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吉備臣

読み
きびのおみ
ローマ字表記
Kibinoomi
登場箇所
景行記・后妃と御子/景行記・倭建命の東征/景行記・倭建命の子孫
他文献の登場箇所
紀   孝霊2年春2月丙寅(11日)条
    神功皇后摂政前紀・仲哀9年3月壬申朔条
    応神22年春3月丁酉(14日)条
    雄略元年春3月是月条
    雄略7年8月条
    雄略8年春2月条
    雄略23年8月庚午(7日)条
    顕宗元年夏4月丁未(11日)条
    欽明2年夏4月
    欽明5年3月条
    欽明5年11月条
姓   左京皇別上
    右京皇別下
始祖
若建吉備津日子
稚武彦(紀)
後裔氏族
-
説明
 吉備地域を本拠地とした氏族。『古事記』には、吉備臣らの祖である若建吉備津日子の娘・針間之伊那毘能大郎女が景行天皇のキサキとなり、櫛角別王・大碓命・小碓命・倭根子命・神櫛王の五柱を生んだとある。また小碓命=倭建命の東征に際して、吉備臣の祖である御鋤友耳建日子が同行しており、その妹・大吉備建比売が倭建命に嫁いで建貝児王を生んでいる。このような景行天皇・倭建命と吉備臣との関係は『日本書紀』でも同様であるが、景行天皇の皇子に櫛角別王の名がみえないこと、神櫛皇子(神櫛王)が播磨稲日大郎姫(針間之伊那毘能大郎女)ではなく景行天皇と五十河媛との間に生まれた子とされること、日本武尊(倭建命)と吉備穴戸武媛(大吉備建比売)の子として武卵王(建貝児王)に加えて十城別王の名がみえることなど、その系譜には若干の差異がある。また『日本書紀』においては、雄略天皇の時代に新羅の援軍として派遣された小梨、雄略天皇の崩御に乗じた蝦夷の反乱を鎮圧した征新羅将軍の尾代、欽明天皇の時代に任那日本府の官人として活躍した吉備臣(名欠)など、対朝鮮半島外交における吉備臣の活躍が目立ち、その背景には鉄・塩生産の掌握による物質的・軍事的基礎の確立があったと考えられている。ただし欽明天皇の時代に任那日本府の官人であった「吉備臣」弟君は、雄略天皇の時代に新羅へ派遣された「吉備上道臣」弟君と同一人物とされ、後者に関する記事には星川皇子の反乱と関係づけるための作為があることが指摘されている。また反乱を企てて誅殺された「吉備下道臣」前津屋も、『日本書紀』が引用する「或本」では国造「吉備臣」山として伝えられている。このように『日本書紀』では、「吉備臣」とされる人物が「吉備上道臣」「吉備下道臣」とも表記される場合がある。このような吉備系氏族間の関係性を考えるうえで注目されるのは、記紀に載せられている三つの系譜である。『古事記』孝霊天皇の系譜(以下、孝霊記系譜)では、孝霊天皇の御子・大吉備津日子命が吉備上道臣の祖、若日子建吉備津日子命が吉備下道臣・笠臣の祖とされる。しかし『日本書紀』孝霊天皇の系譜(以下、孝霊紀系譜)では、稚武彦命(若日子建吉備津日子)が吉備臣の始祖とされ、吉備津彦命(大吉備津日子命)の後裔氏族に関する記述はない。また『日本書紀』応神天皇の伝承(以下、応神紀系譜)には、吉備臣の祖である御友別の兄弟・子が吉備国に分封されたとあり、川島県に長子・稲速別が、上道県に次子・仲彦が、三野県に末子・弟彦が、波区芸県に弟・鴨別が、苑県に兄・浦凝別が、織部県に妹・兄媛(応神天皇妃)がそれぞれ封ぜられた。そして稲速別が下道臣、仲彦が上道臣・香屋臣、弟彦が三野臣、鴨別が笠臣、浦凝別が苑臣の始祖になったとされる。なお鴨別は、仲哀天皇の時代に熊襲を討ったとする伝承が載せられ、そこでは「吉備臣の祖」とされている。これら三つの系譜をめぐっては、これまでさまざまな議論がなされている。通説的な理解としては、吉備系氏族間で御友別という共通の始祖を抱いており、それぞれの氏族間に序列意識が稀薄である応神紀系譜がもっとも古体を留めたものとされる。そして6世紀後半に大王家と吉備臣が結合するかたちで孝霊紀系譜が成立し、応神記系譜は中央政界で活躍する下道臣・笠臣が主張する稚武彦命の系譜に対抗したもので、上道臣が吉備平定の伝承をもつ吉備津彦命を始祖と主張するために7世紀後半に成立したという。この点には異論もあり、上道臣が劣勢な時期に上道臣を下道臣・笠臣の上位(吉備津彦命は稚武彦命の兄)とする系譜改変をおこない得たとは考えにくいとして、孝霊紀系譜がもっとも遅れて7世紀後半に成立したとする説もある。ただし、吉備系氏族が伝えてきた原系譜とはいえないまでも、応神紀系譜に部族同盟としての「吉備臣」の古い要素が残存していることは認めてよいだろう。当然、これらすべての吉備系氏族が実際の血縁関係にあったと考えることはできず、ヤマト王権の吉備支配は部族同盟としての「吉備臣」を解体(分氏)し、国造に任命することで貫徹されたと考えられている。「吉備臣」というウヂ名に関しても、吉備地方の勢力を記紀に採録する際の認識に沿って「吉備臣」と記述したにすぎず、真備への吉備朝臣賜姓までは「吉備」をウヂ名とする氏族は存在しなかったとの説が提唱されている。ただしこの説に従う場合、出雲などの地域に分布する「吉備部」をどのように理解するかが問題となろう。
 なお吉備地域では、4世紀後半に各地で100mクラスの前方後円墳が築造されており、それらは部族同盟に属する各首長の墓と考えられる。やがて5世紀には造山・作山両古墳に代表される巨大な前方後円墳が出現し、同時に他地域から100mクラスの前方後円墳が姿を消している。巨大古墳を築造した、部族連合を統合する大首長のもとに権力が集中したものと考えられるが、巨大古墳の分布は特定の地域に集中しておらず、大首長の地位は特定の地域の首長によって世襲されるものではなかった。しかし5世紀後半の両宮山・宿寺山両古墳を最後に、吉備地域では約1世紀にわたって古墳の規模が縮小する。このことは『日本書紀』における吉備系氏族の反乱伝承と関連づけて理解されており、ヤマト王権による吉備地域支配が強化され、旧来の部族同盟が解体されていった結果と考えられよう。
参考文献
岩本次郎「古代吉備氏に関する一考察―特に記紀系譜形成過程を中心として―」(『ヒストリア』26、1960年2月)
西川宏「吉備政権の性格」(考古学研究会十周年記念論文集編集委員会編『日本考古学の所門代』考古学研究会十周年記念論文集刊行会、1964年6月)
三品彰英「上代における吉備氏の朝鮮経営」(『朝鮮学報』36、1965年10月)
志田諄一「吉備臣」(『古代氏族の性格と伝承』雄山閣、1971年2月)
吉田晶「吉備地方における国造制の成立」(『吉備古代史の展開』塙書房、1995年6月、初出1972年5月)
吉田晶「吉備氏伝承に関する基礎的考察―雄略紀七年是歳条を中心として―」(『吉備古代史の展開』塙書房、1995年6月、初出1983年10月)
湊哲元「吉備と伊予の豪族」(稲田孝司・八木充編『中国・四国』古代の日本第4巻、新版、角川書店、1992年1月)
吉田晶「吉備の「県」について」(『吉備古代史の展開』塙書房、1995年6月)
小野里了一「「吉備臣」氏の系譜とその実像」(加藤謙吉編『日本古代の王権と地方』大和書房、2015年4月)

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