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ときに、きのみことおほきに歓喜よろこびてらししく、「みて、みのはてはしらのたふとたり。」とのらして、 すなはくびたまたまの四字はおむもちちゐる。しもれにならふ]、あまてらすおほかみたまひてらししく、「みことは、たかあまのはららせ」と、ことさしてたまひき。 かれくびたまは、くら板挙たなかみふ。[板挙をみてふ。] つぎつくよみのみことらししく、「みことよるをすくにらせ」と、ことさしき。[食をみてと云ふ。]。 つぎたけはやをのみことらししく、「みことうなはららせ」と、ことさしき。 かれおのおのさしたまひしみことまにまにに、らしなかに、はやをのみことおほせらえしくにをさめずて、 つかひげこころさきいたるまでに。[伊しもの四字はおむちゐる。しもこれならふ。]。 さまは、あをやまからやまごとらし、かはうみことごとしき。 ここちて、しきかみこゑばへごとみなち、よろづものわざはひことごとおこりき。 かれきのおほかみはやをのみことらししく、「なにゆゑにか、ことさえしくにをさめずて」とのらしき。 しかして、こたまをししく、「やつかれははくにかたくにまからむとおもふがゆゑく」とまをしき。 しかして、きのおほかみおほきに忿りてらししく、「しかあらば、くにむべくあらず」とのらして、 すなはかむたまひき。[夜の七字はおむちゐる。]。 かれきのおほかみは、淡海あふみいます。

○生みの終 伊耶那岐と伊耶那美は天神からの「国土の修理固成」の命以を、「生む」ことで果たしてきた。当初は二神の生殖によって国生み・神生みを行ってきたが、伊耶那美が黄泉津大神となって以降は、その役割は伊耶那岐に移行した。黄泉国神話の最後に記された「事戸度し」はそのことを暗示しているようである。そして今その「生む」行為が「終」わったことを宣言しているのであるから、天神の「国土の修理固成」の命以はここで果たされたものと思われる(谷口雅博「古事記神話における国の生成―「国生」「国作」の意義―」『古事記年報』40、一九九八・一参照)。 ○天照大御神 初出は、注釈(十三)みそぎ②(→『古事記学』第二号)の個所。以下の月読命・建速須佐之男命も同じ。紀五段本書ではキ・ミ二神で生んだ子として「日神・大日孁貴(一書云、天照大神・天照大日孁尊)」とあり、二神は「吾が息多しと雖も、未だ此の若く霊異しき児有らず。久しく此の国に留むべからず。自当に早く天に送りて、授くるに天上の事を以てすべし」と言って天上に挙げたとする。紀一書一では伊奘諾尊が「御㝢す珍の子」を生もうとして左の手に白銅鏡を持った時に大日孁尊が出現したとする。
○事依さして 『古事記』内でのコトヨサシの例は十例、そのうち「命以(ミコトモチ)」と対で用いられる場合が五例あり、この型が基本であると考えられている。コトヨサシの表記については「言依」が基本であり、「言因」も一例ある。当該個所の表記「事依」は、三貴子分治のみに見られる表記であり、ミコトモチの語も伴わないものであるゆえに、他とは異なる意識があると考えられる。基本的にミコトモチテ―コトヨサスという、『古事記』独自のこの表現は、高天原から葦原中国への指令の言葉を、高天原の指令神が発するときに使用されると考えられている。ところが三貴子分治の命令は、伊耶那岐命が地上世界から発したものであり、それゆえに他のコトヨサシとは次元が異なるところから、他とは異なる「事依」の表記が取られているという見方がある。『古事記』における「言」と「事」との表記意識とも絡む問題であるが、「言依」がより言葉の意識が強いのに対して、「事依」の方は命じられた領域の統治という事柄の方が重視されるという違いが反映していると考えられる。鈴木啓之「古事記における「ミコトモチテ」「コトヨサシ」の意義」『古事記の文章とその享受』(新典社、二〇一一年九月、初出は一九八九年三月)参照。
○御倉板挙之神 御頸珠の転とするものもあるが(標註)、「御倉に蔵め、その棚の上に安置(マセ)奉(マツ)りて崇(イツキ)祭(マツリ)たまひし故の御名」(記伝)と取るものが多い。思想は、倉を稲倉とする。稲霊に「倉」の字がつく例として、紀五段一書六の「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」を挙げている。 ○月読命 月の神。紀五段本書において、日神に次いで生まれた神として「月神(一書、月弓尊・月夜見尊・月読尊)」と記す。その光は日に亜(つ)ぐゆえに日に配べての統治を命じられる。紀一書一では伊奘諾尊が右の手に白銅鏡を持った時に月弓尊が出現したと記す。月を数える意味での「ツキヨミ」の神の意と取るのが通説であるが、月読命以外の表記「月弓」「月夜見」は異なる神格を表すと取る説もある(橋本利光「日本書紀の月神―ツクヨミノミコトの神名―」『國學院雜誌』一一〇―九、二〇〇九年九月)。宣長は月読命の「ヨミ」と黄泉国の「ヨミ」とを関連付けて考えているが(記伝)、この考えは後に服部中庸が『三大考』において、黄泉国と月とを重ね合わせて考える説に繋がっているものと思われる。上代特殊仮名遣いからみた場合、ヨはどちらも乙類であるが、「読み」の「み」は甲類、「黄泉(よみ)」の「み」は、「よも」の交替型とするならば乙類となるが、後者の方は明確ではない。 ○海原・夜之食国 「夜之食国」は『日本書紀』のどの伝にも見えない。月の神ゆえに「夜」に関わる点は理解出来るが、「食国」というのは天皇の支配領域を示す語であると思われるので、単純に昼の世界と夜の世界という分担とは考えがたい。中巻応神天皇条に見られる三皇子への分掌に、「食国之政」が見られる点と併せて、実際の領国支配・運営に関わる内容を含んでいるものと思われるのだが、具体的に神話の中で役割を持たない月読命にこれを統治させると描くことは、後述の、「葦原中国」支配の問題と絡めて、意図的なものが感じられる。「海原」については、『日本書紀』神代上第五段第六の一書では月読尊の統治領域として「滄海原の潮の八百重」が見え、一書十一では素戔嗚尊が「滄海之原」の統治を命じられている。これら『日本書紀』にくらべて『古事記』の場合、「海原」は後に豊玉毗賣が天神の子を「海原」で生むべきではないと言い、鵜葺草葺不合命の子の稲氷命が「妣が国」(=玉依毗賣のいる国)として「海原」に入ったとあるように、海神の支配する異郷として認識されている。須佐之男が統治を放棄した「海原」が「妣が国」であったというのは皮肉であるが、「高天原」が「天つ神」の統治する世界であるのと同様に、「海原」も「海の神(わたつみのかみ)」の領有支配する領域であるということになろう。『古事記』の神話展開としては、この後、地上世界である「葦原中国」の統治権をめぐって国作り→国譲り→天孫降臨へと展開する。三界分治の詔に「葦原中国」が含まれないのは、こうした後の神話展開と絡む問題を含んでいよう。それは『日本書紀』の三貴子誕生神話において、当初キ・ミ二神が望んでいた天下の統治者が出現しなかったことと共通している。なお、海原については、本号の論考編、井上隼人「『古事記』における「海原」の意義―統治領域の確立過程―」を参照。【→補注一】 【→補注二】
○建速須佐之男命 紀五段本書、及び一書二に、日神・月神・蛭児に次いでキ・ミ二神から「素戔嗚尊(一書に神素戔嗚尊・速素戔嗚尊)」が生まれるが、無道により「根国」に逐われる。同一書一では伊奘諾尊が首を廻らして顧みた時に素戔嗚尊が出現したとする。「建」は勇猛の意、「速」は勢いの激しさを表すとされる。三貴子分治のはじめは「建速須佐之男命」と記すが、以降は「速須佐之男命」と記される。西宮一民は、古辞書類のアクセントの検討などから、「須佐」は「スサブ」「ススム」と同根の語であるとし、「勢いのままに突き進む男神」の意とする(「スサノヲ神話の本質」『古事記の研究』おうふう、一九九三年十月)。誕生以後、根之堅州国行きまでの間、一つ所に留まることなく世界を移動し続ける須佐之男の神格としては相応しいと言えるが、それを『日本書紀』や「風土記」のスサノヲにも当てはめて考え得るかどうかは検討の余地がある。
○「知」と「治」 三貴子分治においては、統治領域について「知」らすことを命じていたが、須佐之男の涕泣のこの場面では、「知らし看す中に・・・・・治めず」というように、「知」と「治」とを使い分けている。中・下巻において天皇は「治天下」と表現されるが、「知天下」という表現はない。西宮一民は、この違いについて、「須神は海原は領有した(知=シラス)ものの、統治(=ヲサム)しなかった」と説く(「古事記「訓読」の論」『古事記の研究』おうふう、一九九三年十月)。 ○八拳頒心前に至るまでに啼き伊佐知伎 大人になるまで泣いてばかりであった。この表現は、中巻垂仁天皇条のホムチワケの描写に「是御子、八拳鬚心前に至るまでに真言登波受」とあるものや、『出雲国風土記』仁多郡三沢郷のアヂスキタカヒコの「御須髪八握に生ふるまで、夜昼哭きまして、み辞通はざりき」という描写と類似している。ホムチワケとアヂスキタカヒコの場合は大人になるまで泣いてばかりで言葉を発することが出来なかったという話なので、「もの言わぬ御子型」と言われるものであるが、須佐之男の場合は口がきけないわけではないので、その点で相違がある。共通性があるとすれば、須佐之男もホムチワケも、母が不在の状況であるという点(アヂスキタカヒコの場合は、話の中に登場する「御祖」の理解によっては、母不在と取ることも出来るが、「御祖」は母である可能性が高い)、そして父がその解決に関与する点がある。また、ホムチワケは出雲大神の祟りによって口がきけないわけだが、アヂスキタカヒコの場合は、その父が出雲大神と重なり合う大穴持神である点で、関連性が高い。ホムチワケやアヂスキタカヒコの場合、魂の充足していない状態を表しているという見方、神の言葉を代弁するための依代となるための、忌み籠もりの期間であったとする見方などがあるが、須佐之男の場合は、世界に混乱・無秩序状態をもたらす存在であることを示す要素として描写されている。須佐之男がこのような態度を取る要因として、佐藤正英は、他の物言わぬ御子型の話との共通性などから、祟り神が憑いている状態であると説き(「「妣が国」への衝迫―アマテラス・スサノヲ神話Ⅰ」『古事記神話を読む〈神の女〉〈神の子〉の物語』青土社、二〇一一年二月、初出は一九八四年五月)、松本直樹は、何らかの神意の顕れを意味しており、須佐之男自身の意志で泣いているわけではないと説いた(「古事記のスサノヲ像」『古事記神話論』新典社、二〇〇三年十月)。ここをどう捉えるかは『古事記』神話における須佐之男の存在意義に関わる問題であるので、いましばらく考えていきたい。 【→補注三】
なお、「頒」の字については、『説文』に「頒、一曰、鬢也」とあるので、ヒゲの意で採用し得るが、但し「鬢」は同じく『説文』に「鬢、頬髪也」とあるので、「心前」まで伸びるヒゲとしては、「鬚」の省文と見られる「須」の方が相応しいようにも思える。ここでは一応真福寺本に従う。
○悪しき神の音、狭蠅の如く皆満ち、万の物の妖悉く発りき 須佐之男が海原を治めず、泣いてばかりであったことによって引き起こされた無秩序状態。後に天照大御神が天石屋戸に隠ったときにも同じような状況に陥る。矢嶋泉は、海原と高天原ともに統治すべき神が統治を放棄したことによって起こる無秩序状態であるとしている(「悪神之音如狭蠅皆満 萬物之妖悉発―『古事記』神話の論理―」『聖心女子大学論叢』六十七、一九八六年六月)。なお、この場面では「物妖」とあるのに対し、高天原については単に「妖」としかない点に、天上界と地上界との相違を見る説(阿部眞司『大物主神伝承論』翰林書房、一九九九年十二月)や、この「物妖」に大物主神の始発を読み取る説もある(谷口雅博「『古事記』神話の中の災害―災いをもたらすモノ―」『悠久』一二九号、二〇一三年一月)。【→補注四】 ○妣が国根之堅州国 「妣」は『礼記』によれば亡き母を言う。『古事記』では須佐之男は伊耶那岐の鼻から出現した神なので、母はいないということになるが、父神の妻であった伊耶那美を「妣」と呼んだと考えるのが一般的か。『古事記』では他に一箇所、「妣が国」の例がある。上巻の末尾、鵜葺草葺不合命の四人の子のうちの御毛沼命は「浪の穂を跳みて常世国に渡り坐す」とあるのに続けて、稲氷命は「妣が国として海原に入り坐しき」とあって、これが上巻の最後の記述となっている。稲氷命の母は海神の娘の玉依毗売であるから、「海原」は正に「妣」の国となる。この場合の「妣」は異界の母という意味であって、決して亡き母のことではない。『万葉集』に二例見られる「妣」についても、決して亡き母ではない(石上乙麻呂卿配土左国之時歌・巻六―一〇二二、過足柄坂見死人作歌・巻九―一八〇〇)。須佐之男の言う「妣」も、異界の母を指すと見るべきであろう。 仮に「妣」が伊耶那美を指すのであれば、「根之堅州国」は「黄泉国」と同一視されることになる。この二つの異界を同一のものと取るか、異なる場所と取るかは見解が分かれている。どちらも出口が「ヨモツヒラサカ」である点からすれば、同一の世界である可能性もあるが、『古事記』の描写を見る限り、両者を同一視し得る要素は全く見当たらない。『古事記』において黄泉国は、葦原中国に生存するウツシキアヲヒトクサが死して行く場所であり、一方の根之堅州国は、須佐之男が大国主神に葦原中国の主となることを指令し、地上世界での宮殿造営の命を発する場であると考えるならば、葦原中国を支える基盤となる国としての意味を担っているのではないかと思われるのである。なお、根之堅州国については、大穴牟遅神の根之堅州国訪問条において改めて検討したい。 ○神夜良比尒夜良比賜ひき 「やらふ」は「遣る(派遣する)」+反復・継続の「ふ」であると見られる。「やらひにやらふ」と重ねて表現することで、追放の意味を持つ。若しくは、『日本書紀』(七段一書二)に「遂に神逐の理を以て逐(はら)ふ」という表現もあるように、「神やらひ」という方法で「遣らふ」という理解の仕方もあるかも知れない。紀五段本書では、キ・ミ二神の言葉として「固に当に遠く根国に適ね」とあり、同一書一では、「故、下して根国を治しむ」、一書二では、これもキ・ミ二神の言葉として「極めて遠き根国を馭すべし」とある。つまり一書一と二では、素戔嗚尊が根国へ行くことはキ・ミ二神の命令として記されており、なおかつ「治」「馭」と記されるように、素戔嗚尊の統治領域として設定される。本書の場合でもこれに続く六段の冒頭、素戔嗚尊自身の言葉の中で「吾、今教を奉りて、根国に就りなむとす」とある故、やはり根国行きはキ・ミ二神の勅として記されていることになる。また、一書六の場合は、伊奘諾尊の「情の任に行ね」という言葉によって示されるが、素戔嗚尊の「情」は「母に根国に従はむ」であるから、これも根国行きを認めたことになる。これに対して、『古事記』では決して伊耶那岐の言葉、命令として根の堅州国行きが記されることはない。この記紀の違いに注意する必要があろう。須佐之男は父伊耶那岐に追放されることで、姉の天照大御神を頼って高天原に向かうことになるが、その後、高天原からも「神やらひやらひ」されることになる。従って須佐之男の出雲降臨、及び根之堅州国行きは、その正当性を保証されてはいないことになるのである。 ○淡海の多賀に坐す 「淡海」は道果本・道祥本・春瑜本に「淡路」とある。『日本書紀』に「構幽宮於淡路之洲」(神代上六段本書)とあること(『延喜式』神名帳・淡路国に「淡路伊佐奈伎神社」あり)や、キ・ミ二神の国生み神話の舞台が淡路島を中心とするところから、「淡路」を元々の本文であるとする見解もあるが、『古事記』では「あはぢ」は「淡道」と表記されること、真福寺本と兼永本がともに「淡海」であるところから、「淡海」を採用する(青木紀元「淡海之多賀と外宮之度相」『日本神話の基礎的研究』風間書房、一九七〇年三月参照)。『延喜式』神名帳・近江国犬上郡に「多何神社二座」と見える。ただし、「淡海の多賀」に鎮座すると記す理由については不明である。

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食国(夜之食国)

「食国」の「をす」については、上二段動詞「居(う)」の連用形に敬意をあらわす「す」が接続して「占有する」「我が物とする」の尊敬語となり、そこから飲む・食う・統治するといった意味に分化したとする説(『時代別国語大辞典』上代編)や、「食う・飲む」の敬語形とみなす説(日本思想大系『古事記』)、治めるの意の尊敬語で、初穂を食する儀礼などに起源を有する語とする説(新日本古典文学大系『続日本紀』一)などがあるが、「食国」はそこから派生して「天皇が統治する領域・国」とか「天皇の食物を献上する国」を指すと考えられている。この点について本居宣長は、「食国」とは天下を統治することで、「食(を)す」は元来「食ふ」ことであって、「見る」「聞く」「知る」と同じく他の物を身体に受け入れる行為に通じ、君主が国を統治することを「知(し)らす」とも「食(を)す」とも「聞(き)こし看(め)す」ともいうと述べている(1)。また折口信夫は「食(を)す」を「食(く)ふ」の敬語であるが古語ではなく、「食国とは、召し上がりなされる物を作る国」であるとして、天つ神や天皇に対する食物供進と結びつけている(2)。
「食国」という表現は『古事記』に二ヵ所、『万葉集』に一〇ヵ所、『続日本紀』宣命に三五ヵ所、『日本霊異記』に四ヵ所、『延喜式』大殿祭祝詞に一ヵ所、『神宮雑例集』所引「大同本記」逸文に二ヵ所など確認できるが、『日本書紀』にはみられない。そのうち『古事記』の二例とは、神代巻の三貴子分知の記事と応神天皇段の三皇子分掌記事を指す。まず前者は、伊耶那伎(いざなき)命が左目を洗ったときに所成した天(あま)照(てらす)大御神(おほみかみ)に「高天原(たかまのはら)」を、右目を洗ったときに所成した月読(つくよみ)命に「夜之食国」を、鼻を洗ったときに所成した建速(たけはや)須佐之男(すさのを)命に「海原」をそれぞれ治めるよう命じたとあるもので、後者は応神天皇が皇子の大山守(おほやまもり)命に「山海之政(まつりごと)」を、 大雀(おほさざき)命(のちの仁徳天皇)に「食国之政」を、宇遅(うぢ)能(の)和紀(わき)郎子(いらつこ)に「天(あま)津(つ)日(ひ)継(つぎ)」を掌らせたとあるものである。この二例の説話は、いずれも三人のうちの一人だけが「食国」の政をおこない、しかもその者は後継者でないという共通項を持つことから、どちらか一方が他方を模倣したものだろうと考えられており、その場合は前者が後者をモデルに作られたと推測されている(3)。なお、藤原宮の北外堀に相当する東西溝(SD一四五)から「食国」と記された木簡が一九六七年に出土しており(4)、七世紀末から八世紀初頭ごろに、「食国」という表現が実際に使われていたことがわかる。
 「食国」については、春の予祝的農耕儀礼である“国見”に源を発し、その執行が長老から小国の族長へ移行したことによる“国占め”や、ヤマトとの統一戦争に敗れた地方の首長が食物を献げて服属を誓う儀礼を経て、五世紀後半の雄略天皇の時期に収穫祭である新嘗と結びついて“ニヒナメ=ヲスクニ儀礼”として整備され、それが七世紀後半に即位儀としての“大嘗祭”へと転化していったという岡田精司の研究(5)が著名で、その後の研究もほぼ岡田説を踏襲しているか、前提として議論している。それに対して近年、「食国」は「食邑」や「食土」「食田」と同じく“国家から享受される俸禄”という意味の漢語表現で、土地を食むという表現のひとつの類型であって、かかる前提に立つことなく「食国」成立の由来を即時的に仮定としての前史(食物供献儀礼)につなげるべきではないとの批判が村上麻佑子によって提示されている(6)。村上によれば、「食国」の指し示すところは君主によって委任された土地で、臣下が統治をおこなうことであり、統治の限界性があらわれているという。
 従来「夜之食国」に関しては、上述の三貴子分知記事に「昼の食国」が記されていないことを問題視し、「食国」は「天の下」とイコールの統治領域で、天皇の一身には昼の政治執行者的権能と夜の祭祀に携わる斎王的権能の二面があり、それを神話的に象徴化したのが月読命の「夜之食国」所知であった(7)とか、「夜の食国」に対する「昼の食国」とは「天の下」のことで、そこは日の皇子である天皇が治めているという前提のもとに表現されたのかもしれない(8)。さらには「夜之食国」は夜の地上(特に現実的な支配のおこなわれる国)で、月読命は夜における地上支配の実務担当者ということになる(9)などと理解されてきた。しかし村上は、宣長が「久(く)爾(に)」とは「界限(かぎり)」のこととする賀茂真淵説に従い、天照大御神には「晝(ひる)」とはなくて「高天原」全体をいい、月読命には「夜之食国」というのは、「是又界限(かぎ)る意あり」と述べていること(10)を引用し、「夜之食国」は「高天原」と比較して部分的な「夜」の統治を示しているにすぎず、「食国」の漢語表現の構造を外れるものではないとしており(11)、注目すべきだろう。
〔小濱 歩 神道古典・日本古代思想 
佐藤長門 日本古代史・古代王権・国家の権力構造論〕

 
 註

(1)本居宣長『古事記伝』七之巻(『本居宣長全集』第九巻、筑摩書房、一九六八年)。

(2)折口信夫「大嘗祭の本義」(『折口信夫全集』第三巻所収、中央公論社、一九六六年、初出は一九二八年)。

(3)岡田精司「大化前代の服属儀礼と新嘗―食国(ヲスクニ)の背景―」(『古代王権の祭祀と神話』所収、塙書房、一九七〇年、初出は一九六二年)。

(4)奈良文化財研究所木簡データベースによると、形状は上部と左側が欠損し、表裏に「×□御命受止食國々内憂白」、「×□止詔大□□乎(〔御命ヵ〕)諸聞食止詔」と記されている(×は前後に文字が続くことが推定されるが、欠損して文字が失われていること、□は欠損文字を示す)。なお『藤原宮』(大和歴史館友史会、一九六九年)、『木簡研究』第五号(木簡学会、一九八三年)などを参照。

(5)岡田精司「大化前代の服属儀礼と新嘗―食国(ヲスクニ)の背景―」(前掲註3論文)。

(6)村上麻佑子「古代日本における『食国』の思想」(『日本思想史学』第四四号、二〇一二年)。

(7)都倉義孝「古代王権の宇宙構造―三貴子の誕生と分治をめぐって―」(『古事記 古代王権の語りの仕組み』所収、有精堂、一九九五年、初出は一九七九年)。

(8)桜井満「『食国』の表現と大嘗祭」(『桜井満著作集』第三巻所収、おうふう、二〇〇〇年、初出は一九九〇年)。

(9)山﨑かおり「月読命と夜之食国」(『國學院雜誌』第一一五巻第十号、二〇一四年)。

(10)本居宣長『古事記伝』七之巻(前掲註1書)。

(11)村上麻佑子「古代日本における『食国』の思想」(前掲註6論文)。

国政上の行政単位としての「国」の他に、記紀・風土記の神話伝承において用いられる「クニ」の基本的な意義としては、以下の三つを挙げることができる。
第一に、クニとは境界によって区切られた一定の領域を指す。夙に賀茂真淵『久邇鬥致考』は「久邇は限りてふことぞ」と指摘し、本居宣長『古事記伝』もその師説を引いて「凡て久爾(クニ)と云は、界限(カギリ)の義(ココロ)にて名けたり」としている。西郷信綱氏も「クニは、人の住む、一定のしきられた土地のいいで、境をもつことがその本質であったように思われる」(『古事記注釈』)と述べる通りである。
第二に、クニはただ自然物としての国土を指すのではなく、人々の生活が営まれる領域を指す。たとえば松村武雄氏は「或る特定の社会集団が自己の生活を営むところの特定の限られた『ツチ』」、三谷栄一氏は「耕地といふ意で、開墾された豊饒の地域」とする。岡田精司氏は『万葉集』巻一・二(大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国そ 秋津島 大和の国は)等を引きつつ、本来の「国」の意義は、国見の歌と農耕儀礼の対象となる「非常に狭い限られた範囲」「郷土としての〈クニ〉」であったとする。このように、人々の生活と密着した領域としてのクニが「国」の本来的意義であるとする指摘は多い。最近では鎌田元一氏が「本来的に人文的・社会的概念であり、たんに自然物としての大地・陸地を意味するものではない」「あくまで第一義的に人間の営為と結びついた概念であり、人間生活の投影された土地を意味する語」としている。
ただ、「国見」という儀礼行為が象徴的に示すように、ここには既に、生活の場としてのクニをひとつの全体として俯瞰し、把握する意識が見て取れることも併せて確認したい。「クニ」は「自分たちが帰属し生活している、他とは区別された領域」を自覚的に捉え返したところに成り立つ概念であり、同じく自分たちの生活の場を指す「サト」よりも、いっそう「界限(カギリ)」の意識が強い。そして「国見」においてクニを予祝するのは、現実的にはその地を治める首長であるが、神話的観念の上では、その地を見出し、占有し、知ろしめすカミ(あるいはカミに準ずる存在としての貴人)であると言えよう。
先に挙げた鎌田氏は、クニという概念は「政治的・社会的領域としての国・国土」と「故郷・郷里を意味する場合」の二側面を有し、前者が「支配・統治の対象としての政治的側面」を象徴し、後者が、個々の成員が自身のクニを「まさに自己がそこに帰属し、それに包摂されて生きるところの共同体そのもの」と考えるような「共同体としての側面」を象徴するとしている。単なる生活領域にとどまる概念ではないのである。
第三に、クニは何らかの主者によって占有され、治められる領域を指す。風土記には、クニが元来神(貴人)によって見出され、画定せられ、支配される領域であったとする観念が随所に顔を覗かせている。『出雲国風土記』意宇郡では「国引き坐しし八束水臣津野(やつかみづおみづの)の命(みこと)」が「八雲立つ出雲の国は、狭布(さぬの)の稚国(わかくに)なるかも。初国(はつくに)小さく作らせり。故(か)れ、作り縫はむ」と述べて国を造成する。同母理郷では「天の下造りましし大神大穴持(おほなもち)の命(みこと)」が、「我が造り坐して命(うしは)く国は、皇御孫の命平世(やすくに)と知らせと依(よ)せ奉(まつ)らむ。但、八雲立つ出雲の国は、我が静まり坐す国と、青垣山廻らし賜ひて、珍玉(うづのみたま)置き賜ひて守(も)らむ」と詔る。前半は国が大穴持命によって造られ、治められる領域である(それが皇御孫の命に譲られる)ことの確認であり、後半では改めて出雲を「我が静まり坐す国」とし、「青垣山廻ら」して「珍玉置」くことでその領域を設定し、守護を宣言する。伊勢国風土記逸文では、天日別命に国譲りを迫られた国神の伊勢津彦が「吾(あ)はこの国を覓(ま)ぎて、居住(すむこと)日久(ひひさ)し。敢命(あにみこと)を聞かむや」と答えており、国が神によって求め見出され、占められる領域であることが端的に述べられている。
さらに、神争いの中で国の境界や領域が確定される伝承も注目される。『播磨国風土記』託賀郡甕坂(みかさか)では、敗走する讃伎日子を追う建石命が「今より以後(のち)に、更(また)、この界(さかひ)に入ることを得じ」と言って「御冠(みかがふり)をこの坂に置きき」とあり、別伝として「昔、丹波と播磨と国を堺(さかひ)し時に、大(おほ)き甕(みか)この上に掘り埋め、国の境と為しき。かれ、甕坂といふ」を伝える。また、同揖保郡揖保里粒丘(いひぼをか)の地名起源伝承では、「韓国(からくに)」から来訪した天日槍命が、葦原志挙乎命に「汝は国主(くにのきみ)為(た)り。吾が宿る所を得まく欲りす」と乞うたが、葦原志挙乎命は「先に国を占めむと欲(おも)ひ、巡り上りて粒丘に到りて、湌(みをし)したまふ」とある。「杖以て地に刺し」たともあるが、この「杖」も自らの占める領域を画定する呪物として機能していよう。ここでは、異国から来た神の侵入を、「国の主」が先んじて「国占め」を完遂することによって防遏しようとする構図が見て取れる。「国」は「異国」との対照においてその境界が際立たせられ、「主」の神によって占有される、纏まったひとつの領域として定立されている。
以上三点が「クニ」の基本的意義を成すと考えられるが、『古事記』神代巻の伝承においては、また別種の「クニ」が見られる。それは現世としての「葦原中国」と、「黄泉国」や「高天原」等の他界である。
天地初発時に、天つ神の領域としての「高天原」に対して、「稚」い状態の「国」が登場する。後にこの領域に、岐美二神の生みなす「大八島国」を土台とした「葦原中国」が成り立つことを念頭に置いた表現と考えられる。この「葦原中国」は、伊耶那岐命が「黄泉国」から逃げ帰るくだりでその呼称が初めて用いられ、直後に黄泉比良坂が鎖されることからも理解されるように、死せるものの世界としての「黄泉国」に対するかたちで、生ける「現しき青人草」のいる世界として分離され、定立されている。『播磨国風土記』に見られた、異国との対峙を通じてその輪郭を際立たせる「国」という構図は、ここでは、異界と対峙することを通して、現世として自覚される領域としての「国」というかたちで顕れている。
諸他界もまた一つの領域として捉えられることで、それぞれ「国」と呼ばれる。三貴子分治に際して、須佐之男命は父伊耶那岐命から海原の統治を委任されたが、「不治所命之国而」とある通り、海原はひとつの「国」とされている。後に高天原で、来訪する須佐之男命を待ち迎えた天照大御神も「欲奪我国耳」と言っており、高天原もまた「国」であることが判る。「高天原」「夜之食国」「海原」がそれぞれ「国」と呼ばれるのは、人々の農耕にまつわる生活領域としての「国」の用法からはやや離れるが、主者(神)によって統治される一定の領域としての意義に重点を置く用法であろう。そして、それらの世界に各々主者を設定する伊耶那岐命の「分治」によって、それまでの「天―地」「高天原―国」という単純な成り立ちで存在していた宇宙のありようは(「葦原中国」と「黄泉国」とが分離されたのに引き続き)、複数の「国」がそれぞれの役割を担いつつ宇宙を構成し、安定的に維持して行こうとする、より複雑なありようへと再分節されたということになる。
かくして『古事記』神代巻は、宇宙を構成する複数の世界をそれぞれ「国」として語ることによって、この言葉に(『万葉集』や風土記に見られる「国」と中心的な意義は共有しつつも)さらに抽象的な方向へ一歩進めた独自の意義を持たせている。言い換えれば、ここで「国」は宇宙を分節し、構造化する単位として働いているのであり、『古事記』の神話的世界を読み解く上での重要な鍵概念のひとつとなっている。神代巻の「国」は、それぞれ主者を有する、あるいはいずれ主者が定められるべきひとつの領域である。ひとつの「国」はある秩序に支配されるが、「高天原」から見て「葦原中国」が「いたくさやぎてある」無秩序な国と見えたように、「国」が異なれば、そこは主者も、秩序のありようも、ときに時間の流れすら異なる。つまり『古事記』の神話世界において「国」は、ひとつの纏まった秩序の「界限(カギリ)」を示す言葉でもあり得る。
『古事記』において「クニ」という言葉は、人間生活に関わる区切られた領域を指す原義に近い用法から、現世の国家を成り立たせる行政単位としての用法、そして相互に関連・交渉・対立しつつ、宇宙全体の構造を成り立たせる個々の領域を指すより抽象的な用法まで、多様な用いられ方をしている。当然ながらこのような「クニ」の意義の拡大は、個々の共同体のレヴェルを超えた俯瞰的なまなざしを獲得する中で進展したものであり、それは天皇の支配領域としての「天の下」の観念が成長して行く過程とも呼応していよう。


参考文献

・西郷信綱『古事記注釈』平凡社、一九七五~(引用に際してはちくま学芸文庫版を参照)

・松村武雄『日本神話の研究(三)』第三章、培風館、一九五五

・三谷栄一『日本文学の民俗学的研究』第一編第二章六「国の意義」、有精堂、一九六〇

・岡田精司『古代王権の祭祀と神話』第二部第一「国生み神話について」、塙書房、一九七〇

・鎌田元一『律令公民制の研究』第一部Ⅲ「日本古代の『クニ』」、塙書房、二〇〇一

〔小濱歩 神道古典・日本古代思想〕

イサチルの語義と文脈上の意味

『古事記』の三貴子分治条では、伊耶那岐命が禊の果てに生まれた三貴子に対して、三つの領域の統治を命じている。天照大御神と月読命は命に従い高天原・夜之食国を治めたのに対し、ひとり須佐之男命だけが命に背き、髭が胸に届くまで泣き続けたという。同様の箇所を『日本書紀』対応箇所は、次のように記している。

1. 次に素(す)戔嗚(さのをの)尊(みこと)を生みたまふ。一書に云はく、神(かむ)素(す)戔(さの)嗚(をの)尊(みこと)、速(はや)素(す)戔(さの)嗚(をの)尊(みこと)といふ。此(こ)の神勇悍(ようかん)にして忍(にん)に安(やす)みすること有り。且常に哭泣(な)くを以ちて行(わざ)と為(な)す。 (第五段本書)

2. 素戔嗚尊は、是(これ)性(さが)残(そこなひ)害(やぶ)ることを好(この)む。故、下(くだ)して根(ねの)国(くに)を治(し)らしめたまふ。 (第五段一書第一)

3. 次に素戔嗚尊を生みたまふ。此(こ)の神性(さが)悪(あ)しく、常(つね)に哭(な)き恚(ふつく)むことを好む。 (第五段一書第二)

4. 是(こ)の時に素戔嗚尊、年(とし)已(すで)に長(た)けたり、復(また)八(や)握(つか)鬚(ひ)髯(げ)生(お)ひたり。然(しか)りと雖(いへど)も、天(あめの)下(した)を治(し)らさず、常(つね)に以ちて啼泣(な)き恚恨(ふつく)みたまふ。 (第五段一書第六)

 右の用例は小学館新編全集本によって掲げたが、特に須佐之男命の泣く様を記す1・3・4は『古事記』とは異なり、イサチルという語句がない点が注目される。ただしそのような相違は、新編全集本によって比較した場合に起きる異同である点に留意しなければならない。『校本日本書紀』で同所を確認すると、諸写本に付された古訓では、1の「哭泣」にはナキイサツ(ヅ)ル、4の「啼泣」にはナキイサチの訓みが与えられており、古訓を重視する岩波旧大系本は両所ともに諸写本の訓を引き継いでいる。『書紀集解』は「哭泣」に対して「説文曰徐鍇曰大聲曰レ哭細聲有涕曰レ泣」という説を挙げており、これによれば「哭」は大声をあげる様、「泣」は細い声を出しながら涙を流す様にあたり、字義に違いがある(なお「啼」は『説文解字』に「號也」とあり、『説文解字注』は圏点部を「号」に改めたうえで「号下曰痛聲也」と注している)。このような字義の相違を考慮するなら、古訓のように異なる訓みを一字一訓式にあてる訓み方はそれなりの根拠があると思われる。しかし泣く様に対してイサチルを用いる場合、山口佳紀氏によって次のような疑問が述べられている点を考慮する必要があろう。
日本書紀古訓では「泣」「血泣」「哀泣」「啼泣」などを、イサツと訓じており、泣く意に用いられていると思われるが、古事記では三例とも「なきいさちる」とあって、上に「なく」の語が付いていることからみると、「いさちる」自身が泣く意であったかどうか疑問もある〔中田祝夫編監修『古語大辞典』(小学館、昭58・12)、「いさちる」語誌欄〕。
 右の指摘を踏まえると、イサチルは『日本書紀』古訓に見るような用い方ができる語義を有しているのかどうか、検討する余地があると思われる。またこのような観点からの検討は、音仮名表記を持つ『古事記』と『日本書紀』古訓の用例を、同列に扱ってよいかどうかを問うことにもなるであろう。
 ここで『古事記』諸注釈書の説を振り返ってみる。従来イサチルに対してなされている解釈は、次の三つに分類することができる。

①地団駄を踏んで泣く様と解釈する説…『古事記伝』『古事記評釈』『古事記新講』。

②激しく泣く様と解釈する説…敷田年治『古事記標注』、国民古典全書『古事記・祝詞・宣命』ほか、多くの注釈書。

③「否(いさ)」と同源で、人の言うことを聞かず勝手にわめく意とする説…新潮日本古典集成。

右のうち①は、『日本書紀通証』の「今按去來訓二伊佐一猶レ言二足摩而泣一也小兒忿泣時有二此狀一」という解釈を承けたものであり、宣長が「さも有むか」と述べているように明確な根拠があるわけではない。また②も、「書紀には『哭泣』・『血泣』・『涕泣』などにイサチの旧訓があるから、激しく涙を流して泣く意であらう」(『古事記全註釈』)と述べられているように、イサチルそのものの検討から導かれた解釈ではない点を留意する必要があろう。なお、イサチルの語義を語構成面から論じた川端善明氏によれば、イサチルは、イサム(勇)・イサヲ(勇男)・イサヲシ(功)などのイサに、チ(乳)・チ(血)・ツハ・ツハキ(唾)のツなど、体液一般を表すツ~チを動詞としたチルが付随した語で、「涙をほとばしらせる」意であるという〔『活用の研究Ⅱ(増補再版)』(清文堂、平9・4)、141頁以下〕。氏の指摘に従えば、イサチルは激しく涙を流す様を表す語句であり、ナクの類義語として扱ってよいことになる。ただしチルがチ(乳)・チ(血)・ツ(唾)などと関わるかどうかは考慮の余地があるとも指摘されており〔山口佳紀氏『古代日本語文法成立の研究』(有精堂、昭60・1)、350頁〕、なお定かではない。
 その点注目したいのは③である。この説は大野晋氏の指摘を承けたものと推測されるが、『岩波古語辞典(補訂版)』はイサチルについて「イサはイサ(否)・イサヒ(叱)・イサカヒなどのイサと同根。相手の気持ちや行為を拒否・抑制する意」と説いている(同様の指摘は岩波旧大系本『日本書紀 下』補注にも見られる)。またイサの項では、さらに同根の語句の例として、イサメ(禁)・イサヨヒが挙げられている。観智院本『類聚名義抄』所収語彙の場合、同根の派生語は声調が高く始まるか低く始まるかが一致することが金田一春彦氏によって説かれているが〔『金田一春彦著作集』第九巻(玉川大学出版部、平17・9)、267頁以下〕、いま右の語を検してみると、
  不知イサ〈平上〉 叱イサム〈平平―〉イサフ〈平平上〉 禁イサム〈平平上〉イサフ〈平平上〉
の如くである。イサチルが同書には見出せないが、図書寮本『類聚名義抄』に「哭泣ナキイサヅル」〈― ―平平上濁平〉、御巫本『日本書紀私記』に「哭泣奈岐以左津留遠毛天ス」〈上平平平平濁上上平上上〉とある点はこの場合参照することができるであろう。いずれも低く始まる点で一致しており、同根の語句と見てよいようである。右以上にイサチルをイサと関わらせる当否について判断が及ばない部分があるものの、『岩波古語辞典』の説への支持は既に山口佳紀氏も同様の観点から述べている〔『古代日本語史論究』(風間書房、平23・10)、320頁〕。諸注釈書を見る限り一般的な解釈であるとは言えないが、イサチルを山口氏が説くところの「拒絶する・だだをこねる」意で読み取って文脈上問題があるとも思えない。むしろ伊耶那岐命の命を聞き入れず、海原を治めないという須佐之男命の行動を考慮するなら、②よりも明確に当該箇所を理解することができると思われる。以上の点から、イサチルは「拒絶する・だだをこねる」意とする解釈を支持したい。
 さらに、右のようにイサチルの語義を理解した場合、改めて注目されるのは『日本書紀』古訓に見るような用い方は「哭」「啼」「泣」いずれの訓詁からも導き得ないと思われる点である。これは現在最も多くの支持を集めている②の解釈を取ったとしても同様であろう。古訓の重要性は十分理解しているつもりだが、むしろ1、4の場合、『書紀集解』が「哭泣」について「七日不レ食日夜哭泣」(『史記』秦本紀)という例を、また「啼泣」について「婦女踧レ眉啼泣」(『後漢書』五行志)という例を指摘している点を参照し、新編全集本のように両者ともに熟字と見てナクと訓むのがよいのではないか。つまりイサチルとは、音仮名表記を持つ『古事記』独自の表現として見るべきだと思うのである。
 では論点を『古事記』に絞った場合、須佐之男命による伊耶那岐命の命の拒絶は、どのような意味を持つ行為と意義づけられるだろうか。ここで注目したいのは、先掲した1・2・3は点線部に見るように、須佐之男命の残虐性や悪しき性格への言及があるのに対し、4には該当する記述がなく、代わりに『古事記』に類似した年齢・容姿に関する表現がある点である。この相違は北川和秀氏が指摘した日神系と天照系という神話体系の区別と見事に対応しており〔「古事記上巻と日本書紀神代巻との関係」(『文学』48巻5号、昭55・5)〕、文脈展開と密接な関わりを持つと推測される。さらに両系を比較してみると、母である伊耶那美命への思慕も日神系にはなく、天照系にのみ見出されるという相違が指摘できる。
 これらの相違点から導き出せる天照系諸伝の須佐之男命の特徴は、「異常なる幼児性」〔松本直樹氏『古事記神話論』(新典社、平15・10)、259頁〕という点であろう。さらに『古事記』の須佐之男命神話は「出生にはじまり幼年期・少年期・青年期・老年期にわたるスサノヲの全生涯を語るかたちになっている」〔西條勉氏『古事記と王家の系譜学』(笠間書院、平17・11)、111頁〕と言われるが、その生涯を貫くものは、父による放逐に始まり、高天原、出雲、そして根之堅州国へという彷徨の日々であった。これは神話をぶつ切りで載せる『日本書紀』では成し得ない、『古事記』で果たされた構想と見るべきである。未開の地へと追いやられてもなお、恐るべき大蛇との戦いを通して妻を儲け、さらには娘と武具を新たな国作りの主に託すという横溢な生命力と開拓心は、命じられた通りに生きることを彼に許さなかったのであろう。その起点にあたるのが父の命の拒絶であったことを思うとき、『古事記』の構想の卓抜さに唸らずにはいられない。
〔井上隼人 日本上代文学〕

物の妖

須佐之男命は、伊耶那岐命から委任された海原の統治を放棄して泣き続けた。その涕泣の有様は、青山が枯山となり、河海が干上がるほどであり、①「悪神之音如狭蝿皆満、萬物之妖悉發」とされる。たびたび指摘される通り、類似の表現が後段にも見られる。天照大御神が須佐之男命の「勝さび」に見畏み、天石屋戸に籠ると、高天原と葦原中国が共に闇に包まれ、②「萬神之音者狭蝿那須満、萬妖悉發」とある。極めて近似した表現であり、類似の状況として観念されていることは明らかである。その背後にも、恐らくは類似の要因が想定されていよう。
ただし、①②を比較すると、①では「悪神」「萬物之妖」とあるのに対し、②では「萬神」「萬妖」とある。「悪」と「物」の有無において異なる。この点に着目して壬生幸子・阿部眞司両氏は、「悪神」「物」はともに葦原中国特有の存在であり、後段においてそれが用いられていないのは、舞台が高天原だからであると指摘している。
「悪神」「物」が葦原中国と結びついた表現として用いられていることは、一応首肯して良いと思われる。もっとも、天照大御神の石屋戸籠もりによって「高天原皆暗、葦原中国悉暗」とある後段の記述からも理解されるように、石屋戸籠りの影響(暗・闇)は高天原と葦原中国とをともに包み込むものであった。とすれば、高天原において「萬神之音」が満ち、「萬妖」が起っていたその時、葦原中国でも「悪神之音」が満ち、「萬物之妖」が起っていたとも考えられる。従って、「悪神」「萬物之妖」は葦原中国を舞台とした混乱状態と結びついた表現(壬生氏によれば、「いたくさやぎてある」葦原中国のイメージを強調する表現)と考えて良いが、「萬神」「萬妖」については、高天原・葦原中国の両世界で起りつつある事態を包括して指す表現と見做すこともできよう。
神々の「音」が満ちて「妖」が起る原因については、矢嶋泉氏が「本来統治されるべきところが、統治されない状態のときに」引き起こされる事態であると指摘している。矢嶋氏は三貴子分治条の「悪神之音如狭蝿皆満、萬物之妖悉發」について、須佐之男命の涕泣によってこうした事態が引き起こされたとする従来の認識に疑問を唱え、むしろ「スサノヲが統治すべき海原を統治しなかったこと」がその要因であると主張する。これは、天照大御神が石屋戸に籠った(すなわち、高天原における大御神の統治が中断した)結果「萬神之音者狭蝿那須満、萬妖悉發」の事態が起ったこととも照応しており、適切な指摘であると言えよう。
その上で改めて考えると、まず須佐之男命は、伊耶那岐命から葦原中国の統治を委任されていたわけではなく、あくまで海原の統治を委任され、そして「不治所命之国而」放棄したのであった。一方で、壬生・阿部両氏の指摘によれば「悪神」「物之妖」は葦原中国と結びついた表現であった。すなわち「物之妖」が満ちる舞台は葦原中国ということになる。従って、海原の統治不在が、葦原中国に影響したということになろう。高天原の統治不在が葦原中国に影響するように、海原の統治不在もまた葦原中国に影響するのである(具体的には、前者では光が失われ、後者では水が失われた)。その影響が、葦原中国において禍々しいかたちで顕在化したありよう、それが「悪神之音如狭蝿皆満、萬物之妖悉發」という事態であると考えられる。
また別方面から見れば、「青山如枯山泣枯、河海者悉泣乾」との記述は、須佐之男命の涕泣が山野河海の荒廃をもたらしたことを示す。それ故、ここで「海原を治める」ことは「山野河海の領域を治める」こととおおよそ重なるものと捉え直すことができる。この領域は葦原中国から見れば他界および他界との境界領域であるから、他界に坐す神が荒振る事態は、結果として葦原中国に「物の妖」をもたらすことが認められる。
荒々しい涕泣の破壊的な威力が直接「物の妖」をもたらしたというよりは、須佐之男命が統治を放棄して泣いてばかりいた(この神においては、泣くことそれ自体が統治を行うことに対する拒絶の顕れであり、涕泣の激しさはそのまま拒絶の意思の強さなのである)、その結果山野河海の荒廃が引き起こされ(水界を適切に掌握せず荒れるに任せるということと、山河を泣き枯らし泣き乾すこととはここでは同義なのである)、その悪しき影響が葦原中国に及んだ結果として「悪神之音」「萬物之妖」の猖獗を呼んだのである。言い換えれば、未だ直接の主宰者を有していない(それ故「物」を統率し鎮める担い手をもたない)空白の場としての葦原中国が、この時の須佐之男命の統治放棄に由来する負の影響に触発刺激され、揺り動かされることによって現出した事態と見ることができるのではないか。
「物之妖」の「物」について、壬生幸子氏は『古事記』における「物」の用例四十五例を点検し、「物には、刺激があれば発動し、神を生みだす因となったり災をもたらしたりする一種の力をもつ相がある」ことを指摘している。神を生み出す因と述べているのは、『古事記』天地初発条で「葦牙の如く萌え騰がる物に因りて」神が成ることや、『日本書紀』において神がしばしば「一物」から生ずると記されていることから導き出された認識である。かくのごとき根源的生成力、あるいは益田勝実氏の言葉を借りるならば「存在(もの)を存在(もの)たらしめている無形の力」を認める一方で、そうした力がネガティブな方向に働けば、時として災を引き起こし猛威を振るう側面があることも同時に指摘される。益田氏は大物主神の神格を考察するなかで「疫癘の原因としての霊的な力」として「物」を捉える。壬生氏もまた、「物」がことあれば立ち騒ぎ「妖」が勃発する世界として葦原中国を捉え、大物主神を、その「物」を統率する存在と見る。谷口雅博氏は更に進んで、須佐之男命の涕泣の際に引き起こされ た「物の妖」は、その後も葦原中国に猖獗し続け、後に地上支配に不可欠な「物を支配する神」(大物主神)へと繋がって行くとしている。「物」の性格と、葦原中国との結びつきについて、これらの説が示唆するところは大きい。
「物」は、時に生成を、時には破壊をもたらす膨大なエネルギーを内に横溢させ、普段は潜在しているが、刺激があればその力を発動させる危うい何ものかとして、葦原中国に蠢動し続けている(逆に言えば、そうした「物」の横溢と蠢動を内包し続ける世界として、この葦原中国は捉えられている)。その「物」を鎮めて秩序を実現する者がいない限り、葦原中国は揺り動かされ続け、「萬物之妖」は繰り返し起こり続けるだろう。
中巻崇神記では、天皇の見出した祀り手意富多々泥古による、「物」の主としての大物主神の鎮祭を以て疫病が終息したとの記事がある。このことからも見てとれるように、「物」を鎮めることによってその国の秩序は保たれるのであり、鎮める手段とは、すなわちその「物」あるいは「物」を統率する存在へ向けて祭を遂行することである。翻って上巻国作り条では大国主神が、海の彼方から来訪した「御諸山の上に坐す神」(大物主神)を、同神の要求に従って「倭の東の青山の上」に迎えている。これは鎮祭したこと、あるいは少なくとも鎮祭の意志があること、その必要性を認めることを示すものであろう。
国の担い手が、「物」(もしくは、「物」を統率する存在)を鎮祭するという具体的な手続きが、国の秩序の確立と維持、すなわち「統治」を遂行するにあたり必要とされている。この場合「統治の不在」とは、担い手の不在であり、同時に担い手がなすべき鎮祭の不在でもある。

参考文献
・阿部眞司『大物主神伝承論』翰林書房、一九九九年

・谷口雅博「『古事記』神話の中の災害―災いをもたらすモノ―」『季刊悠久』一二九号所収、二〇一三年

・益田勝実「モノ神襲来―たたり神信仰とその変質―」『秘儀の島』所収、一九七六年

・壬生幸子「大物主神についての一考察」『古事記年報』一九号所収、一九七七年

・矢嶋 泉「悪神之音如狭蠅皆満 萬物之妖悉發―『古事記』神話の論理―」『聖心女子大学論叢』六七号所収、一九八六年

〔小濱歩 神道古典・日本古代思想〕

此時伊耶那伎命大歓喜詔吾者生々子而於生終得①貴子 即其御頚珠之玉緒母由良迩[此四字以音下效此]取由良迦志而賜天照②御神而詔之汝命者所知高天原矣事依而賜也 故其御頚珠名謂御倉板擧之神[訓板擧云多那] 次詔月讀命汝命者所知夜之食国矣事依也[訓食云袁湏] 次詔建速湏佐之男命汝命者所知海原矣事依也 故各随依賜之命所知看之中速湏佐之男命不治所命之国而 八拳※1至③心前啼伊佐知伎也[自伊下四字以音下效此] 其泣状者青山如枯山泣枯河海者悉泣乾 是以悪神之音如④蝿皆満萬物之妭悉發 故伊耶那岐大御神⑤速湏佐之男命何由⑥以汝不治所事⑦之國而哭伊佐知流 尒答⑧僕者欲罷妣國根之堅州國故哭 尒伊耶那岐大御神大忿怒詔然者汝不可住此國 乃神夜良比尒夜良比賜也[自夜以下七字以音] 故其伊耶那岐大神者坐淡※2之多賀也 【校異】
①真「々」。道果本以下による。
②真・伊勢系「太」。兼永本以下による。
③真・前・曼・猪「千」。道・春「亍」。祥・兼・梵・寛・延・訓・校「于」。道祥本及び前・曼・猪を除く兼永本以下による。
④真・兼・梵・曼・猪「侠」。伊勢系及び前・寛・延・訓・校「狭」。伊勢系及び前・寛・延・訓・校による。
⑤真「治」。道果本以下による。
⑥真「河曲」。道果本以下による。
⑦真「作」。道果本以下による。
⑧真・伊勢系「曰」。兼永本以下卜部系「白」。卜部系諸本による。

※1 真「頒」。
道果本「頒の左傍所に」。
道祥本・春瑜本「」。
兼永本以下卜部系「須」。(曼・猪は「湏」)
※2 真・兼永本以下卜部系「海」。伊勢系「路」。校「道」。

この時、伊耶那岐命は大いに喜んで仰ったことには、「私は、子を生み続けて、生むことのおわりに三柱の貴い子を得ることができた」と仰って、 そこでその御首飾りの玉の緒を、玉がさやかな音をたてるばかりに取りゆらして、天照大御神にお授けになり仰ったことには、「あなたは高天原を治めなさい」と仰って委任し、お授けになった。 ちなみに、その御首飾りの名は、御倉板挙之神という。 次に、月読命に仰ったことには、「あなたは夜之食国を治めなさい」と仰って委任した。 次に建速須佐之男命に仰ったことには、「あなたは海原を治めなさい」と仰って委任した。 そこで、めいめい伊耶那岐命が委任なさった仰せに従って治めているなかで、速須佐之男命は、仰せつかった国を治めないで、 成人して長い髭が胸先のあたりにとどくまで泣きわめいた。 その泣くさまは、青々とした山を枯れ山のように泣き枯らし、河や海はすっかり泣き乾してしまった。 そのため悪しき神の声は、五月頃わき騒ぐ蝿のように満ち、あらゆる物のわざわいがすべて起こった。 それで、伊耶那岐大御神が、速須佐之男命に仰ったことには、「どうしてお前は、委任された国を治めずに泣きわめいているのか」と仰った。 これに対し、須佐之男命は答えて申し上げたことには、「私は、亡き母の国の根之堅州国に参りたいと思って泣いているのです」と申し上げた。 そこで、伊耶那岐大御神は大いに怒って仰ったことには、「それならば、お前は此の国に住んではならない」と仰って、 ただちに神やらいに追い払われた。 その伊耶那岐大神は、近江の多賀に鎮座なさっている。

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