古事記の最新のテキストを見ることができます。諸分野の学知を集めた注釈・補注解説とともに古事記の世界へ分け入ってみましょう。
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故かれ、避さけ追おはえて、出雲国の肥ひの河上かはかみ、名は鳥髪といふ地ところに降くだりましき。 此の時に、箸はし其その河より流れ下くだりき。 是ここに、湏佐之男命人其の河上に有りと以為おもほして、尋ね覔まぎ上り徃いまししかば、 老夫おきなと老女おみなと二人在ありて、童女をとめを中に置きて泣けり。 尒しかして、問ひ賜ひしく、「汝等なれどもは誰たぞ」ととひたまひき。 故、其の老夫答へて言いひしく、「僕あは国つ神大山津見神おほやまつみのかみの子ぞ。 僕が名は足名椎あなづちと謂ひ、妻めが名は手名椎たなづちと謂ひ、女むすめが名は櫛名田比売くしなだひめと謂ふ」といひき。 亦問ひしく、「汝が哭なく由ゆゑは何なにぞ」ととひき。 答へ白まをして言ひしく、「我が女は、本より八稚女やをとめ在りしを、 是の、高志こしの八俣遠呂知やまたのをろち[此の三字は音を以ちゐる。]、 年毎としごとに来て喫くらへり。 今其そが来べき時故に泣く」とまをしき。 尒して、問ひしく、「其の形は如何いかに」ととひき。 答へて白まをししく、「彼その目は赤加賀智かがちの如くして、身一つに八頭八尾やかしらやを有り。 亦其の身に蘿ひかげと檜ひ・椙すぎ生ひ、 其の長たけは谿八谷たにやたに峡八尾をやをに度わたりて、 其の腹を見れば悉ことごと常つねに血ち爛ただれり [此ここに赤加賀知あかかがちと謂へるは、今の酸醤ほほづきぞ。]」とまをしき。
○肥の河上、名は鳥髪といふ地 『出雲国風土記』仁多郡に「鳥上山」とある山。同じ仁多郡の記事に、「横田川。源は郡家の東南卅五里なる鳥上山より出で、北へ流る。謂はゆる斐伊の河の上なり」と見える。斐伊河は西出雲を貫流する川。下流域に当たる出雲郡においては「出雲大川」と呼ばれ、水源を鳥上山とし、仁多郡・飯石郡・大原郡・出雲郡を流れて最後は神門の水海に入ると説明する。『古事記』においては、中巻・垂仁天皇条における出雲大神祭祀の場面や、景行天皇条の倭建命による出雲建討伐の際にもこの肥河が舞台として登場する。大和側から見て出雲を象徴する河として捉えられていると思われる。八俣大蛇はこの肥河の象徴であると見ることも出来る(『日本書紀』の場合はそのようには読めない)。肥河の象徴である八俣大蛇を征伐することで出雲世界を秩序化する意図があったのかも知れない(なお、高志の八俣遠呂知の項参照)。 ○覔 「モトメル」と訓むテキストもあるが、『日本書紀』の「国覔」の訓注に「矩弐磨儀」とある(神代下九段本書)のにより、「マグ」と訓む。意味は探し求めること。 ○大山津見神 はじめはイザナキ・イザナミの国生みによって生まれた神の一柱として登場する。今、高天原から降臨した須佐之男命は、大山津見神の孫と結婚することになるが、二神の間に生まれた八島士奴美神は、大山津見神の娘の木花知流比売と結婚し、子孫を生む。後に邇々芸命は、降臨後、やはり大山津見神の娘との間に子が産まれるが、その娘の名が木花之佐久夜毗売である。出雲系・高天原系ともに天から降臨して大山津見神の娘や孫と結婚し、子孫が誕生するという点で、この神の重要性が窺える。また、娘の名が木花の「散る」と「咲く」とで対応している点にも意図的なものが感じ取れる。 ○足名椎・手名椎 従来は「アシナヅチ・テナヅチ」と訓まれ、「足撫ヅ霊・手撫ヅ霊」「足無ツ霊・手無ツ霊(即ち蛇)」などと理解されてきたが、川島秀之「古事記神名の原義私見」(『国語学』142号、一九八五年九月)や瀬間正之「古事記神名へのアプローチ序説―神名表記の考察を中心に―」(『古事記・日本書紀論集』一九八九年十二月)の見解、及び中村啓信の角川新版の訓を採用し、「アナヅチ・タナヅチ」と訓じた。ただし、中村説では「童女の手・足を撫でいつくしむ霊」(46頁脚注)とあって、解釈自体は従来説と異ならないが、瀬間説では、「畔ナツ霊・田ナツ霊」と取っている。娘の名「櫛名田比売」に「奇稲田」(『日本書紀』の表記)の意があるとすれば、親子ともに稲作に関連する名を持つことになり、整合性が認められる故、「畔ナツ霊・田ナツ霊」説を取りたい。 ○高志の八俣遠呂知 「高志」を北陸地方の「越」ととるか、出雲国神門郡の「古志郷」ととるかで見解が分かれている。後の八千矛神の神語で、八千矛神が「遠々し高志の国」へと妻問いに出かける場面などを参考に、「高志」を大八島国の果てとして位置付ける見方がある。そうすると八俣大蛇は葦原中国の果てから訪れる神という位置付けとなる。その場合、八俣大蛇を肥河の象徴、或いは肥河の氾濫の象徴と捉えるような見方は出来なくなる。「高志」を出雲国神門郡の「古志郷」だとすると、わざわざそのような一地名を冠する意図が分からないのだが、肥河が最後に流れる地が神門郡の神門の水海であることからすれば、肥河の下流の地と水源の鳥上山の地を提示することで、肥河全体を示す意図があったのかも知れない。しかし『出雲国風土記』の記事によれば、「古志郷」は北陸の古志の国人等がやって来て池の堤を造った際に宿っていたところなので「古志」と名付けたのを起源とする(それもイザナミの命の時代の出来事として記している)ところからすれば、具体的には神門郡の古志郷を指していたとしても、その背景には北陸の越が見通されていたと言えるのかも知れない(谷口雅博「『古事記』八岐大蛇退治神話の空間認識―地名から考える―」『上代文学研究論集』第一号、二〇一七年三月参照)。「ヲロチ」については「峰の霊」「尾の霊」などの意で大蛇を表すとされるが明確ではない。『古事記』のこの神話を除けば、上代の文献に一字一音で「ヲロチ」を示す例はない。【→補注六、『古事記』の「高志」】 ○酸醤 赤いホオズキの実。新編全集『日本書紀』の頭注( 92 頁)に、「「酸」は汁の酸味。「醤」はヒシオ(醤油のもろみ)で、ホオズキの汁中の多量の種子に着目した表記。「漿」はコミズ(濃水、おもゆ)で、ホオズキの糊状の汁に着目した表記。」と記す。
『古事記』には「高志」という地名が10例見出せる。その用例は次の通りである。 (1)我あが女むすめは、本もとより八やたりの稚女をとめ在りしに、是これを、高志こしの八俣やまたのをろち、年ごとに来て喫ひき。…」(上巻・八俣の大蛇退治) (2)此の八千やち矛ほこの神かみ、高志こしの国くにの沼河ぬなかは比売ひめに婚あはむとして幸行いでましし時に、… (上巻・八千矛の神) (3)八千矛の 神の命みことは 八や島国しまくに 妻つま娶まきかねて 遠々とほとほし 高志こしの国に… (記2、上巻・八千矛の神) (4)次に、日子刺肩別命は、〈高志こしの利と波臣なみのおみ・豊国とよくにの国くに前さきの臣おみ・五百いほ原君はらのきみ・角つの鹿がの海直あまのあたひが祖おやぞ〉。 (孝霊記) (5)此この御世みよに、大おほ毘び古この命みことは、高こ志道しのみちに遣つかはし、其の子建沼河たけぬなかは別命わけのみことは、東ひむかしの方かたの十とをあまり二ふたつの道みちに遣して、其のまつろはぬ人等ひとどもを和やはし平たひらげしめき。又、日子ひこ坐いますの王みこは、旦波国たにはのくにに遣して、玖賀くが耳みみ之御のみ笠かさ〈此これは、人の名ぞ〉を殺さしめき。 (崇神記) (6)大毘古命、高こ志国しのくにに罷まかり往ゆきし時に、腰こし裳もを服きたる少女をとめ、山代やましろの幣羅へら坂さかに立ちて、歌ひて曰いはく、…(崇神記) (7)大おほ毘び古この命みことは、先さきの命みことの随まにまに、高こ志国しのくにに罷まかり行ゆきき。爾しかくして、東ひむかしの方かたより遣つかはさえし建沼河別たけぬなかはわけと其その父ちち大毘古とは、共に相あひ津づに往ゆき遇あひき。故、其地そこは、相あひ津づと謂いふぞ。是ここを以みちて、各おのおの遣さえし国の政まつりごとを和やはし平たひらげて、覆かへりこと奏まをしき。 (崇神記) (8)次に、五十日いか帯たらし日ひ子王このみこは、〈春日かすがの山君やまのきみ・高志こしの池君いけのきみ・春かす日が部君べのきみが祖ぞ〉。 (垂仁記) (9)是の人、其の鵠くぐひを追ひ尋ねて、木国きのくにより針間国はりまのくにに到いたり、亦また、稲羽国いなばのくにに追ひ越えて、即ち、旦波国たにはのくに・多遅たぢ麻国まのくにに到り、東ひむかしの方かたに追ひ廻めぐりて、近ちかつ淡海国あふみのくにに到りて、乃ち三み野国ののくにに越え、尾を張国はりのくにより伝つたひて科野国しなののくにに追ひ、遂つひに高こ志国しのくにに追ひ到りて、和那美わなみの水みな門とにして網あみを張はり、其の鳥を取りて、持ち上のぼりて献たてまつりき。 (垂仁記) (10)建たけ内うちの宿禰すくねの命みこと、其その太子おほみこを率ゐて、禊みそぎせむと為して、淡海あふみと若わか狭さとの国くにを経歴へし時に、高こ志しの前みちのくちの角つの鹿がに仮宮かりみやを造りて、坐いませき。 (仲哀記) 右の諸例を『日本書紀』対応箇所と比較した場合、最も顕著な相違として挙げられるのが、(10)を除いて『日本書紀』には「高志(越)」の地名が現れない点である。唯一対応する(10)に関しても、『日本書紀』は「越国」(応神即位前紀)であって「高志前」と記す(10)と厳密に同じではない。このことは、『古事記』において「高志」という土地が『日本書紀』にない独自の意味を帯びている可能性を示唆していると考えられる。端的に言ってその意味とは、天皇の統治領域外という点に求めることができるのではないか。 右のように捉える最大の根拠は(3)にある。ここでは八千矛神が「八島国」で妻を娶ることができず、高志国へ出向いたと歌っている。この「八島国」という語には駒木敏氏による考察があり、「『公式令・詔書式』のように規範化されていない形式のものではあっても、版図としてのオホヤシマクニの意を内包し、国土・国号としての意義を有していたと考えられる」という(「『古事記』国作り神の歌謡―八島国と高志国―」『同志社国文学』62号、平17・3)。そして駒木氏は、八千矛神の妻問は「空間領域としてはオホヤシマクニに属しながら、いまだ実質的に国土の範疇に位置づけられていない高志国」を平定する「国土の整序としての国作りとしての意味合いを持つ」と論じている。このような「高志」の性格は、平定対象としての「高志道(国)」を記す(5)~(7)にも通じる意味合いであり、「越洲」を大八洲国のひとつに数え上げるとともに(神代紀第四段本書・一書第一・一書第六)、「北陸」(崇神紀十年七月)を平定対象とする『日本書紀』と比べると、独自の文脈をなして『古事記』を貫いていると見てよいであろう。 このような観点からすれば、(1)の「高志の八俣のをろち」という意義づけも同じ意味を持つと考えられる。宣長のように出雲国の地名とする説もあるものの、『出雲国風土記』では「古志の国人等、到り来て堤を為り、すなはち宿居せる所なり。故れ、古志と云ふ」(神門郡古志郷)と記されており、「高志国」と無関係だとは考えにくい。『古事記』の「八俣のをろち」は、まつろわぬ国の神話的表象という観点から考察を加える必要があろう。さらにこのような「高志」の性格は、品陀和気命の禊ぎの舞台となる(10)の「高志前の角鹿」の解釈にも重要な意味を持つと考えられるが、この点は拙稿「『古事記』における『角鹿』の性格―応神天皇の誕生―」(『古代文学』54号、平26・3)を参照されたい。 〔日本上代文学・井上隼人〕
故、所避追而、降出雲國之肥上河上、名鳥髪地。 此時、箸従其河流下①。 於是、湏佐之男命以為人有其上而、尋覔上徃者、 老夫与老女②二人在而、童女③置中而泣。 尒、問賜之、「汝等者誰」。 故、其老夫答言、「僕者國神大山上津見神之子焉。 僕名謂足上名椎④、妻名謂手上名椎、女名謂櫛名田比賣」。 亦問、「汝哭由者何」。 答白言、「我之女者、自本在八稚女、 是、髙志之八俣遠呂知⑤[此三字以音。]、毎年来喫。 今⑥其可来時故泣」。 尒、問、「其形如何」。 答白⑦、「彼目⑧如赤加賀智而、身一有八頭八尾。 亦其身生蘿及檜・椙、 其長度谿八谷・峡八尾而、 見其腹者悉常爛也」 [此謂赤加賀知者、今⑨酸醤⑩者也。]。 【校異】 ① 真「丁」。道果本以下によって、「下」に改める。 ② 真「母」。道果本以下によって、「女」に改める。 ③ 真「母」。道果本以下によって、「女」に改める。 ④ 真「稚」。道果本「」、道祥本・春瑜本「槌」、兼永本以下卜部系(含寛永版本)「推」、延佳本以下「椎」、前後の例によって「椎」に改める。 ⑤ 真「知」。道果本以下「智」。原型を「智」とする説(神道大系等)があるが、音仮名として認めうるので「知」のままとする。 ⑥ 真「令」。道果本「令」左傍書「今歟」とあり、以下諸本「今」とあるのに従う。 ⑦ 真「曰」。道果本以下によって「白」に改める。 ⑧ 真「自」。道果本以下によって「目」に改める。 ⑨ 真「令」。伊勢系の三本「令」。兼永本以下卜部系諸本に従って「今」に改める。 ⑩ 真「将首」。底本頭書に「酸醤歟」とあり、道果本以下も「酸醤」とする。これに従う。
そうして、追いやられて、出雲国の肥河の河上、名は鳥髪という地に降った。 この時に箸が河上から流れ下って来た。 それで、須佐之男命は、人がこの河上に居ると思って、尋ね求め上っていったところ、 老父と老女が二人居て、童女を間に置いて泣いていた。 そこで、(須佐之男命は)「お前達は誰か」と尋ねなさった。 そこで、その老父は、「私は国つ神大山津見神の子である。 私の名は足名椎と言い、妻の名は手名椎と言い、娘の名は櫛名田比売と言う」と言った。 (須佐之男命は)重ねて「お前が泣く理由は何か」と尋ねた。 (足名椎は)「私の娘は、もともと八人いましたが、 この、高志の八俣のヲロチが毎年やって来て喰らって行きました。 今、それが来る時になったので泣いているのです」と答え申し上げた。 そうして、(また須佐之男命は)「その形はどのような(形か)」と尋ねると、 (足名椎は)「その目は酸漿のように赤く、身体は一つで八つの頭と八つの尾があります。 またその身には日影蔓と檜と椙が生え、 其の長さは谿八つ、峡谷八つに渡り、 その腹を見ると悉く常に血が爛れています」と申し上げた [ここで赤加賀知と言うのは、今の酸漿だ。]。