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伊奢沙和気大神之命

読み
いざさわけのおほかみのみこと/いざさわけのおおかみのみこと
ローマ字表記
Izasawakenoōkaminomikoto
別名
御食津大神
気比大神
登場箇所
仲哀記・気比大神
他の文献の登場箇所
紀 去来紗別神(応神前紀)
梗概
 高志前(こしのみちのくち=越前)の角鹿(つぬが=敦賀)の地に鎮座する神。
 神功皇后が新羅から帰還し、香坂王と忍熊王の反乱を鎮圧した後のこと、建内宿禰命が太子の大鞆和気命(品陀和気命=応神天皇)を連れて禊に赴き、近江・若狭の国を巡った際、高志前の角鹿で仮宮を設けて留まった。すると、その地に鎮座する伊奢沙和気大神之命が、夜の夢に現れて、太子と名を易えたいと願い出た。それを承諾すると、名を易えるしるしの捧げ物をするので翌日浜に出よと告げられ、翌朝、浜に出ると、鼻を傷めたイルカ(入鹿魚)が浦一面に寄せていた。そこで太子は、「我に御食(みけ)の魚をくださった」と言った。これによって、この神の御名をたたえて御食津大神(みけつおほかみ)と称し、そのため現在(『古事記』編纂時)、この神を気比大神(けひのおほかみ)と称する、といい、また、そのイルカの鼻の血が臭かったため、その浦を「血浦(ちぬら)」と呼び、現在は「都奴賀(つぬが)」という、とされている。
諸説
 別名の「御食津大神」「気比大神」がいずれも食物にまつわることなどから、一般的にはこの神は食物神と考えられている。「伊奢沙和気」という神名の意味は定かでないが、「伊奢」は「誘(いざな)ふ」のイザ、「沙」は神稲、「和気」は「淡道之穂之狭別」などの「別」と同じで男子の尊称とする説がある。また、この神を風神と捉えた上で、「奢沙」を笹の意と解し、風が笹を分けることの表象とする説もある。なお、神名の「神」という称号の下に「命(みこと)」という称号がつくのは異例であるが、歌では「八千矛の神の命」(記・2、3、5)などの例が見られることも指摘されている。ただし、歌の場合を特殊な例と見て、この神の「命」は称号ではなく、この神の告げた「御言」すなわちお言葉の意で、伊奢沙和気大神のお言葉が夢に出てきたという文意にとる説もある。
 角鹿(つぬが)は後の敦賀(つるが。越前国敦賀郡=福井県敦賀市)である。当地に鎮座する気比神社(現・気比神宮)の祭神で、『延喜式』神名帳に「気比神社七座」とある。この地は敦賀湾に接する日本海屈指の良港で、古来、北陸と畿内を結び、大陸ともつながる交通の要衝であった。このことから、本来は在地で信仰された海神または航海の守護神と捉える見方もある。また、敦賀湾は台風の被害を受けやすい地で、気比神社でも古来、鎮風祭が行われている。そこでこの神を風神と捉える説もある。
 夢告によって太子(応神天皇)と名易えをしたという説話については、名易えをした結果どうなったかが明記されていないため、その行為内容の解釈が分かれている。①太子と大神との名前を互いに交換したとする説、②太子の名前が大神に与えられたとする説、③大神の名前が太子に与えられたとする説がある。
 『日本書紀』応神紀の同説話の細注には、『日本書紀』編纂時現在、大神を「去来紗別(いざさわけ)神」と称し、太子を「誉田別(ほむたわけ)尊」と称していることから、名易え以前は、大神が「誉田別神」で太子が「去来紗別尊」であったと考えられるが、確認できる記録がないので定かでない、という見解が述べられている。この細注は、後世の竄入と捉える説もあるが、編纂当初から記されていたものとする説もある。『古事記』には応神天皇の名に「大鞆和気命」「品陀和気命」の二つが見られるが、「大鞆」という名は、太子の腕に肉がついていて、それが鞆(手につけて弓を射るときに弦を防ぐ道具)に似ていたことによる命名とされ、「品陀」も『日本書紀』によると鞆の古語であるという。どちらも太子自身の身体的特徴による名であるため、大神が元来持っていた名とは考えがたいとする指摘もある。
 また、名易えをしたことの意義については、主に、成人の通過儀礼と捉える見方や、角鹿の在地の勢力ないしはその奉斎神の王権への服属儀礼と捉える見方、太子の死の穢れの払拭と再生と捉える見方がある。成人の通過儀礼とする見方では、名易えを太子が大神の名に改名することと解した上で、太子の禊と気比大神への礼拝を、神前で行う成年式と捉え、成年に伴う改名儀礼の神話的表現とする説がある。服属儀礼とする見方では、名易えを大神が太子の名を貰い受けることによる服従の表明と解し、イルカを服従の証の捧げ物と解する説がある。また、天皇の食物を献上する「御食つ国」であった若狭国の食物が、角鹿から運ばれて献上されていたことから、この一帯の地が「御食つ国」として服従したことを意味する話と捉える説もある。死の穢れの払拭と再生とする見方では、神功皇后が香坂王と忍熊王の反乱に先立ち、太子を喪船に載せて死亡したように見せかけていたことから、角鹿での禊によってその死の穢れを祓い、名易えによって太子が生まれ変わったと解する説がある。
 また、「名」が「魚(な)」と同音であることに基づき、大神が要求した名易えは、名(な)と魚(な)、すなわち大神が太子にイルカを献上することと、太子が大神に「御食津大神」と命名することとの交換を意味し、この説話には、口頭伝承に本来備わっていた音声的な語りの効果が内包されていると捉える説がある。
 その他、「気比大神」「御食津大神」の項を参照。
参考文献
『古事記(新潮日本古典集成)』(西宮一民校注、新潮社、1979年6月)
倉野憲司『古事記全註釈 第六巻 中巻篇(下)』(三省堂、1979年11月)
西郷信綱『古事記注釈 第六巻(ちくま学芸文庫)』(筑摩書房、2006年2月、初出1988年8月・1989年9月)
三品彰英「応神天皇と神功皇后」(『増補日鮮神話伝説の研究』平凡社、1972年4月)
青木紀元「角鹿・気比」(『祝詞古伝承の研究』国書刊行会、1985年7月、初出1979年2月)
伊野部重一郎「応神天皇と気比大神の名前交換説話」(『記紀と古代伝承』吉川弘文館、1986年12月、初出1982年11月)
志賀剛「敦賀の気比神宮について」(『式内社の研究 第8巻 北陸道』雄山閣、1985年9月、初出1985年2月)
阪下圭八「魚と名を易えた話」(『古事記の語り口―起源・命名・神話』笠間書院、2002年4月、初出1985年9月)
阪下圭八「伊奢沙和気大神之命」(『古事記の語り口―起源・命名・神話』笠間書院、2002年4月、初出1986年1月)
『式内社調査報告書 第十五巻 北陸道1』(式内社研究会編、皇学館大学出版部、1986年10月)
尾崎知光「気比大神の名易の物語」(『太田善麿先生古稀記念 国語国文学論叢』群書、1988年10月)
田村克己「気多・気比の神―海から来るものの神話―」(『海と列島文化 第1巻 日本海と北国文化』小学館、1990年7月)
住野勉「伊奢沙和気に関する二、三の考察」(『人文論究』47巻2号、1997年9月)
前川治「『古事記』仲哀天皇段の「名易え」説話」(『花園大学国文学論究』25号、1997年12月)
藤澤友祥「気比の大神―『古事記』上巻神話との対応―」(『古事記構造論―大和王権の〈歴史〉―』、2016年5月、初出2008年2月)
青山千紘「『古事記』気比大神の「易名」考」(『国文』お茶の水女子大学国語国文学会、112号、2009年12月)
稲田智宏「ケヒノオホカミ 応神天皇と名前を取りかえようとした神」(『古事記 日本書紀に出てくる謎の神々』新人物往来社、2012年7月、初出2011年11月)
烏谷知子「息長帯比売命と品陀和気命の伝承―「喪船」と「易名」を中心に―」(『學苑』879号、2014年1月)
堀大介「気比神の諸性格にみる古代敦賀の様相」(『古代敦賀の神々と国家―古墳の展開から神仏習合の成立まで―』雄山閣、2019年12月、初出2014年3月)
森陽香「御食を得る天皇―角鹿の入鹿魚と応神と―」(『藝文研究』109号、2015年12月)
月岡道晴「日本書紀の構成と仁徳紀の易名記事」(『國學院雜誌』120巻11号、2019年11月)

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