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あまてらすおほかみみことちて、 とよあしはらあきなが五百いほあきみづほのくには、 まさかつかつかちはやあめのおしみみのみことらすくに」と ことさしたまひて、あまくだしき。ここに、天忍穂耳命、あめの浮橋うきはしたしてらししく、 「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は、いたくさやぎてりなり」とらして、 さらかへのぼりてあまてらす大神おほみかみまをしき。 しかくして、たかひのかみあまてらすおほかみの命以ちて、 あめのやすのかは河原かはら八百やほよろづのかみかむつどつどへて、おもひかねのかみおもはしめてらししく、 あしはらのなかつくには、我が御子の知らす国とことさしたまへる国なり。 かれの国にはやぶるあらぶるくにかみどものさはりとふに、 これいづれの神を使つかはしてかことけむ」とのらしき。 尒くして、おもひかねのかみ八百やほよろづのかみはかりてまをししく、 あめのひのかみこれつかはすべし」とまをしき。故、天菩比神をつかはせば、 すなはおほくにぬしのかみきてとせいたるまでかへりことまをさず。

天照大御神の命以ちて 「天照大御神」については、本注釈(十三)みそぎ②(『古事記學』二号)、(十四)三貴子の分治(『古事記學』三号)参照。「命以」は、本注釈(三)国土の修理固成(『古事記學』一号)参照。 豊葦原之千秋長五百秋之水穂国  地上世界の呼称については、黄泉国神話、天石屋神話において「葦原中国」が見られたが、ここでこのような名称が使われているのは、天神の御子が統治する世界を褒め称える意味が込められていると見られる。この後は「豊葦原水穂国」「葦原中国」が併用される。青木周平は、荒ぶる神々の生息する国(葦原中国)を、天神御子が天降りかつ支配するのにふさわしい国(五穀豊穣の国)として変質させることにコトムケ(後述)の意義があるとし、そうした五穀豊穣の国としての意味を担うのが、豊葦原之千秋長五百秋之水穂国という呼称であると説いている(青木周平「葦原中国平定伝承と「言向」」『古事記研究―歌と神話の文学的表現―』おうふう、一九九四年一二月、初出は一九八〇年九月)。 正勝吾勝々速日天忍穂耳命 天照大御神と須佐之男命との「うけひ」によって出現した五男神のうち、最初に出現した子。天照大御神の長男に位置づけられる。なお、本注釈(十六)うけひ(『古事記學』三号)参照。 言因賜而 『古事記』の「コトヨサス」は、他の箇所ではすべて「言依」と記される。そのため、この箇所については、「~と言りたまひ、賜ふに因りて」(朝日古典全書)という訓もあり得るが、天照大御神の発言が「言」で記される点、「賜ふ」の対象が記されていない点(「国」を賜うと解せるかどうか、疑問)で問題が残る。坂根誠は、朝日古典全書の訓を支持するが、発話者を天忍穂耳命とする等、文脈把握に問題を残す(坂根誠「「古事記」国譲り段冒頭部の解釈―「言因賜而」の訓読を中心として―」『古事記年報』五〇号、二〇〇八年一月)。なお、「言因」「言依」の訓については、「す」と「賜」とで二重の尊敬になる(新編全集)ことを避けて、「コトヨシタマフ」、「コトヨセタマフ」と訓むテキストもあるが、『続日本紀』宣命に「言依奉乃随」(第14詔)、「事依奉乃任尓」(第23詔)に対して「与佐斯奉志麻尓々々」(第5詔)とあるのを参考に、「ヨサシ」で訓むこととする。尊敬語に続いている例ではない点で問題は残るが、「ヨサス」でほぼ一語化しているのではないかと思われる。 伊多久佐夜藝弖有那理 神武記にも、「葦原中国者、伊多玖佐夜芸帝阿理那理。[此十一字以音。]」とみえる。神武紀には、「夫れ葦原中国は、猶し聞喧擾之響焉。[聞喧擾之響焉、此には左揶霓利奈離と云ふ。]」とある。「さやぐ」は、「木の葉さやぎぬ」(記21歌)、「木の葉さやげる」(記22歌)、「荻の葉佐夜藝」(万10・二一三四)、「小竹が葉の佐也久霜夜に」(万20・四四三一)などのように、木の葉のさやぎを示す例が多い。『日本書紀』の同じ場面には、「草木咸能く言語有り」と表現される。「草木言語」は祝詞にも多く止めさせるべきものとして表現されており、地上世界の無秩序状態を示す定型的な文言となっているようである。つまり、『日本書紀』や祝詞では、言語の通じない世界が「草木言語」という「言葉」で象徴されているのに対し、『古事記』では言葉によって平定する(コトムケする)対象を、木の葉のさやげる世界として描いている点に特徴がある。なお「さやぐ」の「さや」については、例えば「さやさや」「さやか」「さやに」や「さわく」等の語と関係するか否か、問題となるところである。【補注解説四】【補注解説五】参照。 高御産巣日神・天照大御神 この場面では最初に①天照大御神単独による「命以」があり、続くこの箇所では②高御産巣日神・天照大御神二柱による「命以」、次いで③④天照大御神・高木神による「命以」が二度、記されている。③④で天照大御神が先に記されているのは、高御産巣日神が高木神へと神名が変更された点と関係があるかも知れないが、不明。『古事記』においては高天原の最高神である天照大御神が、②においては高御産巣日神の後に記されている理由は良くわからない。坂根誠は、①の命以が果たされなかったために②において高御産巣日神の介入が必要とされたと説く。それはあり得るかも知れないが、②の文意を、「高御産巣日神が天照大御神の命を以て」と解する点は問題がある(坂根誠「『古事記』国譲り段・天孫降臨段における命令の主体」『青木周平先生追悼 古代文芸論叢』二〇〇九年一一月)。 天安河 高天原にある河。天照大御神と須佐之男命との「うけひ」は天安河をはさんで行われた。後の葦原中国平定神話の中で、天尾羽張神が天安河の水を逆さまに塞ぎ上げて道を塞ぐという場面が出てくる。 ○八百万神・思金神 ともに、天の石屋神話の中に登場している。本注釈(十八)天の石屋②(『古事記學』四号)参照。 道速振荒振国神 賀茂真淵『冠辭考』に次のようにいう。「こはいちはやぶる神てふ語なるを略きていへり。古事記には借字にて道早振云々と書き、紀には、理を以て殘賊云々と書きたり。ちはやぶるのちはいちを略けり。そのいちはいつと音通ひて、強き勢をいふが故に、いつに稜威の字を紀には書きつ。はやとは古事記に伊登志和氣王といふ王を、垂仁紀には膽武別命とかきたり。訓と義を相照し見るに、膽は伊都を略けること右にいふが如し。としは疾きなり、はやきなり、武きなり。さればちはやのはやはその武く疾きに同じぞかし」。これに従うのが良いか。新編全集も「動詞イチハヤブ(甚速)の連体形イチハヤブルの転。勢い激しく振る舞うの意。「道」「振」は借字」とする。 言趣 『古事記』では葦原中国平定の場面、中巻神武天皇東征の場面、景行記倭建命の西征・東征の場面等において、十一例の「言趣」「言向」が見られる。「言趣」「言向」の下に「和」「和平」「平和」の語を伴う場合が多い。コトムケの語義については、確定したとはいえない状況にある。コトが「言」であることは概ね定説化しているといえるが、その「言」が行為の主体に属するのか、客体に属するのかによって理解は異なる。こちら側の「言」によって、ということか、相手側の「言」をか、という違いである。ムケについては、これが下二段動詞であることから、他動詞として「~を向ける」と解釈するか、下二段動詞の使役用法と取って、「~をして~を向かせる」と取るかで分かれる。従って、「こちら側の言によって相手を向かせる(従わせる)」(青木周平説)、若しくは「向ける(従える・平定する)」(西宮一民説・松田浩説)という理解と、「相手の言をこちらに向かせる(服従を誓わせる)」(神野志隆光説)といった理解に分かれる。なお、『常陸国風土記』香島郡の香島郡設立の沿革を記す記事の分注に、「事向」の例が二例見られる。この二例を『古事記』の用例検討の参考にするべきか否かも問題となる。なお、諸説の出典等については、【補注解説五】「言趣」「言向」の項を参照のこと。 天菩比神 天照大御神と須佐之男命とのウケヒの場面で、天照大御神の玉から出現(出現させたのは須佐之男命)した五男神のうち、天忍穂耳命の次に出現した神。うけひ神話の場面には、この神の子の建比良鳥神が出雲臣等の祖となることが記されている。 媚附 『日本書紀』九段正文には、「即ち天穂日命を以ちて往き平けしめたまふ。然れども此の神、大己貴命に佞媚び、三年に比及るまでに、尚し報聞さず。」とあって、『古事記』と同様に「媚」が記された後、「故、仍りて其の子大背飯三熊之大人 [大人、此には于志と云ふ。]亦の名は武三熊之大人といふ、を遣す。此、亦還其の父に順ひ、遂に報聞さず。」というように天穂日命の子神のことも記される。また、「出雲国造神賀詞」では、「出雲の臣等が遠つ神天のほひの命」が地上世界の「國體」を見に派遣され、地上の様子を報告した後、「己命の兒天の夷鳥の命にふつぬしの命を副へて、天降し遣はして、荒ぶる神等を撥ひ平け、國作らしし大神をも媚び鎭めて、大八島國の現つ事・顯し事事避さしめき。」と記す。天のほひの命自身は視察・報告という役割だが、子神が平定の主神として国譲りを成功させている点で、『古事記』『日本書紀』と大きく異なるのは、天のほひの命が出雲臣等の始祖神である故であろう。いずれの話にも「媚」が見えるのは、この神話と「媚」との結び付きの強さを感じさせる。飯泉健司は、「神賀詞は祭祀的な視点から「媚」を捉えたので、功績を語る文脈で「媚鎭」と表現した。一方、『古事記』『日本書紀』は「媚」を政治的な観点から捉えさせようとしているので、裏切り・不忠・反逆のイメージをこの神に付与する「媚附」「佞媚」の語を用いる」と説き、朝廷が神賀詞の主張を容認した所以については、「政治理念上または国家的イデオロギー上は不利益な神を追放・殺戮せざるを得ぬとしても、実際の神祇政策の段となると、やはり、神を手厚く敬う旧来の方法を行わねばならなかった」という事情を想定している(飯泉健司「アメノホヒの「媚」―八世紀初頭神祇政策の視点から―『古事記研究大系5Ⅰ古事記の神々上』髙科書店、一九九八年六月)。
不復奏 天神の「命以(ミコトモチ)」「言因(コトヨサシ)」によって「言趣(コトムケ)」がなされ、それが成し遂げられた時に「復奏(カヘリコト)」することによって「命以」が完結するという「コト」の循環の論理が見受けられる。従って、「不復奏」は「言趣」が成し遂げられていないことを端的に示す表現となっている。なお「カヘリコト(復奏・覆奏)」については、【補注解説六】参照。

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「いたくさやぎてありなり」

 国譲り神話の初発において天忍穂耳命は「豊葦原の千秋長五百秋の水穂の国は、伊多久佐夜藝弖有那理(いたくさやぎてありなり)」と発言する。この発話内容は中巻・神武天皇条においても反復され、熊野の高倉下の夢の中で、天照大御神と高木神が「葦原の中つ国は、伊多玖佐夜藝帝阿理那理(いたくさやぎてありなり)」と発言している。巻を越えて繰り返し用いられている点や、意識的に仮名表記されている点からすれば、このフレーズが定型化された言い回しであり、口頭伝承の構成要素である反復可能な決まり文句(フォーミュラ)であったことが推測できる。「いたくさやぎてありなり」というのは、天つ神から見た葦原中国の状態を述べたものであり、文脈上、天つ神に統治される前の無秩序な状態を否定的・批判的に述べた措辞として理解されなければならない。
 では、国がひどく「さやいでいる」ように見える状態というのは、どのような状態を指しているのだろうか。天忍穂耳命の発言を受けて天照大御神は、「此の国(葦原中国)は、道速振る荒振る国つ神等が多に在り」と言っているので、「さやぎてあり」という状態は、神霊が「ちはやぶる・荒ぶる」状態を意味していると考えてもよさそうである。ここに言う「国つ神」とは固有名を持った神々ではなく、土地の霊とか自然界の精霊のような原始的な土着の神霊を漠然と指していると見た方がよい。
 葦原中国が無秩序な状態にあるということを、『日本書紀』巻二・第九段では、「彼の地(葦原中国)には、多に蛍火の光る神と蠅声なす邪しき神とが有り。復た、草木咸に能く言語ふこと有り」(本書)とか、「残賊強暴横悪の神有り」(一書第一)とか、「葦原の中国は、磐根・木株・草葉も猶ほ能く言語ふ。夜は熛火の若に喧響ひ、昼は五月蠅如す沸騰る」(一書第六)などと叙述している。いずれも精霊や邪霊が盛んに活動しているさまの叙述である。記紀の文脈の類似関係から言えば、これらは「いたくさやぎてありなり」に相当する叙述ということになる。第八段にも、国つ神を代表する神であるはずの大己貴神が、「葦原の中つ国は、本自り荒芒び、磐石・草木に至及るまで咸に能く強暴かりき」(第八段一書第六)と発言しており、統治前の葦原中国は無秩序状態にあるという天つ神と同じ認識を示している。また出雲側の主張であるはずの「出雲国造神賀詞」にも、「葦原の水穂の国は、昼は五月蠅如す水沸き、夜は火瓫如す光る神在り。石根・木立・青水沫も事問ひて、荒ぶる国在りけり」とあり、書紀に一致する表現が多く見られる。こうした叙述は、自然界の精霊の活動が盛んである状態を描写しており、国土の始原の風景を描いていると見てよい。
 『古事記』には、須佐之男命の啼泣によって「悪しき神の音、狭蠅如す皆満ち、万物の妖、悉に発りき」という状況が出来したとか、天照大御神の石屋戸隠りによって「万の神の声は、狭蠅なす満ち、万の妖、悉に発りき」という状況が出来したという叙述も見られる。これらも邪霊が盛んに活動するさまの描写であり、統治されていない無秩序状態を表現するものである。精霊や邪霊が「ちはやぶる・荒ぶる」状態とは原初的な野生の状態であり、王権の論理からすれば、統制されなければならない無秩序状態だと見做された。「大殿祭祝詞」に「言問ひし磐根・木の立ち・草のかき葉をも、言止めて」とあるのを見れば、精霊の自由な活動が停止することが、王権秩序の確立と連動していると認識されていたことが窺える。「草木言語」が「言問はぬ草木」へと変異するのである。
 『日本書紀』神武即位前紀を見ると、熊野の高倉下の夢の中で、天照大神が「葦原の中つ国は、猶ほ聞喧擾之響焉」(午年六月条)と発言しているが、そこには「聞喧擾之響焉、此は左揶霓利奈離(さやげりなり)と云ふ」という訓注が附されているので、「いたくさやぎてありなり」に近似した表現であることがわかる。「聞」が「なり」に相当するので、「さやげり」に相当するのは「喧擾之響」ということになる。この天照大神の発言も葦原中国が無秩序な状態にあることを述べるものであるが、その無秩序ぶりが「喧擾之響」という騒音に象徴されている。そしてその騒音を言い表すにふさわしい倭語が「さやぐ」だということになる。
 従って、「さやぐ」とは「音を立てる」という意味となり、上掲の無秩序叙述で言うと「五月蠅なす」とか「草木言語」といった音声に関わる表現がそれに相当することになる。「大殿祭祝詞」には「掘り堅てたる柱・桁・梁・戸・牖の錯ひ、動き鳴る事無く、引結べる葛目の緩ひ、取葺ける草の噪き無く、御床つひの佐夜伎、夜女のいすすき、いづつしき事無く」とあり、建物の各部分が「音を立てる」ことが、忌わしい現象だと考えられていたことが窺える。この祝詞では床がきしむことを「さやき」と言っており、しかもそれが精霊「ひ」の仕業だと考えていたらしい。このように精霊・邪霊の活動は雑音や騒音を伴うものとして観想されており、その状態を表現したのは「さやぎてあり」とか「さやげり」であったと考えられる。
 『古事記』には「いたくさやぎてありなり」の他にも、次のような「さやぐ」の用例が見られる。
イ …あやかきの ふはやが下に むしぶすま にこやが下に たくぶすま 佐夜具が下に… (神代・記五)
ロ 狭井川よ 雲立ちわたり 畝傍山 木の葉佐夜藝奴 風吹かむとす (神武・記二〇)
ハ 畝傍山 昼は雲とゐ 夕されば 風吹かむとそ 木の葉佐夜牙流 (神武・記二一)
 いずれも歌謡中の用例であり、「いたくさやぎてありなり」が会話文中の用例で、ともに仮名書きであることからすれば、「さやぐ」が口頭語的な表現であったことが推論できる。「さやぐ」に対応する訓字が存在しないのもそのためであろう。
 イは八千矛神話の中の須勢理毘売の歌で、引用箇所は夜具の心地よさを叙述した件である。軽さを言う「ふはや」や、柔らかさを言う「にこや」に対し、「さやぐ」は栲のやや硬い感触を言い、ざわざわと音がすることを言うかと思われる。この歌は夜具を称讃して同衾を誘うという文脈であるから、この「さやぐ」には否定的な意味はないはずである。ただ、「音がする」ということは、そこに何らかの「動き」があることを示唆しているということは言えるだろう。
 ロ・ハは「木の葉」が風に吹かれてざわざわと音を立てるようすを言う。この二首は、神武記の文脈では内乱の予兆を告げる不穏な歌ということになっている。そのような解釈が成り立ちうるのは、木の葉の「さやぎ」が精霊の活動であり、葦原中国の「さやぎ」に類似した混乱や騒擾のイメージを喚起しうるものだからではないかと考えられる。
歌そのものが不吉な内容というわけではないのだが、「さやぐ」という語に喚起力があるため、過剰な再解釈が可能となるのであろう。植物が発するざわめきが、不安を掻き立てる音として感受されることがあったということは言ってよいだろう。
 なお「さやぐ」と語基を同じくすると見られる擬声語に「さやさや」があり、「さやぐ」が「ゆらく」「さわく」などと同じく擬声語に由来する動詞であることがわかる。「さやさや」は『古事記』歌謡に用例があるので、併せて検討しておく。
ニ 誉田の 日の皇子 大雀 大雀 佩かせる太刀 本つるぎ 末ふゆ ふゆ木の すからがした木の 佐夜佐夜(応神・記四八)
ホ  枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に ふれ立つ なづの木の 佐夜佐夜 (仁徳・記七四)
 いずれの「さやさや」も歌中において囃子詞としても機能しているわけだが、基本的には「木」が「音を立てる」さまを表す語であり、それが大雀の太刀や枯野の琴が発する音の比喩となっているのであろう。ニの太刀も、ホの琴も、その霊性が讃美される対象として歌われているのであるから、「さやさや」という音は霊的な呪力を発揮する音であったと考えてよいだろう。従って、「さやさや」は植物の発するざわめきであるとか、霊的な音という意味では「さやぐ」とも共通するが、当該二首の文脈においては祝福すべき音であり、否定されるべき雑音や騒音ではない。
 なお『古語拾遺』や『先代旧事本紀』に「さやけ」が「竹葉声也」と注されていることからすると、明瞭の意を表す「さやに・さやかに・さやけし」といった語も「さやぐ」と語源的に連関する可能性はあるが、これらの用法はそのほとんどが視覚的なもので「さやぐ」とは傾向が異なり、また実際の用例の多くが訓読において「きよし」と区別がつけにくいという問題もあるので、これらの語についての検討は省略する。
 『常陸国風土記』茨城郡高浜条に載る次の歌謡も「さやぐ」の用例かと思われるが、本文に乱れがあり、意味がよくわからない。
ヘ 高浜の したかぜ佐夜久 妹をひ 妻といはあや ことめしつ
 一首の意は明瞭ではないが、海辺を吹く風の音を「さやく」と言っているのであろうから、これを「さやぐ」の用例に加えても他の用法とは矛盾しない。本文に乱れがあるため確言はできないが、「さやぎ」との対比において「妹」への恋情を募らせている歌として解することができる。
 『万葉集』にも「さやぐ」の例はあるが、波や鳥や人がざわめきを発することを表す「さわく」(同根の語に「さわさわ」「さゐさゐ」がある)に多数の用例があるのと較べて、用例がきわめて少ないのは不思議である。仮名表記の確例は、わずか二例しかない。
ト 葦辺なる荻の葉左夜藝 秋風の吹き来るなへに鴈鳴き渡る(10—二一三四)
チ 小竹が葉の佐也久しも夜に ななへかる衣にませる子ろがはだかも(20—四四三一)
 二例ともに「葉」が「さやぐ」という例である。トは神武記歌謡にも似ており、自然現象の連鎖が歌われる。荻の葉の「さやぎ」は秋風によってもたらされ、雁の到来を招き寄せている。「さやぎ」が予兆となっているとも言える。昔年防人歌チの、霜夜に「さやく」笹葉は、人肌の温もりと対比される。植物の「さやぎ」との対比によって、「子ろ」への恋情がさらに掻き立てられており、次に挙げる人麻呂歌の発想にも近似したところがある。
 万葉の「さやぐ」の確例は右の二例にとどまるが、次の人麻呂歌(石見相聞歌)も「さやぐ」の用例に挙げられることが多い。ただしこの歌には「さやぐ」以外の異訓がさまざま提案されており、確例とすることは躊躇される。
リ 小竹の葉はみ山も清に乱友吾は妹思ふ別れ来ぬれば(2—一三三)
 三句「乱友」は「ささ」「さやに」との類音から「さやげども」または「さやぐとも」と訓まれることが多いが、「乱」字の訓としては全くの異例となるため、「まがへども・まがふとも」とか「みだれども・みだるとも」といった異訓も提案されており、今なお訓読が決着したとは言い難い段階にある。
 万葉集中の「乱」字は、単独用法では「みだる」または「まがふ」と訓まれており、 「さやぐ」と訓んだ例は他にはない。そのためリを「さやぐ」の用例とすることには不安があるが、「みだる」は髪や緒など糸状のものに対して用いられ、「まがふ」は視覚的な混乱を言うのに対し、万葉の仮名書き歌(ト・チ)や神武記歌謡(ロ・ハ)の例を参照するに、「さやぐ」は植物の「葉」に対して用いられるという傾向が認められるということは指摘できる。「小竹の葉」の様態を表す動詞としては、「みだる」や「まがふ」よりも「さやぐ」が適しているとは言える。
 リの歌い手は「妹を思ふ」ことに神経を集中させたいと願っているのだが、その集中を妨げるのが小竹の葉の「乱」である。その「乱」とは、風に吹かれた小竹の葉の群れが立てるざわざわとした雑音であり、山の精霊のざわめきであろう。字訓としては全くの異例となるが、語の用法傾向からすれば「さやぐ」という訓に妥当性はある。もしリの「乱」だけが例外的に「さやぐ」と訓まれうるとすれば、それは人麻呂が案出した独自の用字法であったからだと考えられる。万葉集中にきわめて用例が少なく、頻用されることのない倭語「さやぐ」は、ついにそれを書き表す適切な訓字を発見できなかった。訓字の固定化が進まなかったため、リ歌の用字法が例外的で孤立的なものとなってしまったという経緯は充分想像できる事態である。
 リを「さやぐ」の用例に加えるとしたら、その意味はチと同じく、精霊の活動が人間の心情と対立するという構図を形作っている。この構図は、葦原中国の「さやぎ」が高天原の秩序と対立するという構図に類似すると言えるだろう。このように上代文献の「さやぐ」を検討してみると、その意味は植物などがざわざわと音を立てるということにあり、そのような響きは自然の精霊が盛んに活動しているさまを想起させるものであったということが明らかとなる。そして精霊のざわめきの声は、不安を掻き立てる「五月蠅なす」ものであり、秩序に従わない「荒ぶる」ものであった。葦原中国が「いたくさやぎてありなり」というのは、地霊や精霊がざわざわと音を立てて盛んに活動しているさまを表しており、国土が始原の状態にあるということを表象している。始原の状態は、秩序化を目指す天つ神の側からすると、ひどく無秩序な混乱した状態に見えるものであった。原初の神である自然の精霊は、天つ神=天皇に服従しなければならないというのが、上代文献に共通して現れる王権神話の論理であったと考えられる。
〔土佐秀里 日本上代文学〕

「言趣」「言向」

 『古事記』では葦原中国平定の場面、中巻神武天皇東征の場面、景行記倭建命の西征・東征の場面等において、十一例の「言趣」「言向」が見られる。以下にその箇所を引用し、コトムケの対象には傍線を付す。会話文については、その発話者を( )で示した。なお、引用は新編日本古典文学全集本(小学館、一九九七年)による。
 ① (天忍穂耳命)「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は、いたくさやぎて有りなり」と告らして、……(高産巣日神・天照大御神)「此の葦原中国は、我が御子の知らさむ国と、言依さして賜へる国ぞ。故、此の国に道速振る荒振る国つ神等が多た在るを以為ふに、是、何れの神を使はしてか言趣けむ」(葦原中国の平定・当該条)
 ② (天照大御神・高産巣日神)「汝、行きて、天若日子を問はむ状は、『汝を葦原中国に使はせる所以は、其の国の荒ぶる神等言趣け和せとぞ。何とかも八年に至るまで復奏さぬ』ととへ」(天若日子の派遣)
 ③故、建御雷神、返り参ゐ上り、葦原中国言向け和し平げつる状を復奏しき。(大国主神の国譲り)
 ④ (高倉下)「己が夢みつらく『天照大神・高木神の二柱の神の命以て、建御雷神を召して詔はく、「葦原中国は、いたくさやぎてありなり。我が御子等、平らかならず坐すらし。其の葦原中国は、専ら汝が言向けたる国ぞ。故、汝建御雷神、降るべし」とのりたまふ。……』……」といひき。(熊野の高倉下)
 ⑤ 故、如此荒ぶる神等言向け平げ和し伏はぬ人等退け撥ひて、畝火の白檮原宮に坐して、天の下を治めき。(久米歌)
 ⑥ 大吉備津日子命と若建吉備津日子命との二柱は、相副ひて、針間の氷河之前に忌瓮を居ゑて、針間を道の口と為て、吉備国言向け和しき。(孝霊天皇)
 ⑦ (倭建命)然くして、還り上る時に、山の神・河の神と穴戸神とを皆言向け和して、参ゐ上りき。(倭建命の熊曾征伐)
 ⑧ 爾くして、天皇、亦、頻りに倭建命に詔はく、「東の方の十二の道の荒ぶる神とまつろはぬ人等とを言向け和し平げよ」とのりたまひて、吉備臣等が祖、名は御鉏友耳建日子を副へて遣はしし時に、ひひら木の八尋矛を給ひき。(倭建命の東征)
 ⑨ 故、尾張国に到りて、尾張国造が祖、美夜受比売の家に入り坐しき。乃ち婚はむと思へども、亦、還り上らむ時に、婚はむと思ひて、期り定めて、東の国に幸して、悉く山河の荒ぶる神と伏はぬ人等とを言向け和し平げき。(野火の難)
 ⑩ 其より入り幸し、悉く荒ぶる蝦夷等言向け、亦、山河の荒ぶる神等平げ和して、還り上り幸しし時に、足柄の坂本に到りて、御粮を食む処に、其の坂の神、白き鹿と化りて来立ちき。(弟橘比売命)
 ⑪ 其の国より科野国に越えて、乃ち科野之坂神言向けて、尾張国に帰り来て、先の日に期れる美夜受比売の許に入り坐しき。(美夜受比売)
 「言趣」「言向」の下に「和」「和平」「平和」の語を伴う場合が多い。コトムケの語義については、確定したとはいえない状況にある。コトが「言」であることは石坂正蔵の説によって概ね定説化しているといえるが(石坂正蔵 一九四三)、 その「言」が行為の主体に属するのか、客体に属するのかによって理解は異なる。こちら側の「言」によって、ということか、相手側の「言」をか、という違いである。ムケについては、これが下二段動詞であることから、他動詞として「~を向ける」と解釈するか、下二段動詞の使役用法と取って、「~をして~を向かせる」と取るかで分かれる。「こちら側の言によって相手を向かせる(従わせる)」(青木周平 一九八〇)、若しくは「言葉によって、相手をこちらに向ける(従える)」(西宮一民 一九九二)という理解と、「相手の言をこちらに向かせる(服従を誓わせる)」(神野志隆光 一九七五)といった理解に分かれる。また、ムケの用法・機能を、上位主体語と下位主体語とで区分し、コトムケは上位主体語で「コトヲ向ケル」という語意があるとする入江湑説もある(入江湑 一九八五・一九八八)。ここでどの説を支持するかを確定するものではないが、「―向く」の語群として解釈することには問題があり、「言+動詞」の語群として検討すべきとし、「言」によって「向クル(平定する)」意と捉えた松田浩の説(松田浩 二〇一九)が現状では妥当性の高いものとして判断されようか。
 いずれにせよ、前提として『古事記』はその神話文脈において「言」を重視しているということが指摘し得る。コトムケの文脈は、ミコトモチ・コトヨサシ・コトムケ・カヘリコトという一連の流れの中に位置づけられるものとして見ることができる。多田みや子は「言」の中軸を担うのは会話文であるとし、特に「問ふ」ことの意義について考察し、「問ふ」行為は混沌の中にいる者を、こちらに取り込み、秩序化する意義を担うと説いた(多田みや子 一九九〇)。コトムケは、混沌とした状態を秩序化するという大きな枠組みの中で捉えられるべきものであり、その中心に「言」が据えられているという点は、多くの先行研究において論じられてきたことであり、揺らぐことはないと思われるが、表現が抽象的である故に、その内実を掴むのはなかなか難しい。倉野憲司は、「言向」は本来「荒ぶる神」を対象とするもので、宗教的意義に於いて用いられたものであり、その本来の意義は「言霊の威力によつて荒らぶる神を説伏して、その荒らぶる心を和める」ことであり、「言向和平」と熟しているのは偶然ではないと説き、景行紀四〇年是歳条の中に「巧言調暴神」とあるのが「言向」の意義を裏書きしているとする(倉野憲司 一九四二)。「荒」から「和」へという点については、飯田勇も、コトムケは本来神の荒びを和らげ、鎮めようとするもので、神と人との接触する祭式の場に起源をもつと捉えている(飯田勇 一九八四)。『古事記』以前の、「コトムケヤハス」行為の始原から説き起こす飯田の論とは視点が異なるのだが、稿者もかつて「荒」から「和」への変質について触れ、荒ぶる神・山河の神を国家祭祀体制の中に取り込んで行く意義を担うものであったのではないかと述べたことがある(谷口 二〇一四)。コトムケの対象の中心に「荒ぶる神」がある点、それに「和」「和平」が対応する点は認められようが、しかしコトムケの対象は決して「荒ぶる神」のみではないこと、そして「和」「和平」が伴わない例もあることは考慮する必要がある。
 また、コトムケの初出箇所において、その対象となる場の状況が「いたくさやぎてありなり」と表現されている点も注意される。「いたくさやぎてありなり」については、補注解説の前項【補注四】において詳述されているので、ここでは特に詳しく触れることはしないが、『日本書紀』(神代下九段正文・欽明紀十六年二月)や『常陸国風土記』(信田郡高来里・香島郡総説)、延喜式祝詞(大殿祭・六月晦大祓・遷却祟神・出雲国造神賀詞)において地上の無秩序な状態や、平定されるべき地の状況が、草木が物言う世界として表現されるのに対し、『古事記』では「さやぎ」として認識され、その『古事記』においてのみコトムケの語が使われているわけであるので、当然「さやぎ」とコトムケとは連動するはずである。無秩序状態であることが、草木が物言う世界として描かれ、その草木の言語をやめさせると表現する、即ち言葉の問題として描かれる『日本書紀』や祝詞に対して、『古事記』では言葉にならない「さやぎ」の世界として対象が描かれている。それ故に、言葉による平定が必要とされていると説かれるわけだが、果たしてそうであろうか。少なくとも『古事記』の場合、言葉の通じない世界として地上が描かれているわけではない。むしろ対話が成り立つことを前提としている故にコトムケという方法が用いられるのではないか。逆に草木言語の世界は、「言語」と表されながらも、むしろ言葉が通じない世界として位置づけられているように思われる。コトムケという方法が可能であるのか否かについては、大国主神による国作りの神話が明確に描かれる『古事記』と、大己貴神の国作りとして一書(神代上八段一書六)でしか記さない『日本書紀』との間で、差が生じているのではなかろうか。なお、コトムケの文脈においては、烏谷知子が指摘する以下の点も注意される。即ち、高天原では思金神、葦原中国では事代主神・建御名方神が代弁者として登場し、「言」の交渉が二重性を帯びている点、また、葦原中国の平定は、事代主神のもつ宗教的支配力と、建御名方神のもつ武力的支配力の二つを掌握することによって成立しているのであって、決して「言」のみによる平定となっていない点である(烏谷知子 二〇一一)。
 さて、コトムケの用例のうち、①~③は葦原中国平定神話、④~⑤は神武東征、⑥は吉備国のコトムケで、残る⑦~⑪が倭建命の西征・東征において見られるものである。④~⑤は、①~③の葦原中国の平定に続くものとして、同じ流れの中に位置づけられるものであることは、④の「いたくさやぎてありなり」といった表現からも理解される。⑥については、所謂系譜的(帝紀的)記述の中に見られるものであってやや特殊であり、取り立てて「言向和」の表現が使用されている意図が不明瞭であるが、⑦以降のコトムケの主体である倭建命が、⑥に見られる若建吉備津日子の孫であり、また⑦では倭建命に吉備臣等の祖、御鉏友耳建日子が副えられることもあり、砂入恒夫は「この孝霊記の「言向和」の表記がヤマトタケル東征伝説と深い関係を持っていることはほぼ確かである」と言い(砂入恒夫 一九六九)、松田浩も「吉備国の「言向」が、「言向」による「天下」の拡大・完成の第一歩としての重みを持つ」とする(松田浩 二〇一九の注5参照)。それらの指摘によれば、⑥は⑦~⑪に先駆けて行われるコトムケとして位置づけられる。
 以下、⑦~⑪においては倭建命の西征・東征の中でコトムケの語が使用される(⑦~⑪の表記に従って以下「言向」と表記する)。そのため、倭建命論のなかで「言向」を論じる先行研究は多い。詳しくは個別に論に当たって貰うのが良いのだが、部分的に紹介をすると、森昌文は倭建命の話の核心にある問題は「言」への展開であり、その「「言」を「建」に牽引してゆくことによって西征・東征という王権の基盤を拡張できたのであり、一方「言」の誤認によって英雄人物を中央から追放し亡き者とする構想を持つ」と説く(森昌文 一九八六)。「言」の誤認とは倭建命物語の冒頭に位置する、父天皇からの言葉「ネギ教え覚せ」についての問題であり、また倭建命の死の原因となる「言挙」の問題でもある。正に言の誤認から始まって、言の誤認によって終わるわけだが、その間は倭建命自身が「言向」を行う存在である点に、物語全体の巧みな構成意識が伺える。榎本福寿は、言向とは「言葉の力に訴え、それによって言葉の(あらわす内容の)とおり相手を従わせることにほかならない」とし、その本来の相手は「荒ぶる神」であったはずだが、そこに「まつろはぬ人」までもが対象となった新たな時代の討伐を倭建命は果たしていると説く。但し、未だみずからの力だけでは討伐し得ない時代であることをその最期が示しているとする(榎本福寿 一九九二)。また、荻原千鶴は、⑦~⑪のうち、⑦⑨⑩において「山河」の神が「言向」の対象となっているところから、「山河」が国土を表示する代表的具体物としてあげられており、なおかつ⑦「皆」、⑨⑩「悉」の語が付随していることから、「この国土のすべて」の意を示し、倭建命の国土平定がこの現実の国土の全域すべてに行われたことを表していると説いた(荻原千鶴 一九七九)。
 今後も『古事記』の神話的文脈把握の問題として「言向」が論じられていくことになると思われるが、その際には神武東征伝説における具体的な戦闘の描写と「言向」の論理がどのように関連するものか、といった問題や、倭建命説話の中で「言向」の対象となるものとならないものとの差異は何か、といったところが問題になるのではなかろうか。
倭建命の西征・東征の説話においては、「言向」の対象となるのは、⑦「山の神・河の神と穴戸神」、⑧「東の方の十二の道の荒ぶる神とまつろはぬ人等」、⑨(東の国の)「山河の荒ぶる神と伏はぬ人等」、⑩「荒ぶる蝦夷等」(亦、山河の荒ぶる神等)、⑪「科野之坂神」である。⑪の場合のみ、特定の場所の神とされるのは、これが東征における最後の「言向」であることが関係しているのかも知れない。ところで、倭建命はこれら以外に、熊曽建・出雲建・相武国造・走水海の渡神・足柄坂の神、そして最後に伊服岐能山の神と対峙している。最後については「言挙」との関連で考えるべき問題ではあるが、その他については、先の「言向」の対象となる存在と、これら討伐対象(走水海の渡神は討伐対象ではないかも知れないが)との相違は何か、というところを考える必要があるのかも知れない。また、今回は検討することが出来なかったが、「言向」「言趣」に下接する語の「和」「和平」「平和」との関連についても、細かな検討が必要であろう。先行論としては、砂入恒夫(一九六九)、青木周平(一八九〇)、森昌文(一九八六)等が論じているので、参照されたい。
 最後に、『常陸国風土記』香島郡の香島郡設立の沿革を記す記事の分注に、「事向」の例が二例見られることについて、若干述べておきたい。かつて青木周平は「コト」の帰属を平定の主体にあるとする論拠の一つとされたが(青木周平 一九八〇)、後に神野志隆光からの反論があり(神野志隆光 一九八一)、結果的にはこの二例によって「コト」の帰属を考える論拠とはならない旨の確認がなされている(青木周平 一九九四)。『常陸国風土記』の例は、文脈上に難解な面があり、解釈が不明瞭な部分がある故、その後積極的にこの「事向」については論じられていない。稿者はこの「事向」の「コト」が『古事記』とは異なって「言」ではないこと、そして香島大神の平定神としての面を示す意味で「事向」の語が用いられた可能性について論じているが(谷口 二〇〇九)、いずれにせよ『古事記』の「コトムケ」を論じる際の検討対象としては含められないというのが現状となっている。


 引用文献
 青木周平(一九八〇)  「葦原中国平定伝承と「言向」」(『古事記研究―歌と神話の文学的表現―』おうふう、一九九四年一二月、初出は一九八〇年九月)
 青木周平(一九九四)  「葦原中国平定伝承と「言向」」補説(『古事記研究―歌と神話の文学的表現―』おうふう、一九九四年一二月)
 飯田 勇(一九八四)  「古代王権と『言霊』―うたの発生を考えつつ―」(千葉大学人文学部国語国文学会『語文論叢』一二号、一九八四年九月)
 石坂正蔵(一九四三) 「言向考」(『國語と國文學』二〇巻七号、一九四三年七月)
 入江 湑(一九八五) 「コトムケの本義」(『古事記年報』二七号、一九八五年一月)
 入江 湑(一九八八) 「古事記における向・コトムケの追考」(『古事記年報』三〇号、一九八八年一月)
 榎本福寿(一九九二) 「言向と倭建命の討伐」(『古事記年報』三四号、一九九二年一月)
 荻原千鶴(一九七九)  「景行記の一性格―山河の神の言向―」(『日本古代の神話と文学』塙書房、一九九八年一月、初出は一九七九年二月)
 烏谷知子(二〇一一)  「古事記の言―「言向」「言挙」への展開―」(『上代文学の伝承と表現』おうふう、二〇一六年六月、初出は二〇一一年一月)
 倉野憲司(一九四二) 「言向」(『古典と上代精神』至文堂、一九四二年三月)
 神野志隆光(一九七五)  「「ことむけ」攷―古事記覚書―」(『古事記の達成―その論理と方法』東京大学出版会、一九八三年九月、初出は一九七五年一月)
 神野志隆光(一九八一)  「『常陸国風土記』の「事向」をめぐって―ことむけ攷補説―」(『古事記の達成―その論理と方法』東京大学出版会、一九八三年九月、初出は一九八一年一二月)
 砂入恒夫(一九六九)  「ヤマトタケル伝説の成立に関する試論―言向和平の表記をめぐって―」(『ヤマトタケル伝説の研究』近代文芸社、一九八三年四月、初出は一九六九年三月)
 多田みや子(一九九〇)  「古事記神話における「問ふ」ことの意味」(『古代文学の諸相』二〇〇六年一月、初出は一九九〇年一月)
 谷口雅博(二〇〇九)  「『常陸国風土記』香島郡「事向」の文脈」(『風土記説話の表現世界』笠間書院、二〇一八年二月、初出は二〇〇九年一一月)
 谷口雅博(二〇一四) 「『古事記』における神と人」(『明日香風』一三三号、二〇一四年一月)
 西宮一民(一九九二)  「上代語コトムケ・ソガヒニ攷」(『古事記の研究』おうふう、一九九三年一〇月、初出は一九九二年一月)
 松田 浩(二〇一九) 「『古事記』における「言向」の論理と思想」(『上代文学』一二三号、二〇一九年一一月)
 森 昌文(一九八六) 「ヤマトタケル論―言(こと)への展開―」(『古代文学』二五号、一九八六年三月)
〔谷口雅博 日本上代文学〕

「言趣」「言向」

 『古事記』では葦原中国平定の場面、中巻神武天皇東征の場面、景行記倭建命の西征・東征の場面等において、十一例の「言趣」「言向」が見られる。以下にその箇所を引用し、コトムケの対象には傍線を付す。会話文については、その発話者を( )で示した。なお、引用は新編日本古典文学全集本(小学館、一九九七年)による。
 ① (天忍穂耳命)「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は、いたくさやぎて有りなり」と告らして、……(高産巣日神・天照大御神)「此の葦原中国は、我が御子の知らさむ国と、言依さして賜へる国ぞ。故、此の国に道速振る荒振る国つ神等が多た在るを以為ふに、是、何れの神を使はしてか言趣けむ」(葦原中国の平定・当該条)
 ② (天照大御神・高産巣日神)「汝、行きて、天若日子を問はむ状は、『汝を葦原中国に使はせる所以は、其の国の荒ぶる神等言趣け和せとぞ。何とかも八年に至るまで復奏さぬ』ととへ」(天若日子の派遣)
 ③故、建御雷神、返り参ゐ上り、葦原中国言向け和し平げつる状を復奏しき。(大国主神の国譲り)
 ④ (高倉下)「己が夢みつらく『天照大神・高木神の二柱の神の命以て、建御雷神を召して詔はく、「葦原中国は、いたくさやぎてありなり。我が御子等、平らかならず坐すらし。其の葦原中国は、専ら汝が言向けたる国ぞ。故、汝建御雷神、降るべし」とのりたまふ。……』……」といひき。(熊野の高倉下)
 ⑤ 故、如此荒ぶる神等言向け平げ和し伏はぬ人等退け撥ひて、畝火の白檮原宮に坐して、天の下を治めき。(久米歌)
 ⑥ 大吉備津日子命と若建吉備津日子命との二柱は、相副ひて、針間の氷河之前に忌瓮を居ゑて、針間を道の口と為て、吉備国言向け和しき。(孝霊天皇)
 ⑦ (倭建命)然くして、還り上る時に、山の神・河の神と穴戸神とを皆言向け和して、参ゐ上りき。(倭建命の熊曾征伐)
 ⑧ 爾くして、天皇、亦、頻りに倭建命に詔はく、「東の方の十二の道の荒ぶる神とまつろはぬ人等とを言向け和し平げよ」とのりたまひて、吉備臣等が祖、名は御鉏友耳建日子を副へて遣はしし時に、ひひら木の八尋矛を給ひき。(倭建命の東征)
 ⑨ 故、尾張国に到りて、尾張国造が祖、美夜受比売の家に入り坐しき。乃ち婚はむと思へども、亦、還り上らむ時に、婚はむと思ひて、期り定めて、東の国に幸して、悉く山河の荒ぶる神と伏はぬ人等とを言向け和し平げき。(野火の難)
 ⑩ 其より入り幸し、悉く荒ぶる蝦夷等言向け、亦、山河の荒ぶる神等平げ和して、還り上り幸しし時に、足柄の坂本に到りて、御粮を食む処に、其の坂の神、白き鹿と化りて来立ちき。(弟橘比売命)
 ⑪ 其の国より科野国に越えて、乃ち科野之坂神言向けて、尾張国に帰り来て、先の日に期れる美夜受比売の許に入り坐しき。(美夜受比売)
 「言趣」「言向」の下に「和」「和平」「平和」の語を伴う場合が多い。コトムケの語義については、確定したとはいえない状況にある。コトが「言」であることは石坂正蔵の説によって概ね定説化しているといえるが(石坂正蔵 一九四三)、 その「言」が行為の主体に属するのか、客体に属するのかによって理解は異なる。こちら側の「言」によって、ということか、相手側の「言」をか、という違いである。ムケについては、これが下二段動詞であることから、他動詞として「~を向ける」と解釈するか、下二段動詞の使役用法と取って、「~をして~を向かせる」と取るかで分かれる。「こちら側の言によって相手を向かせる(従わせる)」(青木周平 一九八〇)、若しくは「言葉によって、相手をこちらに向ける(従える)」(西宮一民 一九九二)という理解と、「相手の言をこちらに向かせる(服従を誓わせる)」(神野志隆光 一九七五)といった理解に分かれる。また、ムケの用法・機能を、上位主体語と下位主体語とで区分し、コトムケは上位主体語で「コトヲ向ケル」という語意があるとする入江湑説もある(入江湑 一九八五・一九八八)。ここでどの説を支持するかを確定するものではないが、「―向く」の語群として解釈することには問題があり、「言+動詞」の語群として検討すべきとし、「言」によって「向クル(平定する)」意と捉えた松田浩の説(松田浩 二〇一九)が現状では妥当性の高いものとして判断されようか。
 いずれにせよ、前提として『古事記』はその神話文脈において「言」を重視しているということが指摘し得る。コトムケの文脈は、ミコトモチ・コトヨサシ・コトムケ・カヘリコトという一連の流れの中に位置づけられるものとして見ることができる。多田みや子は「言」の中軸を担うのは会話文であるとし、特に「問ふ」ことの意義について考察し、「問ふ」行為は混沌の中にいる者を、こちらに取り込み、秩序化する意義を担うと説いた(多田みや子 一九九〇)。コトムケは、混沌とした状態を秩序化するという大きな枠組みの中で捉えられるべきものであり、その中心に「言」が据えられているという点は、多くの先行研究において論じられてきたことであり、揺らぐことはないと思われるが、表現が抽象的である故に、その内実を掴むのはなかなか難しい。倉野憲司は、「言向」は本来「荒ぶる神」を対象とするもので、宗教的意義に於いて用いられたものであり、その本来の意義は「言霊の威力によつて荒らぶる神を説伏して、その荒らぶる心を和める」ことであり、「言向和平」と熟しているのは偶然ではないと説き、景行紀四〇年是歳条の中に「巧言調暴神」とあるのが「言向」の意義を裏書きしているとする(倉野憲司 一九四二)。「荒」から「和」へという点については、飯田勇も、コトムケは本来神の荒びを和らげ、鎮めようとするもので、神と人との接触する祭式の場に起源をもつと捉えている(飯田勇 一九八四)。『古事記』以前の、「コトムケヤハス」行為の始原から説き起こす飯田の論とは視点が異なるのだが、稿者もかつて「荒」から「和」への変質について触れ、荒ぶる神・山河の神を国家祭祀体制の中に取り込んで行く意義を担うものであったのではないかと述べたことがある(谷口 二〇一四)。コトムケの対象の中心に「荒ぶる神」がある点、それに「和」「和平」が対応する点は認められようが、しかしコトムケの対象は決して「荒ぶる神」のみではないこと、そして「和」「和平」が伴わない例もあることは考慮する必要がある。
 また、コトムケの初出箇所において、その対象となる場の状況が「いたくさやぎてありなり」と表現されている点も注意される。「いたくさやぎてありなり」については、補注解説の前項【補注四】において詳述されているので、ここでは特に詳しく触れることはしないが、『日本書紀』(神代下九段正文・欽明紀十六年二月)や『常陸国風土記』(信田郡高来里・香島郡総説)、延喜式祝詞(大殿祭・六月晦大祓・遷却祟神・出雲国造神賀詞)において地上の無秩序な状態や、平定されるべき地の状況が、草木が物言う世界として表現されるのに対し、『古事記』では「さやぎ」として認識され、その『古事記』においてのみコトムケの語が使われているわけであるので、当然「さやぎ」とコトムケとは連動するはずである。無秩序状態であることが、草木が物言う世界として描かれ、その草木の言語をやめさせると表現する、即ち言葉の問題として描かれる『日本書紀』や祝詞に対して、『古事記』では言葉にならない「さやぎ」の世界として対象が描かれている。それ故に、言葉による平定が必要とされていると説かれるわけだが、果たしてそうであろうか。少なくとも『古事記』の場合、言葉の通じない世界として地上が描かれているわけではない。むしろ対話が成り立つことを前提としている故にコトムケという方法が用いられるのではないか。逆に草木言語の世界は、「言語」と表されながらも、むしろ言葉が通じない世界として位置づけられているように思われる。コトムケという方法が可能であるのか否かについては、大国主神による国作りの神話が明確に描かれる『古事記』と、大己貴神の国作りとして一書(神代上八段一書六)でしか記さない『日本書紀』との間で、差が生じているのではなかろうか。なお、コトムケの文脈においては、烏谷知子が指摘する以下の点も注意される。即ち、高天原では思金神、葦原中国では事代主神・建御名方神が代弁者として登場し、「言」の交渉が二重性を帯びている点、また、葦原中国の平定は、事代主神のもつ宗教的支配力と、建御名方神のもつ武力的支配力の二つを掌握することによって成立しているのであって、決して「言」のみによる平定となっていない点である(烏谷知子 二〇一一)。
 さて、コトムケの用例のうち、①~③は葦原中国平定神話、④~⑤は神武東征、⑥は吉備国のコトムケで、残る⑦~⑪が倭建命の西征・東征において見られるものである。④~⑤は、①~③の葦原中国の平定に続くものとして、同じ流れの中に位置づけられるものであることは、④の「いたくさやぎてありなり」といった表現からも理解される。⑥については、所謂系譜的(帝紀的)記述の中に見られるものであってやや特殊であり、取り立てて「言向和」の表現が使用されている意図が不明瞭であるが、⑦以降のコトムケの主体である倭建命が、⑥に見られる若建吉備津日子の孫であり、また⑦では倭建命に吉備臣等の祖、御鉏友耳建日子が副えられることもあり、砂入恒夫は「この孝霊記の「言向和」の表記がヤマトタケル東征伝説と深い関係を持っていることはほぼ確かである」と言い(砂入恒夫 一九六九)、松田浩も「吉備国の「言向」が、「言向」による「天下」の拡大・完成の第一歩としての重みを持つ」とする(松田浩 二〇一九の注5参照)。それらの指摘によれば、⑥は⑦~⑪に先駆けて行われるコトムケとして位置づけられる。
 以下、⑦~⑪においては倭建命の西征・東征の中でコトムケの語が使用される(⑦~⑪の表記に従って以下「言向」と表記する)。そのため、倭建命論のなかで「言向」を論じる先行研究は多い。詳しくは個別に論に当たって貰うのが良いのだが、部分的に紹介をすると、森昌文は倭建命の話の核心にある問題は「言」への展開であり、その「「言」を「建」に牽引してゆくことによって西征・東征という王権の基盤を拡張できたのであり、一方「言」の誤認によって英雄人物を中央から追放し亡き者とする構想を持つ」と説く(森昌文 一九八六)。「言」の誤認とは倭建命物語の冒頭に位置する、父天皇からの言葉「ネギ教え覚せ」についての問題であり、また倭建命の死の原因となる「言挙」の問題でもある。正に言の誤認から始まって、言の誤認によって終わるわけだが、その間は倭建命自身が「言向」を行う存在である点に、物語全体の巧みな構成意識が伺える。榎本福寿は、言向とは「言葉の力に訴え、それによって言葉の(あらわす内容の)とおり相手を従わせることにほかならない」とし、その本来の相手は「荒ぶる神」であったはずだが、そこに「まつろはぬ人」までもが対象となった新たな時代の討伐を倭建命は果たしていると説く。但し、未だみずからの力だけでは討伐し得ない時代であることをその最期が示しているとする(榎本福寿 一九九二)。また、荻原千鶴は、⑦~⑪のうち、⑦⑨⑩において「山河」の神が「言向」の対象となっているところから、「山河」が国土を表示する代表的具体物としてあげられており、なおかつ⑦「皆」、⑨⑩「悉」の語が付随していることから、「この国土のすべて」の意を示し、倭建命の国土平定がこの現実の国土の全域すべてに行われたことを表していると説いた(荻原千鶴 一九七九)。
 今後も『古事記』の神話的文脈把握の問題として「言向」が論じられていくことになると思われるが、その際には神武東征伝説における具体的な戦闘の描写と「言向」の論理がどのように関連するものか、といった問題や、倭建命説話の中で「言向」の対象となるものとならないものとの差異は何か、といったところが問題になるのではなかろうか。
倭建命の西征・東征の説話においては、「言向」の対象となるのは、⑦「山の神・河の神と穴戸神」、⑧「東の方の十二の道の荒ぶる神とまつろはぬ人等」、⑨(東の国の)「山河の荒ぶる神と伏はぬ人等」、⑩「荒ぶる蝦夷等」(亦、山河の荒ぶる神等)、⑪「科野之坂神」である。⑪の場合のみ、特定の場所の神とされるのは、これが東征における最後の「言向」であることが関係しているのかも知れない。ところで、倭建命はこれら以外に、熊曽建・出雲建・相武国造・走水海の渡神・足柄坂の神、そして最後に伊服岐能山の神と対峙している。最後については「言挙」との関連で考えるべき問題ではあるが、その他については、先の「言向」の対象となる存在と、これら討伐対象(走水海の渡神は討伐対象ではないかも知れないが)との相違は何か、というところを考える必要があるのかも知れない。また、今回は検討することが出来なかったが、「言向」「言趣」に下接する語の「和」「和平」「平和」との関連についても、細かな検討が必要であろう。先行論としては、砂入恒夫(一九六九)、青木周平(一八九〇)、森昌文(一九八六)等が論じているので、参照されたい。
 最後に、『常陸国風土記』香島郡の香島郡設立の沿革を記す記事の分注に、「事向」の例が二例見られることについて、若干述べておきたい。かつて青木周平は「コト」の帰属を平定の主体にあるとする論拠の一つとされたが(青木周平 一九八〇)、後に神野志隆光からの反論があり(神野志隆光 一九八一)、結果的にはこの二例によって「コト」の帰属を考える論拠とはならない旨の確認がなされている(青木周平 一九九四)。『常陸国風土記』の例は、文脈上に難解な面があり、解釈が不明瞭な部分がある故、その後積極的にこの「事向」については論じられていない。稿者はこの「事向」の「コト」が『古事記』とは異なって「言」ではないこと、そして香島大神の平定神としての面を示す意味で「事向」の語が用いられた可能性について論じているが(谷口 二〇〇九)、いずれにせよ『古事記』の「コトムケ」を論じる際の検討対象としては含められないというのが現状となっている。


 引用文献
 青木周平(一九八〇)  「葦原中国平定伝承と「言向」」(『古事記研究―歌と神話の文学的表現―』おうふう、一九九四年一二月、初出は一九八〇年九月)
 青木周平(一九九四)  「葦原中国平定伝承と「言向」」補説(『古事記研究―歌と神話の文学的表現―』おうふう、一九九四年一二月)
 飯田 勇(一九八四)  「古代王権と『言霊』―うたの発生を考えつつ―」(千葉大学人文学部国語国文学会『語文論叢』一二号、一九八四年九月)
 石坂正蔵(一九四三) 「言向考」(『國語と國文學』二〇巻七号、一九四三年七月)
 入江 湑(一九八五) 「コトムケの本義」(『古事記年報』二七号、一九八五年一月)
 入江 湑(一九八八) 「古事記における向・コトムケの追考」(『古事記年報』三〇号、一九八八年一月)
 榎本福寿(一九九二) 「言向と倭建命の討伐」(『古事記年報』三四号、一九九二年一月)
 荻原千鶴(一九七九)  「景行記の一性格―山河の神の言向―」(『日本古代の神話と文学』塙書房、一九九八年一月、初出は一九七九年二月)
 烏谷知子(二〇一一)  「古事記の言―「言向」「言挙」への展開―」(『上代文学の伝承と表現』おうふう、二〇一六年六月、初出は二〇一一年一月)
 倉野憲司(一九四二) 「言向」(『古典と上代精神』至文堂、一九四二年三月)
 神野志隆光(一九七五)  「「ことむけ」攷―古事記覚書―」(『古事記の達成―その論理と方法』東京大学出版会、一九八三年九月、初出は一九七五年一月)
 神野志隆光(一九八一)  「『常陸国風土記』の「事向」をめぐって―ことむけ攷補説―」(『古事記の達成―その論理と方法』東京大学出版会、一九八三年九月、初出は一九八一年一二月)
 砂入恒夫(一九六九)  「ヤマトタケル伝説の成立に関する試論―言向和平の表記をめぐって―」(『ヤマトタケル伝説の研究』近代文芸社、一九八三年四月、初出は一九六九年三月)
 多田みや子(一九九〇)  「古事記神話における「問ふ」ことの意味」(『古代文学の諸相』二〇〇六年一月、初出は一九九〇年一月)
 谷口雅博(二〇〇九)  「『常陸国風土記』香島郡「事向」の文脈」(『風土記説話の表現世界』笠間書院、二〇一八年二月、初出は二〇〇九年一一月)
 谷口雅博(二〇一四) 「『古事記』における神と人」(『明日香風』一三三号、二〇一四年一月)
 西宮一民(一九九二)  「上代語コトムケ・ソガヒニ攷」(『古事記の研究』おうふう、一九九三年一〇月、初出は一九九二年一月)
 松田 浩(二〇一九) 「『古事記』における「言向」の論理と思想」(『上代文学』一二三号、二〇一九年一一月)
 森 昌文(一九八六) 「ヤマトタケル論―言(こと)への展開―」(『古代文学』二五号、一九八六年三月)
〔谷口雅博 日本上代文学〕

『古事記』の「復奏(覆奏)」

 天皇や朝廷などに対する報告・返事を指すとされる「カヘリコト(マヲス)」の語は(1)、『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの上代文献に見え、表記は文献ごとに様々である。とりわけ『日本書紀』の表記は幅広く、『古事記』にみえる「復奏」「覆奏」のほか、復命・服命・報・報答・報辞・報命・報聞・報告・報言・答報・奏答などがあり、古写本・現代テキスト類で付訓の揺れが大きく、実際に「カヘリコト(マヲス)」と訓むべきか検討が必要な例も少なくない(2)。本稿では『古事記』の用例検討を通して、その役割について述べていく。
 『古事記』において「復奏(覆奏)」の語は上巻の葦原中国平定条と火遠理命の海宮訪問条、中巻の建波邇安王反逆条と四道将軍派遣条(崇神記)、倭建命西征・東征条(景行記)、下巻の速総別王と女鳥王条(仁徳記)、雄略天皇陵破壊条(顕宗記)にあわせて十三例確認できる(3)。

1 高御産巣日神・天照大御神の命以て、天の安の河の河原に八百万の神を神集へ集へて、思金神に思はしめて、詔ひしく、「此の葦原中国は、我が御子の知らさむ国と、言依して賜へる国ぞ。故、此の国に道速振る荒振る国つ神等が多た在るを以為ふに、是、何れの神を使はしてか言趣けむ」とのりたまひき。爾くして、思金神と八百万の神と、議りて白ししく、「天菩比神、是遣すべし」とまをしき。故、天菩比神を遣せば、乃ち大国主神に媚び附きて、三年に至るまで復奏さず(不復奏(4))。 (上巻・葦原中国の平定)

 右が『古事記』における「復奏」の初出であり、この後も天菩比神の不復奏が繰り返し語られ、次いで派遣された天若日子についても不復奏の事実が記される。

2天のまかこ弓・天のはは矢を以て天若日子に賜ひて、遣しき。是に、天若日子、其の国に降り到りて、即ち大国主神の女、下照比売を娶り、亦、其の国を得むと慮りて、八年に至るまで復奏さず(不復奏)。(上巻・天若日子の派遣)

 全十三例のうち約半数となる六例が葦原中国平定条に集中し、天菩比神の不復奏二例、天若日子の不復奏三例ののち、葦原中国平定は次のように締め括られる。

3故、建御雷神、返り参ゐ上り、葦原中国を言向け和し平げつる状復奏しき(復奏)。(上巻・大国主神の国譲り)

 1の不復奏の内実は不明だが、2の記述によれば天若日子が本来天照大御神らの御子神が統治すべき国を「得る」ことを企図しており、その後、高御産巣日神の発話において天若日子の「邪心」が示唆される点によれば、命令への背反は明確と言えるだろう。葦原中国平定は1・2の不復奏を経由し、高御産巣日神・天照大御神の「命以」により下命された「言趣(言向)」の達成と被派遣者・建御雷神の「復奏」を以て完成する、という構造を有している。以後に続く「復奏(覆奏)」の例についても、確認していきたい。

4 悉くわにを召し集め、問ひて曰ひしく、「今、天津日高の御子、虚空津日高、上つ国に出幸さむと為。誰者か幾日に送り奉りて覆奏さむ(覆奏)」といひき。故、各己が身の尋長の随に、日を限りて白す中に、一尋わにが白ししく、「僕は、一日に送りて即ち還り来む」とまをしき。故爾くして、其の一尋わにに告らさく、「然らば、汝、送り奉れ。若し海中を度らむ時には、惶り畏らしむること無かれ」とのらして、即ち其のわにの頸に載せて送り出だしき。故、期りしが如く、一日の内に送り奉りき。 (上巻・海神の国訪問)

5 大毘古命、更に還り参ゐ上りて、天皇に請しし時に、天皇の答へて詔はく、「此は、山代国に在る我が庶兄建波邇安王の、邪しき心を起せる表と為らくのみ。伯父、軍を興して行くべし」とのりたまひて、即ち丸邇臣が祖、日子国夫玖命を副へて遣しし時に、即ち丸邇坂に忌瓮を居ゑて、罷り往きき。(中略)如此平げ訖りて、参ゐ上りて覆奏しき。 (崇神記)

6 此の御世に、大毘古命は、高志道に遣し、其の子建沼河別命は、東の方の十二の道に遣して、其のまつろはぬ人等を和し平げしめき。(中略)是を以て、各遣さえし国の政を和し平げて覆奏しき。 (崇神記)

7 天皇、患へ賜ひて、御寝しませる時に、御夢に覚して曰はく、「我が宮を修理ひて、天皇の御舍の如くせば、御子、必ず真事とはむ」と、如此覚す時に、ふとまにに占相ひて、何れの神の心ぞと求めしに、爾の祟りは、出雲大神の御心なりき。故、其の御子を、其の大神の宮を拝ましめに遣さむとする時に、(中略)曙立王・菟上王の二はしらの王を其の御子に副へて遣しし時に、(中略)是に、覆奏して言ひしく、「大神を拝みしに因りて、大御子、物詔ひき。故、参ゐ上り来つ」といひき。故、天皇、歓喜びて、即ち菟上王を返して、神宮を造らしめき。 (垂仁記)

8 天皇、其の御子の建く荒き情を惶りて詔はく、「西の方に熊曾建二人有り。是、伏はず礼無き人等ぞ。故、其の人等を取れ」とのりたまひて、遣しき。(中略)故、如此撥ひ治めて、参ゐ上りて、覆奏しき。 (景行記)

9 爾くして、天皇、亦、頻りに倭建命に詔はく、「東の方の十二の道の荒ぶる神とまつろはぬ人等とを言向け和し平げよ」とのりたまひて、(中略)其より入り幸して、走水海を渡りし時に、其の渡の神、浪を興し、船を廻せば、進み渡ること得ず。爾くして、其の后、名は弟橘比売命、白ししく、「妾、御子に易りて、海の中に入らむ。御子は、遣さえし政を遂げ、覆奏すべし」とまをしき。 (景行記)

10天皇、其の弟速総別王を以て媒と為て、庶妹女鳥王を乞ひき。爾くして、女鳥王、速総別王に語りて曰はく、「大后の強きに因りて、八田若郎女を治め賜はず。故、仕へ奉らじと思ふ。吾は、汝命の妻と為らむ」といひて、即ち相婚ひき。是を以て、速総別王、復奏さず。 (仁徳記)

11天皇、其の父王を殺しし大長谷天皇を深く怨みて、其の霊に報いむと欲ひき。故、其の大長谷天皇の御陵を毀たむと欲ひて、人を遣す時に、其のいろ兄意祁命の奏して言ひしく、「是の御陵を破り壊たむには、他し人を遣すべくあらず。専ら僕、自ら行きて、天皇の御心の如く破り壊ちて、参ゐ出でむ」といひき。(中略)意祁命、自ら下り幸して、其の御陵の傍を少し掘りて、還り上りて、復奏して言ひしく、「既に堀り壊ちつ」といひき。(顕宗記)

 5・6・8ではいずれも天皇に命ぜられた征討を成し遂げて「覆奏」したといい、葦原中国平定条と同様の構造で国土平定ないし反乱鎮圧の完了が語られる。9の「覆奏」は弟橘比売命の発話文であるため地の文に記される他例と異なるが、景行天皇による東方十二道平定の命を完遂して「覆奏」すべきであるという文脈は、これまでの例と同様である。4・7・10・11についてもそれぞれ命令の内容は異なるが、上位者の下命によって派遣された者が任務の遂行後になすべき行為が「復奏(覆奏)」であることは変わらない。また、3・5・7・8で「参ゐ上り」、11で「還り上り」と記されるように、「復奏(覆奏)」は発令者のもとへ被派遣者本人が参上して成すべき行為と位置づけられているとも考えてよいだろう(5)。11のみ天皇の命令と命令遂行の実態との間に乖離があるが、当該記事では後に意祁命の判断が天皇によって肯定されるためか、特に問題は生じない。むしろ、問題とされるのは2や10のように、被派遣者が自らの意志によって発令者の命に背き、任を放棄して「不復奏」を選択することであったと言える。「不復奏」記事のうち、天菩比神を除く二例の被派遣者、天若日子と速総別王とはいずれも反逆者として落命する。そして『古事記』に記された天菩比神の「不復奏」は、「出雲国造神賀詞」において次のように叙述されている。

高天の神王高御魂・神魂命の、皇御孫の命に天の下大八嶋国を事避り奉りし時、出雲臣等が遠つ神天穂比命を、国体見に遣はしし時に、天の八重雲を押し別けて、天翔り国翔りて、天の下を見廻りて返り事申し給はく、豊葦原の水穂の国は、昼は五月蠅なす水沸き、夜は火瓫なす光る神在り、石根・木の立ち・青水沫も事問ひて、荒ぶる国なりけり。然れども鎮め平けて、皇御孫の命に安国と平らけく知ろし坐さしめむと申して、己れ命の児天夷鳥命に、布都怒志命を副へて、天降し遣はして、荒ぶる神等を撥ひ平け、国作らしし大神をも媚び鎮めて、大八嶋国の現し事・顕は事事避らしめき(6)。

 神賀詞の天穂比命は国体を見るという任を果たして「返り事」を申し上げたうえ、さらに天の下大八嶋国の事避りに大きな功績をあげたとされる。神賀詞において天穂比命は皇御孫に忠実な臣下として造形されていると言えるだろう。「カヘリコト(マヲス)」の有無が上位者に奉仕する臣下の姿勢を示すうえで極めて重要な指針となることは、1や他の「不復奏」と神賀詞の「返り事」との比較によって、より明確化できる。
 以上のように、『古事記』の「復奏(覆奏)」は重要な任務の完了を叙述するだけでなく、上位者(君主・発令者)の下命を受けた下位者(臣下・被派遣者)との関係性を明らかにする表現であったともいえる。加えて、『古事記』においてこの語が用いられる際、一例を除き天皇家の祖先神(高御産巣日神・天照大御神)ないし天皇(崇神・景行・仁徳・顕宗)のみが発令者として設定されている点も注意されよう。
 先掲4において、わにに「覆奏」を求めたのは大綿津見神である。同神は娘の豊玉毘売・玉依比売を通した母系で天皇家と繋がるものの、天照大御神らと同様の皇祖神と位置づけるには躊躇われる。『日本書紀』にみえる4の類話をあわせて確認しておきたい。

鰐魚を召集へ問ひて曰く、「天神の孫、今し還去りまさむとす。儞等幾日が内に、以ちて致し奉らむ」といふ。時に諸の鰐魚、各其の長短の随に、其の日数を定む。中に一尋鰐有り。自ら言さく、「一日の内に則ち致しまつるべし」とまをす。故、即ち一尋鰐魚を遣して、送り奉る(7)。(神代下第十段一書第三)

 『日本書紀』では「覆奏」に相当する行為が求められない。話の内容で考えるならば『古事記』においても何日で天孫を送り届けられるかが重要なのは明白であり、「覆奏」を求める必然性は判然としない。このことを踏まえつつ4の例とそれ以外の「復奏(覆奏)」との共通点を求めた場合、ひとつ挙げられるのは、発令者がその世界における実質的な最上位者と位置づけ得る点であろう。高天原においては天照大御神と高御産巣日神、そして人の世の地上においては天皇がそれにあたる。海原の世界にあっては、伊耶那岐・伊耶那美の子神であり、豊玉毘売に仕える婢によって「我が王」と称される大綿津見神を最上位者と位置づけることができよう(8)。
 『古事記』において「復奏(覆奏)」は平定や婚姻などを中心とした重要な場面に多く記され、時として「不復奏」という形で臣下の背反をも語る。葦原中国平定条で繰り返された「不復奏」は、下巻において速総別王の行為として再度記され、その背反を予期させる。この語が背反の象徴たり得るのは、「復奏(覆奏)」が天皇を頂点とする政治的枠組みの骨子を成しているためであろう。『古事記』では高天原と海原の国、そして人代の地上世界という三つの世界において、それぞれの世界の君主的存在の命を受けた被派遣者による「復奏(覆奏)」が繰り返し記される。『古事記』において「復奏(覆奏)」の語は、それぞれの世界における君臣関係を明示し、そのあるべき姿を語る役割を有していたものと考える。



 (1) 『時代別国語大辞典 上代編』(三省堂、一九六七年)の「かへりこと」の項による。
 (2)  たとえば武烈即位前紀の「太子、物部麁鹿火大連が女影媛を聘へむと思欲して、媒人を遣して、影媛が宅に向はしめ、会はむことを期りたまふ。影媛、(中略)報して曰さく」は、新編全集本・岩波文庫本が「カヘリコトマヲシテ」と訓むが、『古事記』の例をもとに考えれば「カヘリコト(マヲス)」は、発令者の命令を受けて派遣された者が、任地に赴いて任務を達成し、発令者のもとへ帰還して報告する行為である。この形式は『万葉集』の入唐使に対する歌「四つの船 船舳並べ 平けく 早渡り来て 返り言 奏さむ日に(還事奏日尓)」(⑲四二六四)においても、『日本書紀』の「カヘリコト(マヲス)」の大半においても同様である。これによれば上代の「カヘリコト(マヲス)」の基本形とは異なる武烈即位前紀のような訓読は、「カヘリコト」が単なる返事の意に用いられるようになって以降の訓である可能性が視野に入る。朝日古典全書の訓「コタヘ」を採るべきか(なお、岩波文庫本は『日本書紀』三、岩波文庫、一九九四年に、朝日古典全書本は『日本書紀』三、朝日新聞社、初版一九五四年、第四版一九六一年による。『万葉集』の引用は、新編日本古典文学全集『萬葉集』四、小学館、一九九六年による。)。
 (3)  『古事記』の上・下巻では基本的に「復奏」と記され、中巻では「覆奏」と表記される(上巻は海宮訪問条のみ「覆奏」)。「覆奏」は律令中に用例を確認できるが、その意味が「天皇の命令に相違ないか確認を求めるための奏」(思想大系『律令』一六〇頁頭注)であるならば、『古事記』や『日本書紀』の用法とは相違する。「復」と同音の通用字「覆」を用いたものとみて、「復奏」を基本とおさえるべきであろう(『古事記』の「覆」字は「覆奏」以外に二例あり、いずれも「覆う」意で用いられる)。なお、『古事記』上巻末と中巻にのみ「覆」字が用いられる理由については判然としない。
 (4) 『古事記』の引用は、新編日本古典文学全集『古事記』(小学館、一九九七年)による。
 (5)  上位者から下命を受けた被派遣者が発令者へ報告する場合であっても「復奏(覆奏)」とは記されない場合がある。例えば垂仁記では沙本毘売奪取の命を受けた力士等が任務を失敗し、天皇の元へ戻って「還り来て奏して言」うという行動をとる。発令者の意向に沿わない結果の場合、『古事記』では「復奏(覆奏)」が用いられない(『日本書紀』の場合は任務失敗の場合も「カヘリコト」が成されている)。また、履中記には天皇に墨江中王殺害を命ぜられた水歯別王が任を果たして帰参する記事があるが、そこでは「天皇に奏さしめしく、『政は、既に平げ訖りて、参ゐ上りて侍り』とまをさしめき」と記される。上位者の命令に従って任務を果たし、報告するという枠組みは「復奏(覆奏)」と同一であるが、「奏さしめ(令奏)」とあるように、天皇と水歯別王とは対面していない。これによって考えれば、『古事記』の「復奏(覆奏)」の要件には、被派遣者が発令者に対面で報告することが含まれていた可能性が高い。
 (6) 「出雲国造神賀詞」の引用は、青木紀元『祝詞全評釈 延喜式祝詞中臣寿詞』(右文書院、二〇〇〇年)による。
 (7) 『日本書紀』の引用は、新編日本古典文学全集『日本書紀』一・二(小学館、一九九四・一九九六年)による。
 (8)  大綿津見神の発話によって火遠理命が本来いた地(葦原中国)は「上つ国」と称され、また出産のために海原から参上した豊玉毘売の発話においても「凡そ他し国の人は……本つ国の形を以て産生むぞ」とある通り、葦原中国と海原の世界とは明確に「他国」として扱われている。天孫の子孫が大綿津見神の敬意を受ける上位者に位置づけられることと、大綿津見神が海原の世界(国)の最上位者であることとは、抵触しないだろう。
〔小野諒巳 日本上代文学〕

天照大御神之命以、 「豊葦原之千秋長五百秋之水穂國者 我御子正勝吾勝掩速日天忍穂耳命之所知國」 ①賜而、天降也。於是、天忍穂耳命、於天浮槗多掩志[此三字以音]而詔之、 「豊葦原之千秋長五百秋之水穂國者、伊多久佐夜藝弖[此七字以音]有(※1)理[此②字以音下效此]」告而、 更還上、請③天照大神(※2)。 尒、高御産巣④神・天照大御神之命以、 於天安河之河原、神集八百万神集而、思金神令思而詔、 「此葦原中国者、我御子之所知國、言依所賜之國也。 故、以為於此國道速振荒振國神等之多在。 是使何神而、将言⑤」。 尒、思金神及八百万神議白之、 「天菩比神、是可遣」。故、⑥天菩比神者、 乃媚附大國主神、至⑦三年、不復⑧奏。
【校異】
①真「目」。道祥本・春瑜本「囙」、兼永本以下「因」とあるのに従って改める。
②真「三」。道祥本・春瑜本も同じ。兼永本に従って「二」に改める。
③真「亍」。道祥本・春瑜本も同じ。「亍」は「とどまる、たたずむ、すこし歩む」などの意。兼永本以下に従って助字「于」に改める。
④真「目」。道祥本以下諸本に従って「日」に改める。
⑤真「越」。道祥本以下諸本に従って「趣」に改める。
⑥真ナシ。道祥本以下諸本に従って「遣」を補う。
⑦真「亍」。道祥本・春瑜本・兼永本も同じ。前田本以下に従って「于」に改める。③参照。
⑧真「」。道祥本以下諸本に従って「復」に改める。

※(1)兼永本・曼殊院本・猪熊本・寛永版本・田中校訂本「那」に「ケ」と付訓あり。前田本に「那(左傍書「耶歟」)」とし、記伝「祁」とするが、底本以下諸本「那」とあるのに従う。
※(2)延佳本・記伝「御」を入れて「天照大御神」とするが、諸本はすべて「御」がない。『古事記』上巻では、他はすべて「大御神」となっており、ここのみ省略する理由は無い。原本の段階で抜けてしまっていた可能性があるので、理想の原本(理念上の原本)を求めるのであれば「御」は入れるべきであるが、ここでは一応現存写本に従って「御」は入れない。最初から抜け落ちてしまっていた可能性があるわけなので、訓読もその抜け落ちた形として「アマテラスオホカミ」と訓むべきと考える。

天照大御神のお言葉で、 「豊葦原の千秋長五百秋の水穂の国は、 私の御子である正勝吾勝々速日天忍穂耳命が統治する国だ」と 委任をしなさって、天から降らせた。そこで、天忍穂耳命は、天の浮橋にお立ちになって仰ったことには、 「豊葦原の千秋長五百秋の水穂の国は、たいそう騒がしいようだ」と仰って、 再び元の場所に還り上って、天照大御神に申し上げた。 そこで、高御産巣日神と天照大御神とのお言葉で、 天の安の河の河原に八百万の神を集めに集めて、思金神に思案させて仰ったことには、 「この葦原中国は、我が御子が統治なさる国として御委任なさった国である。 それで、この国には勢いの激しい、荒ぶる国の神どもが大勢いると思われるが、 どの神を派遣して言向けるのが良いだろうか」と仰った。 そこで、思金神と八百万の神とが協議して申し上げたことには、 「天菩比神、この神を派遣するのが良いでしょう」と申し上げた。それで、天菩比神を派遣なさったところ、 この神は大国主神に媚び付いて、三年になるまで報告することがなかった。

先頭