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伊勢大鹿首

読み
いせのおほかのおびと/いせのおおかのおびと
ローマ字表記
Isenoookanoobito
登場箇所
敏達記
他文献の登場箇所
紀   敏達天皇4年(575)正月是月条
続紀  天平勝宝元年(749)4月甲午朔条
姓   未定雑姓・右京
始祖
天児屋根命(姓)
後裔氏族
大鹿首
説明
 伊勢国河曲郡を本拠地とした氏族。多気郡相可郷を本拠地とする説もあるが、史料的根拠に乏しい。『古事記』では、敏達天皇の妻・小熊子郎女の出身氏族として名がみえる。『日本書紀』には采女とあり、父の名を小熊として、小熊子郎女の名は菟名子夫人としている。小熊子郎女は敏達天皇との間に布斗比売命・宝王(糠代比売王)の二女を儲けた。このうち宝王は異母兄ないし弟の忍坂日子人太子と結婚し、田村皇子(のちの舒明天皇)を生んでいる。伊勢大鹿首と王権との結びつきは古く、河曲郡(現在の鈴鹿市国分町周辺)所在の前方後円墳・寺田山1号墳は、造営が4世紀代まで遡るとされる。また「延喜式神名帳」には、河曲郡内の神社として「大鹿三宅神社」の記載があり、伊勢大鹿首がミヤケの管理者として王権に奉仕していたことを窺わせる。
 河曲郡内において発掘された大鹿廃寺跡は、出土遺物から白鳳期の創建であるとされており、伊勢大鹿首の氏寺ではないかと推測されている。伊勢国分寺も河曲郡に所在するが、一方で伊勢国府は鈴鹿郡に所在しており、国府と国分寺が同一郡内に所在する一般的な在り方とは異なっている。このような特異な状況が生じた背景として、河曲郡を本拠地とする伊勢大鹿首の存在は無視できないと指摘されている。また平城宮跡出土木簡から、三河国渥美郡に「大鹿部里」が存在したことが確認されており、伊勢大鹿首の勢力は伊勢湾と三河湾を挟んで三河国にまで及んでいた可能性がある。平安時代以降の河曲郡内における伊勢大鹿首の活動は不明な点が多いが、地方官や相撲人として活動する大鹿姓の氏族が史料にみえており、そこには伊勢大鹿首の後裔氏族も含まれていたと考えられる。『吾妻鏡』に伊勢国の在庁官人(惣大判官代)を務める大鹿国忠の名がみえており、中世初期まで伊勢国内で勢力を有していたのかもしれない。なお伊勢大鹿首以外の「大鹿」を称する氏族として、8世紀に従五位下まで昇った女官・子虫の出自である大鹿臣、摂関期に伊勢介国廉を輩出した大鹿宿禰が確認できるが、伊勢大鹿首との関係は不明である。
参考文献
上井久義「伊勢神宮の成立」(『民俗宗教の基調』上井久義著作集第1巻、初出1970年12月)
鈴鹿市教育委員会編『鈴鹿市史』第1巻、第2章・第3章(鈴鹿市役所、1980年8月)
多気町史編纂委員会編『多気町史』通史、第3編第1章(多気町、1992年3月)
和田萃「『皇太神宮儀式帳』からみた伊勢の姿」(上山春平編『シンポジウム伊勢神宮』人文書院、1993年11月)
岡田登「伊勢大鹿氏について」上・下(『史料』135・136、1995年2月・4月)

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