國學院大学 「古典文化学」事業
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丸邇坂
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丸邇坂
読み
わにさか
ローマ字表記
Wanisaka
登場箇所
崇神記・建波邇安王の反逆、応神記・矢河枝比売
住所
奈良県天理市和爾町
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緯度/経度
北緯 34°37'38.9"
東経 135°50'20.5"
説明
大毘古命が、反逆者とされた建波邇安王を討伐するため、丸邇臣の祖である日子国夫玖命を連れて山代(山背)に赴くのに先立ち忌瓮を据えた場所。現在の奈良県天理市和爾町あたりの坂であるとされている。『延喜式』神名帳・大和国添上郡に見える「和邇坐赤坂比古神社」(現・奈良県天理市和爾町)の赤坂比古は、この丸邇坂の神と解されている。
丸邇坂の「丸邇(ワニ)」については、埴(ハニ=赤土)の転じた語として捉える説があり、埴の産地であることを示すとされる。応神記の歌には「櫟井の 和邇佐(わにさ)の土を 端つ土は 肌赤らけみ…」(記42番歌)とあるが、土を産出する「和邇佐(わにさ)」を「丸邇坂」と解する説が有力視されている。
丸邇の地は丸邇氏の本拠地である。崇神天皇の宮がある師木(磯城)から建波邇安王のいる山代へ向かうためには丸邇坂を越える必要があった。丸邇坂に忌瓮を据えたのは、丸邇氏の本拠地から出陣するのに際し、山代との境界で神祭りを行うためであったと解釈される。孝霊記においても大吉備津日子命と若建吉備津日子命が吉備国の平定に先立ち、道の口(吉備国への道の入口)に忌瓮を据えた記事があるように、上代では討伐を目的として出立する際、戦勝祈願のために道の口において神祭りを行ったとされている。
また、『日本書紀』で忌瓮を据えた場所は「和珥の武■(金+喿)坂」と表記され、少女が歌を詠んだ「和珥坂(別伝「平坂」)」と同一の坂とされる。「幣羅坂」の項も参照。
URL
備考
本居宣長『古事記伝』23(『本居宣長全集 第11巻』筑摩書房、1969年3月)
次田潤『古事記新講』(明治書院、1956年7月、初版1924年11月)
土橋寛『古代歌謡全注釈 古事記編』(角川書店、1972年1月)
西宮一民(校注)『古事記』(新潮日本古典集成、新潮社、1979年6月)
倉野憲司『古事記全註釈 第六巻 中巻篇(下)』(三省堂、1979年11月)
平凡社地方資料センター(編)『奈良県の地名』(日本歴史地名大系30、平凡社、1981年6月)
西郷信綱『古事記注釈 第六巻』(ちくま学芸文庫、筑摩書房、2006年2月、初出1988年8月・1989年9月)
小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守(校注・訳)『日本書紀(1)』(新編日本古典文学全集、小学館、1994年4月)
山口佳紀・神野志隆光(校注・訳)『古事記』(新編日本古典文学全集、小学館、1997年6月)
角川文化振興財団(編)『古代地名大辞典』(角川書店、1999年3月)
和那美之水門
居寤清水(その1)
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