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島田臣

読み
しまだのおみ
ローマ字表記
Shimadanoomi
登場箇所
神武記・当芸志美々命の反逆
他文献の登場箇所
続紀  延暦2年(783)正月丁酉(20日)条
    延暦2年11月乙酉(12日)条
    延暦4年(785)10月甲戌(12日)条
    延暦5年(786)9月乙卯(29日)条
    延暦7年(788)3月己巳(21日)条
後紀  序
    天長6年(829)正月戊子(7日)条
続後紀 承和6年(839)9月乙酉(7日)条
    承和13年(846)正月己酉(7日)条
文実  序
    仁寿元年(851)11月甲午(26日)条
    仁寿元年12月丙寅(29日)条
    斉衡2年(855)9月甲子(18日)条
三実  貞観元年(859)3月13日己巳条
    貞観2年(860)8月5日壬午条
    貞観5年(863)正月7日庚午条
    貞観5年2月10日癸卯条
    貞観8年(866)正月7日甲申条
    貞観9年(867)正月12日癸丑条
    貞観9年4月11日庚辰条
    貞観11年(869)正月7日乙丑条
    貞観11年正月13日辛未条
    貞観11年2月16日甲辰条
    元慶2年(878)2月25日辛卯条
    元慶2年8月25日戊子是日条
    元慶2年12月11日壬申是日条
    元慶3年(879)11月25日庚辰条
    元慶6年(882)8月29日戊辰条
    元慶7年(883)正月7日甲戌条
    元慶7年4月21日丁巳条
    元慶8年(884)3月9日庚午条
    元慶8年11月25日壬午条
    仁和元年(885)正月16日壬申是日条
姓   右亰皇別下
始祖
神八井耳命
後裔氏族
島田朝臣
説明
 尾張国海部郡島田郷を本拠地とした氏族。『古事記』では、神八井耳命(神武天皇の御子)の後裔氏族として、意富臣らと同族関係にあったとされる。『新撰姓氏録』によれば、成務天皇の時代に仲臣子上(神八井耳命の五世孫である武恵賀前命の孫)が尾張国島田上下二県の悪神を平定し、その功績によって島田臣姓を賜ったとされる。『日本書紀』には登場せず、六国史では『続日本紀』の延暦2年(783)条で島田臣宮成が外従五位下に叙されたのを初見とする。宮成は内外官を歴任し、延暦7年(788)には内階に移されている。また正六位上村作の子である清田は、経史に通じて文章生試に及第し、弘仁4年(813)には嵯峨天皇の詔による『日本書紀』の講読に列した(『日本書紀私記』弘仁私記序)。さらに弘仁14年(823)には朝臣姓を賜り、天長年間から『日本後紀』の編纂にも従事している。少外記・大外記などを歴任し、最終的に従五位上まで達した。清田の活躍は島田朝臣の地位を大きく向上させたと考えられ、9世紀中頃から10世紀にかけて、貞継・善長・善宗・忠臣・良臣・惟上・房年・仲方・良行・公鑑・公望・資忠、女官では吉子・宣来子と多くの叙爵者を輩出している。このほかの氏人としては、藤原冬嗣との間に良仁を生んだ清田の姉、藤原純友の乱で襲撃された惟幹などが知られる。
 清田に代表されるように、島田朝臣の著しい特徴として、文筆による活躍が指摘できる。先述した男官の叙爵者のうち、貞継・善宗を除く10人は外記を務めており、そのうち忠臣・良臣・房年・仲方は文章生より立身したことが確認できる(その他の人物も官暦から多くは文章生出身と推測されている)。忠臣・良臣兄弟は清田の孫にあたり、ともに早い時期から藤原基経に近侍した人物で、ことに忠臣は菅原道真の師かつ岳父(宣来子の父)として著名である。貞観元年(859)と元慶7年(883)の二度にわたって渤海使の饗応役を務め、後者に際して渤海使と唱和した漢詩が『田氏家集』に収められている。良臣は元慶2年(878)に『日本書紀』講読の都講(副教官)に選ばれ、また『日本文徳天皇実録』の編纂にも従事している。
参考文献
金原理「嶋田忠臣傳考」(『平安朝漢詩文の研究』九州大学出版会、1981年10月、初出1965年6月)
金原理「嶋田氏の系譜」(『平安朝漢詩文の研究』九州大学出版会、1981年10月、初出1970年11月)
佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考証篇第2(吉川弘文館、1982年3月)
滝川幸司「島田良臣考」(『菅原道真論』塙書房、2014年10月、初出2011年3月)
滝川幸司「島田忠臣の位置」(『菅原道真論』塙書房、2014年10月、初出2012年6月)

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