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小野臣

読み
をののおみ/おののおみ
ローマ字表記
Ononoomi
登場箇所
孝昭記
他文献の登場箇所
紀   雄略13年8月条(春日小野臣)
    推古15年(607)秋7月庚戌(3日)条
    推古16年(608)夏4月条
    推古16年9月辛巳(11日)条
    推古17年(609)秋9月条
    天武13年(684)11月戊申朔条
    持統9年(695)秋7月辛未(26日)条
    持統9年9月庚戌(6日)条
続紀  文武4年(700)10月己未(15日)条
    大宝2年(702)5月丁亥(21日)条
    大宝3年(703)正月甲子(2日)条
    慶雲元年(704)5月甲午(10日)条
    慶雲2年(705)11月己卯(3日)条
    慶雲4年(707)6月壬午(16日)条
    和銅元年(708)正月乙巳(11日)是日条
    和銅元年3月丙午(13日)条
    和銅元年3月丙辰(23日)条
    和銅元年7月乙巳(15日)条
    和銅元年9月戊子(30日)条
    和銅2年(709)正月丙寅(9日)条
    和銅3年(710)正月壬午朔条
    和銅6年(713)4月乙卯(23日)条
    和銅7年(714)4月辛未(15日)条
    霊亀元年(715)7月丙午(27日)条
    霊亀2年(716)正月壬午(5日)条
    養老元年(717)正月乙巳(4日)条
    養老2年(718)3月乙卯(20日)条
    養老3年(719)正月壬寅(13日)条
    養老3年2月己巳(10日)条
    養老3年7月庚子(13日)条
    養老4年(720)10月戊子(9日)条
    神亀元年(724)5月壬午(24日)条
    神亀元年11月乙酉(29日)条
    神亀5年(728)5月丙辰(21日)条
    天平元年(729)2月壬申(11日)条
    天平元年3月甲午(4日)条
    天平元年8月癸亥(5日)条
    天平元年9月乙卯(28日)条
    天平2年(730)9月戊寅(27日)条
    天平3年(730)正月丙子(27日)条
    天平5年(732)3月辛亥(14日)条
    天平6年(734)正月己卯(17日)条
    天平9年(737)6月甲寅(11日)条
    天平9年9月己亥(28日)条
    天平10年(738)閏7月丁巳(21日)条
    天平11年(739)10月甲子(5日)条
    天平12年(740)11月甲辰(21日)条
    天平13年(741)3月己丑(8日)条
    天平15年(743)6月丁酉(30日)条
    天平18年(746)4月壬寅(21日)条
    天平18年4月癸卯(22日)条
    天平19年(747)正月丙申(20日)条
    天平19年9月丙申(23日)条
    天平勝宝元年(749)閏5月甲午朔条
    天平勝宝4年(752)5月庚戌(5日)条
    天平勝宝4年11月乙巳(3日)条
    天平勝宝5年(753)2月辛巳(9日)条
    天平勝宝6年(754)正月壬子(16日)条
    天平勝宝6年2月丙戌(20日)条
    天平勝宝6年4月庚午(5日)条
    天平勝宝6年7月丙午(13日)条
    天平勝宝8歳(756)5月丙辰(3日)条
    天平宝字元年(757)5月丁卯(20日)条
    天平宝字元年7月戊申(2日)是日条
    天平宝字元年7月庚戌(4日)条
    天平宝字元年7月戊午(12日)条
    天平宝字元年8月庚辰(4日)条
    天平宝字元年8月甲午(18日)条
    天平宝字2年(758)9月丁亥(18日)条
    天平宝字2年10月丁卯(28日)条
    天平宝字2年12月戊申(10日)条
    天平宝字4年(760)正月丙寅(4日)条
    天平宝字4年9月癸卯(16日)条
    天平宝字5年(761)11月丁酉(17日)条
    天平宝字7年(763)正月壬子(9日)条
    天平宝字7年4月丁亥(14日)条
    天平宝字8年(764)正月己未(21日)条
    天平宝字8年10月庚午(7日)条
    天平宝字8年(764)10月癸未(20日)条
    天平神護元年(765)正月己亥(7日)条
    天平神護元年2月己巳(8日)条
    天平神護元年10月庚辰(22日)条
    天平神護元年10月甲申(26日)条
    天平神護元年11月丁巳(5日)条
    天平神護元年11月庚辰(23日)条
    神護景雲2年(768)7月壬申朔条
    神護景雲3年(769)5月乙亥(8日)条
    神護景雲3年8月甲寅(19日)条
    宝亀元年(770)6月丁未(16日)条
    宝亀元年8月癸巳(4日)条
    宝亀2年(771)5月壬寅(17日)条
    宝亀2年9月己亥(16日)条
    宝亀5年(774)正月丁未(7日)条
    宝亀5年3月甲辰(5日)条
    宝亀6年(775)11月丁巳(27日)条
    宝亀7年(776)12月丁酉(14日)条
    宝亀8年(777)正月丙辰(3日)条
    宝亀8年2月戊子(6日)条
    宝亀8年6月辛巳朔条
    宝亀9年(778)10月乙未(23日)条
    宝亀9年11月乙卯(13日)条
    宝亀10年(779)2月乙亥(4日)条
    宝亀10年4月辛卯(21日)条
    宝亀11年(780)3月壬午(17日)条
    延暦4年(785)正月癸卯(7日)条
    延暦7年(788)11月戊辰(25日)条
    延暦8年(789)3月戊午(16日)
後紀  序
    延暦18年(799)12月丙申(27日)条
    延暦23年(804)10月辛亥(10日)条
    延暦23年10月癸丑(12日)条
    大同元年(806)正月癸巳(28日)条
    大同元年2月庚戌(16日)条
    大同3年(808)6月己卯(28日)条
    大同3年7月己丑(9日)条
    大同3年8月辛未(22日)条
    大同4年(809)4月戊子(13日)条
    大同5年(810)正月辛酉(20日)条
    弘仁元年(810)9月丁未(10日)条
    弘仁元年9月癸丑(16日)条
    弘仁元年9月乙卯(18日)条
    弘仁元年11月戊午(22日)条
    弘仁2年(811)正月甲子(29日)条
    弘仁2年4月丁亥(24日)条
    弘仁2年5月癸卯(10日)条
    弘仁3年(812)正月丙寅(7日)条
    弘仁3年正月辛未(12日)条
    弘仁3年2月壬子(23日)条
    弘仁3年5月庚申(3日)条
    弘仁3年9月甲戌(19日)条
    弘仁4年(813)正月辛酉(7日)条
    弘仁4年正月壬戌(8日)条
    弘仁4年10月丁未(28日)条
    弘仁5年(814)2月己亥(21日)条
    弘仁5年7月辛未(26日)条
    弘仁6年(815)正月壬午(10日)条
    弘仁6年6月丙寅(27日)条
    弘仁7年(816)正月癸酉(7日)条
    弘仁7年2月辛酉(25日)条
    弘仁7年3月丁亥(22日)条
    弘仁7年8月丙辰(23日)条
    弘仁8年(817)7月壬辰(5日)条
    弘仁10年(819)正月丙戌(7日)条
    弘仁13年(822)正月己亥(7日)条
    弘仁13年10月丁巳朔条
    弘仁14年(823)11月庚午(20日)条
    天長3年(826)正月甲戌(7日)条
    天長3年12月己未(27日)条
    天長5年(828)5月丁酉(13日)条
    天長6年(829)正月戊子(7日)条
    天長7年(830)正月壬午(7日)条
    天長7年4月壬戌(19日)条
    天長9年(832)正月辛丑(7日)条
続後紀 天長10年(833)3月癸巳(6日)条
    天長10年3月庚子(13日)条
    天長10年3月辛亥(24日)条
    天長10年11月庚午(18日)条
    承和元年(834)正月癸亥(12日)条
    承和元年正月庚午(19日)条
    承和元年2月辛丑(20日)条
    承和2年(835)正月癸丑(7日)条
    承和2年正月丁巳(11日)条
    承和2年12月壬申(2日)条
    承和2年12月癸酉(3日)条
    承和3年(836)正月丁未(7日)条
    承和3年4月壬辰(24日)条
    承和3年4月丁酉(29日)条
    承和3年5月庚子(2日)条
    承和3年7月壬辰(25日)条
    承和3年12月丁酉(3日)条
    承和4年(837)2月癸卯(10日)是日条
    承和4年3月丁亥(24日)条
    承和4年6月丁酉(6日)条
    承和4年6月戊午(27日)条
    承和4年9月辛巳(21日)条
    承和5年(838)正月丙寅(7日)条
    承和5年4月乙卯(28日)条
    承和5年6月戊申(22日)条
    承和5年12月己亥(15日)是日条
    承和5年12月辛亥(27日)条
    承和6年(839)正月甲子(11日)条
    承和6年5月辛卯(11日)条
    承和6年9月乙酉(7日)条
    承和6年10月癸酉(25日)条
    承和7年(840)2月壬子(5日)条
    承和7年2月辛酉(14日)条
    承和7年6月甲寅(10日)条
    承和7年6月辛酉(17日)条
    承和7年8月乙丑(22日)条
    承和8年(841)4月乙巳(5日)条
    承和8年閏9月乙卯(19日)条
    承和8年10月辛巳(15日)条
    承和8年12月庚寅(25日)条
    承和9年(842)正月癸卯(8日)条
    承和9年3月辛丑(6日)条
    承和9年8月乙丑(4日)是日条
    承和9年8月壬申(11日)条
    承和11年(844)正月庚寅(7日)条
    承和12年(845)正月甲寅(7日)条
    承和12年2月甲辰(27日)条
    承和12年3月辛亥(5日)条
    承和13年(846)正月乙卯(13日)条
    承和13年2月庚子(29日)条
    承和13年5月癸亥(23日)条
    承和13年9月壬子(14日)条
    承和14年正月己酉(12日)条
    承和14年4月丁巳(23日)条
    承和15年(848)正月甲戌(13日)条
    承和15年2月癸巳(3日)条
    承和15年4月壬辰(3日)条
    承和15年6月庚寅(3日)是日条
    嘉祥2年(849)正月壬戌(7日)条
    嘉祥2年5月乙丑(12日)条
    嘉祥3年(850)3月己亥(21日)
文実  嘉祥3年(850)3月乙巳(27日)条
    嘉祥3年4月己酉(2日)条
    嘉祥3年4月甲子(17日)条
    嘉祥3年8月庚戌(5日)条
    仁寿元年(851)正月甲申(11日)条
    仁寿元年4月癸卯朔条
    仁寿元年11月甲午(26日)条
    仁寿2年(852)正月壬午(15日)条
    仁寿2年2月乙巳(8日)条
    仁寿2年12月庚辰(19日)条
    仁寿2年12月癸未(22日)条
    仁寿3年(853)正月丁未(16日)条
    仁寿3年10月癸酉(16日)条
    斉衡元年(854)正月辛丑(16日)条
    斉衡元年11月癸未(2日)条
    斉衡2年(855)正月戊子(7日)条
    斉衡3年(856)2月辛巳(8日)条
    天安元年(857)正月癸丑(14日)条
    天安元年10月丙子(12日)条
三代格 1・神宮司神主禰宜事〈戸座猿女等附出〉・弘仁4年(813)10月28日付太政官符
    2・経論幷法会請僧事・天長2年(825)2月8日付太政官符
    5・分置諸国事・天長元年(824)9月3日付太政官謹奏
    5・加減諸国官員幷廃置事・天長7年(830)閏12月26日付太政官謹奏
    5・加減諸国官員幷廃置事・仁寿2年(852)2月22日付太政官符
    12・正倉官舎事・承和2年(835)12月3日付太政官符
    15・易田幷公営田事・弘仁14年(823)2月21日付太政官謹奏
    18・関幷烽候事・元慶4年(880)9月5日付太政官符
万   3・0328
    5・0816
    5・0844
    5・0846
    6・0958
    17・3926
    20・4514
姓   左京皇別下
    山城国皇別
始祖
天押帯日子命
米餅搗大使主命(姓)
小野妹子(姓)
天足彦国押人命(姓)
人花命(姓)
後裔氏族
小野朝臣
説明
 ワニ系氏族のひとつで、近江国滋賀郡小野村や山背国愛宕郡小野郷を本拠地とした氏族。天武13年(684)に朝臣姓を賜った。『古事記』では、天押帯日子命(孝昭天皇の御子)の後裔氏族として、春日臣ら15氏族と同族関係にあったとされる。これに対して『日本書紀』(以下『紀』)は、天足彦国押人命の後裔氏族を代表して和珥臣のみを記載しており、そのため天押帯日子命を祖とする諸氏族はワニ系氏族とも称される。小野臣とワニ臣の関係については、実際にワニ臣から分枝した小野臣が山背・近江に進出したとする見解と、その逆に山背・近江から進出してきた小野臣前身集団が大和の豪族と擬制的血縁関係を結んだとする見解が存在する。はじめワニ系氏族の中心的な地位にあったのは春日臣であったが、後代においてもっとも繁栄したのは小野臣といえる。なお小野臣を敏達天皇の後裔とする系図もあるが、いずれも後代の編纂物における付会だろう。小野臣の史料上の初見は『紀』雄略13年8月条で、そこでは「春日小野臣大樹」と複姓で示されることから、この時点では氏族として確立していなかったと考えられる。大樹は雄略天皇によって播磨国御井隈に派遣され、暴虐を働いて通交を妨げた文石小麻呂を討伐している。大樹に次いで登場するのは、遣隋使として著名な小野臣妹子である。推古15年(607)に派遣された妹子は、隋では蘇因高と称し、翌年に裴世清らをともなって帰朝した。妹子は煬帝からの返書を百済で紛失し、本来であれば流罪に処されるところ、天皇の勅によって特別に赦されたという。裴世清らの帰国に際して、妹子は再び隋に派遣され、留学生の高向玄理ら8人を送り届けている。翌年の帰朝報告を最後に、妹子に関する『紀』の記事は途絶えているが、最終的に大徳(冠位十二階の最高位)まで昇ったことが諸史料から確認できる。また『新撰姓氏録』によれば、小野臣のウヂ名は妹子が小野村に家を有したことに由来するとされ、ここから小野臣の氏族としての確立は妹子の時代と考えることができる。なお滋賀県大津市水明に所在する唐臼山古墳は妹子の墓と伝えられている。妹子の子である毛人は『紀』に登場しないが、慶長18年(1613)に山城国愛宕郡高野村(現在の京都府京都市左京区上高野)から墓誌が出土しており、天武天皇の時代に太政官と刑部大卿を務め、天武6年(677)に没したことが確認できる。ただし、毛人の位階は墓誌に大錦上(正四位相当)とあるが、『続日本紀』には小錦中(五位相当)とあるので、おそらく墓誌の位階は贈位だろう。また毛人のカバネが「小野毛人朝臣」となっており、そのため墓誌は天武13年の朝臣賜姓以降に追納されたものであることが指摘されている。その毛人の子であり、墓誌を追納した人物と推測されている毛野は、持統9年(695)に直広肆(従五位下相当)として登場し、このとき遣新羅使に任じられている。その後は順調に昇進を重ね、大宝2年(702)には朝政に参議することが命じられ、さらに和銅元年(708)には中納言に任じられた。和銅7年(714)に没したとき中納言従三位兼中務卿勲三等であった。この毛野の時期が8世紀における小野朝臣の最盛期といえ、以後は叙爵者は輩出するものの公卿に列することができず、それどころか8世紀中葉には一時的に外階コースに移されていた。
 9世紀になると再び公卿を輩出するようになるが、それは岑守が嵯峨天皇の側近になったことが大きい。岑守は東宮時代から賀美能親王(のちの嵯峨天皇)に侍読や春宮坊官として仕えており、即位と同時に従七位上から従五位下に叙された。その後は内外官を歴任しながら順調に出世し、弘仁13年(822)に参議に任じられている。岑守は陸奥守や大宰大弐など地方官として能力を発揮すると同時に、中央にあっては『日本後紀』『内裏式』の編纂事業にも従事している。また嵯峨天皇は文章経国を推進した天皇として名高いが、その側近であった岑守も漢詩文に優れ、勅撰漢詩集のひとつである『凌雲集』は岑守が中心となって編纂された。岑守と同時期の氏人としては、弘仁7年(816)に嵯峨天皇を長岡の邸宅に迎え、その褒賞として正三位に叙された典侍の石子がいる。また岑守の子である篁も嵯峨天皇に目をかけられた。幼少期こそ弓馬に熱中したと伝わるが、やがて文章生から出身したことが示すように、篁は岑守に勝るとも劣らない文筆の才に恵まれていた。天長10年(833)に『令義解』が撰進された際には、その編者のひとりに名を列ねている。しかし、承和元年(834)に遣唐副使に任じられると、渡航の失敗を繰り返すなかで大使の藤原常嗣と対立し、やがて乗船を拒否して遣唐使の派遣を風刺する「西道謡」を作り、激怒した嵯峨上皇によって隠岐国へと流された。なお篁が遣唐副使に任じられた承和元年に、小野神社の例祭に参列する小野氏は、五位以上であっても官符を待たず畿外に出ることが勅許されている。のちに同じワニ系氏族の大春日・布瑠・粟田三氏まで拡大するこの措置は、篁が遣唐副使に任じられたゆえの優遇策であることが指摘されており、それと同時にワニ系氏族における小野臣の優位性を示すものと考えられる。隠岐国に流罪となった篁は、承和7年(840)になって入京が許され、翌年にはその才能を惜しむとして本位に復された。その後は要職を歴任し、承和14年(847)には參議に任じられている。仁寿2年(852)には小野朝臣では毛野以来の従三位に叙されるが、その3日後に薨去した。その子の葛絃は従四位上を極位としたが、孫の好古は藤原純友の乱の鎮圧した功績もあり、最終的に参議従三位まで達している。しかし、この篁の孫世代の活躍を最後に小野朝臣は衰退していき、10世紀後半には若干の叙爵者が確認できる程度になっていく。
 小野臣の濫觴に位置づけられる妹子が遣隋使に任じられているように、小野臣の対外交渉の場における活躍には著しいものがある。対外交渉とのかかわりはワニ系氏族の特色のひとつではあるが、ワニ系氏族のなかでも小野臣との関係が深いとされる粟田臣とともに、小野臣の活躍は突出している。毛野の遣新羅使や篁の遣唐副使は先述したが、その他にも馬養・田守が遣新羅大使、田守が遣渤海大使、石根が遣唐副使、滋野が遣唐判官、恒柯が存問兼領渤海客使に任じられている。また文武4年(700)に毛野が筑紫大弐に任じられたことを初例として、老・田守・小贄・岑守・篁・恒柯・貞樹・葛絃・好古が大宰府の次官(大弐・少弐)を務めており、これも小野臣と対外交渉とのかかわりによる任官と考えられている。また武門的な性格も有していたようで、和銅3年(710)の朝賀では、馬養が右副将軍として騎兵や隼人・蝦夷を従えている。それと関連して陸奥・出羽両国経営における活躍も注目され、牛養が鎮狄将軍、永見が征夷副将軍、春枝が鎮守将軍、岑守・興道・後生が陸奥守、竹良・滝雄・千株が出羽守、春枝・春風が陸奥権守に任じられている。ことに元慶2年(878)に出羽国で発生した元慶の乱では、出羽権掾であった春泉が戦闘に参加し、また出羽権守藤原保則の推挙で春風が鎮守将軍として派遣され、乱の平定に大きく貢献した。また平安時代の小野朝臣は優秀な文人を多数輩出しており、岑守・篁父子と小野小町だけでなく、美材や好古も勅撰集に入選している。好古の弟には三跡として知られる道風がおり、恒柯や美材も非常に高名な能書家であった。
 さて、10世紀後半には氏族として衰退した小野朝臣であったが、氏人の篁や小町の生涯が説話化したことで、貴族社会に長く記憶されることになった。篁が国家事業である遣唐使を風刺して流罪に処されたことは先述したが、その気質から「野狂」と称されたように、かなり個性の強い人物であったことは間違いない。それゆえに『江談抄』『十訓抄』などに多くの説話が載せられ、やがて篁やその説話をモデルとしながらも、創作物としての『篁物語』が成立した。また六歌仙のひとりとして知られる小野小町は、系譜上は篁の孫(好古の従姉妹)とされることが多いが、活動時期が篁の子の世代と重なるため信じがたい。その実像は不明な点が多いが、その死から早い段階で説話化が始まっていたようで、10世紀末ごろには説話的要素もふくむ『小町集』が編纂されている。
参考文献
柴田実「小野神社と唐臼山古墳」(『滋賀県史蹟調査報告』8、名著出版、1939年6月)
藪田嘉一郎「小野毛人墓誌」(『日本上代金石叢考』河原書店、1949年10月)
岸俊男「ワニ氏に関する基礎的考察」(『日本古代政治史研究』塙書房、1966年5月、初出1960年10月)
片桐洋一『小野小町追跡―「小町集」による小町説話の研究』新装版(笠間書院、2015年7月、初出1975年4月)
佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇、第2(吉川弘文館、1982年3月)
平林文雄・水府明徳会編『小野篁集・篁物語の研究』増補改訂(和泉書院、2001年6月、初出1988年11月)
山本信吉『小野道風』(吉川弘文館、2013年3月)
加藤謙吉『ワニ氏の研究』(雄山閣、2013年9月)
繁田信一『小野篁―その生涯と伝説』(教育評論社、2020年9月)

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