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丸邇臣

読み
わにのおみ
ローマ字表記
Waninoomi
登場箇所
開化記 崇神記・建波邇安王の反逆 仲哀記・忍熊王の反逆 仁徳記・山城の筒木宮
他文献の登場箇所
紀   孝昭68年春正月庚子(14日)条
    開化6年春正月甲寅(14日)条
    崇神10年9月壬子(27日)条
    垂仁25年春2月甲子(8日)条
    神功摂政元年3月庚子(5日)条
    応神2年春3月壬子(3日)条
    仁徳30年冬10月甲申朔条
    仁徳65年条
    雄略元年春3月是月条
    仁賢元年2月壬子(2日)条
    継体元年3月癸酉(14日)条
続後紀 承和4年(837)3月癸未(20日)条
始祖
天足彦国押人命(紀)
後裔氏族
春日臣ヵ
説明
 日本古代の雄族のひとつ。本拠地は大和国添上郡和爾の地と考えられる。丸邇には和珥・和迩・和邇・和爾・和尓・丸など多数の表記がある。『古事記』(以下『記』)には丸邇臣の祖先の活躍がいくつか描かれており、崇神記では日子国夫玖命が大毘古命に従い、反乱を企てた建波邇安王を射殺している。また神功皇后が三韓を平定した際、その帰国に乗じて忍熊王が反乱を起こすと、難波根子建振熊命が将軍となって忍熊王を打ち破った。氏人としては仁徳記に丸邇臣口子が登場し、天皇と大后の和解に尽力している。またワニ臣の特徴として、天皇のキサキを輩出したという伝承が非常に多いことがあげられる。開化天皇キサキの意祁都比売命、応神天皇キサキの宮主矢河枝比売・袁那弁郎女、反正天皇キサキの都怒郎女・弟比売、雄略天皇キサキの袁杼比売、仁賢天皇キサキの糠若子郎女はワニ臣の出身である。また宮主矢河枝比売が生んだ八田若郎女と袁那弁郎女が生んだ宇遅之若郎女は仁徳天皇のキサキとなっている。さらに仁徳天皇は八田若郎女の同母妹の女鳥王もキサキに迎えようとしたが、女鳥王はそれを拒絶して速総別王と結婚、夫に反逆を勧めるも察知した天皇に殺された。なお宮主矢河枝比売が生んだ宇遅能和紀郎子は応神天皇から後継者に指名されたが、大雀命(のちの仁徳天皇)と皇位を譲り合っている間に死去し、即位することはなかったと伝えられる。
 天押帯日子命(孝昭天皇の御子)の後裔氏族として、『記』は春日臣・大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣・壱比葦臣・大坂臣・阿那臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・牟耶臣・都怒山臣・伊勢飯高君・壱師君・近淡海国造を掲げており、ここにワニ臣の名はみえない。それに対して『日本書紀』(以下『紀』)では、天足彦国押人命(天押帯日子命)は和珥臣らの始祖とされ、『記』にみえる多数の天押帯日子命後裔氏族がワニ臣に代表されている。『紀』におけるワニ臣の伝承は、彦国葺(日子国夫玖命)が大彦(大毘古命)とともに武埴安彦(建波邇安王)を討ったとするもの、武振熊が忍熊王を討ったとするもの、口子臣が仁徳天皇と皇后の和解に奔走したとするものなど、『記』と共通する部分が多い。ただし、忍熊王の討伐は武振熊よりも武内宿禰が主体となっていたり、口子臣の活躍は異伝として本文では口持臣(的臣)が主役に据えられたりするなど、同じ伝承でも若干の差異は存在する。『記』にみえない伝承としては、垂仁紀に彦国葺が大夫に任じられたこと、仁徳紀に難波根子武振熊が飛騨の宿儺を誅殺したことが載せられる。またキサキを多く輩出したとする点も『記』と共通し、系譜上の位置も類似することから、これらは『帝紀』の記載に基づくものと推測されている。しかし、記紀の間では相違点も存在しており、八田皇女(八田若郎女)が皇后に立てられていること、菟道稚郎姫皇女(宇遅之若郎女)がキサキになっていないこと、雄略天皇のキサキとして袁杼比売の名がみえないこと、仁賢天皇の皇后である春日大娘皇女(雄略天皇の皇女)が春日和珥臣出身の童女君の出生とされること、その春日大娘皇女が継体天皇の皇后となった手白香皇女と宣化天皇の皇后となった橘皇女を生んだこと、仁賢天皇キサキの糠君娘(糠若子郎女)が安閑天皇の皇后となった春日山田皇女を生んだこと、『記』では阿倍臣(大毘古命系の阿倍臣ではなくワニ系の和安部臣とされる)の出身となっている雄略天皇キサキの波延比売(荑媛)がワニ臣の出身とされていることがあげられる。このように『紀』では皇后となる皇女の輩出を特色としており、『記』以上に天皇との強固な血縁関係が示されているといえる。ワニ臣出身の母をもつ皇子が即位することこそなかったが、皇太子になったとされる菟道稚郎子皇子(宇遅能和紀郎子)はその死に際して「崩」の字が用いられ(『紀』では大鷦鷯尊に皇位を譲るために自死したとされる)、春日山田皇女も宣化天皇の没後に天国排開広庭尊(のちの欽明天皇)から即位を勧められている。なお『記』ではワニ臣の出身とされる都怒郎女(津野媛)・弟比売(弟媛)が、『紀』では大宅臣の出身とするといった差異もあり、天押帯日子命後裔氏族の成立を考えるうえで注目される。また春日臣も欽明天皇や敏達天皇のキサキを輩出しており、ワニ臣の性格を継承していたといえる。
 ワニ臣は継体紀を最後に活動の形跡が途絶え、六国史では承和4年(837)に右近衛府生の和迩臣龍人を左京に貫附した記事が唯一のものである。そのため継体期ころにワニ臣は春日臣に改姓し、そこから小野臣や大宅臣など多数の氏族が分枝した結果、天押帯日子命後裔氏族の系譜が形成されたと考えられている。これに対して、『記』でワニ臣の出身とされるキサキが『紀』では大宅臣や阿倍臣の出身とされることを重視し、春日臣を盟主とした諸氏族が擬制的血縁関係を結んだものをワニ臣とする見解も存在する。ただし、天押帯日子命の後裔氏族のうち、多紀臣や羽栗臣など地方を本拠地とした氏族については、どちらの説でも血縁関係になかったとされ、ワニ臣の勢力拡大を背景として同祖系譜に組み込まれていったものとされる。ワニ臣が地方にも勢力を有していたことは、甲斐や加賀から周防に及ぶワニ部の広範な分布からも推測することができ、春日山田皇女の名代とされる春日部をワニ臣(春日臣)の部曲とする理解もある。
参考文献
岸俊男「ワニ氏に関する基礎的考察」(『日本古代政治史研究』塙書房、1966年5月、初出1960年10月)
佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇、第2(吉川弘文館、1982年3月)
早川万年「名代・子代の研究」(井上辰雄編『古代中世の政治と地域社会』雄山閣出版、1986年9月)
加藤謙吉『ワニ氏の研究』(雄山閣、2013年9月)

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