國學院大学 「古典文化学」事業
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若桜部臣
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若桜部臣
読み
わかさくらべのおみ
ローマ字表記
Wakasakurabenoomi
登場箇所
履中記・水歯別命と曾婆訶理
他文献の登場箇所
紀 履中3年冬11月辛未(6日)是日条
天武元年(672)6月甲申(24日)是日条
天武元年6月丙戌(26日)条
天武13年(684)11月戊申朔条
持統10年(696)9月甲寅(15日)条
続紀 大宝元年(701)7月壬辰(21日)条
天平宝字8年(764)10月庚午(7日)条
天平神護元年(765)正月己亥(7日)条
宝亀元年(770)7月己丑(29日)条(無姓カ)
宝亀元年(770)10月甲寅(26日)条
続後紀 天長10年(833)10月辛卯(9日)条(無姓)
万 8・1643
姓 右京皇別上
始祖
膳臣余磯(紀/姓)
伊波我牟都加利命(姓)
後裔氏族
若桜部朝臣
説明
若桜部を統轄する伴造氏族。若桜部は稚桜部とも書く。天武13年(684)に朝臣姓を賜った。『古事記』によれば、若桜部のウヂ名は履中天皇の時代より称したとされ、その詳細な経緯は『日本書紀』に伝えられている。すなわち履中3年11月に天皇が磐余市磯池で舟遊びに興じていたところ、膳臣余磯が献じた酒杯に桜の花が落ちた。季節はずれの桜を不思議に思った天皇は、物部長真胆連に命じて花がどこから来たのかを探し求め、長真胆連は掖上室山で花を見つけて献上した。喜んだ天皇は宮号を磐余稚桜宮とし、長真胆連に稚桜部造を、膳臣余磯に稚桜部臣を賜ったとされる。ほぼ同様の伝承は『新撰姓氏録』の若桜部造条にも掲げられており、これらは若桜部が食膳奉仕に関係していたことを伝えているものと考えられる。また『新撰姓氏録』の若桜部朝臣条では、その始祖を伊波我牟都加利命(磐鹿六雁命)としており、やはり系譜が膳臣に接続している。若桜部は若狭の地名に基づいて案出されたウヂ名との説もあり、若狭国が御食国であることをふまえても、膳臣と若桜部臣が密接な関係を有したことは疑いない。
実録として若桜部臣の活動がみえるのは壬申の乱からで、天武天皇に挙兵当初から従った舎人のひとりとして、稚桜部臣五百瀬の名が挙げられている。五百瀬は東山道に派遣されて軍兵を起こしたが、その後の五百瀬の動向は不明である。持統10年(696)に壬申の乱の功績によって直大壱(正四位上相当)を追贈されているので、それまでには死去していたらしい。さらに大宝元年(701)にも壬申の乱の功績で子孫が80戸を賜っている。次に若桜部臣が浮上するのは藤原仲麻呂の乱で、ときに正六位上であった上麻呂(匕麻呂)が、追討の功績で従五位下に叙されている。また翌年正月には女官の伊毛も従六位下から従五位下に叙されており、これも乱と関係する叙位と考えられる。最終的に上麻呂は従五位上まで昇っており、これは若桜部朝臣の最高位である。若桜部氏は『正倉院文書』に散見し、また仲麻呂の乱の時点で上麻呂が正六位上に達していたように、中下級官人層として活発に活動していたと考えられる。それでも軍事的危機にともなう異例の措置でなければ、貴族に列することはできなかった氏族であった。
参考文献
伴信友「若狭旧事考」(『伴信友全集』巻5、ぺりかん社、1977年8月、初出は文政8年正月)
狩野久「御食国と膳氏―志摩と若狭―」(『日本古代の国家と都城』東京大学出版会、1990年9月、初出1970年1月)
山代内臣
丸邇臣
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