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吉備下道臣

読み
きびのしもつみちのおみ
ローマ字表記
Kibinoshimotsumichinoomi
登場箇所
孝霊記
他文献の登場箇所
紀   応神22年秋9月庚寅(10日)条
    雄略7年8月条
    天武13年(684)11月戊申朔条
続紀  天平7年(735)4月辛亥(26日)条
    天平8年(736)正月辛丑(21日)条
    天平9年(737)2月戊午(14日)条
    天平9年12月丙寅(27日)是日条
    天平10年(738)7月癸酉(7日)条
    天平12年(740)8月癸未(29日)条
    天平12年11月甲辰(21日)条
    天平13年(741)7月辛亥(3日)条
    天平15年(743)5月癸卯(5日)条
    天平15年6月丁酉(30日)条
    天平18年(746)10月丁卯(19日)条
    天平20年(748)11月己丑(23日)条
    天平宝字4年(760)正月丙寅(4日)条
    天平宝字6年(762)4月庚戌朔条
    天平神護元年(765)正月己亥(7日)条
    天平神護2年(766)5月癸亥(9日)条
    神護景雲元年(767)5月癸酉(25日)条
    神護景雲2年(768)2月癸巳(18日)
    宝亀6年(775)10月壬戌(2日)条
    宝亀10年(779)2月甲申(13日)条
    宝亀10年7月丁丑(10日)条
    延暦3年(784)正月己卯(7日)条
    延暦3年(784)3月乙酉(14日)条
後紀  大同元年(806)2月己酉(15日)条
    大同元年4月乙巳(12日)条
三実  貞観11年(869)正月7日乙丑
    貞観16年(874)8月9日乙丑
風   備中国・松岡(今新造)御宅条
姓   左京皇別上
旧   10・国造本紀
始祖
若日子建吉備津日子命
稲速別(紀)
後裔氏族
吉備朝臣/下道朝臣/下道臣
説明
 備中国を本拠地とした氏族。『古事記』では、若日子建吉備津日子命の後裔氏族として名がみえる。『日本書紀』では、応神天皇によって下道臣の祖・稲速別が吉備国川嶋県に封ぜられたとある。また雄略天皇の時代には、ヤマト王権に仕えていた吉備弓削部虚空の上京を押しとどめるなど、天皇に反抗的な態度をとった吉備下道臣前津屋が族滅されている。その後しばらく吉備下道臣の活動の形跡は途絶えるが、天武13年(684)には朝臣姓を賜っており、笠臣とともに吉備地域の氏族のなかでは有力な地位にあったらしい。霊亀2年(716)に留学生として入唐した真備は、天平7年(735)の帰朝後に重用され、途中左遷などもあったが、最終的には右大臣正二位まで昇っている。真備は天平18年(746)に吉備朝臣へ改姓しており、これ以降その一族は吉備朝臣を称した。当然ながら下道朝臣を称し続けた系統もあり、その系統からも叙爵者が出ている。しかし、真備の子・泉は参議として議政官に列したものの、その後は下道朝臣・吉備朝臣から議政官を輩出することはなかった。なお薨伝から真備の父は右衛士少尉囶勝であることがわかっているが、その母夫人の骨蔵器が岡山県小田郡矢掛町東三成で出土しており、この地域一帯が下道朝臣、とくに真備の属する系統の塋域であったとされる。
 吉備下道臣の名を冠した行政区画としては、備中国下道郡がある。ただし下道郡には4・5世紀に強大な在地勢力が存在した形跡がなく、6世紀中葉以降に急速に伸長するとされる。そのため吉備下道臣を部族同盟と解する視点からは、畿内勢力との抗争と敗北のなかで、それまで巨大古墳が築かれていた都宇・賀夜・窪屋郡地域の首長から下道郡地域の首長へと、吉備下道臣内における勢力交替があったとの指摘がなされている。
参考文献
角田文衞「備中国下道氏塋域における一火葬墓」(『国分寺と古代寺院』角田文衞著作集2、法蔵館、1985年10月、初出1944年4月)
吉田晶「下道氏と下道郡―古代氏族に関する一試論」(『吉備古代史の展開』塙書房、1995年6月、初出1988年1月)
中山薫「下道臣前津屋事件の解釈」(横田健一編『日本書紀研究』第22冊、塙書房、1999年6月)

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