國學院大学 「古典文化学」事業
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地名データベース
逢坂
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地名データベース凡例
逢坂
読み
あふさか/おうさか
ローマ字表記
Ousaka
登場箇所
仲哀記・忍熊王の反乱
住所
滋賀県大津市大谷町22
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緯度/経度
北緯 34°59'39.2"
東経 135°51'20.2"
説明
滋賀県大津市と京都府京都市との境に位置する逢坂山の地。香坂王・忍熊王の反乱の時に、忍熊王の軍が神功皇后の軍に追い詰められて逃げ退いた地とされる。『日本書紀』神功皇后条、摂政元年三月に、反乱を起こした忍熊王の討伐に向かった武内宿禰が、この地で忍熊王に出会ってその軍勢を打ち破ったことから逢坂と呼ばれるようになったという地名起源伝承が見える。また、孝徳天皇条大化二年正月朔にて出された改新の詔の中で、「合坂山(=逢坂山)」が畿内と畿外の北境として定められたことが見える。この点から、古代より都と東国・北国を結ぶ交通の要衝の地であったとされる。『万葉集』巻十三、「逢坂を うち出でて見れば 近江の海 白木綿花に 波打ち渡る」(3238番歌)を始めとして、歌の中にもよく詠まれる地である。
平安期、逢坂山には逢坂関が置かれた。先に存在した愛発・不破・鈴鹿などの関が東方への備えという意味をもつのに対し、逢坂関は明確に平安京の防衛を目的とするものとして作られたとされる。
逢坂の語義について、記紀ともに上記の忍熊王の軍との戦いの最終激戦地となっていることから、逢坂の地名を構成する「逢ふ」という語の背景に、単に人が出会うという意味だけではなく、「戦う、争う」という内容をあらわす「あふ」の意が存在するのではないかとする説がある。また、山城国側からも近江国側からも急な坂道を登らなければならないことから由来した名称とする説、二つの坂が出会う場所=峠の語義とする説もある。
本項で地図上に示している場所には国道1号沿いに立てられた「逢坂山関跡」の記念碑がある。しかし、この記念碑の場所が関のあった場所と確定されているわけではなく、大谷町から琵琶湖方面に向かって下りてきた谷口である逢坂一丁目の蝉丸神社下社を北限、京都大学防災研究所附属地震予知研究センター逢坂山観測所を南限とする安養寺付近の空間を逢坂関の候補地とする説もある。
URL
備考
宮地忠明「逢坂の関に関する歴史地理的考察」(『新地理』16-1、1968年6月)
岩田孝三『関址と藩界』(校倉書房、1962年9月)
島崎良「打ち出でて見れば ―逢坂山と近江の水―」(『藝文研究』41、1980年12月)
林屋辰三郎・飛鳥井雅道・森谷尅久編『新修 大津市史』1(大津市、1978年11月)
林屋辰三郎・飛鳥井雅道・森谷尅久編『新修 大津市史』8(大津市、1985年11月)
平凡社地方資料センター編『滋賀県の地名』(日本歴史地名大系25、平凡社、1991年2月)
森智美「近江逢坂関に関する二、三の検討」(『条里制古代都市研究』24、2008年)
相津
味白檮之言八十禍津日前
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