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能登臣

読み
のとのおみ
ローマ字表記
Notonoomi
登場箇所
崇神記・后妃と御子
他文献の登場箇所
紀   斉明6年(660)3月条
万   18・4069
始祖
大入杵命
後裔氏族
-
説明
 越前国能登郡(のちに能登国鹿島郡)を本拠地とした氏族。同地には矢田古墳群が展開しており、能登臣との関係性が指摘されている。『古事記』では、大入杵命(崇神天皇の御子)の後裔氏族として登場する。また『先代旧事本紀』巻10国造本紀には「能等国造」の記述があり、「活目帝の皇子の大入来命の孫の彦狭嶋命」のときに国造に定められたと伝える。ともにオオイリキノミコト(大入杵命・大入来命)を祖名としていることから、この「能等国造」が能登臣であった可能性は高い。ただし活目帝とは垂仁天皇のことであるから、両所伝でオオイリキの系譜上の位置が異なっている。また垂仁天皇の孫とされる彦狭嶋命の位置も『日本書紀』と異なっており(『日本書紀』は崇神天皇の皇子である豊城入彦命の孫とする)、国造本紀の系譜は能等国造が独自に伝えていたものとも考えられる。
 『日本書紀』によれば、能登臣馬身龍が阿倍比羅夫の蝦夷征討に従軍し、粛慎との戦いにおいて戦死している。ときに阿倍比羅夫は越国守の任にあり、日本海を北上して進軍したと想定されることから、遠征軍の主体は能登臣ら北陸地方の豪族であったと考えられる。この記事を最後に能登臣は国史から姿を消すが、『万葉集』には能登臣乙美の歌が収められており、乙美は羽咋郡の擬主帳であったとされる。能登臣の本拠地である能登郡が能登半島の内浦であるのに対し、羽咋郡は能登半島の外浦に位置し、かつ令制以前は羽咋国造の勢力圏であった。奈良時代には能登臣の勢力が能登半島全体にまで及んでいた可能性が推測されよう。このような在地での力を背景に中央官庁に出仕した能登臣の活動は、正倉院文書から確認できる。なお平安時代に至っても、左衛門府生の能登公蔭(『親信卿記』)のように「能登」姓を称する下級官人が確認できるが、同時期には能登連なる氏族も出仕していたらしく(『除目大成抄』)、公蔭らが能登臣の系統であったかは判然としない。
参考文献
篠川賢「「国造本紀」の再検討」(『日本古代国造制の研究』吉川弘文館、初出1989年3月・1992年3月)
戸澗幹夫・北林雅康「古墳築造と地域社会」(七尾市史編さん専門委員会編『新修 七尾市史』14、通史編1、七尾市役所、2011年3月)
森田喜久男「律令国家と能登」(七尾市史編さん専門委員会編『新修 七尾市史』14、通史編1、七尾市役所、2011年3月)

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