國學院大学 「古典文化学」事業
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氏族データベース
穂積臣
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氏族データベース凡例
穂積臣
読み
ほづみのおみ
ローマ字表記
Hoduminoomi
登場箇所
神武記・久米歌 孝元記 成務記
他文献の登場箇所
紀 開化天皇即位前紀
崇神天皇7年秋8月己酉(7日)条
垂仁25年3月丙申(10日)条
景行40年是歳条
景行51年秋8月壬子(4日)条
継体6年夏4月丙寅(6日)条
継体6年冬12月条
継体7年夏6月条
継体23年春3月条
欽明16年秋7月壬午(4日)条
推古8年(600)是歳条
大化2年(646)3月辛巳(19日)条
大化5年(649)3月戊辰(24日)条
大化5年3月庚午(26日)条
天武元年(672)6月丙戌(26日)是日条
天武元年6月己丑(29日)是日条
天武13年(684)10月戊辰朔
朱鳥元年(686)春正月是月条
朱鳥元年9月丙寅(29日)条
持統3年(689)2月己酉(26日)条
持統5年(691)8月辛亥(13日)条
続紀 大宝3年(703)正月甲子(2日)条
慶雲元年(704)正月癸巳(7日)条
和銅2年(709)正月丙寅(9日)条
和銅3年(710)正月壬午朔条
和銅5年(712)正月戊子(19日)条
和銅6年(713)4月乙卯(23日)条
養老元年(717)正月乙巳(4日)条
養老元年3月癸卯(3日)条
養老2年(718)正月庚子(5日)条
養老2年9月庚戌(19日)条
養老6年(722)正月壬戌(20日)条
天平9年(737)9月己亥(28日)条
天平9年12月壬戌(23日)条
天平12年(740)6月庚午(15日)条
天平16年(744)2月丙申(2日)条
天平18年(746)4月癸卯(22日)条
天平18年9月戊辰(19日)条
天平19年(747)正月丙申(20日)
天平宝字2年(758)8月庚子朔是日条
天平宝字3年(759)5月壬午(17日)条
天平宝字8年(764)正月己未(21日)条
天平神護元年(765)正月己亥(7日)条
延暦2年(783)正月癸巳(16日)条
延暦2年2月壬申(25日)条
延暦3年(784)7月壬午(13日)条
万 3・0288
13・3240-41
16・3842
16・3843
17・3926
風 播磨国風土記・賀毛の郡
姓 左京神別上
旧 7・天皇本紀(景行・成務)
始祖
宇麻志麻遅命
鬱色雄命(紀)
大水口宿禰(紀)
伊香色雄命(姓)
後裔氏族
穂積朝臣
説明
大和国山辺郡穂積郷を本拠地とした氏族。天武13年(684)に朝臣姓を賜った。『古事記』(以下『記』)では、宇麻志麻遅命(邇芸速日命の子)の後裔氏族として、物部連・婇臣とともに掲げられている。また孝元天皇のキサキとなった内色許売命(内色許男命の妹)・伊迦賀色許売命(内色許男命の娘)、成務天皇のキサキとなった弟財郎女(建忍山垂根の娘)は穂積臣の出身とされ、このうち内色許売命は大毘古命(「四道将軍」のひとり)や若倭根子日子大毘々命(のちの開化天皇)を、伊迦賀色許売命は開化天皇と再婚して御真木入日子印恵命(のちの崇神天皇)を生んでいる。『日本書紀』(以下『紀』)においても、鬱色謎命(鬱色雄命の妹)は孝元天皇の皇后となって大彦命や開化天皇を生み、伊香色謎命(『紀』では物部氏の遠祖である大綜朝杵の娘とされる)は崇神天皇を生んでいる。ただし『紀』で穂積臣の始祖に位置づけられる大水口宿禰については、『記』に記述がない。また『新撰姓氏録』は伊香色雄命を穂積臣の始祖とする。伊香色雄命は『記』『紀』にも登場し、系譜上の位置は明記されていないが、名前から伊迦賀色許売命の兄弟と推測されている。大水口宿禰は崇神紀に登場し、かれをふくめた3人が夢告を受けたことによって、大神神社と大和神社が創建されることになったと伝える。なお大和神社の創建を垂仁天皇の時代とする異伝も載せられ、そこでは神懸りした大水口宿禰が倭大神の託宣を授けている。また『日本書紀』には弟財郎女に相当する人物は確認できないが、日本武尊の妃として東征に随行し、海に身を投げて暴風を鎮めた弟橘媛が穂積氏忍山宿禰の娘とされ、名前の類似性が注目される。継体天皇の時代には穂積臣押山が任那の哆唎国守として登場し、おそらく任那における倭国の責任者のような地位にあったと推測される。継体6年に百済が任那四県の割譲を要求すると、押山は任那四県を割譲する利を奏上したが、これは衆人の非難の対象となり、押山の意見に賛同した大伴金村ともども百済から賄賂を受け取ったとの噂が流れたという。その後も押山は同地域の責任者の地位にあったとされ、翌7年に百済が五経博士を貢上する際には、押山が窓口としての役割を果たしている。同23年に百済王が朝貢の海路を加羅の多沙津に変更することを望むと、ここでも押山が下哆唎国守として百済王の要望を奏上している。百済王の要望は認められ、そのことで押山が非難された形跡もないが、この措置が結果として加羅の離反を招いたとする。内政においては、欽明16年に磐弓が蘇我稲目とともに吉備へと派遣され、白猪屯倉を設置したと伝える。次に穂積臣の活動がみえるのは推古8年(600)のことで、穂積臣が新羅征伐の副将軍が任じられ、渡海して新羅を破ったという。大化改新では穂積臣咋(噛)が東国国司に任じられたが、人民から過剰に徴収した物資の一部を返還しなかったとして、その怠慢を責められている。また大化5年(649)に蘇我倉山田石川麻呂が讒言された際にも噛が登場し、軍勢を率いて山田寺を囲んでいる。壬申の乱では近江方に付いたようで、百足が倭京を抑えるべく派遣されたが、大伴吹負の奇襲を受けて敗死した。百足と行動をともにしていた弟の五百枝は、捕虜となるも免罪されている。天武天皇の時代の活動はあまり記録に残っていないが、必ずしも不遇ではなかったようで、朱鳥元年(686)に新羅の金智祥を迎える使者のひとりとして虫麻呂が派遣され、このとき直広肆(従五位下相当)であった。同年の天武天皇の葬送に際しては、虫麻呂が諸国司のことを誄している。持統3年(689)には務大肆(従七位下相当)であった山守が判事に任じられ、さらに同5年(691)には墓記を進上する18氏族に選ばれた。
律令制下における穂積朝臣の活動は、大宝3年(703)に正八位上の老が山陽道巡察使として派遣された記事を初見とする。慶雲元年(704)には山守が、次いで和銅2年(709)には老が従五位下に叙された。老は和銅3年(710)の元日朝賀では左副将軍として威儀を正し、養老元年(717)に左大臣石上麻呂が薨じると五位以上の誄を献じている。順調に昇進を重ねていた老であったが、養老6年(722)に突如として天皇を批判した罪に問われ、死一等を減じて佐渡島に流罪となった。天平12年(740)にようやく入京を許され、恭仁宮の留守という重役も任されてはいるが、位階は養老元年(717)に授けられた正五位上から進むことはなかった。老は天平勝宝元年(749)に亡くなり、その追善のために書写された『維摩経』が聖語蔵経巻のなかに現存している。また老と近しい親族関係にあると思われる氏人として老人がおり、天平9年(737)に外従五位下に叙されている。ここから穂積朝臣は一時的に外階コースにあったことが知られるが、天平18年(746)に老人が従五位下に叙されたことで内階コースに移されたらしい。天平宝字2年(758)には小東人、延暦2年(783)には賀祐、女官では天平19年(747)に多理が叙爵に預かっている。ただし、賀祐を最後に穂積朝臣からの叙爵者は確認できなくなり、平安時代には郡司や下級官人としての活動が散見する程度になる。
穂積臣の祖にかかわる伝承は祭祀的な性格が濃厚で、ことに大物主神との結びつきが強いことが指摘されている。また継体期に押山が登場して以降は軍事・外交面での活躍が顕著である。このような氏族の性格は物部連と近似しており、それによって穂積臣と物部連が接近した可能性が指摘されるが、同祖系譜が形成されるのは天武期まで遅れるとの見方が優勢である。従来の穂積臣の始祖は大水口宿禰であり、それに伊香色雄命を始祖とする物部連の系譜が結合した結果、記紀にみえるような系譜になったと考えられている。
参考文献
佐伯有清「新撰姓氏録に関する諸疑点の究明」(『新撰姓氏録の研究』研究篇、吉川弘文館、1963年4月)
直木孝次郎「武内宿禰伝説に関する一考察」(『飛鳥奈良時代の研究』塙書房、1975年9月、初出は1964年6月)
直木孝次郎「物部連に関する二、三の考察」(『日本書紀研究』第2冊、塙書房、1966年1月)
志田諄一「穂積臣」(『古代氏族の性格と伝承』増補、雄山閣、1974年6月、初出1973年3月)
小池良保「穂積氏に関する基礎的考察」(『史叢』17、1973年9月)
松倉文比古「物部氏の系譜―穂積氏と関連して―」(『竜谷史壇』76、1978年)
亀井輝一郎「祭祀服属儀礼と物部連―穂積・采女臣との同祖関係の形成をめぐって―」(直木孝次郎先生古稀記念会編『古代史論集』上、塙書房、1988年1月)
篠川賢「物部氏の祖先伝承」(『物部氏の研究』雄山閣、2009年8月)
星川臣
牟耶臣
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