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許勢(巨勢)臣

読み
こせのおみ
ローマ字表記
Kosenoomi
登場箇所
孝元記
他文献の登場箇所
紀   継体元年春正月甲子(4日)条
    継体元年2月甲午(4日)条
    継体21年夏6月甲午(3日)条
    継体23年秋9月条
    安閑元年3月戊子(6日)条
    欽明元年9月己卯(5日)条
    欽明5年3月条
    欽明5年冬10月条
    欽明5年11月条
    欽明8年夏4月条
    欽明16年春2月
    欽明31年(570)秋7月是月条
    崇峻天皇即位前紀・用明2年(587)秋7月条
    崇峻4年(591)冬11月壬午(4日)条
    舒明即位前紀・推古36年(628)9月条
    皇極元年(642)12月甲午(13日)条
    皇極2年(643)11月丙子朔条
    皇極4年(645)6月戊申(12日)条
    大化元年(645)秋7月丙子(10日)条
    大化2年(646)3月辛巳(19日)条
    大化5年(649)夏4月甲午(20日)条
    白雉元年(650)2月甲申(15日)条
    白雉2年(651)是歳条
    白雉4年(653)夏5月壬戌(12日)条
    斉明4年(655)春正月丙申(13日)条
    天智2年(663)3月条
    天智10年(671)春正月庚子(2日)条
    天智10年春正月癸卯(5日)条
    天智10年11月丙辰(23日)条
    天武元年(672)秋7月辛卯(2日)条
    天武元年8月甲申(25日)条
    天武13年(684)11月戊申朔条
    天武14年(685)3月辛酉(16日)条
    天武14年9月戊午(15日)条
    天武14年冬10月甲申(12日)条
    持統天皇称制前紀・朱鳥元年(686)冬10月己巳(2日)条
    持統3年(689)2月己酉(26日)条
    持統3年5月甲戌(22日)条
    持統3年6月癸未(2日)条
    持統5年(691)8月辛亥(13日)条
    持統7年(693)夏4月辛巳(22日)条
    持統7年6月壬戌(4日)条
    持統11年(697)2月甲午(28日)条
続紀   大宝元年(701)正月丁酉(23日)条
    慶雲元年(704)正月癸巳(7日)条
    慶雲2年(705)4月辛未(22日)条
    慶雲2年12月癸酉(27日)条
    慶雲3年(706)7月壬子(11日)条
    慶雲4年(707)3月庚子(2日)条
    慶雲4年5月壬子(15日)条
    慶雲4年8月辛巳(16日)条
    和銅元年(708)3月丙午(13日)条
    和銅元年7月乙巳(15日)条
    和銅2年(709)3月壬戌(5日)条
    和銅3年(710)6月辛巳(2日)条
    和銅4年(711)4月壬午(7日)条
    和銅5年(712)正月戊子(19日)条
    和銅6年(713)正月丁亥(23日)条
    和銅7年(714)10月丁卯(13日)条
    霊亀元年(715)正月癸巳(10日)条
    霊亀元年5月壬寅(22日)条
    霊亀2年(716)4月壬申(27日)条
    霊亀2年9月乙未(23日)条
    養老元年(717)正月己未(18日)条
    養老2年(718)正月庚子(5日)条
    養老2年3月乙巳(10日)条
    養老3年(719)正月壬寅(13日)条
    養老3年5月癸卯(15日)条
    養老3年9月癸亥(8日)条
    養老4年(720)正月甲子(11日)条
    養老4年3月丙辰(4日)条
    養老4年10月戊子(9日)条
    養老5年(721)正月壬子(5日)条
    養老5年3月辛未(25日)条
    養老5年7月壬子(7日)条
    神亀元年(724)2月甲午(4日)是日条
    神亀元年2月壬子(22日)条
    神亀元年6月癸巳(6日)条
    神亀3年(726)正月庚子(21日)条
    神亀3年9月壬寅(27日)条
    神亀5年(728)5月丙辰(21日)条
    天平元年(729)2月壬申(11日)条
    天平元年3月甲午(4日)条
    天平3年(731)正月丙子(27日)条
    天平3年5月辛酉(14日)条
    天平3年6月庚寅(13日)条
    天平5年(733)3月辛亥(14日)条
    天平8年(736)正月辛丑(21日)条
    天平9年(737)8月甲子(23日)条
    天平9年9月己亥(28日)条
    天平10年(738)正月乙未(26日)条
    天平11年(739)4月壬午(21日)条
    天平13年(741)閏3月乙卯(5日)条
    天平13年4月辛丑(22日)条
    天平13年7月辛亥(3日)条
    天平13年7月辛酉(13日)是日条
    天平13年9月乙卯(8日)条
    天平14年(742)正月癸丑(7日)条
    天平14年2月丙子朔条
    天平14年8月己亥(27日)条
    天平14年12月庚子(29日)条
    天平15年(743)4月壬申(3日)条
    天平15年5月癸卯(5日)条
    天平15年7月癸亥(26日)条
    天平16年(744)閏正月戊辰(4日)条
    天平16年2月丙申(2日)条
    天平16年9月甲戌(15日)条
    天平17年(745)正月乙丑(7日)条
    天平17年8月癸丑(28日)条
    天平17年9月丁卯(13日)条
    天平17年9月丙子(22日)条
    天平18年(746)4月丙戌(5日)条
    天平18年4月癸卯(22日)条
    天平18年5月戊午(7日)条
    天平18年9月己巳(20日)条
    天平18年11月壬午(5日)条
    天平19年(747)正月丙申(20日)条
    天平21年(748)2月己未(19日)条
    天平21年3月壬午(12日)条
    天平勝宝元年(749)4月甲午朔条
    天平勝宝元年7月甲午(2日)条
    天平勝宝元年8月辛未(10日)条
    天平勝宝3年(751)2月己卯(26日)条
    天平勝宝4年(752)5月辛未(26日)条
    天平勝宝5年(753)3月辛未(30日)条
    天平勝宝5年4月癸巳(22日)条
    天平勝宝8歳(756)12月己酉(30日)条
    天平宝字元年(757)5月丁卯(20日)条
    天平宝字元年6月壬辰(16日)条
    天平宝字元年7月戊申(2日)是日条
    天平宝字元年7月庚戌(4日)条
    天平宝字元年7月辛亥(5日)条
    天平宝字元年7月乙卯(9日)条
    天平宝字元年8月庚辰(4日)条
    天平宝字2年(758)8月庚子朔是日条
    天平宝字2年8月甲子(25日)是日条
    天平宝字3年(759)10月戊申(15日)条
    天平宝字4年(760)正月丁卯(5日)是日条
    天平宝字4年2月辛亥(20日)条
    天平宝字4年5月丙申(7日)条
    天平宝字5年(761)4月癸亥(9日)条
    天平宝字6年(762)正月癸未(4日)条
    天平宝字6年4月庚戌朔条
    天平宝字7年(763)正月壬子(9日)条
    天平宝字8年(764)正月乙巳(7日)条
    天平宝字8年4月戊寅(11日)条
    天平宝字8年10月庚午(7日)条
    天平神護元年(765)正月己亥(7日)条
    天平神護2年(766)3月辛已(26日)条
    天平神護2年5月丁丑(23日)条
    天平神護2年11月丁巳(5日)条
    神護景雲元年(767)正月己巳(18日)条
    神護景雲元年正月庚午(19日)条
    神護景雲元年3月己巳(20日)条
    神護景雲2年(768)2月癸巳(18日)条
    神護景雲2年閏6月乙巳(3日)条
    神護景雲2年7月壬申朔条
    宝亀元年(770)9月乙亥(16日)条
    宝亀元年10月己丑朔条
    宝亀元年10月辛亥(23日)条
    宝亀元年10月癸丑(25日)条
    宝亀元年12月丙辰(28日)条
    宝亀2年(771)正月辛巳(23日)条
    宝亀2年閏3月戊子朔条
    宝亀2年9月己亥(16日)条
    宝亀3年(772)正月甲申(3日)条
    宝亀3年7月辛丑(22日)条
    宝亀5年(774)正月丁未(7日)条
    宝亀5年9月庚子(4日)条
    宝亀7年(776)正月丙申(7日)条
    宝亀7年3月癸巳(6日)条
    宝亀8年(777)5月癸丑(3日)条
    宝亀10年(779)正月甲子(23日)条
    宝亀10年2月戊子(17日)条
    宝亀11年(780)正月癸酉(7日)条
    宝亀11年9月壬戌朔条
    天応元年(781)5月癸未(25日)条
    延暦元年(782)2月庚申(7日)条
    延暦元年6月辛未(20日)条
    延暦元年12月丙寅(18日)条
    延暦2年(783)正月癸巳(16日)条
    延暦2年2月壬申(25日)条
    延暦2年4月壬申(26日)条
    延暦2年5月辛卯(15日)条
    延暦3年(784)正月己卯(7日)条
    延暦3年4月丁未(7日)条
    延暦3年4月庚午(30日)条
    延暦4年(785)正月辛亥(15日)条
    延暦4年7月壬戌(29日)条
    延暦4年9月庚子(8日)条
    延暦5年(786)5月庚子(12日)条
    延暦5年8月甲子(8日)条
    延暦5年9月乙卯(29日)条
    延暦5年11月丁未(22日)条
    延暦6年(787)正月壬辰(7日)条
    延暦6年2月癸亥(8日)条
    延暦6年閏5月己卯(27日)条
    延暦7年(788)正月癸亥(14日)条
    延暦8年(789)正月己酉(6日)条
    延暦8年2月癸未(10日)条
    延暦8年10月己丑(21日)条
    延暦8年10月辛卯(23日)条
    延暦8年12月丙申(29日)条
    延暦9年(790)3月丙午(10日)条
    延暦9年3月壬戌(26日)条
    延暦9年閏3月丁丑(11)条
    延暦10年(791)正月戊辰(7日)条
    延暦10年2月甲辰(14日)条
    延暦10年3月辛巳(21日)条
    延暦10年7月壬申(13日)条
後紀  延暦12年(793)8月丁卯(21日)是夜条
    延暦15年(796)10月甲申(27日)条
    延暦16年(797)正月庚子(13日)条
    延暦23年(804)正月庚子(24日)条
    延暦24年(805)10月己亥(4日)条
    大同元年(806)2月庚戌(16日)条
    大同元年4月辛亥(18日)是日条
    大同2年(807)10月癸未(卅日)条
    大同3年(808)正月丁未(25日)条
    大同3年5月甲午(13日)条
    大同3年11月辛巳(4日)条
    大同3年11月甲辰(27日)条
    大同4年(809)2月己未(13日)条
    大同4年4月戊子(13日)条
    弘仁元年(810)9月丁未(10日)条
    弘仁元年9月癸丑(16日)条
    弘仁元年10月己巳(2日)条
    弘仁元年12月壬午(16日)条
    弘仁2年(811)6月癸亥朔条
    弘仁2年7月乙卯(23日)条
    弘仁3年(812)正月丙寅(7日)条
    弘仁3年正月辛未(12日)条
    弘仁3年9月乙丑(10日)条
    弘仁4年(813)正月辛酉(7日)条
    弘仁5年(814)7月丙午朔条
    弘仁5年11月癸酉朔条
    弘仁6年(815)正月己卯(7日)是日条
    弘仁6年正月壬午(10日)条
    弘仁7年(816)12月壬辰朔条
    弘仁7年12月乙巳(14日)条
    弘仁10年(819)正月丙戌(7日)条
    弘仁14年(823)2月癸丑(28日)是日条
    天長2年(825)正月辛亥(4日)条
    天長3年(826)正月甲戌(7日)条
    天長5年(828)正月甲子(7日)条
    天長6年(829)正月戊子(7日)条
続後紀 承和8年(841)11月丙辰(21日)是日条
    承和9年(842)8月壬申(11日)条
    承和15年(848)正月戊辰(7日)条
    承和15年2月甲辰(14日)条
文実  天安2年(858)閏2月乙巳(13日)条
三実  天安2年(858)8月27日乙卯条
    天安2年11月7日甲子条
    貞観元年(859)正月13日庚午条
    貞観3年(861)9月26日丁酉条
    貞観5年(863)正月7日庚午条
    貞観8年(866)正月7日甲申条
    貞観8年正月13日庚寅条(旧味酒首)
    貞観9年(867)2月11日辛巳条(旧味酒首)
    貞観10年(868)正月16日辛亥条(旧味酒首)
    貞観10年2月25日己丑条(旧味酒首)
    貞観12年(870)正月25日戊寅条
    貞観12年5月14日乙丑条
    貞観12年12月29日丙午条(旧味酒首)
    貞観13年(871)10月5日丁未条(旧味酒首)
    貞観13年10月21日癸亥条(旧味酒首)
    貞観14年(872)5月23日壬辰条(旧味酒首)
    貞観14年11月23日己丑条
    貞観18年(876)4月11日戊午条(旧味酒首)
    元慶元年(877)4月26日丁酉条(旧味酒首)
    元慶2年(878)8月25日戊子是日条(旧味酒首)
    元慶3年(879)10月23日己卯条(旧味酒首)
    元慶3年11月25日庚辰条
    元慶3年12月21日丙午条(旧味酒首)
    元慶5年(881)正月28日丁丑是日条(旧味酒首)
    元慶5年8月20日丙申条(旧味酒首)
    元慶6年(882)6月26日丁酉条(旧味酒首)
    元慶6年9月13日壬午条(旧味酒首)
    元慶7年(883)12月17日己酉条(旧味酒首)
    元慶8年(884)2月23日甲寅条(旧味酒首)
    元慶8年3月9日庚午条(旧味酒首)
    元慶8年11月25日壬午条
    仁和元年(885)正月16日壬申是日条(旧味酒首)
    仁和2年(886)6月19日丁卯条
    仁和3年(887)6月8日庚戌条
三代格 5・定秩限事・弘仁7年(816)正月12日太政官符
    16・道橋事・貞観15年(873)正月23日太政官符
    19・禁制事・弘仁6年(815)3月20日太政官符
    19・禁制事・貞観3年(861)3月25日太政官符
万   2・0101-02
    2・0126
    6・1016
    8・1645
    16・3845
    17・3926
    19・4273
姓   右京皇別上
    大和国皇別
    摂津国皇別
旧   9・帝皇本紀(継体/安閑)
霊   下・34怨病忽嬰身因之受戒行善以現得愈病縁(無姓)
始祖
許勢小柄宿禰
後裔氏族
巨勢朝臣/巨勢斐太朝臣/巨勢斐太臣
説明
 大夫(マエツキミ)を輩出した古代豪族のひとつ。許勢は巨勢と表記する例が多く、また居勢・己西とも書く。天武13年(684)に朝臣姓を賜った。本拠地は大和国高市郡巨勢郷とされる。『古事記』では、許勢小柄宿禰(武内宿禰の子)の後裔氏族として雀部臣・軽部臣とともに掲げられているが、氏族としての具体的な活動は記載がない。これに対して『日本書紀』では、継体天皇の即位直前にはじめて登場し、すでに武烈期から男人が大臣であったとされる。大連の大伴金村が主張する男大迹王(継体天皇)の擁立に、男人は大連の物部麁鹿火とともに賛同し、その継体天皇が即位すると再び大臣に任じられている。筑紫で磐井の乱が発生した際には、天皇の詔を受けて金村・麁鹿火とともに対応を協議し、麁鹿火を大将軍とする征討軍の派遣が決定された。磐井の乱が鎮圧された翌継体23年に男人は没するが、大臣としての功績もあってか、娘2人が安閑天皇の妃となっている。なお男人と2人の安閑妃に関しては、その実在性を疑う説も存在する(後述)。ただし許勢臣が6世紀に入って勢力を拡大したことは間違いないようで、欽明天皇の難波祝津宮行幸に従駕した人物として、大連の大伴金村・物部尾輿とともに、許勢臣の稲持があげられている。また百済王の上表文のなかに、許勢臣(名は不明)が新羅の侵攻から百済を救援したとあること、その上表文を倭国に届けた使者のひとりが許勢奈率哥麻で、許勢臣と血縁関係にある倭系百済人官僚と理解できることから、許勢臣が対朝鮮半島外交で活躍したことが推測される。欽明31年(570)、近江に漂着した高麗使船を山背高威館まで誘導するために許勢臣猿が派遣されていることも、許勢臣と対朝鮮半島外交とのかかわりが影響した可能性がある。また猿は崇峻4年(591)に大将軍のひとりとして任那再興軍に参加しているが、崇峻天皇が殺されたため筑紫から渡航できず、推古3年(596)に帰京している。なお猿と同時代の氏人として、物部守屋の討伐に加わって蘇我馬子と軍行をともにした比良夫がおり、『日本書紀』の写本によっては崇峻4年の任那再興軍の大将軍は比良夫とされる。また『日本書紀』には登場しないが、冠位十二階が制定されたのち、氏人の大海には小徳(第二位)が授けられたという。推古天皇没後に田村皇子(のちの舒明天皇)と山背大兄王との間で後継者問題が発生すると、ときに巨勢臣の氏上であったと考えられる大摩呂は、佐伯東八・紀塩手とともに山背大兄王を後継者に推している。ただし大摩呂は舒明期のうちに没したようで、舒明天皇の殯宮には許勢臣から徳太(徳陀・徳陀古・徳多・徳太古)が誄を捧げている。徳太は大摩呂と異なり蘇我大臣家と近い立場にあったらしく、皇極2年(643)には入鹿の命を受けて山背大兄王を攻め滅ぼしているが、一方で乙巳の変が起こると中大兄皇子側の将軍として活動し、蘇我大臣家の軍兵を説き伏せて武装解除させている。そのため改新政府でも重用され、大化5年(649)に徳太は左大臣に列し、在官のまま斉明4年(658)に没した。この時期の氏人としては、東国国司として糾弾された紫檀(辛檀努・志丹)や徳禰、遣唐留学生となった薬などが確認できる。近江朝廷でも許勢臣は重要な位置を占め、人(比等)は大臣に次ぐ御史大夫に任じられているが、壬申の乱で敗れて子孫ともども流罪となった。その影響もあってか、天武・持統期に許勢臣(天武13年以降は許勢朝臣)から高官に昇った人物は確認できない。しかし紫檀・粟持・馬飼・多益須(太益須・多益首)・邑治(祖父)・麻呂など許勢朝臣の官人は一定数確認でき、そのなかには8世紀に入ってから活躍する人物もふくまれている。また持統5年(691)に「墓記」を提出した18氏族のなかに許勢朝臣がおり、その「墓記」が『日本書紀』の編纂資料とされたと考えられる。
 律令制定後も許勢朝臣の昇進は低調であったが、霊亀元年(715)に至って麻呂が中納言に昇進、議政官に達した。麻呂は養老元年(717)に中納言従三位で没するが、その翌年には邑治が中納言に任じられている。邑治は神亀元年(724)の聖武天皇即位に際して正三位を授けられたが、同年没している。その後は再び許勢朝臣の議政官不在時期が続き、神亀5年(728)に内外階制が施行された際には、許勢朝臣は外階コースに位置づけられていたことが指摘されている。天平11年(739)にようやく奈弖麻呂(奈氐麻呂)が参議に列したが、『公卿補任』によればすでに70歳の高齢であった。しかし奈弖麻呂はさらに長寿を保ち、天平勝宝5年(753)に84歳で亡くなったときには大納言従二位まで達している。この奈弖麻呂が議政官の時期、天平15年~18年(743~746)に許勢朝臣は内階コースに移されたらしい。天平宝字元年(757)には堺麻呂(關麻呂)が従三位となり、さらに参議に列した。同年に起こった橘奈良麻呂の変に際して、紫微少弼として藤原仲麻呂の部下であった堺麻呂は謀反を密告しており、その功績による叙位・任官であったと考えられる。堺麻呂は天平宝字5年(761)に没したため、仲麻呂の凋落とともに失脚することはなかった。しかし次に議政官に達する氏人は、9世紀初頭に初代蔵人頭となり、最終的に中納言正三位に至る野足を待たねばならず、さらに野足を最後に許勢朝臣の議政官は途絶えている。そもそも同じ旧大夫層の阿倍朝臣や紀朝臣と比較して、許勢朝臣は叙爵者の総数が少ないことが指摘されており、最後まで壬申の乱の悪影響を払拭できなかったといえよう。なお許勢朝臣の系統は大海系と徳太系に大別することができ、議政官では人・麻呂・奈弖麻呂が大海系、邑治・堺麻呂・野足が徳太系に属する。両系統の勢力は8世紀中葉ごろまで拮抗していたが、やがて徳太系が嫡系の地位を確立する流れがみてとれる。なお邑治の薨伝によれば、徳太の子で邑治の父である黒麻呂も中納言に列したとされるが、黒麻呂は『日本書紀』に一切記載がなく、その地位に関しては判然としない。また議政官職以外では、邑治が遣唐副使、麻呂が陸奥鎮東将軍、真人(系統は不明)が征隼人副将軍、野足が陸奥鎮守副将軍・征夷副使にそれぞれ任じられており、8世紀まで外交・軍事氏族としての要素を残存させている。
 天平勝宝3年(751)、許勢朝臣と同族関係にある雀部朝臣の真人から、「巨勢男人大臣」が正しくは「雀部朝臣男人」あり、それが許勢朝臣の系図に竄入してしまったとの訴えがあった。ときに氏上であった奈弖麻呂は真人の訴えが正しいことを認め、結果として「巨勢大臣」は「雀部大臣」に改められたとされる。なお真人は男人を安閑天皇に仕えた人物としているが、これは男人が継体23年に没したとする『日本書紀』の伝承とも矛盾している。このように許勢朝臣や雀部朝臣内でもその位置づけが曖昧であったことに加えて、その伝承で能動的な行動をとった形跡がみられないことから、男人は徳太の大臣就任を合理化する目的で、2人の安閑妃とともに創作された人物である可能性が指摘されている。この指摘の前提には、抽象的できわめて実在性の薄い若子宿禰を除いた武内宿禰の男子のなかで、伝承の少なさから許勢小柄宿禰がもっとも系譜に組み込まれた時期が遅いとの理解がある。一方で武内宿禰後裔氏族による大臣の継承(葛城臣→平群臣→許勢臣→蘇我臣)を重視する立場からは、男人の実在性を積極的に否定する根拠は薄いとの反論が出されている。また許勢朝臣内でも徳太系と大海系とでは擁した系譜が異なっており、男人をふくむ系譜を元来擁していたのは徳太系であって、真人の訴えの背景には大海系の奈弖麻呂による系譜の操作があったとする見解も存在する。少なくとも現時点で男人の実在・非実在を断ずることは困難といえよう。
参考文献
直木孝次郎「巨勢氏祖先伝承の成立過程」(『日本古代の氏族と天皇』塙書房、1964年12月初出1963年2月)
今井啓一「巨勢氏について」(横田健一編『日本書紀研究』第6冊、塙書房、1972年10月)
高島正人「奈良時代の巨勢朝臣氏」(『奈良時代諸氏族の研究―議政官補任氏族―』吉川弘文館、1983年2月、初出1972年4月)
住野勉一「弟国(乙訓)小考―継体天皇の弟国宮をめぐって―」(横田健一先生米寿記念会編『日本書紀研究』第26冊、塙書房、2005年10月)
鈴木琢郎「巨勢氏系譜における大臣巨勢男人の存在意義」(『日本古代の大臣制』塙書房、2018年10月)

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