氏族データベース

氏族データベース凡例

倭漢直

読み
やまとのあやのあたひ/やまとのあやのあたい
ローマ字表記
Yamatonoayanoatai
登場箇所
応神記・百済の朝貢、履中記・墨江中王の反乱
他文献の登場箇所
紀   応神20年秋9月条
    応神37年春2月戊午朔
    応神41年2月是月
    履中即位前紀
    雄略7年是歳条
    雄略天皇16年冬10月条
    雄略天皇23年8月丙子(7日条)
    清寧即位前紀
    欽明31年(570)4月是月条
    欽明31年(570)7月是月条
    敏達元年(572)6月条
    崇峻5年(592)11月乙巳(3日)条
    崇峻5年11月是月
    推古16年(608)9月辛巳(11日)条
    推古天皇28年(620)冬10月条
    皇極元年(642)2月戊子(2日)条
    皇極3年(644)冬11月条
    皇極4年(645)夏4月戊戌朔条
    大化元年(645)7月庚辰(14日)条
    大化元年9月戊辰(3日)条
    大化3年(647)4月壬午(26日)条
    大化3年是歳条
    白雉元年(650)是歳条
    斉明5年(659)秋7月戊寅(3日)条
    斉明7年(661)5月丁巳(23日)条
    天智5年(666)是冬条
    天武元年(672)6月己丑(29日)条
    天武6年(677)6月是月条
    天武11年(682)5月甲辰(12日)条
    天武11年5月己未(27日)条
    天武14年(685)6月甲午(20日)条
続紀  宝亀3年(772)4月庚午(20日)条
    延暦元年(782)11月丁未(29日)条
    延暦4年(785)6月癸酉(10日)条
後紀  弘仁2年(811)5月丙辰(23日)条
続後紀 天長10年(833)12月戊申(26日)条
    承和6年(839)7月癸未(4日)条
    承和12年(847)閏3月庚辰(15日)条
三実  貞観4年(862)3月己巳朔条
    貞観4年7月28日乙未条
    貞観9年(867)11月20日乙卯条
    仁和3年(887)7月17日戊子条
姓   左京諸蕃上
    右京諸蕃上
    摂津国諸蕃
    河内国諸蕃
    和泉国諸蕃
旧   8・神皇本紀(清寧)
    9・帝皇本紀(崇峻)
拾   応神天皇
    履中天皇
    雄略天皇
    天武天皇
始祖
阿知直
阿知使主(紀)
漢高祖皇帝(坂上系図)
後裔氏族
葦屋漢人/荒田井直/荒田井忌寸/新家忌寸/池戸直/石占忌寸/井門忌寸/井上忌寸/石村忌寸/石村村主/畝火宿禰/於忌寸/於宿禰/榎井忌寸/大蔵直/大蔵忌寸/大蔵宿禰/忍坂直/忍坂忌寸/小谷忌寸/門忌寸/草直/蚊屋忌寸/蚊屋宿禰/韓国忌寸/狩忌寸/軽忌寸/河原忌寸/木津忌寸/国覓忌寸/内蔵朝臣/内蔵直/内蔵忌寸/内蔵宿禰/蔵垣忌寸/倉門忌寸/蔵人/栗村忌寸/来栖直/呉原忌寸/黒丸直/郡忌寸/酒人忌寸/坂上直/坂上忌寸/坂上大忌寸/坂上大宿禰/坂上宿禰/坂上連/桜井宿禰/佐太忌寸/佐太宿禰/斯佐直/白石忌寸/田井忌寸/高田忌寸/蓼原忌寸/谷直/谷忌寸/谷宿禰/民直/民忌寸/民宿禰/民連/田部忌寸/高谷忌寸/丹波宿禰/丹波史/調忌寸/調宿禰/長直/長忌寸/長尾忌寸/夏身忌寸/波多忌寸/林忌寸/林宿禰/火撫直/檜前直/檜前忌寸/檜原宿禰/平田忌寸/平田宿禰/文直/文忌寸/文宿禰/文池辺忌寸/文山口忌寸/文部忌寸/文部宿禰/文部岡忌寸/文部谷直/文部谷忌寸/路直/路忌寸/路宿禰/山口忌寸/山口宿禰/倭漢忌寸/倭漢連/東文部忌寸/与努忌寸
説明
 後漢・霊帝の後裔を称する渡来系氏族。倭漢は東漢とも書く。実態は朝鮮半島南部からの渡来集団と考えられており、漢(アヤ)の由来を任那の「安耶(安羅・阿那)」に求める説もある。雄略16年10月に直姓、天武11年(682)5月に連姓、同14年(685)6月に忌寸姓を賜った。始祖は応神天皇の時代に来朝した阿知直(阿知使主・阿知王)とされ、『古事記』では墨江中王によって放火された宮殿から履中天皇を救い出している。『坂上系図』に引用される『新撰姓氏録』逸文によれば、阿知王の来朝は「本国」の戦乱を避けたものであり、応神天皇より使主号と大和国檜前の地を賜ると、離散した故郷の人民を檜前に呼び集め、同地を今来郡(のちに高市郡)として倭漢直の本拠としたとされる。雄略天皇の時代には渡来系技術者集団である漢人・漢部の統率者に任ぜられ、さらに倭漢直掬(阿知直の子・都加使主と同一人物とされる)は雄略天皇の遺詔によって大伴大連室屋とともに後事を託されるなど、その勢力を大きく拡大させる。すでに履中天皇の時代に阿知直は内蔵の出納を担っていたが、雄略天皇の時代に大蔵が設置されると、漢氏は秦氏とともに内蔵・大蔵の主鎰・蔵部を務めたとも伝えられる(『古語拾遺』)。また、『新撰姓氏録』逸文は都賀使主の子(山木・志努・爾波伎)をそれぞれ兄腹・中腹・弟腹と称しており、倭漢直の後裔氏族は大きく三流に分かれていたことが知られる。ただし、これらの史料には編纂時の政治的意図が多分に含まれているため、史実とみるには慎重になるべきである。
 阿知直の伝承は加上したものとみなされ、実際の来朝は日朝交渉が緊密化して以降、およそ5世紀後半に求められている。倭漢直は渡来系技術者集団を駆使して王権に奉仕し、その活躍は文筆・財務・外交・手工業など多岐に及ぶが、6世紀以降は軍事的機能が特筆される。先述した雄略天皇の遺詔に代表されるように、はじめ倭漢直は大伴連と密接な関係を有していたと考えられるが、大伴連が没落して以降は蘇我臣に接近している。馬子の命を受けた東漢直駒による崇峻天皇の暗殺や、乙巳の変において蝦夷の守りを固めているのが、蘇我臣を軍事的に支えていた実例であろう。蘇我系の古人大兄皇子が謀反を密告された際にも、その謀議に加わった人物として倭漢文直麻呂の名が挙げられている。倭漢直の軍事力は壬申の乱においても発揮され、大海人皇子に勝利をもたらしている。天武6年(677)に出された詔では、小墾田の御世(推古期)から近江朝(天智期)まで東漢直は「七つの不可」を犯してきたが、東漢直が絶えることを惜しみ、それまでの罪を赦すと述べている。壬申の乱における功績が評価されたのと同時に、その軍事力が王権にとっても無視し得ないものであったことを物語っていよう。
 倭漢直には多数の後裔氏族が知られるが、天武11年に連姓を賜った際には、書直智徳がほかの分流に先行して連姓を賜っており、この段階では書直(連・忌寸)が族長的地位にあったと推測される。ただし、書忌寸の活動は8世紀初頭には縮小しており、代わって民忌寸が複数の叙爵者を輩出したが、最終的に族長的地位についたのは坂上忌寸(宿禰)であった。『新撰姓氏録』逸文の系譜が製作された8世紀末は、まさに坂上宿禰が族長的地位を確立しようとする時期にあたる。この時期には坂上宿禰に次ぐ倭漢集団内の勢力として大蔵宿禰・内蔵宿禰などがあったが、これらの氏族は『新撰姓氏録』逸文が列記する後裔氏族に挙げられていない。倭漢集団内の有力氏族は坂上宿禰の主張する系譜とは異なる独自の系譜を有しており、坂上宿禰が有力氏族に配慮して系譜に組み込まなかった可能性が指摘されている。その系譜のなかにみられる「三腹」についても信憑性は疑問視されており、むしろ職能によって組織化されていた集団が、兄腹・中腹・弟腹、さらには阿知使主・都加使主を始祖とする擬制的血縁集団へと収斂されていった結果と捉えるべきだろう。
参考文献
竹内理三「古代帰化人の問題―漢氏についての覚え書―」(『律令制と貴族』竹内理三著作集第4巻、角川書店、2000年2月、初出1948年6月)
関晃「倭漢氏の研究」(『古代の帰化人』関晃著作集第3巻、吉川弘文館、1996年12月、初出1953年9月)
上田正昭「渡来の波」(『東アジアと海上の道』上田正昭著作集第5巻、角川書店、1999年5月、初出1965年6月)
日野昭「倭漢氏の伝承の成立」(『日本古代氏族伝承の研究』続篇、永田文昌堂、初出1975年2月)
山尾幸久「秦氏と漢氏」(門脇禎二編『古代文化と地方』地方文化の日本史第2巻、文一総合出版、1978年2月)
山尾幸久「雄略大王期の史的位置」(『日本古代王権形成史論』岩波書店、1983年4月)
加藤謙吉『大和の豪族と渡来人 葛城・蘇我氏と大伴・物部氏』歴史文化ライブラリー144(吉川弘文館、2002年9月)

氏族データベース トップへ戻る

先頭