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平群臣

読み
へぐりのおみ
ローマ字表記
Hegurinoomi
登場箇所
孝元記 清寧記・歌垣
他文献の登場箇所
紀   仁徳元年春正月己卯(3日)条
    履中天皇即位前紀・大鷦鷯87年春正月条
    雄略天皇元年11月朔条
    履中元年冬10月条
    清寧元年春正月壬子(15日)条
    武烈天皇即位前紀・仁賢11年8月条
    武烈天皇即位前紀・仁賢11年冬11月朔条
    崇峻天皇即位前紀・用明2年(587)秋7月条
    推古31年(623)是歳条
    大化2年(646)3月甲子(2日)条
    天武10年(681)3月丙戌(17日)条
    天武13年(684)11月戊申朔条
    持統5年(691)8月辛亥(13日)条
続紀  慶雲4年(707)2月甲午(25日)条
    和銅2年(709)11月甲寅(2日)条
    和銅4年(711)4月壬午(7日)条
    和銅7年(714)10月丁卯(13日)条
    霊亀元年(715)4月丙子(25日)条
    養老7年(723)正月丙子(10日)条
    神亀4年(727)正月庚子(27日)条
    天平3年(731)正月丙子(27日)条
    天平3年4月乙巳(27日)条
    天平9年(737)9月己亥(28日)条
    天平11年(739)10月丙戌(27日)条
    天平11年11月辛卯(3日)条
    天平11年12月己卯(21日)条
    天平15年(743)6月丁酉(30日)
    天平16年(744)9月甲戌(15日)条
    天平18年(746)3月壬戌(10日)条
    天平18年9月己巳(20日)条
    天平19年(747)正月丙申(20日)条
    天平20年(748)2月己未(19日)条
    天平勝宝2年(750)正月乙巳(16日)条
    天平勝宝4年(752)5月辛未(26日)条
    天平勝宝5年(753)正月庚午(28日)条
    天平勝宝5年4月癸巳(22日)条
    天平宝字7年(763)10月乙亥(6日)条
    天平宝字8年(764)9月丙午(12日)条
    天平宝字8年9月己未(25日)条
    天平神護元年(765)11月丁巳(5日)条
    神護景雲2年(768)10月癸丑(13日)条
    神護景雲3年(769)2月丙寅(27日)条
    宝亀2年(771)11月丁未(25日)条
    宝亀5年(774)2月丙申(27日)条
    宝亀7年(776)正月丙申(7日)条
    宝亀8年(777)正月癸亥(10日)条
    宝亀9年(778)正月甲子(17日)条
    天応元年(781)5月庚午(12日)条
    天応元年6月庚戌(23日)条
    延暦2年(783)2月壬子(5日)条
    延暦3年(784)正月辛巳(9日)条
    延暦4年(785)正月癸卯(7日)条
    延暦4年正月乙巳(9日)条
    延暦4年正月辛亥(15日)条
    延暦4年11月甲辰(12日)条
    延暦8年(789)正月己酉(6日)条
    延暦8年正月己巳(26日)条
    延暦9年(790)3月丙午(10日)条
    延暦10年(791)正月戊辰(7日)条
後紀  延暦16年(797)正月甲午(7日)条
    延暦16年2月乙丑(9日)条
    延暦16年(797)2月辛未(15日)条
    延暦20年(801)6月丁巳(27日)条
    延暦23年(804)正月庚子(24日)条
    延暦24年(805)2月壬戌(22日)条
    延暦24年8月癸卯(7日)条
    大同元年(806)正月癸巳(28日)条
    大同元年2月庚戌(16日)条
    大同元年4月丙午(13日)是日条
    大同3年(808)5月壬寅(21日)条
    大同3年9月戊戌(19日)条
    天長7年(830)正月壬午(7日)条
文実  天安元年(857)正月丁未(8日)条
三実  貞観3年(861)9月26日丁酉条
    元慶7年(883)正月7日甲戌条
    元慶8年(884)3月9日庚午条
    仁和3年(887)5月11日甲申条
万   12・3098(平群文屋朝臣)
    16・3842
    16・3843
    17・3931
姓   右京皇別上
始祖
平群都久宿禰(記/姓)
木菟宿禰(紀)
都久宿禰(三実)
後裔氏族
平群朝臣/平群文室朝臣
説明
 武内宿禰後裔氏族のひとつ。大和国平群郡平群郷を本拠地とする。天武13年(684)に朝臣姓を賜った。『古事記』では、平群都久宿禰(武内宿禰の子)の後裔氏族の筆頭として、佐和良臣・馬御樴連とともに掲げられている。また清寧天皇が御子を残さずに崩御し、その後継者として意祁王(のちの仁賢天皇)・袁祁王(のちの顕宗天皇)兄弟が発見された際に、反対勢力として平群臣の祖の志毘臣が登場する。志毘臣は袁祁王と大魚という女性をめぐって歌を詠み合うが、その過程で志毘臣が袁祁王の皇位継承に批判的であることが露呈し、意祁王・袁祁王によって謀殺された。また『日本書紀』では、平群木菟宿禰(平群都久宿禰)が応神天皇によって百済に派遣され、無礼を働いた辰斯王を叱責し、その結果として辰斯王は弑逆されている。木菟宿禰は加羅にも派遣されており、精兵を率いて葛城襲津彦の帰国を助けている。仁徳紀には「木菟」の名の由来譚が載せられ、そこではやはり木菟宿禰が平群臣の始祖であることが明記されている。さらに去来穂別尊が兄弟の仲皇子に攻められた際には、物部大前・阿知使主とともにその危機を救っている。その功績もあってか、去来穂別尊が履中天皇として即位してからは、蘇我満智宿禰らとともに国事を執ったとされる。また雄略天皇が即位すると、鮪(志毘)の父である平群真鳥が大臣に任じられた。『古事記』では顕宗天皇と対立関係にあった鮪であるが、これが『日本書紀』では武烈天皇との対立に置き換えられている。すなわち仁賢天皇が崩御したのち、真鳥は権勢をほしいままにし、みずからを王に擬すほどであった。そのような状況下で皇太子(のちの武烈天皇)は影媛(物部麁鹿火の娘)を娶ろうとしたが、すでに影媛は鮪と関係をもっており、鮪は歌の応答を通じて皇太子を挑発する。父子の無礼な態度に激怒した皇太子は、大伴金村を遣わして父子を攻め滅ぼし、その一族も処罰したと伝える。この伝承がどれほど史実を伝えているのかは不明であるが、その後しばらく平群臣の活動は『日本書紀』から途絶えている。ただし崇峻天皇即位前紀に登場する神手は、大伴連や阿倍臣と並んで物部守屋討伐軍に名を列ねていることから、6世紀後半にはある程度の勢力を保持していたらしい。推古31年(623)に征新羅副将軍に任じられた宇志も、小徳(冠位十二階の第2位)を有していた。大化改新では氏人が東国国司に任じられ、「三国人」から愁訴されている。壬申の乱における動向は伝わらないが、天武10年(681)には大山下(従六位下相当)の子首が帝紀・上古諸事(旧辞)の編纂者のひとりに選ばれ、また持統5年(691)には墓記を進上する18氏族に名を列ねている。
 律令制下においては、慶雲4年(707)に安麻呂が従五位下に叙されたのを皮切りに、豊麻呂・広成・人足・虫麻呂・真継・家麻呂・臣足・野守・祐麻呂・午養・清麻呂・竈屋・国人・嗣人・広道・真常・加世麻呂(賀是麻呂)・清人・真宗、女官では邑刀自・炊女・家刀自・黒虫と多くの叙爵者を輩出した。このうち広成は従四位上、邑刀自は正四位上まで昇っている。ただし、この平群朝臣の叙爵は局所的なもので、天平宝字8年(764)の虫麻呂から大同元年(806)以前の加世麻呂まで、およそ40年間に叙爵者のほとんどが集中し、女官の叙爵もこの期間内に収まっている。その明確な理由を求めることは困難ではあるが、広成の存在を無視することはできないだろう。広成は天平5年(733)に遣唐使の判官として入唐したが、その帰路で漂着した崑崙国(現在のインドシナ半島南部)に抑留され、船員115人のうち生き残ったのは広成をふくめて4人だけであった。天平7年(735)に同地を訪れた熟崑崙(唐に帰属した崑崙か)の船に乗って脱出、阿倍仲麻呂の助けを借りて玄宗皇帝に謁見し、天平11年(739)に渤海使とともに帰国を果たした。渡唐した天平5年時点で正六位上だった位階は、在唐中の天平9年(737)に外従五位下に引き上げられ、帰国にともなって正五位上が授けられた。ここに平群朝臣は外階コースから内階コースに移されたのであり、その後の平群朝臣の興隆に多少なりとも影響を与えたことは間違いない。天平宝字7年(763)には虫麻呂が送渤海使判官に任じられ、広成と同様に外交関係の職務に就いている。なお朝臣姓を賜らなかった平群臣も多数いたようで、元慶7年(883)には臣姓の春雄が外従五位下に叙され、仁和3年(887)に親族の秋雄・秋常・春常とともに朝臣姓を賜っている。先述した叙爵者のなかでも、広道は天平勝宝元年(749)6月10日付「左京職移」(『正倉院文書』)にみえる「従七位上行少属平群臣広道」と同一人物として、いずれかの時点で朝臣姓を賜った可能性が指摘されている。
 『日本書紀』にみえる平群臣は、履中天皇の時代に執政を担い、雄略天皇の時代には大臣に任じられるなど、武烈天皇に誅滅されるまで繁栄を誇った大豪族である。しかしシビ臣の物語に関していえば、『古事記』が歌垣の場を中心とする素朴な歌物語であるのに対して、『日本書紀』では『古事記』に登場しない真鳥の専横が差し挟まれ、かれらを大伴金村が討伐する政治的事件として再構成されている。そのため『日本書紀』の記載にはかなりの潤色があると考えられ、それに加えて平群臣と大王家との婚姻関係がみられないこと、平群部の分布が同時期に活躍した諸豪族と比して少ないことから、そもそも5世紀代に平群臣が政治的に活躍したことにも疑問が呈されている。『日本書紀』の前提となる帝紀・旧辞の編纂に平群臣から子首が参加し、編纂資料となる「墓記」を進上した18氏族にも平群臣はふくまれており、平群臣の祖先伝承が採用されやすい位置にあったことは間違いない。最終的に真鳥大臣やシビ臣は討滅されるところに限界があったといえるが、おそらく武内宿禰伝承を下敷きとして発展していった平群臣の祖先伝承が、大伴連の祖先伝承などと融合して上述のような伝承になったのだろう。去来穂別尊が仲皇子に襲撃される話も記紀ともに存在するが、『古事記』でその危機を救うのは阿知直(阿知使主)だけであり、それが『日本書紀』では阿知使主以上に木菟宿禰の活躍が喧伝されるのも、やはり平群臣の「墓記」が多く採用されたためと考えられよう。
 なお平群臣の本拠地とされる平群谷には平群谷古墳群が所在し、5世紀後葉から7世紀まで古墳が築造されるが、その伸張は木菟や真鳥が活躍した応神~武烈の時期(古墳時代中期)とは合致しないことが指摘されている。平群臣は6世紀後半に急速に台頭したと考えられ、そこには平群地方が水陸交通の要衝として、軍事・外交上に重要な位置を占めるようになったことがあった。また平群臣は龍田道に沿って氏寺の平隆寺を建立しており、飛鳥と難波をむすぶ龍田道にも勢力を有していたとされ、そこから斑鳩に進出した上宮王家とも深いかかわりをもっていた。
参考文献
日野昭「執政」(『日本古代氏族伝承の研究』永田文昌堂、1971年9月、初出1955年6月)
日野昭「後裔氏族の伝承」(『日本古代氏族伝承の研究』永田文昌堂、1971年9月、初出1959年3月)
笹山晴生「たたみこも平群の山―古代の豪族平郡氏をめぐって―」(『奈良の都―その光と影』吉川弘文館、1992年7月、初出1970年11月)
辰巳和弘「平群氏に関する基礎的考察」(『地域王権の古代学』白水社、1994年6月、初出1972年8月・11月)
加藤謙吉「聖徳太子と平群氏―親上宮王家勢力の形成(その一)―」(『古代研究』5、1974年)
佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇第2(吉川弘文館、1982年3月)
加藤謙吉「平群地方の地域的特性と藤ノ木古墳」(『大和王権と古代氏族』吉川弘文館、1991年、初出は1989年)
辰巳和弘「平群谷古墳群と平群氏―再論」(『地域王権の古代学』白水社、1994年6月)

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