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蘇我臣

読み
そがのおみ
ローマ字表記
Soganoomi
登場箇所
孝霊記 欽明記
他文献の登場箇所
紀   履中2年冬10月
    雄略9年3月条
    宣化元年2月壬申朔条
    宣化元年夏5月辛丑朔条
    欽明天皇即位前紀
    欽明2年春3月条
    欽明13年冬10月是日条
    欽明14年7月甲子(4日)条
    欽明16年春2月条
    欽明16年秋7月壬午(4日)条
    欽明17年秋7月己卯(6日)条
    欽明17年冬10月条
    欽明23年8月条
    欽明31年春3月甲申朔条
    敏達元年4月是月
    敏達3年冬10月丙申(9日)条
    敏達13年是歳条
    敏達14年春2月壬寅(15日)条
    敏達14年春2月辛亥(24日)条
    敏達14年3月丁巳朔条
    用明天皇即位前紀・敏達14年9月戊午(5日)条
    用明元年春正月壬子朔条
    用明元年夏五月条
    用明2年夏四月丙午(2日)是日条
    崇峻天皇即位前紀・用明2年6月庚戌(7日)条
    崇峻天皇即位前紀・用明2年秋7月条
    崇峻天皇即位前紀・用明2年8月甲辰(2日)条
    崇峻元年(588)是歳条
    崇峻5年(592)冬10月壬午(10日)条
    崇峻5年11月乙巳(3日)是日条
    崇峻5年11月是月条
    推古11年(603)春2月丙子(4日)条
    推古18年(610)冬10月丁酉(9日)条
    推古32年(624)冬10月癸卯朔条
    舒明天皇即位前紀・推古36年(628)9月条
    舒明2年(630)春正月戊寅(12日)条
    皇極元年(642)春正月辛未(15日)条
    皇極元年夏4月乙未(10日)条
    皇極元年秋7月丙子(23日)条
    皇極元年秋7月戊寅(25日)条
    皇極元年秋7月庚辰(27日)条
    皇極元年冬10月丁酉(15日)条
    皇極元年12月是歳条
    皇極2年(643)冬10月壬子(6日)条
    皇極2年冬10月戊午(12日)条
    皇極2年11月丙子朔条
    皇極3年(644)春正月乙亥朔条
    皇極3年六月乙巳(3日)条
    皇極3年6月戊申(6日)条
    皇極3年冬11月条
    皇極4年(645)6月戊申(12日)条
    皇極4年6月己酉(13日)条
    孝徳天皇即位前紀・皇極4年6月庚戌(14日)条
    孝徳天皇即位前紀・皇極4年6月辛亥(15日)条
    大化元年(645)秋7月戊辰(2日)条
    大化元年秋7月戊寅(12日)条
    大化元年秋7月己卯(13日)条
    大化元年秋7月庚辰(14日)条
    大化元年8月癸卯(8日)条
    大化元年9月戊辰(3日)条
    大化元年9月丁丑(12日)条
    大化2年(646)2月戊申(15日)条
    大化5年(六四九645)3月戊辰(24日)条
    大化5年3月己巳(25日)条
    大化5年3月庚午(26日)条
    大化5年3月甲戌(30日)条
    大化5年3月是月条
    斉明4年(658)11月壬午(3日)条
    斉明4年11月庚寅(11日)是日条
    天智3年(664)夏5月是月条
    天智7年(668)2月戊寅(23日)条
    天智8年(669)春正月戊子(9日)条
    天智8年冬10月甲子(19日)条
    天智10年(671)春正月庚子(2日)条
    天智10年春正月癸卯(5日)条
    天智10年11月丙辰(23日)条
    天武天皇即位前紀・天智10年(671)10月庚辰(17日)条
    天武天皇即位前紀・天智10年10月壬午(19日)条
    天武元年(672)8月甲申(25日)是日条
    天武元年秋7月辛卯(2日)条
    天武天皇2年(673)2月癸未(27日)条
続紀  元明天皇即位前紀
    天平宝字6年(762)9月乙巳(30日)条
続後紀 承和12年(845)正月甲寅(7日)条
三実  元慶元年(877)12月27日癸巳条
    元慶6年(882)8月23日壬戌条
姓   左京皇別上
    右京天別上
    大和国皇別
拾   雄略天皇
始祖
蘇我石河宿禰
彦太忍信命(姓)
後裔氏族
石川臣/石川朝臣/宗岳朝臣
説明
 大臣(オホマヘツキミ)を輩出した古代豪族のひとつ。蘇我は宗賀・宗我・曾我・巷宜・巷奇とも書く。本拠地は大和国高市郡の曾我とする説が有力であり、このほか大和国葛城郡や河内国石川郡にも勢力を有していた。『古事記』では、蘇我石河宿禰(武内宿禰の子)の後裔氏族として、川辺臣ら6氏族と同族関係にあったことが記され、また欽明天皇のキサキである岐多斯比売(堅塩媛)の父として、「宗賀之稲目宿禰大臣」の名があげられている。石河宿禰は『日本書紀』(以下『紀』と略す)にも登場し、応神期に紀角宿禰・羽田矢代宿禰・平群木菟宿禰(いずれも武内宿禰の子)とともに、百済の辰斯王の無礼を叱責する使者に任じられている。また履中期には蘇我満智宿禰の名がみえ、平群木菟宿禰らとともに国政を執った人物としてあげられる。麻智宿禰(満智宿禰)の伝承は『古語拾遺』にも載せられており、雄略期に三蔵(齋蔵・内蔵・大蔵)の検校を命じられ、その出納・勘録を渡来系氏族の秦氏・漢氏が担当したとされる。雄略期には蘇我韓子宿禰が新羅征討の大将のひとりとして派遣されたが、征討軍の全権掌握を画策する紀大磐宿禰を除こうとして失敗、大磐宿禰によって射殺されている。これらの人物について『紀氏家牒』は、その系譜を石河―満智―韓子―馬背(高麗)―稲目と示しているが、馬背以前の人物の実在性は疑問である。ことに石河宿禰に関していえば、蘇我臣のなかでも石川郡を本拠地とし、のちに蘇我氏本流の地位を獲得した蘇我倉家(石川朝臣)によって創作された人物である可能性が指摘されている。
 『紀』によれば、宣化元年に蘇我稲目宿禰が大臣に任じられたとされる。稲目が台頭した背景については諸説あるが、満智宿禰の三蔵検校伝承にもその一端がうかがえるように、蘇我臣が渡来系氏族を支配下に置いていたことは重視されるべきだろう。また、のちに稲目の子の馬子が葛城県を「臣の本居」と称していることから、稲目は葛城臣の娘と婚姻関係を結び、馬子が葛城県で養育されたことが想定されている。さらに馬子は同県の割譲を要求していることから、蘇我臣が婚姻関係を介して葛城臣の地位を継承する立場にあったとする説、そもそも蘇我臣が葛城地域を基盤とする集団から独立して成立したとする説も存在する。少なくとも葛城臣との関係が稲目の勢力拡大に寄与したことは間違いないだろう。欽明期にも大臣に任じられた稲目は、白猪・児島など多くの屯倉の設置に尽力し、それに加えて大王との外戚関係を獲得することで(用明・崇峻・推古の三天皇は稲目の外孫)、蘇我臣の政治的な地位を盤石なものとしていった。また稲目に関して特筆すべき事項としては、『紀』にみえる崇仏・廃仏論争があげられる。稲目は「小墾田の家」に仏像を安置し、「向原の家」を寺としているが、国に疫病が流行した際、これらは物部大連尾輿・中臣連鎌子の主張によって破壊された。仏教をめぐる対立は次代にも引き継がれ、これらの記事は崇仏派の蘇我臣、廃仏派の物部連・中臣連という関係を示すものとして、一般的には理解されている。しかし実態はそれほど単純な図式ではなかったようで、物部連も仏教を受容していた形跡があることから、むしろ蘇我臣と物部連・中臣連の政治的対立が先行していた可能性が高い。『紀』によれば、稲目は欽明31年(570)に亡くなったとされる。その墓の候補地は複数あるが、現在は石舞台古墳の南南西に位置する都塚古墳が有力視されている。
 稲目の政治的地位は馬子が継承し、敏達天皇の即位に際して大臣に任じられた。その邸宅から馬子は「嶋大臣」とも称されている。稲目に続いて馬子も仏教に傾斜したが、やはり廃仏を主張する物部弓削守屋大連・中臣勝海大夫らと対立した。馬子の妻は守屋の妹であり、大臣就任時は守屋とも協調関係にあったと推測されるが、敏達の死没前後には完全に関係が崩壊し、敏達の殯宮で互いに罵り合うまでに悪化している。用明天皇が即位2年足らずで没すると、馬子と守屋の対立は軍事衝突にまで発展する。しかし王族・群臣のほとんどは馬子を支持し、守屋は別業のあった渋川郡で応戦するも、多勢に無勢あっけなく滅ぼされた。のちに馬子と厩戸皇子は戦中に立てた誓願に従い、それぞれ法興寺(飛鳥寺)と四天王寺を建立したという。以上が馬子と守屋の対立(丁未の乱)の顛末である。『紀』は敏達期の崇物・廃仏をめぐる争いを起点とし、王位を望む穴穂部皇子の暴走を挟みながらも、廃仏派の守屋(と勝海)が滅ぼされ、法興寺・四天王寺の建立へと帰結する、物語として非常にわかりやすい構成となっている。しかし、やはり乱の根底には崇物・廃仏よりも政治的な対立があったとみるべきで、その直接の要因は敏達没後から続く王位継承争いであった。結果として即位したのは蘇我系の崇峻天皇であったが、その崇峻も即位から5年ほどで、馬子の命を受けた東漢駒に暗殺されている。暗殺に至る原因を『紀』は馬子と崇峻の対立に求めているが、「王殺し」の異常事態であるにもかかわらず、その後たいした混乱もなく推古天皇が即位していることから、崇峻の能力不足に起因する支配者層の合意があった可能性が指摘されている。崇峻に代わって即位した推古も蘇我系で、しかも宮を築いた豊浦(向原)と小墾田はともに稲目の「家」があった場所にあたり、推古と蘇我臣の密接な関係がうかがえる。ともに政権を主導した厩戸も蘇我系といえる(父母ともに蘇我腹所生)。推古11年(603)に制定された冠位十二階では、十二階を超越した「紫官」が馬子に授けられ、ここに他の大夫(マヘツキミ)とは隔絶した馬子の地位が承認された。それまで大夫の地位は各氏族からひとりが原則であったが、馬子が大臣として健在でありながら、その子の蝦夷も大夫となっている。しかし、このような蘇我臣に対する格別の待遇は、結果として蘇我臣の孤立・独善化を招くことにもなったとされる。また馬子は稲目の方針を継承し、大王家との婚姻関係の形成に努めた。結果として馬子の孫が王位を継承することはなかったが、田村皇子(舒明天皇)と法提郎媛との間に生まれた古人大兄王、厩戸と刀自古郎女との間に生まれた山背大兄王は有力な王位継承候補者であった。推古20年(612)には堅塩媛(稲目の娘)を欽明陵に改葬し、蘇我臣と欽明系王統との関係性を大々的にアピールしている。なお推古28年(620)には「国史」の編纂が開始されたが、それは乙巳の変の時点で蝦夷の邸第に置かれており、馬子(蘇我大臣家)が「国史」編纂においても主導的な地位にあったことが推測されている。馬子は推古34年(626)に没し、すでに大臣に就任してから半世紀以上を経ていた。その墓は石舞台古墳とするのが有力で、残された巨大な石室からその権勢を偲ぶことができる。
 馬子の没後、蝦夷が大臣に任じられた。母は物部守屋の妹であり、邸宅から「豊浦大臣」とも称される。大臣蝦夷にとって最初の試練は大臣に就任してから約2年後、推古の没後に訪れた。推古の36年にわたる異例の長期在位によって、本来であれば王位を継承するはずだった次世代が先に没してしまい、そのことが王位継承争いを引き起こしたのである。推古は田村・山背大兄のいずれが即位するかで群臣の意見が割れ、最終的には蝦夷の主導で田村(舒明天皇)が即位することになるが、その過程で蝦夷は強行に山背大兄を推挙する境部摩理勢臣(蝦夷の叔父)を滅ぼしている。即位した舒明と蝦夷の関係は、少なくとも表面上は平穏であった。ただし治世の末年になると、舒明は蘇我臣の勢力圏から離れた地に百済大宮・大寺の造営を開始した。これを舒明が蘇我臣から独立した権力基盤を志向したものとする見解もあるが、百済大宮に移って約1年で舒明が没したため、どこまで舒明が蘇我臣との対立を企図していたかは不明である。なお舒明8年(636)のこととして、大派王が郡卿・百寮が朝参を怠っていることを指摘し、卯の始(午前6時ごろ)に出勤させ、その時刻を鐘で知らせるように提言したが、蝦夷は従わなかったとの記事がある。舒明に次いでその妃の宝皇女(皇極天皇)が即位すると、蝦夷は大臣に再任された。その治世初年である皇極元年(642)条には、蘇我大臣家の専横として著名な、天皇のみに許される八佾の舞を蘇我臣の祖廟で踊ったこと、百八十部曲を使役して双墓を造営したこと、それを「大陵」「小陵」と称したこと、上宮王家の乳部を勝手に使役したことなどが一括して載せられている。このうち「大陵」が蝦夷の墓であり、そして「小陵」が蝦夷の子である入鹿の墓とされる。
 入鹿がはじめて『紀』に登場するのも皇極元年条である。別名として鞍作があり、また「林太郎」とも称された。『紀』は入鹿を「威(いきほい)父に勝れり」と評しているが、それは皇極2年(643)に病気がちの蝦夷が「私に紫冠を子入鹿に授けて、大臣の位に擬」えたことと関係しているのだろう。大臣位は天皇から任命される必要があったが、蝦夷は冠位十二階の外に置かれた「紫冠」を譲ることによって、入鹿がみずからの後継者・代行者であることを示したといえる。『紀』の記述だけをみれば、独善的な行動の末に自滅したという印象の拭えない入鹿だが、『藤氏家伝』はのちに改進政府にも参与する旻が、入鹿を「吾が堂に入る者、宗我太郎に如くはなし」と高く評価していたことを伝える。入鹿は蝦夷から「紫冠」を譲られた直後、突如として巨勢徳太らを派遣、斑鳩宮を襲撃して山背大兄を滅ぼした。古人大兄の擁立を謀ったとも、上宮王家の威名を恐れたともされ、蝦夷はその軽挙を嘆き罵ったと伝える。ただし『上宮聖徳太子伝補闕記』では、軽皇子(のちの孝徳天皇)や大伴馬甘(のちに右大臣)など、のちの改新政府の主要メンバーも襲撃に関与したと伝える。平安時代に編纂された史料という問題はあるが、山背大兄の排除は王権や群臣の総意であった可能性もあり、少なくとも入鹿ひとりの犯行に帰する『紀』の記述は、聖王厩戸の子孫を滅ぼした悪臣であることを強調する演出といえる。
 皇極4年(645)、入鹿は中大兄皇子らによって飛鳥板蓋宮で討たれ、蝦夷も邸宅に火を放って自害した。いわゆる乙巳の変である。『紀』では大王位を狙った逆臣入鹿、それを誅した中大兄という単純な図式で描かれているが、その背景には国家の方針をめぐる対立があったと理解されている。中国大陸における統一国家(隋・唐)誕生の影響から、7世紀前中葉の朝鮮半島では政変が頻発していた。その過程で百済・高句麗・新羅の三国は、軍事的危機への対応として権力集中を模索していくことになるが、そのかたちは国王が軍政を掌握する百済型、宰相に国権が集中する高句麗型、有力な王族・権臣がそれぞれ外交・軍事を分掌する新羅型と三国三様であった。朝鮮半島における危機感は倭国も共有しており、蝦夷・入鹿の専横のひとつに数えられる甘檮岡の「上の宮門」「谷の宮門」も、軍事的危機に対応するための防衛措置と理解することができる。このように東アジア情勢が緊迫化するなかで、倭国の舵取りを引き継いだ入鹿が目指したのは、大臣が国権を掌握する高句麗型の権力集中であった。しかし蘇我大臣家の専制化はその孤立をより深め、百済型ないし新羅型の権力集中を望む動きが生じる。そこに古人大兄の即位を阻止したい王族(軽・中大兄)、蘇我臣やその同族における主導権争い(蘇我倉山田石川麻呂・高向国押)、大夫層から突出していく蘇我大臣家への不満(中臣鎌足・巨勢徳太)などが加わって、クーデターという事態にまで発展していくのである。
 乙巳の変によって蘇我大臣家は滅ぼされたが、蝦夷・入鹿以外の蘇我臣の勢力は温存されていた。そのなかで蘇我臣の主導権を握ったのは蘇我倉家の人々であり、乙巳の変の功績によって右大臣に任じられた石川麻呂であった。しかし石川麻呂は異母弟日向の讒言によって自死に追い込まれ、その日向も讒言の罪で筑紫大宰帥に左遷された。その間隙を縫って蘇我倉家のトップに躍り出たのが連子である。連子の経歴は不明な点が多く、『紀』には天智3年(664)に大臣として亡くなったことが記されるだけである。しかし蘇我倉家の第二世代(石川麻呂の兄弟)で身位を保ったまま亡くなったのは連子だけであり、結果として連子の系統がのちに石川朝臣を称し、蘇我臣嫡流の地位を獲得していくことになる。また蘇我倉家の赤兄は有間皇子に謀反を唆しながら、そのことを密告して中大兄の信任を獲得し、近江朝廷では左大臣にまで達している。また同じ蘇我倉家の果安も御史大夫に昇っているが、壬申の乱のさなか果安は自害し、乱後には赤兄も流罪に処されて没落した。また蘇我倉家もかつての蘇我大臣家と同様に、大王との婚姻・外戚関係の構築に努めている。石川麻呂の娘である遠智娘・姪娘は中大兄に嫁ぎ、前者は鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)、後者は阿陪皇女(のちの元明天皇)を生んでいる。有力豪族では藤原不比等も蘇我倉家の娼子(媼子、連子の娘)を迎えており、のちに娼子は武智麻呂・房前・宇合を生んでいるから、日本史を彩る藤原氏の人々もほとんどは蘇我臣の血統ということになる。
 天武天皇即位前紀によれば、病床の天智が大海人皇子(のちの天武天皇)を「大殿」に招いた際、蘇我臣安麻侶(連子の子)が天智の「隠謀」に備えるよう忠告し、それが大海人の吉野隠遁につながったとされる。しかし安麻侶はこの記事にしか登場せず、そのため乱の前後に死去した可能性が指摘されている。このほか天武・持統期の石川朝臣の人物としては、安麻侶の兄弟である虫名・宮麻呂・子老・難波麻呂、安麻侶の子である石足らがいたが、全体的に官人としての活躍は低調であり、わずか虫名が天武14年(685)に東山道、持統3年(689)に筑紫に派遣された記事がみえるだけである。なお天武13年(684)に朝臣姓を賜った52氏族のなかに「石川」の名があることから、これ以前に蘇我臣は石川臣に改称していたらしい。
 先述した氏人は令制下において、宮麻呂は従三位、難波麻呂は正四位下、石足も従三位まで達したが、いずれも正規の議政官には列していない。石足は長屋王の変に際して権参議(臨時の参議)となっているが、同年中に亡くなったため正参議に任じられることはなかった。同時に権参議に任じられた多治比県守・大伴道足がのちに正参議へ転じているから、あるいは石足も長命を保てば正参議に列していたかもしれない。また文武天皇が即位した際、石川朝臣の議政官がいないにもかかわらず、石川朝臣刀子娘が嬪として入内している。その背景には蘇我臣が大王との婚姻を繰り返してきた伝統があったと考えられるが、首皇子(のちの聖武天皇)の立太子と関係してか、和銅6年(713)には嬪の称号を剥奪されている。このように令制初期における石川朝臣は、伝統を背景に一定程度の地位を保持していたが、壬申の乱における他系統の没落から叙爵者の絶対数も少なく、安定した勢力を築くことができなかった。そのような状況を打破したのが年足(石足の子)であり、天平20年(748)に参議に列すると、長命を保って最終的には御史大夫(大納言)まで達した。それにともなって石川朝臣からの叙爵物は急増し、豊成・名足・真守と続けて議政官を輩出することになる。なお文政3年(1820)に現大阪府高槻市真上町の荒神山から年足の墓誌が出土しており、国宝に指定されている。
 延暦17年(798)に真守が參議のまま没すると、石川朝臣の議政官は途絶え、前後して叙爵者も徐々に減少していった。元慶元年(877)におそらく石川朝臣の氏上であった木村は、同族関係にあった箭口朝臣岑業とともに、宗岳朝臣への改姓を許されている。後代には「ムネオカ」と訓まれ、宗岡・宗丘とも書かれたが、当初は「ソガ」であったと考えられている。名目上の改姓理由としては、始祖である石河宿禰と同名であることは憚られるといったものだが、実際には大臣をも輩出した「蘇我臣」への回帰にほかならず、貴族層としては風前の灯火となっていた家運をかつての栄光に託したものだろう。その後も経則・為成など叙爵者が完全に途絶えた訳ではなかったが(『外記補任』)、基本的には下級官人としての活動が主となり、中世以降は地下家として存続していくことになる。なお天喜5年(1057)4月3日付の「河内国衙証判龍泉寺寺領帳」(『春日大社文書』2-452)では、河内国石河郡に所在する所領をめぐって国司の証判を求めており、平安時代中期に至っても宗岳朝臣は同地に勢力を有していたことが指摘されている。
参考文献
角田文衞「首皇子の立太子」(『律令国家の展開』角田文衞著作集第3巻、法蔵館、1985年3月、初出1965年2月)
野村忠夫「弁官についての覚え書―八世紀~九世紀半ばの実態を中心に―」(『律令政治と官人制』吉川弘文館、1993年12月、初出1969年6月)
石母田正『日本の古代国家』(岩波書店、2017年1月、初出1971年1月)
高島正人「奈良時代の石川朝臣氏」(『奈良時代諸氏族の研究―議政官補任氏族―』吉川弘文館、1983年2月、初出1972年4月)
加藤謙吉『蘇我氏と大和王権』(吉川弘文館、1983年12月)
遠山美都男『蘇我氏四代―臣、罪を知らず―』(ミネルヴァ書房、2006年1月)
吉村武彦『蘇我氏の古代』(岩波書店、2015年12月)
倉本一宏『蘇我氏―古代豪族の興亡』(中央公論新社、2015年12月)
佐藤長門『蘇我大臣家 倭王権を支えた雄族』(山川出版社、2016年5月)

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