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道守臣

読み
ちもりのおみ
ローマ字表記
Chimorinoomi
登場箇所
開化記
他文献の登場箇所
紀   天智7年(668)11月乙酉(5日)条(波多氏系ヵ)
    天武13年(684)11月戊申朔条
続紀  天平宝字8年(764)10月庚午(7日)条
    延暦9年(790)10月丙午(14日)条
風   播磨国風土記・揖保の郡(波多氏系ヵ)
    讃容の郡(波多氏系ヵ)
姓   左京皇別上
    右京皇別下
    山城国皇別
    摂津国皇別
旧   7・天皇本記(開化)
始祖
建豊波豆羅和気王
武豊葉列別命(姓)
豊葉頬別命(姓)
武波都良和気命(姓)
後裔氏族
説明
 越前国足羽郡道守を本拠地とする氏族か。『古事記』には開化天皇の御子である建豊波豆羅和気王の後裔氏族として登場するが、一方で『新撰姓氏録』には波多八代宿禰(武内宿禰の子)の後裔を称する道守氏も載せられており、史料上における両者の判別は難しい。ただし『新撰姓氏録』は波多八代宿禰系統の「道守朝臣」にのみ「日本紀に合へり」と付記しており、『日本書紀』天武13年(684)11月戊申朔条に朝臣姓を賜ったと記される「道守臣」は、波多八代宿禰系統の道守臣であったと考えられる。建豊波豆羅和気王系統の道守臣も、その一部が『新撰姓氏録』が編纂された平安時代初期までに朝臣姓を賜っていたが、賜姓の具体的な時期については不明である。道守臣を称する人物としては、天智7年(668)に新羅へ派遣された道守臣麻呂がいる。しかし麻呂の担った外交官という役割から、紀臣などと同族関係をもつ波多矢代宿禰系統の道守臣である可能性が高い。『播磨国風土記』に天智期の播磨国宰として登場する道守臣も、麻呂と同一人物と考えられており、また造船のことを掌っていることから、麻呂と別人だとしても波多矢代宿禰系統の道守臣とみるのが妥当である。ほかにも天平宝字8年(764)に外従五位下に叙された道守臣多祁留、延暦9年(790)に120歳の高齢者として内裏に招かれた道守臣東人などが確認できるが、いずれも波多八代宿禰系統のうち朝臣姓を賜らなかった系統、あるいは養老7年(723)に道守臣に改姓した但馬国人寺人小君らの系統の可能性があり、建豊波豆羅和気王系統の道守臣と断言することはできない。「御野国本簀郡栗栖太里大宝二年戸籍」にみえる「道守部」「道守」も、いずれの系統と関係があるかは不明である。
参考文献
佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇、第1(吉川弘文館、1981年12月)

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