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吉備上道臣

読み
きびのかみつみちのおみ
ローマ字表記
Kibinokamitsumichinoomi
登場箇所
孝霊記
他文献の登場箇所
紀   応神22年秋9月庚寅(10日)条
    雄略元年春3月是月条
    雄略7年是歳条
    清寧天皇即位前紀・雄略23年8月是月条
続紀  天平宝字元年(757)7月戊申(2日)是日条
    天平宝字元年7月辛亥(5日)条
    天平宝字元年7月乙卯(9日)
    天平宝字元年7月戊午(12日)是日条
    天平宝字元年閏8月癸丑(8日)条
    天平宝字元年12月壬子(9日)条
    天平宝字2年(758)8月庚子朔是日条
    天平宝字3年(759)11月丁卯(5日)条
    天平宝字6年(762)8月丁巳(11日)条
    天平宝字7年(763)正月壬子(9日)条
    天平宝字8年(764)正月己未(21日)条
    天平神護元年(765)5月庚戌(20日)条
    天平神護元年8月庚申朔是日条
    神護景雲元年(767)9月庚午(23日)条
    延暦2年(783)8月壬戌(17日)条
    延暦10年(791)3月壬午(22日)条
後紀  延暦15年(796)6月壬戌(3日)条
    延暦16年2月乙丑(9日)条
    延暦24年(805)8月癸卯(7日)条
    弘仁11年(820)3月乙巳(3日)条
旧   8・神皇本紀(雄略/清寧)
始祖
大吉備津日子命
中子仲彦(紀)
後裔氏族
上道朝臣/上道臣
説明
 備前国上道郡を本拠地とした氏族。『古事記』には大吉備津日子命の後裔氏族とあるだけで、関係する伝承などは載せられていない。これに対して『日本書紀』では、吉備津彦命(大吉備津日子命)の後裔氏族としての記述がなく、応神天皇の時代に吉備国上道県に封ぜられた中子仲彦が上道臣の祖とされる。また吉備上道臣に関する記事として、雄略天皇の妻である吉備上道臣出身の稚媛、およびその皇子である星川をめぐる伝承が載せられる。はじめ稚媛は吉備上道臣田狭の妻となり、兄君・弟君という兄弟を儲けたが、雄略天皇は田狭が稚媛の美貌を自慢するのを聞き、田狭を任那国司として朝鮮半島に派遣したのち、稚媛を自らの妻としてしまった。それを聞いた田狭は新羅に寝返り、新羅討伐のために派遣されてきた弟君にも寝返るよう勧めた。しかし弟君はそのことを知った妻の樟媛に秘密裏に殺され、樟媛は弟君のもうひとつの任務であった「今来才伎」を連れて帰国したという。なお『日本書紀』は田狭のその後を記述しない。のちに雄略天皇が崩御すると、星川皇子は稚媛に諭されて皇位をねらい、大蔵を制圧するが大伴室屋らによって鎮圧された。吉備上道臣は血縁関係にある星川皇子を助けようと船団を率いて進軍したが、星川が討たれたことを知って引き返し、その罪によって支配していた山部を奪われたとされる。ただし、この稚媛・星川皇子をめぐる伝承には多くの異説が存在し、田狭の妻を葛城系出身の毛媛とするものや、弟君が殺されず無事「今来才伎」を連れて帰国したとするものなど、なかには伝承の根底を揺るがすようなものも含まれている。そこに何らかの作為があることは間違いなく、その史実性を一切否定する見解も存在する。なお伝承が形成される過程の原資料としては、星川皇子の反乱が大伴室屋によって制圧されていることから、大伴氏の「家記」などが指摘されている。
 星川皇子の反乱を最後に、『日本書紀』から吉備上道臣に関する記事は途絶える。ただし欽明天皇の時代には多くの「吉備臣」が対朝鮮半島外交で活躍しており、そのなかに「吉備弟君臣」という人物がみえる。これは雄略天皇によって新羅に派遣された弟君と同一人物であり、本来は欽明天皇の時代に任那日本府の官人であった弟君が、星川皇子の伝承が形成される過程で結びつけられたことが指摘されている。すなわち吉備上道臣の人物が欽明天皇の時代には「吉備臣」として登場しているのであり、そのほか対朝鮮半島外交で活躍した「吉備臣」にも吉備上道臣が含まれている可能性は高いといえる。
以上のように、6世紀中葉までは勢力を有していたと考えられる吉備上道臣であるが、天武13年(684)に朝臣姓を賜った下道臣・笠臣に対して、上道臣は臣姓のままであったことから、そのころまでには氏族として衰退したのだろう。しかし天平宝字元年(757)、上道臣斐太都が橘奈良麻呂らの謀反を密告すると、従八位上の下級官人にすぎなかった斐太都は、その功績によって一気に従四位下まで昇り、朝臣姓と功田二十町を賜り、さらに備前国造に任じられた。のちに斐太都は正道と名を改め、仲麻呂の没落後もその地位を保っている。延暦年間に活動した広成・千若も朝臣姓を称しており、おそらく正道の一族だろう。このように8世紀後半には再び上道臣(朝臣)が活躍しており、それぞれ広成は銀を採掘した功績により外従五位下、千若も女官として正五位下に昇っている。ただし広成・千若を最後に上道氏からの叙爵者は確認できず、正道の功績による興隆も一過的なものにすぎなかった。
参考文献
三品彰英「上代における吉備氏の朝鮮経営」(『朝鮮学報』36、1965年10月)
志田諄一「吉備臣」(『古代氏族の性格と伝承』雄山閣、1971年2月)
大橋信弥「「吉備氏反乱伝承」の史料的研究―星川皇子反乱事件をめぐって―」(『日本古代の王権と氏族』吉川弘文館、1996年1月、初出1973年11月)
吉田晶「吉備氏伝承に関する基礎的考察―雄略紀七年是歳条を中心として―」(『吉備古代史の展開』塙書房、1995年6月、初出1983年10月)
湊哲元「吉備と伊予の豪族」(稲田孝司・八木充編『中国・四国』古代の日本第4巻、新版、角川書店、1992年1月)
小野里了一「「吉備臣」氏の系譜とその実像」(加藤謙吉編『日本古代の王権と地方』大和書房、2015年4月)

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