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膳臣

読み
かしはてのおみ/かしわてのおみ
ローマ字表記
Kashiwatenoomi
登場箇所
孝元記
他文献の登場箇所
紀   孝元7年春2月丁卯(2日)条
    景行53年冬10月条
    履中3年冬10月辛未(6日)条
    安閑元年夏4月癸丑朔条
    雄略2年冬10月丙子(8日)条
    雄略8年春2月条
    欽明6年春3月条
    欽明6年冬11月条
    欽明31年(570)5月条
    崇峻天皇即位前紀・用明2年(587)秋7月条
    推古18年(610)冬10月丙申(8日)条
    大化2年(646)3月辛巳(19日)条
    斉明2年(656)9月条
    天武11年(682)秋7月庚子(9日)条
    天武11年秋7月己酉(18日)条
    天武11年秋7月壬子(21日)条
    天武13年(684)11月戊申朔条
    持統5年(691)8月辛亥(13日)条
続紀  天平12年(740)9月己酉(25日)条
    神護景雲2年(768)7月辛丑(30日)条
    宝亀8年(777)正月庚申(7日)条
    宝亀8年正月戊寅(25日)条
    宝亀10年(779)2月甲午(23日)条
後紀  弘仁5年(814)10月乙丑(22日)条
続後紀 承和14年(847)5月丙戌(22日)条
三実  貞観六年(864)2月戊午朔条
元慶5年(881)4月28日乙巳条
三代格 10・釈奠事・神護景雲2年(768)7月30日太政官符
姓   左京皇別上
    和泉国皇別
    右京神別上
旧   10・国造本紀
高   18
    26
    31
    36
霊   上・30非理奪他物為悪行受悪報示奇事縁
始祖
比古伊那許士別命
大彦命(紀)
後裔氏族
膳朝臣/高橋朝臣
説明
 諸国の膳部を管轄して天皇の食膳に奉仕した氏族。膳は膳部とも書く。天武13年(684)に朝臣姓を賜った。その本流は、持統5年(691)8月から文武2年(698)7月までのいずれかの時点で、高橋朝臣へと改姓している。本拠地は大和国添上郡楢中郷(高橋邑)とされるが、膳夫の地名が残る大和国十市郡や、上宮王家とのかかわりから斑鳩地域にも拠地があったとされる(厩戸皇子・来目皇子の妃は膳臣傾子の娘)。『古事記』では、大毘古命(孝元天皇の御子)の子のうち、比古伊那許士別命の後裔氏族として名が挙げられる。これに対して『日本書紀』では、大彦命(大毘古命)が阿倍臣・膳臣ら七氏族の祖とされ、比古伊那許士別命に該当する人物は登場しない。ともに大毘古命を祖とする阿倍臣との関係性は判然としないが、食膳奉仕を職掌としていた膳臣のうち、政治的地位の上昇した一族が分枝して阿倍臣を称するようになったとの見解もある。また『日本書紀』には膳臣に関する多くの伝承が載せられるが、そこでは膳臣の遠祖として磐鹿六鴈(『新撰氏姓録』によれば、比古伊那許士別命の子)が登場する。磐鹿六鴈は景行天皇が小碓王(日本武尊)を追慕して東国を巡行した際、上総国の淡水門で白蛤を膾にして献上し、その功績で膳大伴部を賜ったとされる。また履中3年の話として、氏人の膳臣余磯が天皇に酒を献じたところ、その盃に季節外れの桜花が落ちた。天皇は物部長真胆連を派遣して桜花を探し求め、ついに長真胆は掖上室山で桜花を発見する。天皇は喜んで宮号を磐余稚桜宮とし、長真膽に若桜部造姓を、余磯に稚桜部臣姓を賜ったという。余磯は『先代旧事本紀』国造本紀で初代若狭国造とされる荒砺命と同一人物とみられ、そのウヂ名をふまえても、御食国の若狭国と稚桜部臣とは密接な関係にあったと考えられている。すなわち食膳奉仕において重要な若狭国の地方豪族と、膳臣との同族関係を主張した伝承と理解される。さらに雄略2年の天皇遊猟の際には、膳臣長野が鳥獣を宍膾にして献上し、それが宍人部の設置につながっている。ここでは膳臣と宍人臣の関係を明確にしないが、『新撰姓氏録』では完人(宍人)朝臣が彦背立大稲腰命(比古伊那許士別命)の後裔氏族とされており、やはり食膳奉仕に関わる宍人臣・宍人部と膳臣との関係を示す伝承といえる。そして安閑元年には膳臣大麻呂が「内膳卿」として登場し、伊甚屯倉を管理する伊甚国造に珠を献上するように命じている。食膳奉仕とのかかわりから、膳臣は東国国造への命令権を有していたとされ、磐鹿六鴈の伝承の地に東国の上総国が選ばれていることも、このような膳臣と東国とのかかわりのなかで理解できよう。なお先述した膳臣から阿倍臣が分枝したという視点からは、膳臣大麻呂が宣化天皇の時代に大夫に任じられた「阿倍大麻呂臣」と同一人物である可能性が指摘されている。
 膳臣の氏族伝承はいずれも食膳奉仕との深いかかわりが認められるが、食膳奉仕は日常業務であることから、このような側面は実録的な記述には表れにくい。むしろ雄略8年に新羅の救援のために任那日本府から出兵した斑鳩、欽明6年に百済に派遣されて虎退治で名を馳せた巴提便、欽明31年(570)に高句麗使を饗応するために越に派遣され、また物部守屋の討伐にも従軍した傾子(賀拖夫)、推古18年(610)に任那客を荘馬の長として迎えた大伴、斉明2年(656)に遣高句麗大使に任じられた葉積、壬申の乱の功臣として大紫位と禄を贈られた摩漏など、軍事・外交面での活躍が多く載せられている。このうち摩漏は病床において草壁皇子・高市皇子の見舞いを受け、死去した際に天武天皇は「これに驚き大いに哀し」んだと伝える。膳部朝臣(天武13年に改姓)は持統5年(691)に「墓記」を進上した十八氏族のひとつであり、ことに膳部朝臣の「墓記」は『日本書紀』の有力な編纂資料になったとされる。そこには壬申の乱における摩漏の活躍が影響した可能性もあるだろう。
 7世紀末に高橋朝臣に改姓した膳部朝臣であったが、のちに公卿に昇った人物を確認することはできない。しかし令制以前の伝統を背景として、天皇の食膳に奉仕する内膳司の長官や、御食国である志摩国・若狭国の国守に任じられることで勢力を保ったようである。とくに志摩国守の地位は原則として高橋朝臣による世襲であったらしく、平安時代には除目の対象とならず、氏人の推挙で新任の国司が選ばれていた。志摩国には多数の「大伴部」の分布が確認できるが、これらは磐鹿六鴈が賜ったとの伝承をもつ「膳大伴部」である可能性が指摘されており、高橋朝臣と志摩国の強固な結びつきが確認できる。その一方で霊亀2年(716)ごろから、高橋朝臣は同じく食膳奉仕を伝統的な職掌とする安曇宿禰と対立するようになる。内膳司の長官である内膳奉膳の定員は2名であるが、これは唐の殿中省尚食局の長官である奉御の定員が2名であったことによるもので、当初は必ずしも高橋・安曇両氏を内膳奉膳とするための措置ではなかった。しかし神護景雲2年(768)の勅で、内膳司の長官に高橋・安曇両氏以外の氏族を任じた場合、内膳奉膳ではなく内膳正と称するように定められ、ここに高橋朝臣は安曇宿禰とともに特権的地位が認められた。ただし、この勅は藤原仲麻呂の乱の影響で高橋朝臣の勢力が縮小した時期に出されていることから、もともと食膳の供給者としての伝統をもつ安曇宿禰は、調理者としての伝統をもつ高橋朝臣の後塵を拝していたが、この時期に高橋朝臣に対して優位に立ったとする理解もある。そして平安時代初期になると、それまで大膳職が管轄していた贄の貢進を内膳司が掌るようになり、朝廷の祭祀・儀式における内膳司の役割は拡大する。それにともない内膳司内の高橋・安曇両氏の争いも激化していったとされる。このように高橋朝臣が安曇宿禰との対立を深めるなかで、みずからの正当性を主張するために延暦年間に編纂されたのが『高橋氏文』である。完本は伝わっておらず、『本朝月令』『政事要略』などに逸文が収載されているにすぎないが、記紀にみえない膳臣独自の伝承が残されている点で非常に貴重な史料である。とくに磐鹿六獦命(磐鹿六鴈)が景行天皇に膾を献上した伝承は、『日本書紀』のそれよりも詳細に記述され、『日本書紀』だけでなく膳部朝臣が提出した「墓記」などを基盤としている可能性が高い。しかし安曇宿禰との争いを優位に進める目的で、全体としては比較的新しい時代の作為が多分にふくまれていることも間違いない。この『高橋氏文』が安曇宿禰との勢力争いのなかでどれほど影響を与えたかは不明だが、延暦11年(792)に内膳奉膳の安曇宿禰継成が違勅の罪で佐渡国へと流されて以降、安曇宿禰は内膳奉膳の地位を失った。ここに高橋朝臣の内膳司における地位は確固たるものとなり、内膳奉膳の職は明治維新まで高橋朝臣が独占したのである。
参考文献
吉村茂樹「国司制度に於ける志摩守の特殊性」(『国司制度崩壊に関する研究』東京大学出版会、1957年9月、初出1933年7月)
坂本太郎「纂記と日本書紀」(『坂本太郎著作集』第2巻、吉川弘文館、1988年12月、初出1947年1月)
後藤四郎「内膳奉膳について―高橋安曇氏の関係を中心にして―」(『書陵部紀要』11、1959年10月)
狩野久「御食国と膳氏―志摩と若狭―」(『日本古代の国家と都城』東京大学出版会、1990年9月、初出1970年1月)
坂本太郎「安曇氏と内膳司」(『坂本太郎著作集』第7巻、吉川弘文館、1989年3月、初出1975年10月)
日野昭「膳氏の伝承の性格」(『日本古代氏族伝承の研究』続篇、永田文昌堂、1982年3月、初出1976年6月)
加藤謙吉「上宮王家と膳氏」(『大和政権と古代氏族』吉川弘文館、1991年11月、初出1977年10月)
多田一臣「高橋氏文―その成立の背景について―」(『古代文学』21、1982年3月)
前田晴人「膳氏の本拠地と始祖伝承」(『飛鳥時代の政治と王権』清文堂出版、2005年1月、初出1988年4月・1989年4月)
早川万年「高橋氏文成立の背景」(『日本歴史』532、1992年9月)
工藤浩「逸文にみる『高橋氏文』の方法と性質」(『古代文学』37、1998年3月)
森田喜久男「古代王権の東国支配―『高橋氏文』狩猟伝承の分析から―」(『歴史評論』786、2015年10月)
大橋信弥「阿倍氏と膳臣」(『阿倍氏の研究』雄山閣、2017年12月)

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