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多紀理毘売命

読み
たきりびめのみこと
ローマ字表記
Takiribimenomikoto
別名
奥津島比売命
登場箇所
上・うけい
上・大国主神の系譜
他の文献の登場箇所
紀 田心姫(六段本書・一書一)/田心姫命(六段一書二)/田霧姫命(六段一書三)
旧 瀛津嶋姫命(神祇本紀、地祇本紀)/田心姫(神祇本紀)/田霧姫(神祇本紀)/田心姫命(神祇本紀、地祇本紀)/奥津嶋姫命(地祇本紀)
梗概
 天照大御神と須佐之男命とのうけい(誓約)において、天照大御神によって須佐之男命の身につけていた十拳剣から生まれ、須佐之男命の子となった三女神(多紀理毘売命・市寸島比売命・多岐都比売命)の第一。別名を奥津島比売命といい、胸形の奥津宮に鎮座する。この三柱の神は胸形君らがもちいつく(奉斎する)三前の大神であるという。
 また、大国主神との間に阿遅鉏高日子根神(迦毛大御神)と高比売命(下光比売命)を生んでいる。
諸説
 鎮座地の胸形は筑前国宗像郡(福岡県宗像市)で、宗像神社(宗像大社)の祭神である。ムナカタの表記は古く様々に書かれたが、平安時代以降「宗像」が定着した。宗像神社は三宮からなり、三女神をそれぞれ沖津宮(沖ノ島)・中津宮(大島)・辺津宮(田島。内陸に所在)に祭っている。
 三女神の神名とその鎮座地は、記紀の諸伝間に以下のような異同がある(「/」以下はその別名。括弧内は鎮座地)。
  記 …… ①多紀理毘売命/奥津島比売命(奧津宮) ②市寸島比売命/狭依毘売命(中津宮) ③多岐都比売命(辺津宮)
  紀・六段本書 …… ①田心姫 ②湍津姫 ③市杵島姫
  紀・六段一書一 …… ①瀛津島姫 ②湍津姫 ③田心姫
  紀・六段一書二 …… ①市杵島姫命(遠瀛) ②田心姫命(中瀛) ③湍津姫命(海浜)
  紀・六段一書三 …… ①瀛津島姫命/市杵島姫命 ②湍津姫命 ③田霧姫命
 記の多紀理毘売命は、紀の「田心姫(たこりひめ)(命)」「田霧姫(たきりひめ)命」と対応している。また、記ではその別名を「奥津島比売命」とするが、紀では、それと同名の「瀛津島姫(おきつしまひめ)(命)」が記の市寸島比売命と対応し、「田心姫(命)」とは別の一柱として見えているのも問題となる。
 鎮座地は、記では奥津宮(沖津宮)で、別名の奥津島比売命も、沖津宮の沖ノ島に鎮座することの反映と考えられているが、一方、紀の一書二では田心姫命を「中瀛」(中津宮)に鎮座するとしている。他の伝には鎮座地の記載が無いが、誕生の順序が鎮座の配列を反映していると解すると、本書は沖津宮、一書一と一書三は辺津宮となる。宗像大社の社伝では、紀の本書と同様、沖津宮が田心姫神、中津宮が湍津姫神、辺津宮が市杵島姫神となっており、現在までそれに則って祭られている。
 多紀理毘売命の名義は、タを接頭辞、キリを霧と解し、霧にまつわる神とする説がある。対馬暖流から生じる日本海特有の濃霧の表象と解する説や、紀の一書三の「田霧姫」に従って、田の霧の意と解し、農耕に関係する神と捉える説、また須佐之男命の吹き出した「気吹の狭霧」に成った神であることを象徴しているとする説もある。動詞タギルの意で激流の神ととる説もあるが、多紀理毘売命の「紀」は清音の仮名であるため、音の清濁が違うことが問題とされる。
 『播磨国風土記』託賀郡黒田里条には、宗形大神奥津嶋比売命が伊和大神の子を孕んだとあり、伊和大神を大国主神と見なせば『古事記』の大国主神の系譜との符合が見出せるが、伊和大神は播磨国固有の神とする説もあり、また両書の所伝の関係も明らかでない。
 玄界灘に浮かぶ沖ノ島は、宗像神社の祭りの中心であり、外交、特に朝鮮半島との交流に当たって、古くその祭祀が国家的に重視されていたと見られる。紀の六段一書一では、三女神を筑紫洲に降らせた日神が、道中に鎮座して天孫を助け天孫の祭りを受けよ、と命じているが、この伝承をそうした歴史の反映と捉える説もある。応神紀から雄略紀にかけても宗像の神にまつわる記事が見出され、大和王権との直接的な関係をうかがわせる記述が目立つ。応神天皇四十一年二月条には、工女(織女)を求めに呉に遣わされた阿知使主らが、帰朝して筑紫に至った際、胸形大神が工女を乞うたので、その一人の兄媛を奉ったとある。履中天皇五年条には、車持君が筑紫においてその神戸を恣にしたことで「筑紫に居します三神」が宮中で祟りをなしたことが記されている。雄略天皇九年二月条には、凡河内直香賜と采女を派遣して胸方神を祠らせたが、神域で采女を犯したことにより香賜を誅殺したとあり、また、それに続く三月条には、天皇が新羅の親征を企てたところ、「神」の戒めがあったため中止したとあるが、この神は胸方神のことと解されている。
 記紀には見られない伝承として、『日本三代実録』貞観十二年二月十五日条に載る宗像大神への告文には、神功皇后の新羅征討に宗像大神が助けを加えたと述べられている。また、中世に編纂された『宗像大菩薩御縁起』に引用された『西海道風土記』は、古代の文献としての信憑性については見解が分かれているが、鎮座縁起や宗像氏の祖神などについての独自の伝承を含み、注意が向けられている。
 沖ノ島の沖津宮社殿の背後には、山頂から転落してできた巨岩群があり、その岩上や岩裾に23箇所の祭祀遺跡が見つかっていて、四世紀後半から九世紀にかけて祭祀が継続して行われていたことが確かめられる。遺品の様相からみて、遺跡の初期段階には既に大和王権の主導のもとに祭祀が行われていたとされ、歴史的には、四世紀後半頃に倭の朝鮮半島への介入が甚だしくなり、九州北方の海路(海北道中)が重視されるようになったと目されることから、祭祀遺跡の出現はその反映と考えられている。当時の祭祀の実態を遺跡からどう読み取るかは議論が続いており、記紀神話の伝承が実際の祭祀とどのように関係するかも詳らかではないが、記紀の誓約神話をその祭儀の伝承に関わる神話と捉える見方もある。王権と結びついた祭祀以前の信仰については、沖ノ島の神は在地の海人に信仰された漁撈神であったとする説がある。
 三女神の奉斎氏族は、記紀には、胸形君(記、紀本書)と水沼君(紀一書三)とが挙げられている。複数の氏族から祭られていたことになるが、両氏族がどのような関係にあり、どちらが本来的な祭祀者であるかが疑問とされる。胸形君は、宗像神社の祭祀を掌ると同時に当郡の郡領をも務めた氏族で、出自は詳らかでないが、元来は海人で、古くから宗像地域を支配した在地の豪族と考えられている。なお、胸形君の祖神は三女神ではなく、『新撰姓氏録』の宗像朝臣(右京神別)や宗形君(河内神別)の祖は、吾田片隅命とされ、大神朝臣と同祖とも、大国主命の六世の孫ともあって、出雲とのつながりがうかがわれる。宗像と出雲との関係性は、三女神が須佐之男命の子となっていることや、多紀理毘売命が大国主神と婚していることなどにもうかがわれるが、これには両地域が漁撈文化などを通じて強い結びつきを持っていたことが背景にあるとする見方がある。また七世紀には、胸形君徳善の娘・尼子娘が天武天皇の皇子、高市皇子を生んでいて、記紀の記述における宗像の待遇に、そうした胸形君と朝廷との結びつきが反映されているとする見方もある。
 三女神を奉斎した氏族に水沼君もいたことは、紀の六段一書三に見られる。その所伝は、日神の生んだ三女神が葦原中国の宇佐島に降され、これは現在、海北道中に在って、道主貴と称され、筑紫の水沼君らが祭る神である、というものであるが、水沼君の伝承に基づく記載と考えられ、三女神の本来の祭祀者を水沼君だったとみる説もある。水沼君は筑後国三瀦郡を本拠とするが、出自は詳らかでない。伝中の「宇佐島」については、沖ノ島とも、豊前国宇佐郡とも、豊後国の姫島とも、九州の総名とも、その他諸説あり定まらない。「海北道中」は、九州から北へと壱岐・対馬を経て朝鮮半島に通じる航路を指すと考えられ、『魏書』に見るように三世紀には既にその航路による交通が行われていた。また、この伝承を、胸形君によって沖ノ島に祭られるようになる以前から、元来水沼君が海北道中の壱岐島でこの神を祭っていたことを伝えるものと捉える説もある。
参考文献
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