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春日臣

読み
かすがのおみ
ローマ字表記
Kasuganoomi
登場箇所
孝昭記
他文献の登場箇所
紀   垂仁39年冬10月条
    雄略元年春3月是月条
    武烈天皇即位前紀
    欽明2年春3月条
    敏達4年(575)春正月是月条
    崇峻天皇即位前紀・用明2年(587)秋7月条
    天武13年(684)11月戊申朔条※
続紀  和銅2年(709)正月丙寅(9日)条※
    養老7年(723)正月丙子(10日)条※
    神亀元年(724)2月壬子(22日)条※
    天平9年(737)2月戊午(14日)条※
    天平14年(742)10月戊子(17日)条
    天平神護2年(766)3月乙亥(20日)条
    神護景雲元年(767)正月庚午(19日)条※
    宝亀8年(777)5月乙丑(15日)条
    延暦3年(784)正月己卯(7日)条※
    延暦3年4月壬寅(2日)条※
    延暦8年(789)正月己酉(6日)条※
    延暦9年(790)7月戊子(24日)条※
後紀  延暦11年(792)5月甲子(10日)条※
    大同元年(806)2月庚戌(16日)条※
    弘仁13年(822)正月己亥(7日)条※
    天長5年(828)正月甲子(7日)条※
続後紀 天長10年(833)12月戊子(6日)条※
    承和元年(834)3月辛未(21日)条※
    承和4年(837)2月癸卯(10日)是日条※
    承和6年(839)正月庚申(7日)条※
    承和7年(840)6月甲子(20日)条※
    承和8年(841)正月甲申(13日)条※
    嘉祥2年(849)正月壬戌(7日)条※
文実  仁寿3年(853)正月戊戌(7日)条※
    斉衡元年(854)正月辛丑(16日)条※
    斉衡3年(856)正月丙辰(12日)条※
    天安元年(857)正月丙辰(17日)条※
三実  天安2年(858)11月25日壬午条※
    貞観元年(859)2月9日乙未条
    貞観2年(860)閏10月23日己巳条※
    貞観2年11月26日壬寅条※
    貞観2年11月27日癸卯条※
    貞観3年(861)正月28日癸卯条
    貞観3年6月16日己未条※
    貞観4年(862)正月七日丙子条※
    貞観4年3月2日庚午条※
    貞観5年(863)3月28日庚寅条※
    貞観7年(865)5月16日丙申条※
    貞観8年(866)正月13日庚寅条※
    貞観9年(867)正月12日癸丑条※
    貞観11年(869)4月13日庚子条※
    貞観13年(871)8月25日己亥是日条※
    貞観14年(872)正月6日丁丑条
    貞観14年正月26日丁酉条※
    貞観14年2月21日辛酉条※
    貞観14年3月14日甲申条※
    貞観14年4月13日壬子条※
    貞観14年5月15日甲申条※
    貞観14年5月25日甲午条※
    元慶元年(877)2月3日乙巳条(※)
    元慶元年3月11日壬子条※
    元慶元年4月18日己丑条※
    元慶元年6月25日甲午条
    元慶元年11月21日戊午条(※)
    元慶2年(878)4月22日丁亥条
    元慶3年(879)正月7日丁酉条※
    元慶5年(881)2月14日壬辰条※
    元慶6年(882)正月7日庚戌条※
    仁和2年(886)正月16日丙申是日条※
姓   左京皇別下※
旧   8・神皇本紀(雄略)
    9・帝皇本紀(敏達)
※は大春日氏
始祖
天押帯日子命
後裔氏族
大春日朝臣/大春日臣/春日朝臣
説明
 大和国添上郡春日郷を本拠地とした氏族。のちに本流は大春日朝臣と称する。春日真人とは別族である。『古事記』では、帯日子国押人命(孝昭天皇の御子)の後裔氏族、いわゆるワニ系氏族の筆頭に掲げられる。『日本書紀』においても、天武13年(684)の朝臣賜姓記事では、全52氏族のうち大三輪君に次ぐ2番目、ワニ系氏族のなかでは先頭に位置する。それは9世紀編纂の『新撰姓氏録』でも同様で、春日臣がワニ系氏族の中心的存在と認識されていたことは間違いないだろう。ただし、これらのワニ系氏族がすべて血縁関係によって結ばれていたと考えるのは困難で、添上郡に進出した諸氏族集団が、地縁的関係に基づいて春日臣を中心にまとまったものと理解されている。なお『新撰姓氏録』は「春日」のウヂ名の由来について、仁徳天皇の時代に酒糟を堵(垣)としていたため「糟垣臣」とされ、のちに「春日臣」に改めたと伝える。
 ワニ系氏族は多くの后妃を輩出したことで知られるが、春日臣も例に漏れず、雄略・仁賢・敏達三代の后妃を輩出したとされる(欽明后妃の糠子郎女は、仁賢后妃の糠若子郎女の重複とされる)。政治的地位もそれに応じたものと考えられ、物部守屋の討伐に春日臣(名は不詳)が加わっていることから、少なくとも6世紀末まではマエツキミの地位を有していたとされる。しかし、その記事を最後に春日臣の活躍は1世紀にわたって途絶える。朝臣賜姓によってワニ系氏族の筆頭と認められてはいるものの、現実としては著しく衰退していたようである。8世紀以降も叙爵者は確認できるが、やはり同じワニ系氏族と比較しても、議政官を輩出した粟田朝臣や小野朝臣の後塵を拝している。それどころか『新撰姓氏録』によれば、9世紀段階で主に活躍していた大春日朝臣は、延暦20年(801)に大春日朝臣姓を賜った傍流とされ、天武13年に朝臣姓を賜った大春日朝臣の本流は、もはや断絶したに等しい状態であった。すでにワニ系氏族の中心的位置は小野朝臣に移っており、小野神社の春秋例祭に参加する小野氏は、承和元年(834)に特例として五位以上であっても官符を待たずに京外に出ることが許されている。ただし承和4年(837)にはこの措置が大春日・布瑠・粟田の三氏まで拡大されているから、この時点で大春日朝臣は叙爵者を輩出する氏族として認識されていたようである。
 天武13年の朝臣賜姓から漏れた傍流が朝臣姓を賜った早い例としては、天平神護2年(766)の春日蔵毘登常麻呂ら27人の春日朝臣賜姓が挙げられる。彼らを延暦20年に大春日朝臣姓を賜った一族とする説もある。また越前国丹生郡を本貫地とした春日部雄継は、承和14年(847)に左京に移貫されると同時に春日臣姓を、さらに斉衡3年(856)には大春日朝臣姓を賜り、最終的には従四位下まで昇進している。雄継は大学博士として立身を果たしたが、雄継以外にも9世紀以降の大春日朝臣は、学者や技能官人として出世する例が非常に多かった。『入唐求法巡礼行記』に「春大郎」として登場し、唐・渤海との通訳として活躍した春日朝臣宅成、5世にわたって暦術を相伝してきたとされる大春日朝臣真野麻呂、ともに存問渤海使に任じられた大春日朝臣安守・安名などがこれに当たる。また「春日」を称さないワニ系氏族でも、貞観4年(862)に壱志宿禰吉野が大春日朝臣姓を賜っている。先述の春日蔵毘登(首)を渡来系氏族とする見解もあり、核となるべき大春日朝臣の本流が没落した結果、新たな擬制的同族関係が形成されたことが指摘されている。
参考文献
岸俊男「ワニ氏に関する基礎的考察」(『日本古代政治史研究』塙書房、1966年5月、初出1960年10月)
佐伯有清「承和の遣唐使の人名の研究」(『日本古代氏族の研究』吉川弘文館、1985年4月)
生田敦司「『古事記』にみえる春日臣同族氏の検討」(『国史学研究』25、2002年3月)
加藤謙吉「ワニ氏のウジの構造とその特質」(『ワニ氏の研究』雄山閣、2013年9月)
加藤謙吉「大和東北部のワニ系諸氏とその歴史的展開」(『ワニ氏の研究』前掲書)

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