國學院大学 「古典文化学」事業
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氏族データベース
小治田臣
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氏族データベース凡例
小治田臣
読み
をはりだのおみ/おわりだのおみ
ローマ字表記
Owaridanoomi
登場箇所
孝元記
他文献の登場箇所
紀 舒明天皇即位前紀・推古36年(628)9月是日条
天武元年(672)6月丙戌(26日)条
天武10年(681)秋7月辛未(4日)条
天武11年(682)5月戊申(16日)条
天武13年(684)11月戊申朔条
続紀 文武3年(699)10月辛丑(20日)条
慶雲4年(707)2月甲午(25日)条
和銅元年(708)3月丙午(13日)条
和銅4年(711)4月壬午(7日)条
和銅5年(712)正月戊子(19日)条
和銅7年(714)正月甲子(5日)条
霊亀元年(715)4月丙子(25日)条
養老3年(719)正月壬寅(13日)条
天平元年(729)3月甲午(4日)条
天平5年(732)3月辛亥(14日)条
天平9年(737)12月壬戌(23日)条
天平10年(738)8月乙亥(10日)条
天平11年(739)正月丙午(13日)条
天平13年(741)8月丁亥(9日)条
天平15年(743)6月丁酉(30日)条
天平18年(746)5月戊午(7日)条
天平勝宝6年(754)正月壬子(16日)条
天平宝字8年(764)正月乙巳(7日)条
天平宝字8年正月己未(21日)条
宝亀6年(775)正月庚戌(16日)条
宝亀7年(776)3月癸巳(6日)条
延暦2年(783)2月辛未(24日)条
後紀 弘仁13年(822)正月己亥(7日)条
万 8・1476
8・1501
8・1646
姓 右京皇別上
始祖
蘇我石河宿禰
稲目宿禰(姓)
後裔氏族
小墾田朝臣
説明
大和国高市郡の小墾田地域を本拠地とした氏族。小治田は小墾田とも書く。天武13年(684)に朝臣姓を賜った。『古事記』では、蘇賀石河宿禰(武内宿禰の子)の後裔氏族として、蘇我臣らと同族関係にあったとされる。『日本書紀』における初見は舒明天皇即位前紀と遅く、蘇我蝦夷から山背大兄王を説得する使者のひとりとして派遣されている。『新撰姓氏録』によれば、小治田臣は蘇我稲目の後裔とされ、氏族としての独立も舒明期をあまり遡らない時期であったと推測される。次いで登場するのは壬申の乱のさなかで、大海人皇子のもとに駆けつけた大津皇子の従者に小墾田猪手の名があり、カバネは明記されないが同族と考えられる。天武10年(681)には麻呂が遣高麗小使(副使)として派遣され、翌年に無事帰国した。文武3年(699)には天智天皇陵の修造のために直広肆(従五位下相当)の当麻が派遣されている。律令制下においては、慶雲4年(707)の安麻呂と宅持の叙爵を皮切りに、8世紀前半には月足・豊足・諸人・広千(広耳)の叙爵が確認できる。天平年間前半は外階コースにあったようで、諸人・広千もはじめは外従五位下に列したが、天平11年(739)に広千が内階に移され、のちに諸人も従五位下を授けられている。8世紀後半にも水内・諸成の、女官では古刀自の叙爵が確認できる。しかし、その後は急速に衰退したらしく、弘仁13年(822)の常房が確認できる最後の叙爵者である。
明治45年(1912)、奈良県山辺郡都介野村(現在の奈良市東部)で小治田朝臣安万侶(安麻呂)の火葬墓が発見された。ともに発掘された墓誌によれば、安万侶は右京三条二坊に住み、死亡した神亀6年(729)時点で従四位下であったという。『続日本紀』にみえる安万侶の記録は、養老3年(719)に正五位上に昇ったのを最後に途絶えているが、この墓誌に従ってさらに一階を昇っていたとすれば、管見のかぎり小治田朝臣の最高位ということになる。
なお「小治田」をウヂ名とする氏族として、ほかに小治田連(のちに宿禰)が確認できるが、これは神饒速日命の後裔(石上朝臣と同祖)を称する別族である。
参考文献
角田文衞「小治田朝臣安万侶の墓」(『国分寺と古代寺院』角田文衞著作集第2巻、法蔵館、1985年10月、初出1979年)
佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇第2(吉川弘文館、1982年3月)
小野臣
尾張丹波臣
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