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田中臣

読み
たなかのおみ
ローマ字表記
Tanakanoomi
登場箇所
孝元記
他文献の登場箇所
紀   推古31年(623)是歳条
    天武元年(672)6月甲申(24日)是日条
    天武元年秋7月辛卯(2日)条
    天武10年(681)12月癸巳(29日)条
    天武13年(684)11月戊申朔条
    持統元年(687)春正月甲申(19日)条
    持統3年(689)春正月辛酉(8日)条
    持統3年5月甲戌(22日)条
    持統3年秋8月辛丑(21日)条
    持統5年(691)秋7月壬申(3日)是日条
続紀  文武2年(698)6月丁巳(29日)条
    文武3年(699)10月辛丑(20日)条
    養老4年(720)正月甲子(11日)条
    天平6年(734)正月己卯(17日)条
    天平8年(736)正月辛丑(21日)条
    天平10年(738)4月庚申(22日)条
    天平20年(748)2月己未(19日)条
    天平宝字元年(757)5月丁卯(20日)条
    天平宝字元年6月壬辰(16日)条
    天平宝字3年(759)7月丁卯(3日)条
    天平宝字4年(760)正月丙寅(4日)条
    天平宝字5年(761)11月丁酉(17日)条
    天平宝字6年(762)4月庚戌朔条
    天平宝字6年閏12月己亥(25日)条
    天平宝字8年(764)4月戊寅(11日)条
    天平宝字8年9月丙午(12日)条
    天平宝字8年9月癸亥(29日)是日条
    神護景雲元年(767)10月辛卯(15日)条
    神護景雲3年(769)8月甲寅(19日)条
    宝亀元年(770)6月丁未(16日)条
    宝亀元年8月癸巳(4日)条
    宝亀2年(771)2月己酉(22日)条
    宝亀2年5月己亥(14日)条
    宝亀3年(772)4月庚午(20日)条
    宝亀4年(773)正月癸未(7日)是日条
    宝亀6年(775)正月庚戌(16日)条
    宝亀8年(777)10月辛卯(13日)条
    宝亀8年10月辛卯(13日)条
    宝亀9年(778)正月戊午(11日)条
    宝亀10年(779)正月甲子(23日)条
    宝亀11年(780)3月壬午(17日)条
    延暦4年(785)正月乙巳(9日)条
    延暦7年(788)11月戊辰(25日)条
    延暦8年(789)正月己酉(6日)条
    延暦8年4月丙戌(14日)条
    延暦9年(790)3月壬戌(26日)条
後紀  延暦16年(797)2月乙丑(9日)条
    延暦16年2月辛未(15日)条
    延暦19年(800)10月己卯(14日)条
    延暦23年(804)4月己酉(5日)条
    大同元年(806)正月癸巳(28日)条
    大同元年3月壬午(18日)条
    大同元年4月乙巳(12日)条
    弘仁元年(810)9月甲子(27日)条
    弘仁元年10月己巳(2日)条
    弘仁元年11月戊午(22日)条
    弘仁2年(811)7月乙卯(23日)条
    天長2年(825)正月辛亥(4日)条
    天長6年(829)正月戊子(7日)条
続後紀 天長10年(833)5月甲午(8日)条
    承和元年(834)正月癸亥(12日)条
    承和6年(839)9月乙酉(7日)条
三実  貞観元年(859)3月26日壬午条
    貞観6年(864)正月8日乙未条
    貞観9年(867)正月8日己酉条
    貞観18年(876)11月25日戊戌条
風   播磨国風土記・揖保の郡
姓   右亰皇別上
始祖
蘇我石河宿禰
稲目宿禰(姓)
後裔氏族
田中朝臣
説明
 武内宿禰後裔氏族のひとつ。大和国高市郡田中を本拠地とする。天武13年(684)に朝臣姓を賜った。『古事記』では、蘇我石河宿禰(武内宿禰の子)の後裔氏族として、蘇我臣らとともに掲げられている。また『新撰姓氏録』には蘇我稲目の後裔とあり、これに従えば田中臣は馬子の代に蘇我臣から分かれたことになる。これはおよそ事実を伝えているものと考えられ、『日本書紀』における田中臣の初見は推古31年(623)まで遅れている。その記事では任那を併合した新羅を討つことが議論されており、田中臣(名は不詳)は性急な派兵に慎重な態度をとっている。次に田中臣が登場するのは壬申の乱で、ときに湯沐令(皇子が賜った湯沐邑を管理する官人)であった田中臣足麻呂(足摩侶)が、伊勢国鈴鹿郡まで進軍してきた大海人皇子(のちの天武天皇)のもとに駆けつけ、倉歴道(伊賀国と近江国を結ぶ道)の防衛を任されたが、近江朝廷の将軍である田辺小隅の夜襲を受けて潰走した。それでも大海人皇子に味方した功績が評価され、文武2年(698)に没した際には、「壬申年の功」として直広壱(正四位下相当)を贈られている。足麻呂との関係は不明だが、天武10年(681)には田中臣鍛師が小錦下(従五位相当)に叙されており、また持統元年(687)には田中朝臣法麻呂が新羅に派遣され、天武天皇の喪を告げている。法麻呂は持統3年(689)に帰朝し、同年中には伊予総領の地位に就いている。彼はまた讃岐国御城郡で捕えた白燕の放養を命じられていることから、その管轄は讃岐国にも及んだと推測される。文武3年(699)には直大肆(従五位上相当)の位にあり、越智山陵(斉明天皇陵)を修造するために派遣されたことまでは確認できるが、その後の消息は不明である。
 奈良時代を通して田中朝臣は多数の叙爵者を輩出したが、そのほとんどは内外の従五位下にとどまっている。そのなかで特筆すべき人物としては多太麻呂がおり、その初見は天平宝字元年(757)5月に従五位下に叙された記事である。翌月には中衛員外少将に任じられるが、このときの中衛府大将は藤原仲麻呂であった。また天平宝字5年(761)に仲麻呂の子である朝狩が東海道節度使に任じられると、多太麻呂はその副使となっている。多太麻呂は翌6年4月に陸奥守、同年閏12月には鎮守府副将軍に任じられるが、この年は朝狩が多賀城を修造した年にあたっており(「多賀城碑」)、多太麻呂も朝狩の副官として修造事業に関与したことが推測される。以上のように仲麻呂政権下で重用された多太麻呂であったが、天平宝字8年(764)に発生した藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇の側に立ったらしく、乱後には従四位下に昇進している。また同年には陸奥守を兼帯したまま鎮守将軍に転じており、継続して東北経営の中心的位置にあった。神護景雲元年(767)には伊治城を造作し、その功績によって正四位下を授けられている。その後は陸奥国を離れて内外官を歴任し、宝亀9年(778)に右大弁正四位下として没した。この多太麻呂の正四位下が田中朝臣にとっての極位であり、多太麻呂以降ほとんどの氏人は従五位下を超えることはなく、男官では弘仁元年(810)に浄人(清人)が従五位上、女官では延暦4年(785)に吉備が正五位下、貞観18年(876)以前に保子が従五位上に叙された程度である。9世紀中葉には氏としての衰退も顕著となり、男官では承和6年(839)の真成、女官でも保子を最後に叙爵者は確認できなくなる。
参考文献
佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇、第2(吉川弘文館、1982年3月)
加藤謙吉『蘇我氏と大和王権』(吉川弘文館、1983年12月)

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