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故かれ、大国おほくに主神ぬしのかみ、出雲いづもの御大みほの御前みさきに坐いましし時に、 波の穂より天あめ之の羅摩舩かがみのふねに乗りて、 鵝がの皮を内剥うつはぎに剥ぎて衣服ころもとして帰より来くる神かみ有りき。 尒して其の名を問へども答へず。また従へる諸もろもろの神に問へども皆「知らず」と白まをしき。 尒して多迩具久たにぐく[多より下四字は音を以ゐる]白言まをししく、 「此こは久延毗古くえびこ必かならず知しりてあらむ」とまをしき。 即すなはち久延毗古を召して問ひし時に、答へ白まをししく、 「此は神かむ産巣むす日神ひのかみの御子みこ、少名すくな毗古びこ那神なのかみ[毗より下三字は音を以ゐよ] ぞ」とまをしき。 故、尒して神かむ産巣日御むすひみ祖命おやのみことに白まをし上あげしかば、答へて告のらししく、 「此こは実まことに我あが子こぞ。子の中に我あが手俣たなまたより久岐斯くきし[久より下三字は音を以ゐる] 子ぞ。 故、汝いまし葦原あしはら色許しこ男命をのみことと兄弟あにおととなりて其の国を作り堅めむ」とのらしき。 故、尒それより大穴おほあな牟遅むぢと少名毗古那と二柱ふたはしらの神相並かみあひならびて此の国を作り堅めき。 然しかして後のちは其の少名毗古那神は常世国とこよのくにに度わたりき。 故其の少名毗古那神を顕あらはし白まをしし所謂いはゆる久延毗古は、 今には山田の曽富騰そほどといふぞ。 此の神は足は行かねども、盡ことごとく天下あめのしたの事を知れる神なり。 是ここに大国主神愁うれへて告のらししく「吾独あれひとりして何いかにか能よく此の国を作ること得む。 孰いづれの神か吾あれと能く此の国を相作らむか」とのらしき。 是の時に海を光てらして依より来くる神有りき。 其の神の言ひしく、「能く我あが前まへを治をさめば吾あれ能よく共與ともに相作り成さむ。若もし然しかあらずは国成り難けむ」といひき。 尒して大国主神曰ひしく「然らば治め奉る状かたちは奈何いかに」といひき。 答へて言ひしく、「吾あは倭やまとの青垣あをかきの東ひむかしの山やまの上うへに伊都岐いつき奉まつれ」といひき。 此こは御諸山みもろのやまの上うへに坐います神ぞ。
○出雲の御大の御前 現在の島根県松江市美保関町美保関の地。『日本書紀』神代下八段一書六では少彦名命が現れたのは「出雲国の五十狭狭の小汀」とする。なお、『日本書紀』との比較については、【補注三】を参照のこと。 ○天之羅摩船 「羅摩」はががいも。ガガイモ科の蔓性多年草。果実は長さ10㎝余りの楕円形。そこから船と関連付けられるか。『日本書紀』(同前)には「白蘞の皮を以ちて舟に為り」とある。「白蘞」は、『出雲国風土記』秋鹿郡などにも見え、『本草和名』(上巻・日本古典全集本による)『和名抄』(元和三年古活字本巻二十による)によってヤマカガミ(ブドウ科の蔓性多年草)とされるので、記紀で異なる植物を指している可能性もある。「白蘞」の場合は根が紡錘形であることから船と関連付けられているのかも知れない。但し、「白蘞」は中国原産で、享保年間に渡来したとされる。新編全集『風土記』秋鹿郡191頁頭注では、「風土記当時は他の自生植物をそう呼んでいたか」とする。 ○鵝の皮を内剥ぎに剥ぎて 『日本書紀』(同前)には「鷦鷯の羽を以ちて衣に為り」とあり、「鷦鷯、此には娑娑岐と云ふ」とする。校異に記したように、この「鵝」字については、少名毗古那神の衣服とするには鵝の皮では合わないとして、「蛾」の誤りとみてヒムシと訓む説、蛾を飛ぶ鳥と見立てて「鵝」の字を宛てたものとして、「鵝」のままヒムシと訓む説(現行諸テキスト・注釈書ではこの説が多く採用されている)、『日本書紀』を参考として「鷦鷯」とする説などがある。「蛾」を飛ぶ鳥と見る説は仁徳記の「三色の奇虫」条に成虫としての蛾を「飛ぶ鳥」と表現していることによる。また「ヒムシ」の語は、仁徳紀二十二年正月条の49番歌に「那菟務始能 譬務始能虚呂望」の例がある。本注釈では諸本に従って本文は「鵝」のままとした。訓については、「鵝」でヒムシと訓む明確な根拠が無いので、取り敢えず「ガ」と訓んでおくこととした。なお「鵝」の訓義については、【補注一】参照。 ○多迩具久 『万葉集』5・八〇〇に「多尓具久能たにぐくの 佐和多流伎波美さわたるきはみ」、同6・九七一に「山彦乃やまびこの 将応極こたへむきはみ 谷潜乃たにぐくの 狭渡極さわたるきはみ」、祈年祭祝詞に「谷蟆能たにぐくの 狭度極さわたるきはみ 盬沫能留限しほなわのとどまるかぎり」と見える。タニグクはひきがえるのこと。「谷・潜る」の意かという。タニグクノサワタルキハミは地上の果て、至るところまでを表す慣用句的言い回しとなっている。 ○多迩具久 『万葉集』5・八〇〇に「多尓具久能たにぐくの 佐和多流伎波美さわたるきはみ」、同6・九七一に「山彦乃やまびこの 将応極こたへむきはみ 谷潜乃たにぐくの 狭渡極さわたるきはみ」、祈年祭祝詞に「谷蟆能たにぐくの 狭度極さわたるきはみ 盬沫能留限しほなわのとどまるかぎり」と見える。タニグクはひきがえるのこと。「谷・潜る」の意かという。タニグクノサワタルキハミは地上の果て、至るところまでを表す慣用句的言い回しとなっている。 ○久延毗古 記伝に「よとともに雨露にうたれ、風に吹キ破られなどして、身體ミの壞クヅれ傷ソコナはれたる意にもやあらむ、久豆禮クヅレを久延クエと云は古言なり」とし、『万葉集』の「伊波久叡乃イハクエノ」(14・三三六五)の例を挙げている。 ○神産巣日神・神産巣日御祖命 神産巣日神は①上巻冒頭で高天原に三番目に成る神・別天神五柱の中の一神、②須佐之男命によるオオゲツヒメ殺害の場面、③大穴牟遅神が八十神に殺された場面、④⑤当該、⑥大国主神の国譲りにおける火欑詞にその名が見える。このうち、①④は「神産巣日神」、②⑤⑥は「神産巣日御祖命」、③は「神産巣日之命」とあって、表記が異なっている。②⑤⑥に「御祖命」とあるのは、出雲の神(須佐之男命・大国主神)にとっての親神的存在として位置付けられている故か。当該④⑤の場面で、④「神産巣日神」、⑤「神産巣日御祖命」というように使い分けられているのは、④の場合がタニグクの台詞によることに関連するか。③については、「之」の字があることから、「命」を「言葉」の意にとって、「神産巣日の言葉を請うて」と理解し得る可能性もあるが、その場合「神産巣日」に「神・命」の尊称が付かない例となってしまうので、疑問が残る。 ○少名毗古名神 仲哀記39番歌に「須久那美迦微」、神功皇后摂政十三年二月32番歌に「周玖那弥伽未」とあり、神酒の司・常世に坐す神と歌われる。風土記に多く見られるが単独で登場する例は少なく、僅かに「伯耆国風土記逸文」粟島条に「少日子命」が見えるくらいである。他はオホナムヂと共に登場する。表記は「須久奈比古命・少日子根命・小彦命・少彦名・宿奈毗古那命」など多岐に亘る。『播磨国風土記』飾磨郡筥丘の「大汝少日子根命」は、一柱の神名のようにも読める。『出雲国風土記』飯石郡多祢郷では稲種を落とす、『播磨国風土記』揖保郡稲種山では稲種を積む、先述の伯耆国粟島条では粟を蒔くなど、農耕に関する記述が見られ、また「伊豆国風土記逸文」、「伊予国風土記逸文」では温泉を開いた神として描かれる。『万葉集』にも大汝とともに歌われる例が四例、「大汝 少彦名」として神代を示す例(3・三五五、18・四一〇六)、山を名づけた神とする例(6・九六三)、「大汝 少御神」として妹背の山を作った神とする例(7・一二四七)が見られる。これらの例を見る限り、ひろく国を作った神(農耕・温泉=医療・山作り)として信仰・伝承されていたことが窺える。少名毗古那神の農耕神的な要素、温泉の神としての位置付け等が「国作り堅め」る内容に関わると見ることも可能かも知れないが、『古事記』ではあくまでも具体的な内容を示していないと捉えるべきであろう。なお名義については、「少ナシ」の語幹「スクナ」に男子の美称「ヒコ」と親称の「ナ」が付いたものと思われる。「スクナミカミ」の例からしても、その中心は「スクナ」であることが分かる。小童の神ということであろう。古事記伝に、「須久那志とは、後ノ世にはたゞ多きに對へて、物の數にのみ云ヘども、古ヘは大に對へて、小チヒサきことにも云り」と説く。『播磨国風土記』神前郡堲岡里条は大汝命と小比古尼命の我慢比べの話だが、大きな大汝命が屎を我慢して遠くまで行くのと、小さな小比古尼命が堲を担いで我慢して遠くまで行く姿が対比的に描かれ笑いを誘うような話となっている。 ○白し上げ 古事記伝に、「上アゲは、少名毘古那ノ神を、高天ノ原に率ヰ て詣マウでて、御祖ノ命の御許ミモトに獻るを云、【下文御祖ノ命の詔に、此者コハ實マコトニ云々と詔ふは、まのあたりに見給ヒての御言なればなり、】上の遠呂智ノ段に、彼ノ都牟ツム刈ガリ之大刀ノタチを、白マヲシ 二上アゲ於天照大御神ニ一也とあるに同じ、彼レも上アグは卽其ノ大刀を獻るを云り、【俗にたゞ白マヲすことを、まうしあぐと云とは異なり、上アグの言輕く見べからず、】」という。『古事記』中の「上」は基本的にすべて実質的意味を持つ場合に用いられているので、ここも補助動詞的用法として「申し上げる」の意に取るのでは無く、「申して(少名毗古那神を高天原に)上げる」意で取るべきと思われる。神産巣日御祖命の言葉に「其の国を作り堅めむ」とあるのによって、少なくとも神産巣日御祖命が葦原中国側に居るわけではないことは確かである。西郷注釈は「何も高天の原に連れていったとまでしなくてよかろう」というが、神産巣日御祖命の居るところとしては高天原と考えるべきであろう。『日本書紀』の場合は、「使を遣し、天神に白したまふ」とある。 ○汝葦原色許男命 この段は大国主神の名で始まっているが、この神産巣日御祖命の発話では「葦原色許男命」と呼ばれている。これは高天原から、葦原中国を領有する神として呼んだが故であるという見方が半ば通説化している。須佐之男が根の堅州国という異界からこの神の名を呼ぶ場合に「葦原色許男」と言ったのも同様に捉えられているが、須佐之男命の場合は初めてこの神を見た時点で発した呼び名がこれであり、後に根の堅州国から逃げる大穴牟遅神に対しては「大国主神」「宇都志国主神」の名を与えるという展開からするならば、「葦原色許男」という名称は相手を一段低く見た際の呼び名ではないかと思われる。後の葦原中国平定神話も含めて、天神側がこの神を「大国主神」と呼ぶ例が見られない点も合わせて考えると、高天原の神産巣日御祖命にとっては、葦原中国の勇猛な(若しくは醜い)男という以上の意味を持たないこの神名が、この神に対する認識を表しているということではなかろうか。 ○其の国を作り堅めむ この言葉が、高天原の天神からの司令であるということで、大国主神の国作りを高天原側からの承認を得たものとして捉え、イザナキ・イザナミの国作りを継承するものとして捉える向きがあるが、後の葦原中国平定神話との関わりからすれば、大国主神の国作りが高天原側からの承認を得ていたものとは考えにくい。高天原の司令神は天照大御神若しくは高御産巣日神であり、その司令は「命以・詔」「言依」の形でなされるものであり、神産巣日神による「告」によって発せられる当該の言葉とはレベルが異なるものと思われるからである。「作堅」の内容についての具体的説明はなされないため、ここで何が行われたのかは分からない。『日本書紀』の「天下を経営り、復顕見蒼生と畜産との為は、其の病を療むる方を定め、又鳥獣・昆虫の災異を攘はむが為は、其の禁厭の法を定めき」という記述や、各国風土記に見られる神話を踏まえて、農耕・医療・温泉などに関わる国作りが行われている可能性はあるが、『古事記』においては具体性を持たせないということ以上に言うことは出来ない。なお、この「作堅」について、新編全集95頁頭注に、「この「作り堅めむ」は、前に「是のただよへる国を修理ひ固め成せ」とあったのと照応する」と指摘する。表現上の照応は指摘の通りであろうし、大国主神の国作りが結果的にイザナキ・イザナミの修理固成を引き継ぐものであったとしても、先述の通り神産巣日御祖命の発語をもって高天原からの司令であると読み取れない点は変わらない。新編全集は先の注に続けて、「従来「作り堅めよ」と読んで、葦原色許男に対する命令と解してきた。しかし、ここは葦原色許男に対する呼びかけであり、少名毗古那が一緒に国作りをするだろうの意として、「作り堅めむ」と読む」と指摘している。神産巣日御祖命の発言の位置付けとして同意し得るので、訓読文ではこの訓に従った。なお、大国主神の国作りについては、【補注二】も参照願いたい。 ○大穴牟遅と少名毗古那と二柱の神 先述の通り、この段では基本的に大国主神の名が用いられている。稲羽の素兎神話から根の堅州国訪問神話を経て大穴牟遅神から大国主神へと成長を遂げることで初めて国作りの神としての資質を得たと考えるならば、この段で大国主神の名が用いられるのは当然であると言える。だが、先のようにその名を呼ぶ立場や場所によっては他の名称が使用される場合がある。『古事記』では相互の関係性によって呼称が使い分けられるという傾向にあるからである。ただ、地の文において使用されるここでの大穴牟遅については、その記載意図が明らかではない。考えられるのは、少名毗古那と並称される場合は、その強固な結び付きによって、大穴牟遅の名でなければならないという了解事項があったのではないか、ということである。少なくとも少名毗古那がこの神と共に登場する話において、他の名が使われた例は見当たらない。 ○常世国 『古事記』の中で見ると、天の石屋段「常世の長鳴鳥」、天孫降臨段「常世思金神」、仲哀記・39番歌「久志能加美 登許余邇伊麻須 伊波多々須 々久那美迦微能」、雄略記・95番歌「麻比須流袁美那 登許余爾母加母」、鵜葺草葺不合命段「御毛沼命は、浪の穂を跳みて常世国に渡り坐し」、垂仁記・多遅摩毛理段「多遅摩毛理を以て、常世国に遣して」「常世国のときじくのかくの木実を持ちて」といった例が挙げられる。この「ときじくのかくの木実」は、今の橘であるとされる。最初の二例、歌の中の「登許余」、その他の「常世国」を皆同列に考えることが出来るかどうかは問題が残る。歌の中の「登許余」はスクナミカミの居る異郷で、スクナミカミが少名毗古那神と同じ神とするならば、歌の「登許余」と「常世国」とは共通性が認められるが、天の石屋段・天孫降臨段の場合はどちらも高天原の存在に対して「常世」が冠されているため、関連があるとすれば、天上界と海の彼方の世界とが一続きの異界として認識されていたか、本来一つの世界であったものが、海の彼方の異界と天上界とに分かれたか(天と海とがいずれもアマと読むところからその共通性を指摘する見方もある)、などといった見方をしないかぎり、高天原の神や鳥に「常世」が冠される理由が分からない。仮に高天原も海の彼方の「常世国」もいずれも永遠の世界であるゆえに共通した表現がなされるにしても、「長鳴鳥」と「思金神」のみにそれが冠される理由は今のところ不明である。『日本書紀』には『古事記』と同じく垂仁紀に、田道間守の行った「常世国」の話が記される。垂仁天皇九十年二月に出発し、十年後の三月に帰還したことを描き、「神仙の秘区かくれたるくににして、俗ただひとの臻いたらむ所に非ず」とする。皇極紀三年七月条には、虫を「常世神」として信仰する話があり、その虫が常に「橘樹に生なり、或いは曼椒ほそきに生る」とあり、常世と橘との関連が見られる。雄略紀(二十二年七月)や「丹後国風土記逸文」で浦嶼子が行った神仙世界が蓬莱山・蓬山などの表記であらわされており、これらを諸テキストではトコヨと訓んでいる。タヂマモリが行った常世国を含めて、上代文献に見られるトコヨは、中国の神仙世界と日本のトコヨ信仰が重ね合わされた世界として認識されているように見える。 ○山田の曽富騰 山田の案山子の意。「ソホド」の語義は未詳。古事記伝に、或人の説として、「雨露に所沾ぬれそほぢて立テる由なりと云り」とし、「そほぢ人ビトてふ意にや、【遅毘登ヂビトを約れば、騰ドとなるなり、】」と言うが、「遅毘登」の約言説は筑摩全集十巻の補注(大野晋)で否定されている。倉野全註釈は古事記伝を引用した後で、「ソホ」は「雨ソホ降る」・「泣きソホチ行く」などのソホと同根で、「ソホビト」が「ソホド」になったのではないかと説いている。武烈即位前紀の94番歌に「儺岐曾裒遅喩倶謀なきそほちゆくも 柯㝵比謎阿婆例かげひめあはれ」。『古今和歌集』に「あしひきの山田のそほづおのれさへ我を欲してふうれはしきこと」(巻十九雑体一〇二七)の例がある。 ○海を光して依り来る神 後文によれば、神武記・崇神記に登場する大物主神を指すものと見られるが、ここではその名は記されない。なぜ名前が記されないのかについては明確な答えを示すのは難しい。この場面では明確なその神の形態が示されず、抽象度の高い存在として登場していることに関わるのかも知れない。神名自体をまだ持たない存在であるとも言える。神武記では丹塗矢という具体物の姿を持ち、崇神記では祭祀記事の際には具体的な姿は描かれないが、オホタタネコの出自に関する神婚神話では、「壮士」の姿となっていることとも関わるか。『古事記』の展開としては、名前が示されない段階から、大物主神の名で示される段階を経て、祭祀されることで「意富美和之大神」となって鎮まるという流れがあるのではないかと論じたことがある(谷口「『古事記』神話の中の災害―災いをもたらすモノ―」『悠久』二〇一三年一月)。 ○能く我が前を治めば吾能く共與に相作り成さむ。若し然あらずは国成り難けむ 「海を光して」依りついた神が自らを治めれば(=祭れば)一緒に国を作り完成させるが、そうでなければ国作りは完了しないという。倭の神を祭ることが国作り完了の条件として提示されるというのは、初代神武天皇以降、倭の地が天皇統治の中心地となることと関係していよう。『日本書紀』の場合は大国主神と大物主神とを同一神化しているので(神代上八段一書六)、意義づけが異なってくるが、『古事記』の場合は別神としているので、大国主神の国作りは、倭の神の存在無くしては成り立たないという読みが成り立つことになる。また、倭は大国主神の統治領域に含まれないという考え方とも関わる。なお、ここでこの神が祭られて、国作りが完了したと考えるのか、または祭られなかったがために国作りは完成していないと考えるのかは、崇神記の解釈と関わって見解が分かれるところである。 ○吾は倭の青垣の東の山の上に伊都岐奉れ 「倭」の「青垣」については、景行記30番歌に「倭は 国の真秀ろば たたなづく 青垣 山籠れる 倭し麗し」、景行紀22番歌に「倭は 国のまほらま 畳づく 青垣 山籠れる 倭し麗し」と歌われる。『万葉集』では吉野讃歌の国見・国讃め表現の中に「たたなはる 青垣山」( 1・三八)、「たたなづく 青垣隠り」( 6・九二三)のように吉野を讃め称える詞章の中に見られる。12・三一八七にも「たたなづく 青垣山の 隔りなば しばしば君を 言問はじかも」と見えるが、どの地のどの山を指すかは不明。また、「青垣」は出雲国に関わる記事の中にも見える。『出雲国風土記』大原郡来次郷の所造天下大神の詔に「八十神は、青垣山の裏に置かじ」、意宇郡母理郷の所造天下大神の詔に「……八雲立つ出雲の国は、我が静まり坐す国と、青垣山廻らし賜ひて、珍玉置き賜ひて守らむ」、そして「出雲国造神賀詞」の中に「出雲の國の靑垣山の内に云々」とある。似た表現には、『日本書紀』神武即位前の塩土老翁の言葉の中に「東に美地有り。青山四周れり。其の中に、亦天磐船に乗りて飛び降る者有り」とあり、また『播磨国風土記』美嚢郡志深里淡海に「水渟む国 倭は 青垣 青垣の 山投に坐しし 市辺の天皇が 御足末 奴僕らま」とあって、この二つはともに倭の「青山」「青垣」の例となる。 以上の用例を見る限り、「青垣」は出雲国と大和国を中心に用いられる讃美表現であると思われる。佐佐木隆は、出雲の用例が「神に守られた国」であるという考えを背景にしていると捉え、それ以外の場合は天皇による国土支配を称える表現として使われているとし、表現内容に明らかな違いがあると説いた(「青垣山隠れる大和」『伝承の言語― 上代の説話から―』ひつじ書房、一九九五年五月)。ヤマトと出雲と、どちらが元であるかということは、一概には言えまいが、ヤマトの「青垣」は出雲・日向・伊勢・播磨といった様々な場所から思い描かれるのに対して、『出雲国風土記』の場合には国譲り神話(母理郷)、八十神追放(来次郷)といった中央神話と関わり、「出雲国造神賀詞」は朝廷に奏上される詞章であるから、対ヤマトを意識した描写と見られ、また『古事記』大国主神の国作り神話においては、出雲の地から倭の青垣を表しているというように、出雲の青垣は常に中央の神話、対ヤマト、対朝廷を意識しているもののようである。 また、「伊都岐奉」について言えば、神が神を「伊都岐奉」るという点、特異である。『古事記』神話においてこの表現が出てくるのは、この箇所と、「此の鏡は、専ら我が御魂と為て、吾が前を拝むが如くいつき奉れ」(天孫降臨条)というように天照大御神に対して用いられる例があるのみである。中・下巻に至っても、イツキマツル(拝祭)・マツル(拝)という言い回しは、大物主神祭祀か、伊勢斎宮に関わる記事に限られているところから、この神の位置づけの重要性が窺える。 ○御諸山の上に坐す神 「ミモロ」の「ミ」は接頭語とされるが「モロ」は未詳。共通する意を持つ「ミムロ」の「ムロ」と同じとする見方があるが、不明。御諸山は、ここでは三輪山を指すとするのが定説だが、「御諸山」は神の寄り付く山を指す語であるので、常に三輪山を指すわけではない。崇神記に、「即ち意富多々泥古命を以て、神主と為て、御諸山にして、意富美和之大神の前を拝み祭りき」、意富多々泥古出自神話に、「糸に従ひて尋ね行けば、美和山に至りて、神の社に留まりき」とある。また崇神紀八年十二月の大物主神祭祀の宴の歌16・17番歌に「味酒 三輪の殿の・・・三輪の殿門を」と見え、また崇神紀十年九月の所謂箸墓伝説の中に、「仍りて大虚を践みて御諸山に登ります」とある。
『日本書紀』神代上・八段正文では、素戔嗚尊のヤマタノオロチ退治の後は、大己貴命の誕生を語るのみで、大己貴命の物語はなく、大国主神への成長物語も無い。大己貴命の国作り関連の神話は、以下に載せる一書六に見えるのみである。長くなるが、比較検討の必要上、全文を掲載する(引用は小学館新編日本古典文学全集『日本書紀』①による)。なお、内容上〔Ⅰ〕~〔Ⅳ〕の三つの段に分けることとする。 〔Ⅰ〕一書に曰く、大国主神、亦は大物主神と名まをし、亦は国作大己貴命くにつくりのおほあなむちのみことと号まをし、亦は葦原醜男あしはらのしこをと曰まをし、亦は八千戈神やちほこのかみと曰し、亦は大国玉神おほくにたまのかみと曰し、亦は顕国玉神うつしくにたまのかみと曰す。其の子凡て一百八十一神有す。 〔Ⅱ〕夫それ大己貴命、少彦名命すくなひこなのみことと力を戮あはせ心を一ひとつにして、天下を経営つくり、復また顕見蒼生うつしきあをひとくさと畜産けものとの為は、其の病を療をさむる方のりを定め、又鳥獣・昆虫はふむしの災異わざはひを攘はらはむが為は、其の禁厭まじなひの法のりを定めき。是を以ちて、百姓おほみたから今に至るまでに咸みな恩頼めぐみを蒙かがふれり。嘗むかし大己貴命、少彦名命に謂かたりて曰のたまはく、「吾等われらが造れる国、豈あに善よく成れりと謂はむや」とのたまふ。少彦名命対こたへて曰はく、「或いは成れる所も有り、或いは成らざるも有り」とのたまふ。是の談かたりごと、蓋し幽深ふかき致むね有らむ。其の後に少彦名命、熊野の御碕に行き至り、遂に常世郷とこよのくにに適ゆきます。亦曰く、淡島に至りて、粟の茎に縁のぼりしかば、弾かれ渡りまして、常世郷に至りますといふ。 〔Ⅲ〕自後これよりのちに、国の中に未だ成らざる所は、大己貴神、独り能く巡り造りたまひ、遂に出雲国に到りたまふ。乃ち興言ことあげして曰はく、「夫れ葦原中国は、本自もとより荒芒あらび、磐石いはほ・草木くさきに至及いたるまでに咸能く強暴あしかりき。然れども吾已に摧くだき伏せ、和順まつろはずといふこと莫なし」とのたまひ、遂に因りて言のたまはく、「今し此の国を理をさむるは、唯吾一身ひとりのみなり。其れ吾と共に天下を理むべき者、蓋し有りや」とのたまふ。時に、神あやしき光海を照し、忽然たちまちに浮び来る者有り。曰く、「如し吾在らずは、汝何ぞ能く此の国を平ことむけむや。吾が在るに由りての故に、汝其の大き造なせる績いさをしを建つること得たり」といふ。是の時に大己貴神問ひて曰はく、「然らば汝は是誰ぞ」とのたまふ。対へて曰く、「吾は是汝が幸魂さきみたま・奇魂くしみたまなり」といふ。大己貴神の曰はく、「唯然しかなり。廼すなはち知りぬ、汝は是吾が幸魂・奇魂なりといふことを。今し何処にか住とどまらむと欲ふ」とのたまふ。対へて曰く、「吾は日本国やまとのくにの三諸山みもろやまに住らむと欲ふ」といふ。故、即ち宮を彼処そこに営つくり、就ゆきて居ましまさしむ。此大おほ三輪みわの神なり。此の神の子、即ち甘茂かも君等 ・大おほ三輪みわ君等、又姫蹈鞴五十鈴姫命ひめたたらいすずひめのみことなり。又曰く、事代主神、八尋やひろ熊鰐わにに化為なり、三島溝樴姫みしまのみぞくひひめに通ひたまひて、或に云はく、玉櫛姫といふ、児みこ姫蹈鞴五十鈴姫命を生みたまふ。是、神日本磐余彦火火出見天皇かむやまといはれびこほほでみのすめらみことの后と為る。 〔Ⅳ〕初め大己貴神の国を平ことむけたまふに、出雲国の五十い狭狭ささの小汀に行き到りまして、且当まさに飲食みをししたまはむとしき。是の時に、海上うみのうへに忽ちに人の声有り。乃ち驚きて求むるに、都かつて見ゆる無し。頃時しばらくありて、一箇ひとりの小男をぐな有り、白蘞かがみの皮を以ちて舟に為り、鷦鷯さざきの羽を以ちて衣ころもに為り、潮水うしほの随に以ちて浮び到る。大己貴神、即ち取りて掌中たなうらに置きて翫もてあそびたまへば、跳おどりて其の頰つらを囓かむ。乃ち其の物色かたちを怪しび、使を遣し、天神に白したまふ。時に高皇産霊尊たかみむすひのみこと、聞しめして曰はく、「吾が産める児、凡て一千五百座有り。其の中に一ひとり児のこ最悪いとあしく、教養おしへに順はず。指間たなまたより漏くき堕ちしは、必ず彼それならむ。愛めぐみて養ひだすべし」とのたまふ。此即ち少彦名命、是なり。顕、此には于都斯うつしと云ふ。蹈鞴、此には多多羅たたらと云ふ。幸魂、此には佐枳弥多摩さきみたまと云ふ。奇魂、此には倶斯美拕磨くしみたまと云ふ。鷦鷯、此には娑娑岐さざきと云ふ。 〔Ⅰ〕では大国主神の亦名を示す。『日本書紀』において大国主神の名が見えるのは、ここ以外には、八段一書一に素戔嗚尊の五世孫として記されるのみであり、特にこの名での神話は記されない。『古事記』の場合は須佐之男命の系譜において六世孫としてその名が見えたが、亦名は大穴牟遅神・葦原色許男神・八千矛神・宇都志国玉神の四つであったのに対し、ここでは大物主神と大国玉神が加わって六つの亦名が記される。特に大物主神と大己貴命とが亦名で繋がることは、〔Ⅲ〕の記述とも関わって『日本書紀』の一つの特質となっていると言えるが、「出雲国造神賀詞」においてもこの両神を繋げる記述が見えることからすれば、むしろ大物主神と大穴牟遅神(大国主神)とを結びつけない『古事記』の方にその特質を見るべきかも知れない。〔Ⅱ〕は少彦名命との国作りに関わる話となっている。「天下を経営り、復顕見蒼生と畜産との為は、其の病を療むる方を定め、又鳥獣・昆虫の災異を攘はむが為は、其の禁厭の法を定めき。是を以ちて、百姓今に至るまでに咸恩頼を蒙れり」というように比較的具体的な記述内容となっており、国作りの内容が示されている。風土記や万葉集に見られる二神の姿とも通じるものがある。「顕見蒼生と畜産」のために病を治癒する方法を定めたとあって、かつ今に至るまで「百姓」が「恩頼」を蒙っていると記すところに、この二神の人々にとっての意義が示されているように思われる。「恩頼」は『日本書紀』の用例に照らして見れば、特定の天皇、若しくは皇祖を含めた皇室のもたらす加護・恩沢を意味する語とされるが(葛西太一「「頼」字の古訓と解釈」『日本書紀段階編修論』花鳥社、二〇二一年二月)、その「頼」の初出がこの二神に使われているという点、注意を要する。「百姓」への加護・恩沢の起源が皇祖神ではなく、大己貴命・少彦名命であるとするのは、この二神に天皇統治の起源を見ているということなのであろうか。『古事記』における大国主神にはそうした意味も感得出来るようには思われる。『日本書紀』の二神についても同様の意義が込められているのかも知れないが、それを一書の形でのみ示すところに、『日本書紀』なりの見解が示されているのかも知れない。 〔Ⅱ〕では大己貴命・と記されていたが、〔Ⅲ〕〔Ⅳ〕では大己貴神・と記される。或いはここに資料の断層があるのかも知れない。〔Ⅲ〕は、『古事記』の御諸山神登場後の話と共通する場面である。『古事記』との大きな相違は、「吾は是汝が幸魂・奇魂なり」とするところである。この神は大物主神であると見られるので、〔Ⅰ〕の亦名記載とも繋がってくるものであろう。また、「如し吾在らずは、汝何ぞ能く此の国を平けむや」という発語や、「吾は日本国の三諸山に住らむと欲ふ」という発語を受ける形で、「即ち宮を彼処に営り、就きて居しまさしむ」とある点、『古事記』と共通性を持つが、『古事記』のように祭祀に纏わる表現―イツキマツル―はなされていない。宮を営んだ記事の後に、「此大三輪神なり」と記し、ヤマトの三輪山の神であることを示す。即ち、後の崇神紀に祟り神として示現する大物主神ということになるが、その名は記さず「大三輪神」としている点、神代下九段一書二に、大物主神が天神に従う首魁として登場する点などから見て、「大三輪神」と「大物主神」とは本来別神で、初め三輪山に祭られていた大三輪神に大物主神が習合する形で三輪山に祭られるようになったのではないかとする説もある(阿部眞司『大物主神伝承論』翰林書房、一九九九年十二月)。続く系譜的記述では、甘茂君等・大三輪君等、又姫蹈鞴五十鈴姫命をこの神の子として位置付ける。姫蹈鞴五十鈴姫命は神武天皇の后となるが、この姫が大物主神の娘であることは『古事記』神武天皇条に記され、甘茂君等・大三輪君等が大物主神の系統に連なるものであること(大物主神の四世孫オホタタネコを祖とすると記す)が崇神天皇条に記されているので、その点からしてもここに登場する神が大物主神であると見ることが出来る。なお『日本書紀』の場合、初代神武天皇の后姫蹈鞴五十鈴姫命は、綏靖即位前紀によれば事代主神の娘となっているため、ここにもその情報が盛り込まれているのであろう。事代主神はカモ氏が祀る神であるところから、大物主神と事代主神との近さが窺える。 〔Ⅳ〕は再び少彦名命の話となる。〔Ⅰ〕では描かれていなかった、少彦名命の登場場面に関する記述である。『古事記』では「出雲の御大の御前」となっているのに対して、『日本書紀』では「出雲国の五十狭狭の小汀」となっていて舞台が異なる。前者を今の美保関、後者を今の稲佐浜と取るならば、島根半島の東と西との両端に分かれることになるが、現実の今の地名に当て嵌めて判断すべきか否か問題が残る点について、論じたことがある(谷口「イザサの小浜とタギシの小浜―葦原中国平定神話の地名―」『古代文学』60号、二〇二一年三月)。現れた時に乗っていた舟や着ていた衣については、語釈及び補注解説一を参照願いたい。親神を神産巣日命ではなく、高皇産霊尊とする理由は良く分からない。神代下の冒頭にこの神が皇祖として登場することと繋がりがあるのかも知れないが、少彦名命の親神として位置付ける理由とは繋がりが見られない。『日本書紀』の中で高皇産霊尊と神皇産霊尊とが入れ替わる例としては、神代下九段において、瓊瓊杵尊の母神となる女神の親が、正伝や他の一書では高皇産霊尊であるのに対し、一書七のみが神皇産霊尊とする例がある。 正伝において大国主神・大己貴神の国作りを描かない『日本書紀』の場合は、当然ながらこの後の葦原中国平定神話におけるこの神の位置づけにも『古事記』との相違を見て取る必要がある。詳しくは後の葦原中国平定神話において検討することになるが、国作りを描かない『日本書紀』において、または大国主神という称号を与えられていない大己貴神が、地上世界を代表する神としてその交渉にあたると言えるのかどうか、疑問であるし、葦原中国の意味づけ自体も『古事記』と『日本書紀』とでは異なっている可能性もあろう。八段一書六にみられる、「夫れ葦原中国は、本自荒芒び、磐石・草木に至及るまでに咸能く強暴かりき。然れども吾已に摧き伏せ、和順といふこと莫し」という発語が見られるが、九段正文には「彼の地に、多に蛍火なす光る神と蠅声なす邪神と有り。復、草木咸能く言語有り」という天神側の認識との相違をどのように捉えるのか、『日本書紀』は『日本書紀』の文脈を追って検討する必要があろう。 〔谷口雅博 日本上代文学〕
少名毘古那神は「天の羅摩の船に乗りて、鵝の皮を内剝ぎに剝ぎて、衣服と為て帰り来る神(1)」であったとされる。土居光知はこの異様な姿に「下半身に鳥の羽をつけ」たゾロアスター教の太陽神「マツダ神」(Ahura Mazdā か)の姿を重ね見る(2)。それを承けつつ「天の羅摩の船」と「鵝の皮」の衣服を天鳥船のイメージと見て、穀物神且つ太陽神の出現を意味するとしたのは勝俣隆であった(3)。 右のように、少名毘古那神が鳥の装いをすることに意義を見出す論は少なくないが、そもそも衣服の素材である「鵝の皮」には本文校訂上の問題が少なくない。多くのテキスト類で、少名毘古那神の衣服を「鵝ヒムシの皮」とし、家畜化された雁を指す漢字「鵝」に対し(4)、蛾を指す和語「ヒムシ」をあてる矛盾めいた校訂が、その結果である(5)。 現代注釈書類の多くに影響を与えているのは『古事記伝』である。宣長が「鵝字は決キハメて誤なり、【此は甚く小きことを云るに、鵝は、さいふばかりの小鳥にはあらねばなり、】」と疑義を呈し、度会延佳の「蛾」説に従ったように(6)、小さな少名毘古那神の装いとして鵝は相応しくないとする認識は長らく支配的であった。改めて、宣長説を確認しておきたい。 書紀仁徳巻皇后御歌に、那菟務始能譬務始能虚呂望とよみ給へる、譬務始は、飛蛾とて、燈に入て身を亡す蟲にて、蛾の中の一種なり、是なむ衣のたとへも、此に殊に由ありて聞ゆれば、【但し蛾と鵝とは、字形似たりともあらねば、誤むこといかゞと、いさゝか疑ひなきにはあらねど、】姑く蛾字として、比牟志能加波と訓つ、 宣長が拠所とした仁徳紀の歌は、新編全集『日本書紀』において「夏蚕なつむしの 蛾ひむしの衣ころも 二重ふたへ著きて かくみやだりは 豈あに良よくもあらず」とよまれ(7)、夏蚕(那菟務始)と蛾(譬務始)とは同格とされる。『万葉集』にも「蛾羽ひむしは(蛾葉)の衣」(⑬三三三六)とあり(8)、蛾と衣との結びつきには一理あると言うこともできよう。 ただし『古事記』は真福寺本以下の写本全てで「鵝」字を採用しており、誤字説をそのまま受け入れるのは心もとない。そのためか、日本古典文学大系『古事記』では次のように「ヒムシ」と訓むべき根拠が提示されている。 持統紀六年九月の条に「越前国献二白蛾一。」とある蛾は一本に鵝とあり、これは鵝の誤りらしいから宣長説も捨て難い。また下の仁徳天皇の条に蚕が蛾になることを述べて、「一度為二飛鳥一」とあるから、鵝は蛾が飛ぶ虫だというところから用いた字か(9)。 前者の見解に対し山口佳紀が「『鵝』とあるのは伴信友校本に過ぎない」と指摘しているように(10)、諸本の状況から大系には従い難い(11)。また後者の見方についても山口は、仁徳記の記事を一般化して蛾を飛ぶ鳥と捉える発想から「鵝」字を用いたと考えるのには無理がある、と指摘している。 是に、口子臣と、亦、其の妹口比売と奴理能美と、三人議りて、天皇に奏さしめて云ひしく、「大后の幸行せる所以は、奴理能美が養へる虫、一度は匐ふ虫と為り、一度は殼かひごと為り、一度は飛ぶ鳥と為りて、三色に変る奇しき虫有り。此の虫を看行さむとして、入り坐せらくのみ。更に異し心無し」といひき。(下巻・仁徳記) 確かに仁徳記では、「三色に変る奇しき虫」の「奇し」と称されるに足る様態を表現するために、敢えて「虫」とは似つかない「穀」や「鳥」などの表現を用いたと考えられよう。「鵝」は『古事記』において他にみられない字だが、『日本書紀』では音仮名として用いられるほかに、「鵝」そのものとして記されている例もある。 身狭村主青、呉の献れる二鵝を将て、筑紫に到る。是の鵝、水間君が犬の為に囓はれて死ぬ。別本に云はく、是の鵝、筑紫の嶺県主泥麻呂が犬の為に囓はれて死ぬといふ。是に由りて水間君、恐怖り憂愁へて、自ら黙すこと能はず。鴻十隻と養鳥人とを献り、以ちて罪を贖ふことを請ふ。(雄略紀十年秋九月) 同時代文献の『日本書紀』で「鵝」が鳥類として認識されていることは明白で、「蛾を飛ぶ鳥と捉えて鵝と表記した」とする説には従い難いように思う。「蛾」の誤字説についてもその論拠が盤石でない以上、従えない。とすれば真福寺本以下の本文「鵝」を尊重したうえで、少名毘古那神の衣服の材料は鳥の「鵝」であると考えなければなるまい。当然、字義にそぐわない「ヒムシ」の訓をあてるわけにもいかないだろう。蛾を意味する「ヒムシ(ヒヒル)」以外の訓としては、評釈が「サゞキ」、注解が「オホカリ」、新編が「カリ」をあてる。注解によれば『釈日本紀』巻十七に「鵝ガ〈音可読也ヲホカリ〉」とあり、オホカリと読めるが一般的にはガと音読されていたという。訓についてはこれに従うのが妥当かとも思われるが、残されるのは少名毘古那神が「鵝の皮」を衣服として現れることの意義である。 冒頭に示した通り、「鵝の皮」の衣服に太陽神の姿を看取する論がある一方で、山口が雄略紀十年条や平安時代の記事によって、鵝がしばしば海外から献上される点に着目し、「異国から来たことを暗示していると見るのが、一つの解釈」と位置づけたことが留意される。また山口は「鵝」が飛べない鳥であることを指摘しており、「鵝」では少名毘古那神に飛行能力を付与しえないという。この問題は、少名毘古那神を空を渡る太陽の神と見るにせよ、飛んで常世に度る神と見るにせよ、障害となるだろう。「鵝」であることに意義を見出して少名毘古那神の理解に有益かつ問題がないと思われるのは、この「鵝」が海外から齎された鳥であるという点であろうか(12)。 海の彼方から齎された鳥「鵝」の皮を正体不明の神の衣服として、その神の異境性を表現したというのであれば、一応の納得は得られよう。では、その神が高天原の神産巣日御祖命の御子神であると明かされる展開は、いかに把握するべきか。 高天原にいた神産巣日御祖命の「手俣よりくきし子」だという説明によれば、少名毘古那神の出自を「鵝」のいる海外とは位置づけ得ない。少名毘古那はあくまで高天原に属する神であり、「鵝」の皮を入手しうる海外の地を経て出雲に辿り着いたとみるべきだろう。上巻の神話において、高天原に出自をもつ少名毘古那神が「海外」の地を踏んだ証拠となる「鵝」の皮の衣服を示す意義は、神が高天原から海外に降下したと捉えうる土壌を作る点にあったものと考えられはしまいか。つまり、高天原(天)の下に海外の地を位置づける方法であったということである(13)。 神野志隆光は『古事記』中巻の「天下」について次のように述べる。 朝鮮半島まで含むことによって、はじめて「天下」は全き構造を成すと見るべきではないか。(中略)すなわち、大八島国のそとに朝貢国をもつという構造において、「天下」と呼ぶことのできる世界は成りたつと見るべきであろう。(中略)ヤマトタケル(「景行記」)までにおける大八島国の「王化」の完成と、応神天皇において朝鮮半島を「王化」のうちに組みこむことをつうじて、「天下」の構造を達成するのである(14) 実際に「海外」の地である半島が具体的に示されるのは応神記においてであるが、その前段階として神話世界において「海外」の存在が示唆され、それが「高天原(天)」の「下」に位置づけられている可能性は、『古事記』全体の構想を考えるうえで一考の余地があるように思う(15)。本稿では「鵝の皮」という表現からその可能性に触れるに留め、後考を俟ちたい。 註 (1)『古事記』の引用は、新編日本古典文学全集『古事記』(小学館、一九九七年六月)による。 (2)土居光知「文明と文学」(『古代伝説と文学』岩波書店、一九六〇年七月)。 (3)勝俣隆「少名毘古那神についての一考察―手俣より久岐斯子の視点から―」(『古事記研究大系五-一 古事記の神々 上』髙科書店、一九九八年六月)。 (4)『倭名類聚抄』に「鵝〈音/峨〉形如人家所畜也」とある。 (5)中村啓信は真福寺本の「鵝」を「鷦」の崩しと判定し、小鳥であるミソサザイであるとする(『新版 古事記』KADOKAWA、二〇〇九年九月)。これは『日本書紀』に「鷦鷯さざきの羽を以ちて衣に為り」(神代上第八段一書第六)とあることによるものと思われる。ただし、占才成は中村の判断を否定し、「鵝」を採用すべきと述べる(占才成「『古事記』上巻の「鵝」字考」『日本語学論集』十五、二〇一九年三月)。なお、占は「内剥鵝皮剥」の構文と漢文における「内」の字義とを検討したうえで「『内剥鵝皮剥』は鵝の皮をそっくり剥ぐことではなく、内側に剥ぐという意味であれば、鵝の皮は体の小さい神の服に対して大きいか小さいかは問題にならない。」と指摘している。 (6)本居宣長『古事記伝』(『本居宣長全集』十、筑摩書房、一九六八年十一月)。 (7)『日本書紀』の引用は、新編日本古典文学全集『日本書紀』二(小学館、一九九六年十月)による。 (8)『万葉集』の引用は、新編日本古典文学全集『萬葉集』三(小学館、一九九五年十二月)による。なお、同書頭注では「ヒムシは蛾の古名。霊界から飛んで来る虫、と考えられていたものか」という。ただし三三三六番歌の「蛾」には校異(「我」)や異訓「ヒヒル」(旧大系、講談社文庫など)もあり、「ヒムシ」の確例とは言い難い。 (9)日本古典文学大系『古事記 祝詞』(岩波書店、一九五八年六月)。 (10)神野志隆光・山口佳紀『古事記注解』四(笠間書院、一九九七年六月)。 (11)『書紀集解』は「按蛾微少之物、非可献者。蓋、蛾鵝誤耳」というが、占才成(註5)が十七条憲法のなかにみえる「不桑何服」を取り上げて「白蛾が特別な種類で養蚕に役に立てば、献上するのにふさわしい」と述べたように、敢えて「白鵝」とすべき根拠は薄い。 (12)鵝の皮の衣服について「海のかなたから来た水平神の代表として大和朝廷ならびに記紀編集者から取り扱われたため」とする指摘があるが(竹内重雄「鵝の皮の衣服を着けた神―少名毘古那神、『礼記』「冊封」との関わりから―」『沖縄文化』四十四-二、二〇一〇年十一月)、アイヌの鳥皮衣や『礼記』の「北方を狄と曰ふ、羽毛を衣て穴居し」(王制第五)、「先王未だ宮室有らず、(中略)未だ麻糸有らず、其の羽皮を衣る」(礼運第九)などを参考に少名毘古那神(少彦名命)を「北狄」や「先王」の象徴とみる論旨とあわせて、慎重に検討する必要があろう。 (13)神野志隆光は久延毘古に対する「尽く天の下の事を知れる神」という表現を取り上げ、「広く〈アメ〉=『高天原』の下の世界全体に及ぶものとしての『天の下』」であると述べる(「「天下」―世界観という視点から―」『古事記の世界観』吉川弘文館、一九八六年六月)。 (14)神野志隆光「「天下」の歴史―中・下巻をめぐって―」(註13同書)。 (15)当該条の後、邇々芸命の発話に「韓国に向ひ」(天孫降臨条)とあることとも、関わろう。新編全集頭注は「支配がいずれ朝鮮半島に及ぶことを視野に入れていう」と指摘する。 〔小野諒巳 日本上代文学〕
大国主神の国作りにおける問題点として、天神諸による「修理固成」の「命以」の範囲に含まれるか否かという点があげられる。そこでまず、複数回行われる大国主神の国作りについて整理する。 はじめに国作りが行われるのは、根の堅州国訪問段においてであり、「故、其の大刀・弓を持ちて、其の八十神を追ひ避りし時に、坂の御尾ごとに追ひ伏せ、河の瀬ごとに追ひ撥ひて、始めて国を作りき」というものである。この「始めて国を作りき」について、本居宣長『古事記伝』(『本居宣長全集』第九巻、筑摩書房、昭和四十三年七月)が指摘した、大国主神の国作りの始まりを表すという解釈が有力であるが、西郷信綱『古事記注釈』第三巻(ちくま学芸文庫、筑摩書房、平成十七年八月)は、王として始めて国を作ったと指摘している。しかし、直前には須佐之男大神から、生大刀・生弓矢で八十神を追放し、大国主神・宇都志国玉神となって須世理毘売を正妻として、宇迦能山の山本に、天皇の宮殿のごとき住処を建てて住めと指令を受けている。この須佐之男大神の発言と大国主神の行動との対応から考えれば、大神の強大な力を得て、大穴牟遅神は八十神を追放することで大国主神・宇都志国玉神となり、国を作ったのだと捉えられる。これは、稲羽の素兎段の冒頭で、八十神が国を大国主神に譲ったという一文とも対応していることから、王としての国作りというよりは、その前段階とも言える武力平定による国の支配=国作りとなるのであり、「始めて国を作りき」は大国主神の国作りの始まりを表すものと考えられる。 次に、国作りと明記されているのは、大国主神の国作り段である。ここでは、神産巣日御祖命の指令を受け、少名毘古那神とともに「此の国を作り堅めき」とある。しかし、その詳細は『古事記』には記されておらず、具体的な内容は不明である。二神の国作りは『日本書紀』「風土記(播磨・出雲・伊予)」『万葉集』などにも記されており、内容は多岐にわたるが、当時広く知られた神話であったとみられる。『古事記』が大国主神ではなく大穴牟遅神として記すのは、それら広く知られる二神の国作りを表しているのであろう。その場合、他文献にみられる様々な二神の国作りを読み手に想起させるために、あえて「此の国を作り堅めき」としか記さなかったのではないだろうか。 さて、その後、国作りの途中で常世国に去った少名毘古那神の代わりに、大国主神は海から来た神と国作りを行う。この神は御諸山の神としかここでは記されないが、『古事記』中巻で大物主神と判明する。そして、大物主神は自身を祭れば国を上手く作れると述べ、倭の青垣の東の山の上に祭るように指示しているため、ここでは祭祀によって国を作ることと捉えられる。 なお、『古事記』では根の堅州国訪問段と大国主神の国作り段との間に、八千矛神の歌物語が記されている。その内容は、高志の沼河比売への求婚と、正妻である須勢理毘売との和解であるが、新編日本古典文学全集『古事記』が「辺境の女性との結婚譚によって、この神が「大八島国」の隅々まで支配力を手に入れたことを語る」と指摘するように、土地の女性との結婚を土地の支配権を得ることと考え、この歌物語も国作りの一環とみる説もある。前後の神話内容を考えれば、この説は首肯されよう。 したがって、大国主神の国作りは次のようになる。 ・武力による国作り(大穴牟遅神) ・神婚による国作り(八千矛神) ・二神による国作り(大穴牟遅神・少名毘古那神) ・祭祀による国作り(大国主神・御諸山の神=大物主神) 右のように、大国主神の国作りは、神名の変化とともに異なる方法で行われており、武力・政治・祭祀による国作りと捉えられるのである。 では次に、大国主神の国作りが、「修理固成」に含まれるのか否かという問題を考えたい。「修理固成」の範囲は諸説あり、まとめると次のようになる。 1淤能碁呂島の生成まで 2伊耶那岐命・伊耶那美命二神の関わるところまで 3三貴子の出現まで 4大国主神の国作りまで 5天皇の治世まで 1・2・3は、直接指令を受けた伊耶那岐命・伊耶那美命を念頭に置いているのだろうが、1は「修理固成」の指令の際に授けられた天沼矛の関わる範囲までとし、2は二神で行う範囲=国生みまでとする。3は神生みまででは終わっていないという伊耶那岐命の発言、また二神は「生む」ことで「修理固成」を果たそうとすることから、その行為の最後である三貴子の分治までとする。これらは大国主神に至る前に「修理固成」を終えると考えるため、今回は提示するだけに留めておきたい。問題は4・5の場合である。 まず、『古事記伝』は、「修理」は「作」と同義であり、「修理固成」は「作堅此国(此の国を作り堅めき)」と対応すると指摘する。大国主神の国作りまでを範囲としており、これは「国」の捉え方に関わる問題である。西郷信綱『古事記注釈』第一巻(ちくま学芸文庫、筑摩書房、平成十七年四月)では、 国作りには自然的と政治的との二つの次元があるが、国生み段では天皇の版図に属する大八島国が作られることから、単なる自然的な国作りと見られないと指摘している。伊耶那岐命・伊耶那美命の国生みまでを確認してみると、伊耶那岐命は「国土を生み成さむ」と述べて国を生んでいく。しかし、その完了では「国を生み竟えて」とあり、黄泉国では伊耶那岐命が「吾と汝と作れる国、未だ作り竟らず」というように、「国土」から「国」へと言い換えられる。これは、自然的な「国土」を生む意図であったが、実際には大八島国をはじめ、政治区分された「国」を生んだための言い換えと考えられる。「修理固成」は漂える「国」に対して行うものであるから、政治的意図を内包しており、その意味では大国主神の国作りも範囲に含むことは可能と思われる。 この他、「修理固成」に含むとする説には、神野志隆光(山口佳紀・神野志隆光『古事記注解』4、笠間書院、平成九年六月)の説がある。「修理」を「あるべきすがたにととのえる」意とし、「天神」に掌握される形に向けての国作りと捉える。そして、それはムスヒ神の生成エネルギーのもとでなされるものであり、神産巣日神を通じて「修理固成」と対応すると指摘する。一方、金井清一「古事記上巻「修理固成」の及ぶところ」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第五号、平成十二年三月)では、「修理固成」は天皇の治世までおよぶとするが、天神諸の指令ではないため、大国主神の国作りは含まれないと指摘している。とりわけ説を分けるのは、指令者が誰かということによるだろう。 「修理固成」は、天神諸の「命以」によって、伊耶那岐命・伊耶那美命に「言依」される。この「命以」「言依」の両語は、すでに諸先行研究において論じられているが、鈴木啓之「古事記における「ミコトモチ」「コトヨサシ」の意義」(『古事記の文章とその享受』新典社、平成二十三年九月)が両語を「「高天原」の絶対性を強調、表現しつつ、神代の物語を展開せしめて」いると指摘するように、天神諸=高天原の「修理固成」を展開する語句と捉えられる。「命以」は天神諸・天神・伊耶那岐命・天照大御神・八十神・高御産巣日神(高木神)・天神御子に用いられ、例外的な八十神を除けば、基本的には天神からの指令の場合に限る。「言依(事依・言因)」は、伊耶那岐命・伊耶那美命・三貴子・天之忍穂耳命・邇々芸命に対してであり、「修理固成」や国の統治を委任される場合に用いられる。そして、「言依(事依・言因)」の経路は、 ・天神諸→伊耶那岐命・伊耶那美命→三貴子 ・天照大御神(三貴子)→天之忍穂耳命 ・天照大御神(三貴子)→邇々芸命 となっている。天神諸が伊耶那岐命・伊耶那美命の二神に「修理固成」を指令し、伊耶那岐命は三貴子にそれぞれ国を治めるように指令する。その三貴子の中の天照大御神は、忍穂耳命に葦原中国の統治を指令するが、忍穂耳命は邇々芸命に葦原中国の統治を譲ったため、再度天照大御神から邇々芸命へと指令するという流れである。須佐之男命も三貴子であるため指令を受けているが、伊耶那岐命から命じられた海原を統治しないために葦原中国を追放されており、「言依」の流れからは逸脱した存在である。そのため、須佐之男命からの指令も「言依」から逸脱していると考えられる。 また、神産巣日神は、「修理固成」を命じた天神諸の一神であると考えられる。しかし、少名毘古那神との国作りの場面におけるこの神の発語には「命以」ではなく「告」が用いられ、「言依」とも記されていない。西田長男「祭の根本義―『延喜式祝詞』を中心として―」(『日本神道史研究』第二巻、講談社、昭和五十三年四月)では、「依さす」は自分がなすことを他者に委任して代行させることを指すとし、委任者とその代行者は「我と他とはそのなせる業によって一体となる」と指摘している。これに拠れば、大国主神に天神諸と同一の指令を行えるのは、伊耶那岐命・伊耶那美命・三貴子となる。しかし、伊耶那美命は黄泉国に避り、須佐之男命は指令を行わなかったため、「言依」から逸脱している。また、伊耶那岐命は「淡海の多賀」に坐し、月読命は「夜之食国」統治の指令以後に登場しないことから、実質的に天照大御神のみが「修理固成」を指令する天神諸と同一の存在と考えられる。そのため、天神諸または天照大御神の指令でなければ、正式とは考えがたい。したがって、仮に「修理固成」の実行が大国主神の神話以降も継続しているとする場合でも、大国主神の国作りは「修理固成」には含まれないと考えられるのである。 〔鶉橋辰成 日本上代文学〕
故大國主神坐出雲之御大之御前時 自波穂乗天之羅摩舩而 内剥鵝※皮剥為衣服有歸来神 尒雖問其名不答且雖問所従之諸神皆 白①不知 尒多迩具② 久③白言[自多下四字以音] 此者久延毗古必知之 即召久延毗古問時答白 此者神産巣日神之御子少名毗古那神[自毗下三字以音] 故尒白上於神産巣日御祖命者答告 此者實我子也於子之中自我手俣久岐斯子也[自久下三字以音] 故 與④汝葦原色許男命為兄弟而作堅其國 故自尒大穴牟遅与少名⑤毗古那二柱神相並作堅此國 然後者其少名毗古那神者度于常世國也 故顕白其少名毗古那神所謂久延毗古者 於今者山田之曽冨騰者也 此神者足雖不行盡知天下之事神也 於是大國主神愁而告吾獨⑥何能得作此國 孰神與⑦吾能相作此國耶 是時有光⑧海依来之神 其神言⑨能治我前者吾能共與⑩相作成若不然者國難⑪成 尒大國主神曰然者治奉之状奈何 答言吾者伊都岐奉于倭之青垣東山上 此者坐御諸山上神也 【校異】 ① 真「自」。 兼永本以下卜部系諸本に従って、「白」に改める。 ② 真「且」。 諸本皆「且」で、卜部系諸本は「カ」と訓む。寛永版本は「旦」の字に見えるが、訓はやはり「カ」 とする。鼇頭古事記(度会延佳)の訓は「ソ」。古事記伝はこの字を假名に用いた例がないこと、万葉集に「多爾具久」とある例を挙げて、字は「且」のままで「グ」と訓む。校訂古事記(田中頼庸)は「具」に改める。現代諸注「具」とするのに従う。 ③ 真「又」。 諸本皆「久」とあるのに従う。 ④ 真「興」。 伊勢系・卜部系ともに「與(与)」とあるのに従う。 ⑤ 真・道祥本・春瑜本ナシ。兼永本以下卜部系諸本に従って「名」を補う。 ⑥ 真「」(「猶」の異体字)。伊勢系・卜部系ともに「獨」とあるのに従う。 ⑦ 真「興」。 ④に同じ。 ⑧ 真「登」 右傍書に「光歟」とあり。諸本も皆「光」とあるのにより、改める。 ⑨ 真「定」 右傍書に「言歟」とあり。諸本も皆「言」とあるのにより、改める。 ⑩ 真「興」。 ④に同じ。 ⑪ 真・道祥本・春瑜本「雖」。兼永本以下卜部系諸本に従って「難」に改める。 ※ 「鵝」は、真福寺本以下諸本皆「鵝」だが、「鵝」では解釈の上で問題があるとして、古事記伝は「蛾」の誤りではないかとし、校訂古事記(田中頼庸)は「鷦鷯」に改めている。底本及び諸本を尊重して「鵝」のままとする。なお、【語釈】【補注一】参照のこと。
さて、大国主神が出雲の御大の御前にいらっしゃった時に、 波頭から天のががいもの船に乗って、 鵝の皮をすっかり剝いだものを衣服として着てやって来る神があった。 それで、その名を尋ねるけれども答えない。また(大国主神に)従っている諸々の神に尋ねたけれども、皆は「知らない」と申し上げた。 すると、タニグクが申し上げて言うことには、 「これはクエビコが必ず知っているでしょう」と申し上げた。 そこでクエビコを呼んで尋ねた時に答え申し上げて言うことには、 「これは、神産巣日神の御子の少名毗古那神だ」と申し上げた。 それで、(天に居る)神産巣日御祖命のもとに参上して申し上げたところ、答えて仰ることには、 「これは本当に私の子だ。子の中で、私の手の指の間から漏れ落ちた子だよ。 あなた、葦原色許男命と(少名毗古那神とが)兄弟となって、その国を作り堅めることであろう」と仰った。 それで、それから大穴牟遅と少名毗古那と二柱の神が共に協力してこの国を作り固めた。 そうして後には、その少名毗古那神は常世国に渡ってしまった。 その少名毗古那神の名を顕し申し上げた所謂クエビコは、 今は山田のソホドといっているものだ。 この神は、歩くことは出来ないけれども、地上世界のことはすべて知っている神であるぞ。 そこで、大国主神が嘆き愁えて仰ることには、「私は独りでどうしてこの国を作ることが出来ようか。 どの神が私とこの国を一緒に作ることが出来ようか」と仰った。 この時に、海を照らしてやって来る神があった。 その神が言ったことには、「私を治めることが出来るならば、私は協力して一緒に国を作り完成させることが出来るだろう。もしそうでなければ、国作りを完成させるのは困難であろう」と言った。 それで、大国主神が仰ったことには、「そうであれば、治め奉る有様はどのようにすれば良いのでしょうか」と仰った。 (その神が)答えて言ったことには、「私を倭の青垣の東の山の上に祭り仕えなさい」と言った。 この神は御諸山の上に鎮坐する神であるぞ。