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星川臣

読み
ほしかはのおみ/ほしかわのおみ
ローマ字表記
Hoshikawanoomi
登場箇所
孝元記
他文献の登場箇所
紀   天武9年(680)5月辛丑(27日)条
    天武13年(684)11月戊申朔条
続紀  霊亀2年(716)4月癸丑(8日)条
    天平宝字元年(757)12月壬子(9日)条
姓   大和国皇別
始祖
波多八代宿禰
武内宿禰(姓)
後裔氏族
星川朝臣
説明
 武内宿禰後裔氏族のひとつ。大和国山辺郡星川郷を本拠地とする。天武13年(684)に朝臣姓を賜った。『古事記』では、波多八代宿禰(武内宿禰の子)の後裔氏族として、波多臣らとともに名があげられている。『新撰姓氏録』によれば、敏達天皇の時代に居所の名にちなんで星川臣を賜ったとされる。そこでは改姓前のウヂ名については言及されていないが、波多八代宿禰後裔氏族の筆頭的地位にあった波多臣から分枝した可能性が指摘されている。具体的な氏人の活動としては、天武9年(680)に小錦中(五位相当)星川臣麻呂が卒去した際、壬申の乱での功績によって大紫位(正三位相当)が贈られた記事を初見とする。氏族としての事績がほとんど伝わらないにもかかわらず、天武13年に朝臣姓を賜った52氏族に列なることができたのは、壬申の乱における麻呂の活躍が大きかったものと考えられよう。霊亀2年(716)には麻呂の功績によって子息の黒麻呂が功田を賜ったが、このとき黒麻呂の位階は従七位上にすぎなかった。やはり麻呂がきわめて特殊な例であって、基本的に星川臣(朝臣)は貴族を輩出するような氏族ではなかったとみられる。天平宝字元年(757)には麻呂の功績が「中功」に相当すると定められ、功田を二世まで相伝することが許された。なお『正倉院文書』には無姓の星川氏が確認できるが、それとは別に星川君も確認できるため、かれらが星川朝臣と星川君のいずれと近しい関係にあったかは判然としない。
参考文献
角田文衞「都市文化の波及」(『奈良県綜合文化調査報告書 都介野地区』奈良県教育委員会、1952年3月)

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