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意富臣

読み
おほのおみ/おおのおみ
ローマ字表記
Oonoomi
登場箇所
序/神武記・当芸志美々命の反逆
他文献の登場箇所
紀   綏靖天皇即位前紀・太歳己卯冬11月条
    景行12年9月戊辰(5日)条
    天智天皇即位前紀・斉明7年(661)9月条
    天武元年(672)6月壬午(22日)条
    天武元年秋7月辛卯(2日)条
    天武元年7月乙未(6日)条
    天武12年(683)12月丙寅(13日)条
    天武13年(684)11月戊申朔条
    天武14年(685)9月辛酉(18日)条
    持統10年(696)8月甲午(25日)条
続紀  慶雲元年(704)正月癸巳(7日)条
    和銅4年(711)4月壬午(7日)条
    和銅7年(714)12月戊午(5日)条
    霊亀元年(715)正月癸巳(10日)条
    霊亀2年(716)9月乙未(23日)条
    養老7年(723)7月庚午(7日)条
    天平9年(737)9月己亥(28日)条
    天平9年12月壬戌(23日)条
    天平17年(745)正月乙丑(7日)条
    天平18年(746)4月癸夘(22日)条
    天平神護元年(765)3月丁未(16日)条
    天平神護2年(766)3月辛已(26日)条
    天平神護2年7月乙亥(22日)条
    神護景雲3年(769)8月甲寅(19日)条
    宝亀元年(770)8月癸巳(4日)条
    宝亀元年10月辛亥(23日)条
    宝亀2年(771)11月辛丑(19日)条
    宝亀7年(776)正月戊申(19日)条
    宝亀7年3月癸巳(6日)条
    宝亀7年3月辛亥(24日)条
    宝亀8年(777)10月辛夘(13日)条
    天応元年(781)6月戊子朔
    天応元年9月丁丑(22日)条
    延暦4年(785)7月壬戌(29日)条
後紀  延暦24年(805)11月戊子(23日)条
    大同元年(806)3月辛巳(17日)条
    大同元年4月辛亥(18日)条
    大同元年4月甲寅(21日)条
    大同3年(808)正月丁未(25日)条
    大同3年11月甲午(17日)条
    大同4年(809)6月壬午(8日)条
    大同4年9月壬戌(19日)条
    弘仁元年(801)9月丁未(10日)条
    弘仁元年9月乙卯(18日)条
    弘仁元年10月己巳(2日)条
    弘仁3年(812)6月戊子(2日)条
    弘仁7年(816)10月甲午(3日)条
続後紀 承和3年(836)閏5月戊寅(10日)条
    承和8年(841)11月丙辰(20日)条
    承和10年(843)正月辛丑(12日)条
三実  貞観元年(859)11月19日庚午条
    貞観4年(862)2月23日壬戌条
    貞観5年(863)9月5日甲午条
万   17・3926
風   出雲国・出雲の郡条/常陸国・茨城の郡条
姓   左京皇別下
旧   7・天皇本紀
始祖
神八井耳命(記・紀・姓・旧)
後裔氏族
多朝臣
多宿禰
説明
 大和国十市郡飫富郷を本拠地とした氏族。意富は多・太・大・意保・於保とも書く。本流は天武13年(684)に朝臣姓を賜った。『古事記』(以下『記』)を撰進した太朝臣安万侶の出身氏族としても著名である。ただし『記』本文にみえる意富臣は、綏靖天皇同母兄の神八井耳命の後裔氏族として名があげられるにとどまっている。一方で、『日本書紀』(以下『紀』)にはその活動が散見する。まず多臣の祖とされる武諸木は、景行天皇の西征に従軍し、天皇に服属しない賊を誅殺している。次に確認できるのは天智天皇即位前紀で、百済復興を目的として百済王子の豊璋が帰国する際、多臣蔣敷の妹が妻として迎えられている。さらに『紀』でもっとも華々しい活躍をみせるのが品治で、久安5年(1149)謹上の「多神宮注進状」(『和州五郡神社神名帳大略註解』巻4補闕所収)では安万侶の父とされる。美濃国安八磨郡(のちの安八郡)の湯沐令であった品治は、大海人皇子の命令に従って挙兵し、壬申の乱の口火を切った。湯沐令とは湯沐料を供出する地(湯沐邑)の管理者のことであるが、湯沐邑は実質的には経済的・軍事的基盤となり得る直轄領であり、品治と大海人も私的な関係を有していたとされる。伊勢大山から倭に侵攻する際には、数千の兵を率いて伊賀国莿萩野に駐屯し、近江朝廷方の田辺小隅を破って大海人の危機を救っている。これらの功績によって、持統10年(696)には直広壱(正四位下相当)の位を授かった。天武12年(683)に諸国の境界を定めた際にも、品治は伊勢王らともに巡行している。これらの活動内容からは、多臣は軍事氏族としての性格を有していたと推測されている。
 令制下における多朝臣は、四位・五位の中級官人を輩出する氏族であった。安万侶も例外ではなく、『続日本紀』には卒去時に民部卿従四位下とある。『記』序文および昭和54年(1979)に発見された太朝臣安麻侶墓誌には勲五等ともあり、この勲位は和銅2年(709)の対蝦夷戦役に関連して賜ったものとされている。同様に勲五等を賜った氏人として、天応元年(781)の対蝦夷戦役に征東副使として従軍した犬養がおり、これらの活動は令制以前の軍事的性格を引き継いだものと理解できよう。氏人のなかでは、平安時代初期に入鹿が従四位下参議まで至ったが、平城太上天皇の変において左遷の憂き目に遭い、それ以降は多朝臣から貴(三位以上)に達するものが出ることはなかった。ただし、多朝臣は学問の分野では一定の地位を築いていたらしく、弘仁3年(812)におこなわれた日本紀講筵(『紀』の勉強会)では、従五位下ながら人長が講師役に選ばれている。その講義録である『弘仁私記』によると、安万侶が『紀』の編纂者のひとりとされている。さらに『日本紀竟宴和歌』によれば、養老5年(721)におこなわれた最初の日本紀講筵の講師役は安万侶であった。これらの記述を信用するならば、多朝臣と学問との関わりは8世紀初頭まで遡るといえる。しかし、このような学問の場における多朝臣の活動も、9世紀後半には確認できなくなっていく。
 政治・学問の分野で衰退した多朝臣であるが、平安時代後期には右舞一者(高麗楽の一番手)や御神楽の拍子を世襲する「楽家多氏」として再興する。永正9年(1512)成立の『体源抄』に収められた『多氏系図』によれば、楽家多氏の始祖は貞観年間に活動した自然麻呂であり、系譜上は入鹿の孫とされる。ただし『日本三代実録』には、自然麻呂が貞観5年(863)に臣姓を改めて宿禰姓を賜ったとあり、実際は多氏本流(=多朝臣)の入鹿とは別系統であったと考えられる。自然麻呂が歌舞に関わったことを具体的に示した史料はないが、貞観元年(859)の清和天皇の大嘗祭において、田舞を掌った多治氏や久米舞を掌った伴氏・佐伯氏とともに自然麻呂も叙位されていることから、このときに神楽のような神事的歌舞を担当した可能性が指摘されている。また自然麻呂の嫡子である春野は、右近衛府生として競馬負方献物の歌舞に奉仕していたともされる。さらに多氏がカタリゴトを掌った氏族であったとして、多氏と歌舞の関係を令制以前まで遡らせる見解も少なくない。以上のように、多氏は遅くとも9世紀までに歌舞にかかわっていた可能性が高いが、この時点では「楽家」と称されるような地位は確立しておらず、歌舞にかかわる諸氏族のひとつにすぎなかった。しかし長年(『多氏系図』によれば30年)にわたって舞人のトップにあり、一条天皇から「当時の物の上手なり」(『御堂関白記』寛弘7年〈1010〉7月17日条)と称賛された好茂(吉茂)のころから、多氏は右舞の専属となったらしい。ここに歌舞を父子等の親族間で相伝する環境が整い、多氏は「楽家」の地位を確立していったとされている。長久元年(1040)には政方が朝臣姓を賜っており、これを神楽歌「宮人」(多氏の秘曲)に勤仕した褒賞とする『多氏系図』の記述は疑問であるが、このころまでには歌舞の家として相応の地位を築いていたことは間違いだろう。政方の次男である節資の代には御神楽の拍子も世襲するようになり、これ以降「楽家多氏」としてその地位を近代まで維持していくことになる。
 なお「多神宮注進状」によれば、安万侶はウヂ名の字を「多」から「太」に改め、のちに子孫が「多」に復したとされる。これは六国史の用字と矛盾しておらず、それに従えば「多」に復したのは宝亀元年(770)10月23日以降となる。ただし貞観5年(863)に賜姓された貞長は「太(大)朝臣」と表記されている。貞長の旧姓は金刺舎人であり、ともに神八井耳命の後裔氏族ではあるが、従来は多朝臣とは別族であった。そのため本系の多朝臣と区別するため、あえて「太(大)」を用いた可能性もある。この理解が許されるのであれば、元慶3年(879)に太皇太后の近侍として従五位下に叙された太朝臣平子も、本系ではなく貞長に近い人物と考えられよう。なお金刺舎人は信濃国の豪族であり、同様に地方豪族が多氏に改姓した例としては、神護景雲3年(769)に丈部山際が於保磐城臣を賜ったことがあげられる。また『出雲国風土記』には出雲郡少領大臣、『常陸国風土記』には大臣族黒坂命といった「大臣」姓の人物が確認でき、これらは多氏が地方へと進出していくなかで、在地の豪族と擬制的な同族関係を形成していった結果と考えられる。
参考文献
高橋六二「古事記の成立をめぐって―多氏と小子部連を中心に―」(『國學院雑誌』65-7、1964年7月)
山上伊豆母「神語から神楽へ―楽家多氏の成立―」(『日本芸能の起源』大和書房、1977年12月、初出1974年10月)
黛弘道「太安万侶の墓誌と『続日本紀』」(『物部・蘇我氏と古代王権』吉川弘文館、1995年9月、初出1979年7月)
野村忠夫「八世紀初葉の官人体制―太朝臣安万侶を中心に―」(『古代貴族と地方豪族』吉川弘文館、1989年10月、初出1980年5月)
西郷信綱『壬申紀を読む―歴史と文化と言語―』(平凡社、1993年6月)
荻美津夫「地下楽家の成立とその活動」(『平安朝音楽制度史』吉川弘文館、1994年12月)
中本真人「競馬負方献物と神楽」(『宮廷御神楽芸能史』新典社、2013年10月)
和田萃「多氏と多神社」(和田萃編『古事記と太安万侶』吉川弘文館、2014年11月)
中本真人「音楽説話の多氏―御神楽の拍子の家の形成をめぐって―」(『説話文学研究』50、2015年10月)

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