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粟田臣

読み
あはたのおみ/あわたのおみ
ローマ字表記
Awatanoomi
登場箇所
孝昭記
他文献の登場箇所
紀   推古19年(611)夏5月5日条
    皇極元年(642)12月甲午(13日)条
    白雉元年(650)2月甲申(15日)条
    白雉4年(653)5月壬戌(12日)条
    天武10年(681)12月癸巳(29日)
    天武13年(684)11月戊申朔条
    天武14年(685)5月甲子(19日)条
    持統3年(689)正月壬戌(9日)条
    持統3年6月辛丑(20日)条
続紀  文武3年(699)10月辛丑(20日)
    文武4年(700)6月甲午(17日)
    大宝元年(701)正月丁酉(23日)条
    大宝元年5月己卯(7日)条)
    大宝2年(702)5月丁亥(21日)条
    慶雲元年(704)7月甲申朔条
    慶雲元年10月辛酉(9日)条
    慶雲元年11月丙申(14日)条
    慶雲2年(705)4月辛未(22日)条)
    慶雲2年8月戊午(11日)条
    慶雲3年(706)2月丙申(22日)条
    慶雲4年(707)5月癸亥(26日)条
    和銅元年(708)3月丙午(13日)条
    和銅4年(711)4月壬午(7日)条
    和銅4年9月丙子(4日)条
    和銅7年(714)正月甲子(5日)条
    和銅7年(714)11月庚戌(26日)条
    霊亀元年(715)4月丙子(25日)
    養老3年(719)2月甲子(5日)条
    養老4年(720)正月甲子(11日)条
    神亀元年(724)2月壬子(22日)条
    神亀3年(726)正月庚子(21日)条
    天平元年(729)3月甲午(4日)条
    天平2年(730)3月辛亥(27日)条
    天平4年(732)10月丁亥(17日)条
    天平7年(735)4月戊申(23日)条
    天平10年(737)6月戊戌朔条
    天平17年(745)正月乙丑(7日)条
    天平18年(746)4月癸卯(22日)条
    天平18年9月己巳(20日)条
    天平19年(747)11月丙子(4日)条
    天平20年(748)2月己未(19日)条
    天平勝宝4年(752)5月辛未(26日)条
    天平勝宝6年(754)4月庚午(5日)条
    天平勝宝6年7月癸丑(20日)条
    天平宝字元年(757)5月丁卯(20日)条
    天平宝字元年6月壬辰(16日)条
    淳仁天皇即位前紀
    天平宝字2年(758)8月庚子朔条
    天平宝字3年(759)5月壬午(17日)条
    天平宝字3年7月丁丑(13日)条
    天平宝字4年(760)正月丙寅(4日)条
    天平宝字5年(761)正月戊子(2日)条
    天平宝字5年正月壬寅(16日)条
    天平宝字5年正月丁未(21日)条
    天平宝字5年六月己卯(26日)条
    天平宝字5年10月壬子朔条
    天平宝字6年(762)正月癸未(4日)条
    天平宝字6年4月庚戌朔条
    天平宝字7年(763)正月壬子(9日)条
    天平宝字8年(764)正月乙巳(7日)条
    天平宝字8年正月己未(21日)条
    天平宝字8年7月甲寅(19日)条
    天平宝字8年9月戊戌(4日)条
    天平宝字8年10月癸未(20日)条
    天平神護元年(765)正月己亥(7日)条
    天平神護元年3月癸巳(2日)条
    天平神護元年8月庚申朔条
    天平神護2年(766)11月丁巳(5日)条
    神護景雲元年(767)3月己巳(20日)条
    神護景雲元年6月己亥(21日)条
    神護景雲元年8月丙午(29日)条
    神護景雲2年(768)2月癸巳(18日)条
    神護景雲3年(769)4月辛酉(24日)条
    宝亀元年(770)6月甲午(3日)条
    宝亀2年(771)閏3月戊子朔条
    宝亀2年11月戊申(26日)条
    宝亀2年11月庚戌(28日)条
    宝亀3年(772)正月甲申(3日)条
    宝亀3年3月癸未(2日)条
    宝亀3年4月庚午(20日)条
    宝亀3年11月丁丑朔条
    宝亀6年(775)正月戊戌(4日)条
    宝亀7年(776)3月癸巳(6日)条
    宝亀7年3月辛亥(24日)条
    宝亀8年(777)10月辛卯(13日)条
    宝亀10年(779)4月辛卯(21日)条
    天応元年(781)9月庚申(5日)条
    延暦元年(782)2月庚申(7日)条
    延暦元年8月乙亥(25日)条
    延暦4年(785)正月辛亥(15日)条
    延暦5年(786)8月甲子(8日)条
    延暦7年(788)3月己巳(21日)条
    延暦8年(789)3月戊午(16日)条
    延暦9年(790)3月丙午(10日)条
後紀  延暦16年(797)正月甲午(7日)条
    延暦16年正月己酉(22日)条
    延暦18年(799)2月甲午(20日)条
    延暦18年5月辛亥(8日)条
    延暦18年6月己丑(16日)条
    延暦24年(805)10月甲寅(19日)条
    大同元年(806)4月癸酉(10日)条
    大同3年(808)11月丙申(19日)条
    大同4年(809)12月癸酉(2日)条
    弘仁3年(812)正月丙寅(7日)条
    弘仁3年12月己丑(5日)条
    弘仁6年(815)正月壬午(10日)条
    弘仁13年(822)11月丁巳朔条
    弘仁14年(823)正月癸亥(7日)条
    天長5年(828)正月丙寅(9日)条
    天長8年(831)月辛未(2日)条
続後紀 承和元年(834)3月丁卯(16日)条
    承和4年(837)2月辛丑(8日)条
    嘉祥2年(849)3月癸酉(19日)
    嘉祥3年(850)正月丙戌(7日)条
文実  嘉祥3年(850)4月辛酉(14日)条
    仁寿3年(853)4月戊子(18日)条
三実  貞観元年(859)2月13日己亥条
    貞観6年(864)正月8日乙未条
    貞観7年(865)正月27日己酉条
    貞観8年(866)2月13日己未条
    元慶8年(884)2月26日丁巳条
万   4・707-708
    5・817
姓   右京皇別下
    山城国皇別
霊   上・31慇懃帰信観音願福分以現得大福徳縁
始祖
天押帯日子命
天足彦国忍人命(姓)
彦国葺命(姓)
後裔氏族
粟田朝臣
説明
 山背国愛宕郡粟田郷(のちの山城国愛宕郡上粟田郷・下粟田郷)を本拠地とした氏族。粟田は禾田とも書く。天武13年(684)に朝臣姓を賜った。『古事記』では、孝昭天皇の御子である天押帯日子命の後裔16氏族のひとつとして、春日臣らとともに名があげられている。『日本書紀』に天足彦国押人命(天押帯日子命)が「和珥臣等の始祖」とあることから、粟田臣を含めた16氏族はワニ系氏族とも称される。ワニ系氏族間の血縁関係を認め、本流のワニ臣(のちに春日臣に改姓)から分枝する形でワニ系諸氏族が成立していったとする立場からは、粟田臣も敏達期ごろに春日臣から独立したと考えられている。しかし、膨大なワニ系氏族すべてが血縁関係にあったとは想定しがたく、粟田臣など山背国に本拠地を有したワニ系氏族は、大和国添上郡へ進出した後、春日臣らと擬制的な同族関係を結んだとの説も提示されている。なおワニ系氏族のなかでも小野臣は粟田臣と勢力圏が重複しており、その政治的地位・役割も類似する。そこから粟田臣と小野臣は元来ひとつの集団で、それが小野妹子の代に至って分離した可能性が指摘されている。
 粟田臣の活動は、推古19年(611)に粟田臣細目が薬猟の前部領(先隊長)を務めた記事を初見とする。細目は小徳(冠位十二階の第二位)まで昇り、舒明天皇の葬礼では軽皇子(のちの孝徳天皇)に代わって誄を奉っている。細目のほかに誄を奉った人物に巨勢臣徳太(大派皇子の代わり)・大伴連馬飼(大臣の代わり)がおり、欽明期には粟田臣が巨勢臣・大伴連に比肩する地位を得ていたと推測される。また大化6年(650)に穴戸国(のちの長門国)から白雉が献上された際には、これを祥瑞として改元がおこなわれ、粟田臣飯虫ら4人が白雉を乗せた輿を執ったとある。以上のように、7世紀前半から史料上にあらわれはじめる粟田臣であるが、これ以降の活躍は対外関係の場におけるものが特筆される。これはワニ系氏族に共通する特色でもあるが、粟田臣においてはことに顕著といえる。まず白雉4年(653)の遣唐使とともに入唐した学問僧の道観がいるが、彼は兼右本『日本書紀』に「春日の粟田臣百済が子、俗名は真人」とあり、粟田朝臣真人と同一人物とする説が有力である。のちに還俗した真人は天武10年(681)に小錦下(従五位相当)の位を授かり、持統3年(689)には筑紫大宰としてのちの大宰府管内を総領する地位にあった。遅くとも文武3年(699)までには帰京し、刑部親王・藤原不比等らとともに律令の編纂事業に従事したのち、文武4年(700)にその功績によって禄を賜った。そして大宝元年(701)、遣唐執節使に任じられて渡唐し、唐(当時は武周)からその人となりを「経史を好く読み、属文を解し、容止温雅なり」と高く評価された(『旧唐書』)。慶雲元年(704)に帰朝した際には、大倭国の田20町・穀1000斛を賜っている。なお渡唐直前に参議として議政官に列し、養老3年(719)に薨去したときには中納言正三位であった。真人以降の粟田朝臣の氏人も、やはり対外関係の場における活躍が目立つ。和銅7年(714)には人(必登)が迎新羅使副将軍に任じられており、天平2年(730)には馬養が漢語の教授を命じられている。また粟田臣(のちに朝臣)道麻呂は傍流の出身であるが、問新羅使や、渡唐経験のある人物が複数任じられた勅旨省の員外大輔などの職を歴任しており、遣唐使の一員であった可能性が指摘されている。また日本三論宗の確立に多大な影響を与えた智蔵も、さまざまな所伝があるため断定は難しいが、一説によれば粟田臣の出身であったという。9世紀に入ってからも、延暦23年(804)の遣唐使には飽田麻呂(留学生)が、承和5年(838)の遣唐使には粟田某(録事)と粟田家継(大使傔従)が同行している。
 粟田氏で議政官に列した人物は真人ひとりであったが、先述した人・馬飼・道麻呂らを含めて、8世紀には多くの叙爵者を輩出している。女性では諸姉が藤原仲麻呂の長男である真従の婦となり、真従の没後に大炊王(のちの淳仁天皇)と再婚して従五位下を賜っている。小野神社の春秋例祭に参加する小野氏は、承和元年(834)に五位以上であっても官符を待たずに京外に出ることが許されたが、承和4年(837)にはこの措置が大春日・布瑠・粟田の三氏まで拡大された。ここからワニ系氏族の中心的位置が小野氏に移っていたことがわかるが、それと同時に粟田氏が五位以上を輩出する氏族と認識されていたことも確認できる。しかし、9世紀中葉あたりになると勢力も衰えていったらしく、10世紀以降には叙爵者も確認できなくなる。なお粟田臣は本拠地の山背国だけでなく大和国・近江国にも分布しており、越前国・若狭国・越中国には無姓の粟田氏が確認できる。ただし山背国愛宕郡に居住していた粟田直・粟田忌寸は、粟田朝臣と直接の関係をもたない渡来系氏族であったと推測されている。
参考文献
岸俊男「ワニ氏に関する基礎的考察」(『日本古代政治史研究』塙書房、1966年5月、初出1960年10月)
佐伯有清「山上氏の出自と性格」(『日本古代氏族の研究』吉川弘文館、1985年4月、初出1978年3月)
佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇第2(吉川弘文館、1982年3月)
高島正人「奈良時代の粟田朝臣氏」(『奈良時代諸氏族の研究―議政官補任氏族―』吉川弘文館、1983年2月)
加藤謙吉「山背・近江とその他の諸国のワニ系諸氏」(『ワニ氏の研究』雄山閣、2013年9月)

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