國學院大学 「古典文化学」事業
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羽栗臣
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氏族データベース凡例
羽栗臣
読み
はぐりのおみ
ローマ字表記
Hagurinoomi
登場箇所
孝昭記
他文献の登場箇所
続紀 天平宝字5年(761)11月癸未(3日)条(無姓)
天平神護2年(766)7月己卯(26日)条
宝亀6年(775)8月庚寅(29日)条(無姓)
宝亀7年(776)3月癸巳(6日)条(無姓)
宝亀7年8月癸亥(8日)条
宝亀9年(778)10月乙未(23日)条
宝亀10年(779)4月丁酉(27日)条
天応元年(781)6月壬子(25日)条
延暦元年(782)2月庚申(7日)条
延暦4年(785)8月丙子(14日)条
延暦5年(786)7月壬寅(15日)条
延暦7年(788)3月己巳(21日)条
延暦8年(789)2月癸未(10日)条
延暦9年(790)2月甲午(27日)条
後紀 延暦16年(797)正月甲午(7日)条
延暦17年(798)5月丙午(27日)条
大同5年(810)5月丙寅(27日)条(無姓)
文実 斉衡元年(854)正月癸巳(8日)条
三実 貞観3年(861)6月16日己未条
三代格 17・文書幷印事・貞観3年(861)6月16日付太政官符
万 15・3640(無姓)
姓 左京皇別下
山城国皇別(無姓)
始祖
天押帯日子命
建穴命(姓)
彦国葺命(姓)
後裔氏族
-
説明
ワニ系氏族のひとつ。山城国久世郡羽栗郷が本拠地と考えられるが、尾張国葉栗郡とする説もある。羽栗は葉栗とも書く。『古事記』には、天押帯日子命(孝昭天皇の御子)の後裔氏族として、春日臣らとともに名があげられている。本流は早くに衰退したと考えられ、わずか『正倉院文書』に下級官人として活動の痕跡を残している。また『塵袋』第5によれば、天武天皇の時代に小乙中(冠位26階の第23位)葉栗臣人麿が、葉栗郡に光明寺という尼寺を建立したとされる。これを『尾張国風土記』逸文とする理解もあるが、菅原清公が編纂した『尾州記』の引用である可能性は高いものの、その『尾州記』の典拠史料が判然としないため、現時点で『尾張国風土記』逸文と断ずることは困難である。
無姓の羽栗氏としては、羽栗翼・翔兄弟が知られる。かれらの父吉麻呂は、霊亀2年(716)に阿倍仲麻呂の従者として渡唐し、現地で唐人の妻を迎えて翼・翔を儲けた。天平6年(734)に翼・翔は父とともに帰朝し、はじめ翼は僧籍に入ったが、その才能を惜しんだ朝廷によって還俗させられ、官途に就くことになった。しかし、天平宝字3年(759)に遣唐録事に任じられた弟の翔が正六位上であったのに対して、翼は宝亀6年(775)に正七位上として登場しており、翼の昇進は翔より遅れている。その理由としては、僧籍にあった翼を引き立てた玄昉の失脚が影響したものと推測されている。なお遣唐録事として渡唐した翔は唐に滞在する藤原清河のもとに留まり、そのまま唐で客死している。翼も宝亀年間になると遣唐録事に任じられ、のちに准判官への昇進にともなって外従五位下に叙された。暦のひとつである五紀暦は、このときの入唐で翼が将来したと伝えられる。翼は帰朝後の宝亀7年(776)に臣姓を賜り、宝亀10年(779)には内階に移され、延暦17年(798)に正五位上で没した。その他の羽栗氏としては、大同5年(810)に渤海語を修習させられた羽栗馬長がおり、おそらく翼・翔と血縁関係にあった人物と思われる。また斉衡元年(854)に従五位下に叙された女官の葉栗臣乙貞も、臣姓を称しているが、本流の羽栗臣ではなく翼の後裔と推測される。
参考文献
栗田寛『古風土記逸文考証』(帝国教育会出版部、1936年5月、初出1903年6月)
角田文衞「葉栗臣翼の生涯」(『平安人物志』上、角田文衞著作集第5巻、法蔵館、1984年5月、初出1962年)
佐伯有清「入唐求法巡礼行記にみえる日本国使」(『日本古代の政治と社会』吉川弘文館、1970年5月、初出1963年12月)
佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇第2(吉川弘文館、1982年3月)
兼岡理恵「「良吏」と「風土記」―九~十世紀の風土記受容―」(『風土記受容史研究』笠間書院、2008年2月、初出2006年3月)
能登臣
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