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久米直

読み
くめのあたひ/くめのあたい
ローマ字表記
Kumenoatai
登場箇所
上巻・天孫降臨、神武記・兄宇迦斯と弟宇迦斯、景行記・八尋の白千鳥
他文献の登場箇所
続紀  養老3年(719)11月戊寅(24日)条/天応元年(781)3月庚申朔条
後紀  天長4年(827)正月甲申(22日)条(『類聚國史』所収)
姓   左京神別中/右京神別上
始祖
天津久米命
味耳命(姓)
味日命(姓)
後裔氏族
-
説明
 倭王権の軍事的機能を担った久米部の伴造氏族。久米は来目とも書く。表記としては来目が古く、久米は比較的新しいものとされる。語源は不詳であり、「肥(球磨、クマ)」「組(クミ)」「垣(クベ)」などの説がある。『古事記』(以下『記』と略す)においては、始祖・天津久米命が天忍日命(大伴連の始祖)とともに邇々芸命を先導し、大久米命が道臣命(大伴連の祖)とともに兄宇迦斯を討つなど、大伴連とともに武力をもって活躍する姿が描かれる。また、倭建命が諸国を平定した際にも、祖・七拳脛が膳夫として奉仕している。その一方で、『日本書紀』(以下『紀』)では天忍日命(大伴連の遠祖)が天槵津大来目(久米部の遠祖)を率いるなど、久米直・久米部は大伴連に従属するものとして描かれている。このように『記』では対等に描かれる久米直と大伴連の関係が、『紀』では久米部と大伴連の従属関係として描かれることは、古くから議論の対象となっている。基本的に久米直は大伴連の支配下にあったが、『記』の所伝も史実を反映したものであり、久米直が大伴連に匹敵する勢力を得ていた時期があったとの考えが主流である。その時期がいつであったかについては、雄略以降の王権混乱期、大伴金村の失脚以降などの説がある。なお、その勢力拡大の背景となった来目部は倭王権に従属した大和南部の山人であり、それを軍事力として再編したものとする説が有力である。
 久米の名を冠する地名は諸国にあり、それらの地には久米直・来目部が置かれていたと推測される。そのなかでも大和国高市郡久米郷は有力な本拠のひとつで、大来目と関連づけた地名起源が伝えられている。ただし、同地を本拠とした氏族として、ほかに久米臣(一部は天武13年〈684〉に朝臣賜姓)が存在する。『新撰姓氏録』では久米朝臣が蘇我氏、久米臣が柿本(丸邇)氏と同祖とされており、これらは久米直とは別族であったと考えられる。従来「大来目(大久米)」に関する伝承を伝えてきたのは久米臣であり、それを大伴連とその支配下の来目部(のちの久米直)が吸収したとの見解もある。また8世紀にみられる久米連は、神亀元年(724)に久米奈保麻呂が久米連を賜ったことに始まる。同時に賜姓された氏族はいずれも渡来系であり、『新撰姓氏録』河内諸蕃に佐々良連の始祖として「久米都彦」とあることから、百済系渡来氏族の可能性が指摘されている。こちらも久米直とは別族と考えられよう。
 また、久米直と関連するものとして、朝廷儀礼のなかで用いられる久米舞が挙げられる。神武天皇の大和平定に際して、来目部(久米の子)が歌ったと伝えられる歌を久米歌といい、それに舞を付したものを久米舞という。軍事と密接に関わる戦闘歌舞の代表格であり、久米直の氏族としての性格を表わすものとされる。ただし、この歌舞を久米直が継承したことを直接的に示した史料はなく、同じ軍事氏族である大伴氏・佐伯氏がその役割を担っていた。
参考文献
高橋富雄「大伴氏と来目部」(『日本歴史』166、1962年4月)
直木孝次郎「大伴連と来目直・来目部」(『日本古代の氏族と天皇』塙書房、1964年12月、初出1962年8月)
上田正昭「戦闘歌舞の伝流―久米歌と久米舞と久米集団と―」(『日本古代国家論究』塙書房、1968年11月、初出1963年10月)
松原弘宣「久米氏についての一考察―伊予来目部小楯を中心にして―」(横田健一編『日本書紀研究』第19冊、塙書房、1994年2月)
長家理行「久米氏伝承の検討―和珥氏系と大伴氏系―」(『日本書紀研究』第21冊、塙書房、1997年6月)

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