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生江臣

読み
いくえのおみ
ローマ字表記
Ikuenoomi
登場箇所
孝元記
他文献の登場箇所
続紀  天平勝宝元年(749)5月戊寅(15日)条
    天平宝字2年(758)7月丙子(6日)条
    天平宝字3年(759)正月戊寅(11日)条
    神護景雲2年(768)2月丙子朔条
後紀  延暦15年(796)7月辛亥(22日)条
    延暦20年(801)9月甲申(25日)条
三実  貞観8年(866)8月7日己卯条
    貞観8年8月29日辛丑条
    貞観8年9月22日甲子条
    貞観8年10月25日丙申条
    貞観13年(871)10月25日丙申条
姓   左京皇別上
旧   10・国造本紀
始祖
葛城長江曾都毘古
彦太忍信命(姓)
葛城襲津彦命(旧)
後裔氏族
生江宿禰
説明
 越前国足羽郡を本拠地とした氏族。『古事記』には、武内宿禰の子である葛城長江曾都毘古の後裔氏族として名がみえる。足羽郡の大領として金弓・安麻呂・東人らが確認でき、そのほかにも多数の氏人が足羽郡に居住するなど、足羽郡内に強大な勢力を有していた氏族とされる。現在でも巨大な塔心礎が残る篠尾廃寺(福井県福井市篠尾町)は、生江臣によって建立された寺院と考えられている。中央に出仕した氏人としては、神護景雲2年(768)に外従五位下を賜った智麻呂、伴善男に従者として仕えた恒山などがいる。恒山は応天門の放火事件に関与した人物で、中庸(善男の子)の放火を密告した大宅鷹取の娘を殺害し、その罪によって遠流に処されている。また東人は大領に任じられる以前に史生として造東大寺司に出仕しており、足羽郡内における東大寺領の選定にも帯同した。のちに大領に任じられると、足羽郡内にとどまらない東大寺領庄園の経営に携わり、越前国における責任者ともいえる立場となっている。代表的な東大寺領初期荘園のひとつである道守荘も、東人が寄進した墾田100町が基礎となっている。なお生江臣は足羽郡と隣接する今立・丹生両郡にも勢力を伸ばしており、貞観8年(866)に稲10万束を献上して外従五位下を賜った氏緒は、今立郡の大領であった。12世紀以降に成立した『今昔物語集』においても、越前国の人として生江世経なる人物が登場している。
 『先代旧事本紀』国造本紀によれば、三河国の穂国造は「生江臣の祖、葛城襲津日子命の四世孫、菟上足尼」が任命されたのがはじまりとされる。しかし『古事記』では、開化天皇三世孫の朝廷別王が「三川の穂別の祖」とされており、この穂別を穂国造とする説も有力である。古い時代においては穂別が穂国造であったが、いずれかの段階で穂別が衰退し、生江臣が穂国造の地位についたと理解するのが穏当だろうか。天平勝宝元年(749)には、尾張国山田郡の人である生江臣安久多が国分寺知識物を献上した功績で外従五位下に叙されている。少なくとも奈良時代までは、生江臣が三河国に隣接する尾張国である程度の勢力を有していたようである。
参考文献
愛知県宝飯郡神職会『神社を中心としたる宝飯郡史』第1編、第2・3章(愛知県宝飯郡神職会、1930年12月)
岸俊男「越前国東大寺領庄園をめぐる政治的動向」(『日本古代政治史研究』塙書房、1966年5月、初出1952年10月)
豊橋市史編集委員会編『豊橋市史』第1巻、第2章、第1節(豊橋市、1973年3月)
佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇、第1(吉川弘文館、1981年12月)
福井市編『福井市史』通史編1古代・中世、第3章、第2節(福井市、1997年3月)

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