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文首

読み
ふみのおびと
ローマ字表記
Fuminoobito
登場箇所
応神記・百済の朝貢
他文献の登場箇所
紀   応神16年春2月条
    雄略9年7月壬辰朔条
    斉明2年(656)9月条
    天武元年(672)6月甲申(24日)条
    天武元年7月辛卯(2日)条
    天武12年(683)9月丁未(23日)条
    天武14年(685)6月甲午(20日)条
    持統元年(687)8月己未(28日)条
    持統8年(694)3月乙酉(2日)条
    持統9年(695)閏2月庚午(23日)条※
    持統9年4月甲午(17日)条※
続紀  文武2年(698)4月壬寅(13日)条※
    文武3年(699)11月甲寅(4日)条※
    大宝元年(701)7月壬辰(21日)条
    慶雲元年(704)正月癸巳(7日)条※
    慶雲4年(707)10月戊子(24日)条
    霊亀2年(716)4月癸丑(8日)条
    養老5年(721)正月甲戌(27日)条※
    天平9年(737)9月己亥(28日)条
    天平9年12月丙寅(27日)条
    天平10年(738)閏7月癸卯(7日)条
    天平17年(745)9月戊午(4日)条
    天平勝宝3年(751)正月己酉(25日)条※
    天平勝宝6年(754)4月庚午(5日)条※
    天平勝宝6年7月癸丑(20日)条※
    天平宝字元年(757)6月壬辰(16日)条
    天平宝字元年12月壬子(9日)条
    天平宝字2年(758)8月庚子朔条
    天平神護元年(765)正月己亥(7日)条※
    延暦10年(791)4月戊戌(8日)条
後紀  弘仁4年(813)正月辛酉(7日)条※
続後紀 承和元年(834)5月丙子(26日)条
文実  天安元年(857)正月庚申(21日)条※
三実  元慶3年(879)11月25日庚辰条※
式   祝詞13献横刀呪条
万   8・1579-1580
姓   左京諸蕃上
拾   応神天皇/雄略天皇/天武天皇
霊   中・11罵僧与邪婬得悪病而死縁※

※はいずれの系統に属するか不明な文忌寸
始祖
和邇吉師
王仁(紀)
鸞王(姓)
宇爾古首(姓)
後裔氏族
浄野朝臣/浄野宿禰/文忌寸/文宿禰/文連
説明
 文筆によって倭王権に奉仕したフミヒト(史・文人・書人)を管轄した渡来系氏族。文は書とも書く。河内国古市郡を本拠地としたことから、西(河内)文首とも称された。天武12年(683)に連姓、天武14年(685)に忌寸姓、延暦10年(791)に宿禰姓を賜った。『古事記』においては、百済より『千字文』『論語』を将来した和邇吉師の後裔氏族として名がみえる。活躍した氏人としては、文首根麻呂(根摩呂・禰麻呂・尼麻呂)が挙げられる。根麻呂は大海人皇子の東国入りにつき従った20余人のうちのひとりで、壬申の乱では村国連男依らとともに数万の兵を率いて不破から進軍し、その功績によって大宝元年(701)に封100戸を賜った。天保2年(1831)に大和国宇陀郡八滝村(現在の奈良県宇陀市榛原八滝)から根麻呂の墓誌が出土しており、そこには「壬申年将軍」の刻銘が確認される。また同様にフミヒトを管掌した東文氏とはセットで扱われることが多く、『古語拾遺』にはともに大蔵の帳簿を記録した伝承が載せられている。王仁(=和邇吉師)の後裔を称する氏族のなかに蔵首がおり、大蔵と関係する『古語拾遺』の伝承をふまえれば、蔵首はいずれかの時期に文首から分岐した氏族の可能性がある。「養老学令」によれば、大学の入学資格者は五位以上の子孫と「東西史部」の子であり、律令国家成立以降も文筆分野における活躍が期待されていた。なお大学卒業後の試験に及第して与えられる位階は最高が正八位上で、これは五位以上の貴族の蔭位(父祖の位階に応じて与えられる位階)よりも低いため、大学入学者の多くは「東西史部」の子であったと推測されている。「養老神祇令」でも「祓刀を上り祓詞を説く」ことは「東西文部」の職務と規定される。令の官撰注釈書である『令義解』は、「東西文部」の箇所に「東漢文直・西漢文首なり」との注を付しており、この「西漢文首」は文首を指すと考えてよい。
 古市郡および隣接する丹比郡には、文首のほかにも多数の百済系渡来氏族が居住しており、辰孫王(王辰爾の祖)の後裔を称する氏族群(船史・津史・白猪史)もそのひとつである。津史の後裔である津連真道は、延暦9年(790)に菅野朝臣への改姓を願い出て許されているが、そのときの上表文に載せられた辰孫王の渡来伝承は注目される。その内容は、応神天皇が百済に荒田別を派遣して有識者を求め、要請を受けた貴須王は宗族の辰孫王を指名した。来朝した辰孫王は皇太子の師となり、ここにはじめて書籍が将来され儒教が盛んになったというものである。これは記紀にみえる王仁の渡来伝承と酷似している。かかる伝承の一致については従来、王仁後裔氏族と辰孫王後裔氏族を渡来時期の新旧でとらえ、新興渡来氏族であった辰孫王後裔氏族が王仁の渡来伝承を模倣したものと理解されてきた。しかし近年においては、両氏族にはこのような渡来伝承を形成する共通した基盤がすでに存在しており、記紀には8世紀初頭に勢力をもった文首の伝承として採用され、辰孫王後裔氏族はその挽回を企図してさらに渡来伝承を潤色したとの説が提示されている。延暦10年(791)の上表文において、文首が王仁を漢・高祖の後裔と主張しているのも、辰孫王後裔氏族の攻勢を意識したさらなる潤色と理解できる。
 栗栖首・武生宿禰(馬毗登)・桜野首・古志連(古志毗登)などの王仁後裔氏族も、天武12年の連改姓以前に文首から分岐・独立した氏族とする説がある。一方で、王仁後裔氏族は文首の主導のもとに形成された擬制的な同族関係であり、そこに血縁関係はなかったとする理解もある。文首の氏寺である西琳寺の寺誌『西琳寺文永注記』によると、西琳寺は文首阿志高が「親属」を率いて建立したとされ、その経営には蔵・武生など諸氏の関与が確認できる。王仁後裔氏族が地縁的・精神的共同性を維持していたことは間違いないだろう。なお史料上に「文忌寸」として表れる氏族には、本項で説明した王仁を始祖とする系統のほかに、阿知直を始祖とする系統(東文忌寸)、養老年間に文部から改姓した系統がおり、いずれの系統に属するか判断できない人物も少なくない。
参考文献
井上光貞「王仁の後裔氏族と其の仏教ー上代仏教と帰化人の関係に就ての一考察ー」(『日本古代思想史の研究』井上光貞著作集第2巻、岩波書店、1986年2月、初出1943年9月)
関晃「帰化人」(『古代の帰化人』関晃著作集第3巻、吉川弘文館、1996年12月、初出1956年5月)
野上丈介「文氏一族と古市の歴史的環境」(『日本古代史の考古学的研究』インマヌエル野上、2005年7月、初出1978年3月)
請田正幸「フヒト集団の一考察―カハチの史の始祖伝承を中心に―」(直木孝次郎先生古稀記念会編『古代史論集』上、塙書房、1988年1月)
加藤謙吉「史姓の成立とフミヒト制」(『大和政権とフミヒト制』吉川弘文館、2002年12月、初出1995年3月)
加藤謙吉「フミヒト系諸氏の出自」(『大和政権とフミヒト制』吉川弘文館、2002年12月、初出1997年7月)
加藤謙吉「「野中古市人」の実像」(『大和政権とフミヒト制』吉川弘文館、2002年12月、初出1997年12月)
中村順昭「律令官司の四等官」(『律令官人制と地域社会』吉川弘文館、2008年7月、初出1998年10月)

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