものであり、その本義ではなかろう。ミカの語義を考えるに当たって、まずはかように、同じ群の中で一貫した解釈が可能かどうかが重要である。
 吉井巖は、『紀』の「武甕槌神」表記から、建御雷之男神を、元来は土器生産者の甕の神であったのが刀剣の神へと変質したと捉えるが(1)、可能性を論じるに留まっていて、そのような変化の徴証が認められるかは疑問である。同群の他の神々の神格にも甕の要素は認めがたく、解釈の一貫性を重視すると、建御雷之男神を含めた一群全体の神名に甕の義を当てはめることは難しい。「甕」はやはり借字と見るべきである。
 この群の神名のミカの語義は、『古事記伝』以来、いかと同義もしくはいかの約と解するのが通説であるが、その当否の検証は、遺された文献だけでは突き詰めがたい。ただ、甕布都神の語構成が、『記』における建御雷之男神の別名、建布都神豊布都神と同じであることから、その「建」「豊」になぞらえて、この「甕」も何らかの性質を形容した美称、修飾語ということが考えられる。借字の表記ばかりであることから、記紀編纂当時、既に、既存の字訓が当てられない古語となっていた可能性もあるか。ここでは、刀剣の神々にまつわる何らかの美称であろうということを指摘するに留める。
 なお、『紀』垂仁天皇八十七年二月条に、昔、丹波国桑田村のみかが献上した八尺瓊の勾玉が今、石上神宮にあるという古伝を載せているのも、甕布都神を祭る石上神宮とミカとの関係から注意される。その他、『紀』神代下・第九段一書第二に、天にいる悪神、あま甕星みかほしが見えるが不詳。甕の意ではあるまいが、右のミカと同義かはわからない。『釈日本紀』巻十一・述義七(神功皇后)の「星辰」には「私記曰。師説。大星謂美加保志。今俗。大蜂為美加羽知。大栗為美加久利之類也。」という説が見える(2)。
 次に、大国主神系譜の群の三柱については、文字通り甕の意と解されているが、建御雷之男神の群との一貫性から、借字と解すべき可能性も残る。
 ところが、語構成の上から言えば、天之甕主神・甕主日子神は「ミカ(の)主」と取れ、「甕」に神名の核がある。速甕之多気佐波夜遅奴美神は「速ミカノ」とノが後接してハヤミカは名詞的である。これらのミカは先のような、性質の形容、修飾語ではなく、実体的な事物を指す語として受け取れる。
 『記』崇神天皇段の意富多々泥古命(みわ君・かも君の祖)の発言に、「僕は、大物主大神の、陶津耳命の女、活玉依毘売を娶りて、生みし子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子にして、僕は、意富多々泥古ぞ」という系譜が語られており、その親、建甕槌命にも「甕」が含まれる。建御雷之男神と同一とする説もあるが、出自の違いから安易には結びつけがたい。
 また、『紀』孝徳天皇・白雉元年二月甲申(十五日)条には、「三輪君みか」の名が見え、『延喜式』祝詞所載の「出雲国造神賀詞」には、大物主神の呼称として「倭大物主櫛玉命」とある(「」( )も「甕」と同じく器を指す字でミカと読まれる)。以上の例において、ミカと三輪・大物主神との結びつきが見出されるのが注目される。
 『先代旧事本紀』地祇本紀の大国主神の系譜には、五世以下の子孫に「甕」とついた神名が見え、九世の孫、大田々禰古命に続いている。今、神名の箇所を抜粋すれば、「五世孫健甕尻命。亦名健甕槌命。亦云健甕之尾命」、「六世孫豊御気主命。亦名健甕依命」、「七世孫大御気主命」、「八世孫阿田賀田須命」「健飯賀田須命」、「九世孫大田々禰古命。亦名大直禰古命」とある(3)。
 これと関連して注意される文献に、和銅元年の勘注と伝える『粟鹿大明神元記』がある。但馬国朝来郡の粟鹿神社の縁起書で、その神主、神部直の系図を記し、また、その祖にあたる大三輪氏の系図を併せている。その系譜中には『記』の須佐之男命系譜や大国主神系譜と重複する神名が多く見えていて、夙に日本思想大系『古事記』の注釈にも援用されている。成立年代には疑いがあるも、瀬間正之は、これが上代語資料となりうるかを上代特殊仮名遣いから検討し、神名表記はほぼ上代語を反映しているとした(4)。
 さて、その系譜の大国主命から四代目に、「櫛戸忍速栖浦浦稚日命」とあり、以下、その子孫の名や別名に立て続けに「」が付いている。曰く、⑤「櫛戸忍勝速日命」、⑥「多祁伊比賀都命 亦名云武曽々利命」、⑦「耶美賀乃許理命 亦名武析命」、⑧「宇麻志毛呂石命 亦名云櫛凝命」、⑨「刀余美気主命 亦名云飯片隅命」、⑩「意保美気主命 亦名云神田々根子命」、⑪「太田々祢古命」とある(本文は瀬間論文(4)による)。『先代旧事本紀』の系譜と重なる所があり、「」が「甕」と等価に使用されているのがわかる。同様の系譜は大三輪神社の神主高宮家の『三輪高宮家系』にも見出され、是澤恭三や溝口睦子が、その三系譜の比較を行っている(5)(6)。
 かように、諸系譜中の意富多々泥古命の祖先には、ミカの要素が数代に亙って見出される。思うに、これらの系譜に見られるミカの語は、一族の、ある種の通り字のようなもの、もしくは、その祖先に贈られた諡号のようなものではないか。
 意富多々泥古命は『紀』で「ぬのあがた陶邑すゑのむら」の地に求められた人物であり(『記』は「河内美努村」)、その祖は「すゑみみのみこと」という名を持っている。佐々木幹雄は、この点に着目して陶邑における須恵器生産と三輪氏との結びつきを論じた(7)(8)。陶邑とは、大阪府南部の丘陵地帯に広がる須恵器窯跡群(陶邑古窯址群)にあたる、五世紀以来の須恵器生産の中心地であり、三輪山(奈良県桜井市)からもそこで生産された祭器としての須恵器が多く出土している。氏は、陶津耳命とその娘の活玉依毘売を、須恵器の生産を掌って、それを大物主神を祭る三輪山麓の集団に供給した、陶邑地域の集団の象徴と捉えている。また、崇神朝に意富多々泥古命が大物主神祭祀を行ったという伝承については、その陶邑の集団すなわち三輪氏がそれに代わって大物主神祭祀を掌るようになったことを表していると解している(8)。更に、大物主神には酒にまつわる神格も有することが認められるが(『紀』崇神天皇八年十二月丙申(二十日)条の15番歌など)、氏は、須恵器の酒器としての性能の土師器に対する優秀性からも三輪と須恵器との結びつきを説明している(7)。氏の論全体の当否はさておき、三輪氏が須恵器の生産に関わるという指摘からは、その系譜中に見えるミカの語がまさしく器としての甕を意味し、その一族の職掌を象徴しているということが窺える。
 さて、『記』の大国主神系譜に戻ってみると、「甕」の神三柱と同様の神名は諸系譜中に見出されないため、互いにつながりを持つものかはわからない。ただ、以上のことから、この神々は、土器生産やその祭祀に携わった、三輪氏のような一族の伝承が反映された神名ではないかという推測は立てられよう。とはいえ、ミカの神名が三柱だけで途切れていることからは、直接にその一族の意図に係ってこれが記載されたのではないらしく思われる。三輪氏につながる神々だと断定することはできないが、同様な伝承が元になっているであろうことだけ考えておきたい。
 最後に、以上の推定に基づいて、試みに大国主神系譜の「甕」の神三柱の神格を考えてみる。甕主日子神は、甕を掌る男子、或いは甕にまつわる首長の男子と取れるが、祖神や奉斎神を讃えた尊称としては、最も基本的な要素で成り立った神名と言える。
 その母方の祖父、天之甕主神は、「天之」という美称を冠して、いかにも神話的な神名である。「甕主日子神」の呼称を元にしてそれを更に遡る祖神として讃えた呼称ではなかろうか。
 速甕之多気佐波夜遅奴美神は難解であるが、前の二柱との関係を見ると、天之甕主神を義父として、その娘、前玉比売との間に甕主日子神を産んでおり、この神は入婿のような位置付けにある印象を受ける。この関係は、陶津耳命の須恵器にまつわる性格が、大物主神と婚した娘の活玉依毘売の子へと受け継がれていくのにも通じよう(佐々木幹雄の唱える三輪山伝承にまつわる三集団説も参考されたい(8))。神名の上で甕の要素が副次的になっているのも、その本流に属さなかったためで、「速甕之」は「多気佐波夜遅奴美」という元の名に対して付加された称号、というようにも解釈できようか。
 以上、『古事記』で「甕」の字を持つ神名について、その関係性に従って分類を行った上でそれぞれの意義を考えた。建御雷之男神の群のミカは、刀剣にまつわる何らかの形容・美称と考えられるが、一方、大国主神系譜の群のミカは、器としての甕を意味すると見られる。意富多々泥古命の系譜に見えるような、土器の生産あるいはそれによる祭祀を掌った地方集団の信仰・伝承が、直接なり間接なりに反映されたものと見たい。

参考文献
(1) 吉井巖「タケミカヅチノ神」『天皇の系譜と神話 二』同著、塙書房、一九七六年、初出一九七二年
(2) 黑板勝美(編)『新訂增補國史大系』第八巻、國史大系刊行會・吉川弘文館・日用書房、一九三二年、152頁
(3) 鎌田純一『先代舊事本紀の研究』校本の部、吉川弘文館、一九六〇年、119-120頁
(4) 瀬間正之「『粟鹿大明神元記』は上代語資料となり得るか―本文とその国語国文学的批判―」『古典研究』第十六号、一九八九年
(5) 是澤恭三「粟鹿大明神元記の研究(二)」『日本學士院紀要』第十五巻第一号、一九五七年
(6) 溝口睦子『日本古代氏族系譜の成立』学校法人学習院、一九八二年
(7) 佐々木幹雄「三輪と陶邑」『大神神社史』大神神社史料編修委員会編、大神神社社務所、一九七五年
(8) 佐々木幹雄「続・三輪と陶邑―三輪氏の成立についての覚え書―」『民衆史研究』第十四号、民衆史研究会、一九七六年
〔中山陽介 日本語学〕

【補注三】大国主神の系譜、併「十七世神」について

 この大国主神の系譜の末には、「右の件の八嶋士奴美神以下、遠津山岬帯神以前、十七世の神と称ふ」とある。「八嶋士奴美神」は須佐之男命と櫛名田比売(大山津見神の孫)との間に生まれた最初の子神であるので、この系譜が須佐之男命の系譜と直接繋がるものであることは明白である。ただ、何故別々に記された系譜の「世」を一纏めにするのか、その意図は明確ではない。また、須佐之男命と神大市比売大山津見神の子)との間に生まれた大年神と宇迦之御魂神のうち、大年神の後裔系譜が、この後の大国主神の国作り神話の後に記されており、都合三つの系譜が須佐之男命の後裔系譜として配置されていることになる。これらをそれぞれ便宜的に系譜一=須佐之男命系譜、系譜二=大国主神系譜、系譜三=大年神系譜と呼ぶこととする。
 系譜一は、大国主神誕生までを記すが、八嶋士奴美神から数えて六世のところに大国主神が位置している。須佐之男命降臨から大国主神誕生までの、葦原中国における時の流れを示す意図が伺えるのに加えて、名義未詳が多く含まれる神々の存在は、大国主神に様々な神格を付与し、国作りの神、葦原中国領有に相応しい神としての性質を付与する意図を持ったものと見ることが出来る。では、系譜二において、その大国主神の後裔系譜を記す意図は何か。ひとつには、後に記される葦原中国平定神話に登場する阿遅鉏高日子根神・高比売命(下照比売命)・事代主神を大国主神の子神として位置付け、その情報を提示するという意図が考えられる。その場合、同じく葦原中国平定神話に登場する建御名方神が系譜に記されないという点が問題視されるが、この神は科野国の州羽海に逃げてその地に留まると記され、また『日本書紀』に一切登場しないことからも分かるように、本来葦原中国平定神話に関わる神ではなかった、若しくは出雲の神々の中に含まれる神ではなかったということが考えられ、「出雲国造神賀詞」等とも関連性を持つこの出雲系の系譜にはそぐわないものとして記されなかったのではないか。少なくとも単純に抜け落ちてしまったものとは考えがたい。そもそも系譜と物語とは完全に一致することは目指されていなかったものと見られる。むしろ系譜と物語とでズレを容認することで、相互補完的に神話を描こうという意図が伺える。今扱っているこの場面に関して言えば、物語で大穴牟遅神・大国主神の求婚譚の対象として描かれる八上比売・須勢理毗売・沼河比売については、系譜に記載されることが無い。逆に系譜に記載される大国主神の妻、多紀理毗売命・神屋楯比売命鳥取神は、一切物語で描かれることが無い。更に言えば須佐之男命の娘として登場する須勢理毗売は須佐之男命系譜に記されるわけではなく、神産巣日命の子神とされる少毗古那神が系譜に記されることがないというように、物語に登場する神が系譜部に記されないということは建御名方神のみに限った現象ではない。阿遅鉏高日子根神が後に登場する際には阿遅志貴高日子根神となっているなど、神名が相違する場合もあり、また、大国主神が建御雷神に対して建御名方神の名を挙げる場面で、「此を除きて子は無し」と答えるなども系譜とはズレている。ただそのように見ると、阿遅鉏高日子根神・高比売命・事代主神も特に系譜記載の必要性を失ってしまうことになりかねないが、少なくとも阿遅鉏高日子根神については、神話内において大国主神との関係が記されていないし、高比売についても、それが下照比売の亦名であることが示されるわけではない。それゆえ系譜での記載は必要性が認められる。
 この系譜において特にその記載意義が不明瞭なのは、鳥鳴海以下、遠津山岬多良斯神までの系譜であろう。物語と全く関わらない鳥鳴海以下の系譜を何代にもわたって記す意義は何か。大国主神の国作り神話の途中に挟まれる形で記載されるところから、これらの神名列挙自体が国作りの過程・内容を示すものとみることも出来るかも知れないが、葦原中国の統治権を天神側に譲り渡す大国主神及びその子神よりも後の世代に国作りの意義を担わせるのはおかしいように思われる。むしろ須佐之男命の三代後までの系譜を記す大年神の系譜の方にはそうした意味合いもあるかも知れない。先に述べたように事代主神の誕生までの記述が葦原中国平定神話との関連で記載されたのに対して、鳥鳴海神以下の神名列挙は意図が異なると思われ、須佐之男命系譜から続いて「十七世神」として位置付けるのも、この鳥鳴海神の系統の記載意図と関わっているものと見られる。葦原中国平定神話に登場する阿遅鉏高日子根神・高比売命・事代主神(・建御名方神も含めて)にはその子神が記されない。それぞれに神話の中で退場の場面が記されるのみであり、その後裔が記載されることはない。一方で葦原中国平定神話に子神として数えられていない鳥鳴海神は延々と後裔が記されている。これは、八十坰手に隠れる大国主神の子孫が、葦原中国の支配を継承するというような意味を含み持たせない形で、出雲の神としてその系統を受け継いで行くことを示しているのではないか。天神御子である番能迩々芸命も降臨後は世代交代をしていくのと同じく、大国主神も出雲に鎮まる神として世代交代していくということではあるまいか。垂仁記で登場する場合に「出雲大神」として登場するように、ここに記された神々は代々の「出雲大神」であるように思われるのである。その神名の多くが名義未詳である故に、明確にそれぞれの神格はわからないが、七世目の「鳥鳴海神」に共通する名前が十三世目に「布忍冨鳥鳴海神」として見え、妻となる神の名に「前玉比売」「活玉前玉比売神」というように共通する神名が二度出てくるというように、この系譜は繰り返される要素も含まれている。重なり合う神格が繰り返し登場しながら、後々まで出雲大神の神格が継承されていく様を示しているのではないか。世代として見れば、須佐之男命から数えて遠津山岬多良斯神までの世代を、須佐之男命の姉である天照大御神の後裔と重ねてみれば、垂仁天皇の世ということになる。遠津山岬多良斯神は神の名に「タラシ」が含まれているが、天皇系図の中に「タラシ」が多く含まれてくるのはこの垂仁天皇の系譜からである(初出は開化記の系譜に見られる息長帯比売命であるが、世代としては後の存在である)のも、何かしらの関連があるのかも知れないし、「出雲大神」が登場するのが垂仁記であるのも、興味深い。
 『古事記』は系譜の書としての性格を持っているわけだが、葦原中国の国作りを行い、一度は領有した大国主神の系譜を、天神から天皇への系譜とは異なるものとして意図的に差異を設けて記述している節がある。その一つの表れとして指摘できるのが、「適后」に子がいるかいないか、ということであるように思われる。初代神武天皇の「適后」である伊須気余理比売とは、「一夜御寝」によって「御子」が「阿礼坐」すことが表現され、その御子のうち最後に生まれた子が第二代綏靖天皇となる。しかし大国主神の「適后」である須勢理毗売は物語の中に登場しつつも、子が産まれた記載はなく、系譜にも記されない。これは、大国主神の葦原中国領有を受け継ぐ子のいないことを暗に示しているのではなかろうか(この点については、以下の論において触れている。「『古事記』上巻・出雲系系譜記載の意義」『日本神話をひらく』フェリス女学院大学、二〇一三年三月)。その他、大国主神の系譜に登場する神々の神格を分析すれば、この系譜に込められた意義が見えてくるのかも知れないが、残念ながら今のところ明確に指摘することは出来ない。
 最後に、「十七世神」の問題について触れたい。「八島士奴美神」から「遠津山岬多良斯神」までを数えれば、実質は十五世となる。それが「十七世」となっているところが問題とされるわけだが、単なる数え間違い、若しくは書写間の乱れによるのか、何かしらの意図があって「十七世」としているのか、判然としない。神名に重なるものがあり、妻神の親が記される場合と記されない場合があり、また神の名の長さにばらつきがあることを考えると、文自体がどこかの段階で乱れてしまって実数とズレが生じたという可能性はあろう。従来説では、古事記伝では「今是を計るに、十五世あれば、此數に二世不足、されど五字を七字と誤れりとも見えず、上にも如此る數の違は有き、此は本は備れりしを、旣く阿禮が誦うかべし時に脱せるか、はた此記成て後に、寫す者の脱せるか、今は知sub>がたし」とあって誤伝・誤写説を取る。これに対して倉野全註釈では、試論として以下の二説を提示する。

(1) 大国主神の系譜の中の、阿遅鉏高日子根神を一世に、事代主神を一世に数へて都合十七世としたのではあるまいか。
(2) 須佐之男命の系譜の中の、大年神を一世に、宇迦之御魂神を一世に数へて都合十七世にしたのではあるまいか(現に下文には大年神の神裔が載せられて居り、これも須佐之男命の子孫の系譜の一断片であることを思ふべきである)。

 以降の注釈では、例えば思想大系や古典集成本のように、阿遅鉏高日子根神と事代主神とが葦原中国平定神話において重要な役割を担う神であることを理由として、倉野説の(1)を支持するものが多いようである。但し新編全集は「特に断りもない以上、親子関係以外のものを数に入れるとは考えにくい」と、慎重な態度を示している。その他では、水野祐が、須佐之男命とその父である伊耶那岐命を加えて数える見方を示し(『出雲神話』八雲書房、一九七二年八月)、姜鐘植は大穴牟遅神の二度の復活再生を二世と数えて十七世と示す説を提示するが(「スサノヲの系譜「十七世神」について―系譜と説話の関わりという観点から―」『井手至先生古稀記念論文集 国語国文学藻』一九九九年一二月)、いずれの場合もそうした数え方をする必然性には乏しいように思われる。注釈でも示した通り、『古事記』内における天皇の「御世」を示す「世」は、親子間に限定されるものではなく、天皇の位が兄弟で継承されれば当然その兄弟それぞれの「御世」となる。そう考えれば親子関係以外のものを数に入れることもあり得るが、阿遅鉏高日子根神と事代主神とがそれぞれの「世」を担ったとまで言えるものではない点が問題となる。上巻の例は「神世七代」とこの「十七世」、そしてもう一例が後の歴代天皇の世を示すと見られる「御世」一例(天孫降臨神話中の「島の速贄」)のみなので、明確なことは言い難い。『古事記』中に示される数字にはそれぞれに意味があると思われる故に、誤伝・誤写説を安易に取ることは控えるべきであろうが、なおその可能性も棄てきれないというのが正直なところである。
〔谷口雅博 日本上代文学〕

故、此大國主神、娶坐形奥津宮神、多紀理毗賣命生子、阿遅[二字以音]鉏髙日子根神。 次、妹髙比賣命、亦名、下①比賣命 此之阿遅鉏髙日子神者、今謂迦毛大御神者也。 大國主神、亦、娶神屋楯比賣命生子、事代主神。 亦、娶八嶋牟遅能神[自牟下②字以音]之女、鳥取神生子、鳥鳴海神[訓鳴云那留]。 此神、娶③名照額田毗道男伊許知迩神[田下毗又自伊下至迩皆以音]生子、國忍冨神。 此神、娶葦那陀迦神[自那下三字以音]、亦名、八河江比賣生子、④甕之多氣佐波夜遅奴美神[自多下八字以音]。 此神、娶天之甕主神之女、前玉比賣生子、甕主日子神。 此神、娶淤加美神之女、比那良志毗賣[此神名以音]生子、多比理岐志麻⑤美神[此神名以音]。 此神、娶比〃羅木之其花麻豆美神[木上三字花下三字以音]之女、⑥玉前玉比賣神生子、美呂浪神[美呂二字以音]。 此神、娶敷山主神之女、青沼馬沼押比賣生子、布忍冨鳥⑦海神。 此神、娶若⑧女神生子、天日腹大科度美神[度美二字以音]。 此神、娶天※霧神之女、遠津待根神生子、遠津山岬多良斯神   右件、自八嶋⑨奴美神以下、遠津山岬帯神以前、稱十七世神。
【校異】
① 真「先」。 道祥本「先」右傍書「光歟」、春瑜本・兼永本以下卜部系「光」とあるのによって、「光」に改める。
② 真「云」。 伊勢系・卜部系みな「三」とあるのによって、「三」に改める。
③ 真「曰」。 伊勢系・卜部系みな「日」とあるのによって、「日」に改める。
④ 真「連」。 伊勢系・卜部系みな「速」とあるのによって、「速」に改める。
⑤ 真ナシ。  伊勢系・卜部系みな「流」があるのに従って補う。
⑥ 真「沼」。 道祥本・春瑜本「沼」、兼永本以下卜部系は「活」。「活玉依毗賣」(崇神記)等を参照して「活」に改める。
⑦ 真「嶋」。 伊勢系・卜部系みな「鳴」とあるのによって、「鳴」に改める。
⑧ 真「晝」。 伊勢系・卜部系みな「盡」とあるのによって、「盡」に改める。なお、延佳本・記伝は「晝」を採用して「若晝女(ワカヒルメ)」とする。
⑨ 真「七」。 伊勢系・卜部系みな「士」とあるのによって、「士」に改める。
※ 「侠」、訓読文は「狭」に改めたが、兼永本とも共通する字体ゆえ、校訂本文では真福寺本の字体をそのまま採用した。なお、「侠」「狭」の字体の相違については、神道大系『古事記』57~59頁に詳しい。

それで、この大国主神が、胸形の奥津宮にいらっしゃる神、多紀理毗売命を娶って生んだ子は、阿遅鉏高日子根神。 次に、妹高比売命、またの名は、下光比売命。 この阿遅鉏高日子神は、今、迦毛大御神と言っている。 大国主神が、また、神屋楯比売命を娶って生んだ子は、事代主神。 また、八嶋牟遅能神の娘、鳥取神を娶って生んだ子は、鳥鳴海神 この神が、日名照額田毗道男伊許知迩神を娶って生んだ子は、国忍富神 この神が、葦那陀迦神、またの名は、八河江比売を娶って生んだ子は、速甕之多気佐波夜遅奴美神。 この神が、天之甕主神の娘、前玉比売を娶って生んだ子は、甕主日子神。 この神が、淤加美神の娘、比那良志毗売を娶って生んだ子は、多比理岐志麻流美神 この神が、比〃羅木之其花麻豆美神の娘、活玉前玉比売神を娶って生んだ子は、美呂浪神 この神が、敷山主神の娘、青沼馬沼押比売を娶って生んだ子は、布忍富鳥鳴海神 この神が、若尽女神を娶って生んだ子は、天日腹大科度美神 この神が、天狭霧神の娘、遠津待根神を娶って生んだ子は、遠津山岬多良斯神   右に述べてきた、八嶋士奴美神より以下、遠津山岬帯神より以前の神々を、十七世の神という。

先頭